2:大きなひな鳥は、今日も見えない


   …… ZZZ ……


 診察室から出て行くまで手を振り続ける遥佳ちゃんに、僕も扉が閉まるギリギリまで手を振り、その笑顔に応えた。

 しかし、姿が見えなくなると同時に、思わず、大きなため息が漏れてしまう。


「……とりあえず一組目からヒットしちゃったか」

「しちゃいましたか」

「そうだね、……って誰もいないのか。僕も空耳そらみみに返事をしちゃうなんて疲れているのかな」


 声の方へ向くと、そこには隣の診察室とここをつなぐ裏の連絡通路を抜けてやってきたであろう、木下咲楽きのしたさくらさんの姿を確認できた。


 ――が、いつも通りの反応をして、視線を元に戻しておく。

「えっ⁉ もしかしてまた私がちっちゃいこといじってますか⁉ ここですここ!」


 再度後ろを振り返ると、声の主は両手を高く上げ、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、自分の存在を主張し始める。

 しかし、胸部きょうぶそびえる双丘そうきゅうの主張は主人より激しかった。


「あ、木下さんいたんだね。そっちの様子はどう? こっちに顔出してても大丈夫なの?」

「あ、はい。私も今診察が終わった所ですが次の患者様が少し遅れますと連絡があり四分ほど待ちなので。――って、そうじゃなくてまた私のこと探しましたよね⁉ 見ててください、今にこんなに大きくなりますから、後悔こうかいしても知りませんよ!」


 僕は、平然と仕事の会話に持ち込もうとするが、木下さんは意義いぎを申し立てるべく駆け寄ると、その150センチあるかないかの体を大きく使い、手を広げ、羽ばたかせるような動作を取り、さっきより存在を主張する。


 木下咲楽きのしたさくらさんは、今年の二月から僕の治療班に本配属ほんはいぞくされた子で、今ではすっかりいじられキャラで定着ていちゃくしていた。


 長い睫毛まつげふちどられたひとみは目尻が少し垂れ、大人し気な雰囲気をかもし出しているが、今見ての通り、明るくノリもよければ、人当たりもいい。

 病院の敷地しきち内にあるビオトープや広場でちびっこに紛れ、肩までにととのえられた白髪はくはつを揺らしながら走り回る姿が、よく目撃されている。

 『今年成人式です!』『大人の女性の仲間入りです!』と張りきってはいるが、看護師や患者の間では小動物に例えられ、その愛らしさに可愛いと話題わだい沸騰ふっとう中だ。


 木下さんの主張しゅちょうを適当になだめながら僕は席を立って、先ほどまで患者が座っていた椅子や、診察用の簡易ベッドのシーツなどを直す。


「そういえばりん先輩、先ほどの患者様もそうですが、やっぱり五月はストレスが溜まりやすいんでしょうか?」


 けろり、とテンションを一転させ急に仕事モードに移るのは、同じ治療班の『彼ら』と通じるところがあるな、と少し面白く感じながら、その問いに返答する。


「そうだね。環境の変化が大きな四月に溜めこんだストレスがゴールデンウィーク明けの憂鬱ゆううつ五月病タイミングと重なって、前兆ぜんちょうが現れやすいってことはあるよね」


「なるほどなるほど」と、木下さんは相槌あいづちを打ちながら、掌にメモを取る素振りをする。


 一月の仮配属で初めて会ったころから、木下さんのメモの取り方は、すべてこれで定着していた。

 本当にそれで覚えているかは、定かではないが。


「まあでも、今さっきの遥佳ちゃんみたいなストレスは季節に左右されず、いつ、誰にでも起こりえるものだからね。はいこれ」


 問診中、入力した電子カルテを木下さん渡す。


「――【車に跳ねられそうになったことによる、自分より巨大なモノへの恐怖】ですか。特に幼い子ほど、こういったストレスの発生は多く現れるって研修けんしゅうでも言っていたような」


 こめかみに手を当てながら、首をかしげる木下さんを見ていると、自分が研修施設で無知な状態から、座学を二年間掛けて叩きこまれた記憶がよみがえってくる。


「あ、そういえば、そっちの受診予約ってどんな感じで割り振られてる? 少ないようなら、手伝ってほしいんだけど」

「そうですね、予約は三件。あと14時半から終夜しゅうや睡眠すいみんポリグラフィー検査の立ち合いが入ってる感じです」

「じゃあそっちの説明に付きっきりって感じか。だから、僕の方がこんなに忙しいわけだ」

「患者様を早く看護師さんに引き渡すことができたら、こっちに戻ってきますので」

「そうしてもらえると助かるよ。じゃあ僕はそろそろ次の患者さんを迎えるから」

「かしこまりです、頑張ってくださいね!」


 木下さんは胸の前に小さな握りこぶしを作り気合を入れた後、そそくさと来た道を戻った。



 一人に戻った診察室は静まり返り、少しだけ寂しさも覚えた。


 僕は大きく息を吐いて、気合を入れると、パソコンで外に表示されている電光掲示板に次の患者の受付番号を映す。

 番号を呼び出す放送はあいらしい女性の声で収録されたもの。


 その後、まもなくして戸を叩く音が聞こえ、僕は声高に返事した。



   …… ZZZ ……

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