物凄く記憶力の良い苔

惟風

第1話

 ここはとある島のとある洞窟。

 動くことのできない私には、これ以上詳しい自分の現在位置がわからないので説明することはできない。

 洞窟の入口近くで生まれた私だったが、長い長い時間をかけて、奥に抜けた先にある小さな湖のそばにまで自分を拡大していった。


 湖のほとりに私が到達した頃から、ある噂が囁かれるようになった。

 曰く、「この洞窟の奥にある湖は不老長寿に効く」らしい。

 昔からたまに迷い込んで来た人間がいたが、その内の誰かがそんな話を広めたのだろう。湖の水を飲んだ人間をついぞ見たこと無いが。

 一時期は訪れる人数が増えたものの、それぞれが湖に入って泳いだり水を持ち帰ったりしてからはパタリと来なくなった。

 特別な水などではなく、噂は与太話だと判明したのだと思う。

 それからはまた、ほとんど来訪者はいなくなった。


 そして58年ほど経ったある日。

 虚ろな目をした、顔色の悪い痩せぎすのスウェット姿の男が、フラフラとやってきた。

 足取りは重く、湖の手前で躓き、盛大に転んだ。強かに地面の上の私に顔をぶつけ、激しく咳込みながらそれでも這いずってようやっと水中に入っていった。しばらく潜って出て来ないので死んだかと思ったが、突然勢い良く上がってきて、別人のように雄叫びをあげながら走って帰っていった。

 男は43日後に人を大勢引き連れて、もう一度やってきた。物々しい集団が男の話を聞きながら何かの機械の先を湖に浸したり、水中やその周囲を撮影し、採取した水を持って引き上げた。

 それから、その40日後・さらにその35日後・さらに9日後・そして51日後も男はそれぞれ別の人間達を連れてきた。

 男がする話はいつも同じだった。

「僕は、20代で重い病を患い、もう長くないって言われて絶望していました。それで、色んな民間療法を試したりサプリを飲んだりしたんです。でも全然治らなくて…。諦めかけていた時に、この湖の伝説を知りました。もう新たな治療法を試すお金も時間も残ってなくて、これが最後のチャンスだと藁にも縋る思いでここに来たんです。もしこの湖に入って病気が治ったら万々歳、そうでなければ、入水自殺しようと思ってました。」

 何回聞いても、話のこの部分で迷惑な奴だ、と思う。

「歩くのもやっとだったんですけど何とか辿り着いて、潜った時のことは忘れられません。」

 そんなに何回も同じ話を誰かに喋ってたらそらそうだろう。

「目を瞑って息を止めて入ったら、苦しさとか、身体の痛みとか怠さとか、そういうのが一気にスーーーッと引いていってですね、代わりに、身体がどんどん温かくなって。えっ、冷たい水の中にいるはずなのに、と思って恐る恐る目を開けたら、ほんのりと僕の身体が光ってたんです!」

 大げさな動きで顔を上げ、向けられているカメラを見つめる。この仕草も板についてきている。

「光が消えると同時に、嘘みたいに身体が軽くなって、最初は夢なんじゃないかと思いました。でも夢じゃなくて、湖から上がっても身体は元気で、嬉しくてワァーッて叫んでしまったほどです。」

 あれはうるさかった。迷惑だった。

「それはすごいですね!まさに奇跡の湖です!」

 話を聴いていた人間のうちの一人が、男にマイクを向けながら驚いて見せる。ここまでの流れはもう4回見たのでそろそろ飽きてきた。

「帰ってすぐに検査を受けたんです、そしたらあれほど僕の身体を蝕んでいた病気が、治っていたんです!医師も驚いていました。」

 おお、とどよめきが起きる。だが、どこか空々しい。

 騒がしい集団はその後も一頻り男に話を聞き、湖やその周囲を撮影し帰っていった。誰一人として、その水を飲んだり湖中に入ろうとする者はいなかった。

「心無い連中に悪用されたくないんで、どうかこの場所は伏せて記事にしてくださいね。」

 取材の最後にいつも念押ししていることだけは、男を褒めてやれる部分だった。

 私の居住地がこれ以上荒らされてはたまらない。


 病気が治ったという男の話に嘘は無いらしい。連れられてきた人間達が皆そう話していた。

 しかし、二度目に男が来た時の専門家の調査では、湖の成分に特別なものは見つからなかったそうだ。それどころか、飲用には適していないとのことである。

 余命宣告されていた患者が奇跡の生還を果たしたことは驚くべきことであったが、湖の効能について早々に科学的に否定されたからか、取材に来るのは都市伝説を扱っているようなメディアの連中ばかりだった。それも、男の話を信用していないのは明らかだった。

 周囲の反応をよそに、男の話しぶりは洗練されていった。

 最後にここに来た取材陣の話では、闘病中のエピソードやここでの体験をまとめた本を出版することが決定したそうだ。

 執筆活動に忙しくなったのか、6回目の来訪を境に、男は来なくなった。


 また、洞窟内に静けさが戻ってきた。

 やれやれ、と思っているところに、小さな柴犬がひょっこりと現れる。

 まだ成犬になりたての若い雄犬である。

 捨てられたのか迷子になったのか、男が来るずっと以前に洞窟にやってきてから、この近くをウロウロするようになった。

 今回の奇跡の湖騒ぎで人がよく来るようになってからあまり見かけなくなっていたが、また戻ってきたようだ。

 久しぶりに元気に走り回る柴犬を見て、この賑やかさなら悪くないな、と思う。

 最初に彼が来た時はケガをしてあちこちから血を流しており、痛々しい様相だった。よほど腹を空かせていたのか、辺りの雑草だけでなく私の一部まで食んだ。

 そういえば、その時に犬がぼんやり光った気がする。

 もうあれから60年と23日になる。

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