19:朱に交われば、赤くなる
…… ZZZ ……
気付いた時には、僕は穏やかな海の上に立っていた。
今までなにをしていたか、何処からここに来たかも分からないが、ただ、確かにここに立っている。
視界の先には、海水浴客に溢れる砂浜、頭上には、雲一つない晴天が広がっていた。
ただ、僕の横で男性が水しぶきを上げながら、潜っては浮かび、潜っては浮かび、誰かの名前を叫んでいる。
海では静かに黙々と泳いで、さっさと帰るのがマナーではないだろうか。
とにかく、こんな奴の傍にいるのも億劫で、早く連れの所に戻らないと、と思い、二、三歩歩き始めるも、ふと足元に目を向けると水面下に子供がいた。
……なんでそんなところに子供? 人間がいるような場所ではないはずだが。
……、……にしても、どこかで見たような? どこだっけ。
……うーん、夕君だったかもしれない。……いや、夕君って誰だ? まあ、いっか。
「――
寸での所で、今自分が患者の悪夢に【同化】しかけていることに気付き、悪夢の風景になってしまうのを踏みとどまる。
患者の悪夢の核に触れ、記憶の干渉がいつも通り起こるまでは予定調和だったが、僕の許容できるストレス値を越えていたためか、今が現実なのか、夢なのか判断できる状況ではなくなっていたようだ。
妙に変なマナーを口走っていたような気がするが、それすらも今や定かではない。
「クッソ、何だこの水面。バカみたいに固いぞ、まじでクソだな、時間もないってのに」
慌てて水面に張りついて今まさに沈んでいく夕君に手を伸ばそうとするが、体は不思議と沈まない。
「頼むから、届いてくれ! まじで、頼むって! ――くっ、この! っっしゃ!」
【
そして、やっとの思いで夕君の腕を掴み、水面へと引き上げることに成功した。
腕の中で小さく呼吸をする夕君を確認し、微かな安堵が心に住み着いた。
「よかった、はあ、はあ……間に合って、はあ、はあああああああああああああぁ」
「これで、大方の治療が終わ――っぶね!」
間一髪、気配に気づき宙に飛ぶと、さっきまで僕がいた場所に患者を引きずり込んでいた悪夢の核とも言えるタコのような巨大なメアの触手が、
「……でかいってレベルじゃないだろこれ。……まあ、でかさより相殺量の方がこうなってくると心配かな」
正直たじろいでしまったが、僕の相殺治療の前には、やはり、大きさは関係ない。
なんなら
僕は落下しながら、同時に【
ただ、もう治療結果に変わりはない。
「後悔【なにも掴めなかった手】」
数秒後【
「今度こそ治療は完了かな。とりあえず」
腕に抱えた夕君の意識はまだ戻っていないが、当初の荒れた呼吸も落ち着いていたため、砂浜まで戻り、創造した砂の囲いの中に寝かす。
――気付くと、嶺吾たちに見送られた波打ち際に立っていた。
目の前には彼方まで広がる水平線は存在せず、光を通さない紺色の海原もない。
すべてが跡形もなく消えていた。
空間そのものが消失していると、表現しても差し支えがないだろう。
振り返るとそこには砂浜が見えず、正確に言えば、砂煙が激しく舞い、辺り一面が薄茶色の景色に包まれていた。
とりあえず視界を開けるため、巨大な
「また派手にかましたみたいだね」
「ああ、あまりにもメアが多くて、煩わしかったからな」
砂煙が捌け、その中に鎮座していた
治療装衣の欠け具合を見るに、相当ストレス値を蓄積しているのが分かる。
「無事戻ってきたところ悪いが、あと、任せられるか? これだけのメアを残した所で、カウンセリングも
「僕もそれには同感。残りを消すくらいなんとか持つと思うけど、まあ、善処するよ」
腕の色を見るに残された時間はギリギリだったが、僕より嶺吾たちの方が遥かに相殺治療を行い、
普段の嶺吾ならこんな提案はしない、疲労困憊で頭が働かなかったのだろう。
それに嶺吾の言う通り、ここまで相殺していたら、姉さんに怒られるのは目に見えているし、やるならとことんやった方がいいかな、と考えた。
「ずいぶん精神の方も消耗してるみたいだから、先ゆっくり休んでてくれ」
「お気遣いどうも、じゃあ任せるわ」
普段、身振りや素振りからは、決して疲れや辛さを表に出さない嶺吾だったが、今日はそれが表面に浮かび上がっている。
嶺吾は念には念を入れて夢幻肢痛が残ってないか、特に首元を重点に確認してから、夢界から離脱していった。
「……後片付けするくらいもってくれよ」
残された僕は、右腕が灰色を経由して黒に近づいていくのを見て、背筋に這いずる悪寒を感じずにはいられなかった。
確認できる残りのメアは散り散りに数体。
片手で数えても、折り返し一回で済む程度。
本来、治療終了時、メアは三割ほど残しておくと、カウンセリング治療を楽にできるが、今となってはもうあとの祭りだ。
「これが患者にとっては一番悪い選択肢なのに申し訳ないな。……後悔【なにも掴めなか――つ!」
PTSDを想起し【
(やば……限界超えたのか? ……もうすこしだけ、ってのに……)
身体の感覚すらも一瞬で奪われ、声も出せない中、世界から平行と言う概念が失われたように砂浜が、空が上下左右に振られた。
もはや自力で立つことは叶わず、砂浜が近づいてきたのが分かる。
(ああ、まだメアが残ってるのに……、終わっ……たな)
体の傾きが激しくなって
――が、身体から急速に溢れ出した黒い靄が、足のようなモノを形成し、僕を支える。
確かに支えている。ただ、これは決して、僕の意志ではない。僕の身体のはずなのに主導権が僕にはない。
今まさに、僕自身が湧泉凛と言う人の形をした着ぐるみに入っているような感覚だった。
次第に黒い
違和感の中、
「――……約束、守ってくれてありがとう凛君。でも本当の記憶はそっちじゃないでしょ。そんな風に思い詰めさせたくて、雫姉に頼んだわけじゃなかったんだよ」
女性を象ったであろう僕の身体が、僕の意志とは関係なく揺れる。
声は
この状況がどういったものなのか、まったく理解が及ばない。
僕の身体は、今どのような姿へと変わっているのかも分からない。
ただ、分かるのは、凛(ぼく)の身体が泣いていることだけ。
疑問だらけの僕を差し置いて、この身体は一歩、また一歩とメアへと近づいていく。
「……ごめんね、ダメなお姉ちゃんで。……我儘【なにも掴まなかった手】」
それは周囲のメアだけでなく、空間までも紅く染め上げ、ついには、紅一色の世界へ変化させた。
それはまるで――僕が今朝見た悪夢そのもの。
「もう悪夢の中で、……私に会いに来ないでね」
そう彼女が呟くと、僕の
今しがたの現象は、一体なんだったのか?
僕の身体を借りて現れた人は、誰だったのか?
もしかしたら僕が忘れてしまった命の恩人だったのだろうか?
不安や期待、様々な感情が入り混じった状態でここ数十秒の間、彼女が発した言葉の意味を反芻しようと試みる。
だがしかし、すでにそれらの記憶は再生できず、意識は空間を侵食する紅に飲み込まれ、ここで幕を下ろした。
…… ZZZ ……
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