第一夜 ボクと病院と感染する悪夢
1:診察室ではお静かに
…… ZZZ ……
「あ、アシュラ
「違いますよお母様、
昼休憩が終わり、13時も4分の1を経過した診察室。
僕の対面に娘の遥佳ちゃんを抱えながら座る若いお母様が、まことユニークな聞き間違いを
しかし、厳密に相手の気持ちを汲み取るならば、聞き間違いであってほしかった、だろう。
うちの子に限ってそんなはずはない、という意志が汲み取れた。
確かに、お母様がそう願いたくなるのも頷ける。
ここ、
お母様の方も、ようやく僕が口にした事実を受け入れたようで、顔が引きつり始める。
「まま、いたい」
「――! ご、ごめんね遥佳」
身体にも
「まだ、他患者様の症例に比べましても、ストレス
説明を止め、手元のキーボードを操作し、
不幸中の幸いと言って良いものか、先月に多くの患者がレベル
「そうですね、病床には十分空きがございますので、審査が通り次第、即日入院も可能ですし、追加の検査によっては
この提案に
「も、もう入院も視野に入れないといけないのでしょうか? まだ遥佳は一人で寝るのも怖がりまして……」
診察室に入り、
今まで対応してきた患者の中でも、同じ悩みを持つ親は大勢存在している。
だとしても、僕は心を鬼にして伝えることは伝えないといけない。
それが、この精神病を扱う専門治療医としての役目だから。
「今現在、
僕が念を押すように話す理由は、過去に自宅療養していた患者が発症し、他者を死なせた事件が起こっているせいだ。
『
それだけなら、まだ、危険視されるほどの精神病ではなかったが、この病が恐れられているのは、発症者と感染者の脳が夢と現実を区別できない状態に
これが原因で、夢の中で
僕も過去にこの病気に感染し、命を落としかけたことがあったため、その恐怖や夢から覚めた後の
今回の早すぎる提案は、一人でも同じ思いをして欲しくないが故の提案でもあった。
しばらく考え込むお母様に、アプローチを掛けてみることにした。
「どうでしょう。例えば、入院という形を取られても遥佳ちゃんが安心して眠れるまで
この提案に一度は「本当ですか!」と声色が一瞬明るくなったが、それもすぐに曇ってしまった。
どうしたら良いかなど思考を巡らせる間もなく、お母様は口を開いた。
「ニュースやネットの情報を
その
大抵の場合、パニックに近い感情に押しつぶされてしまい、
僕も逆の立場ならそうなっていただろう。
「遥佳は、他の患者さんたちに迷惑をかけたりしませんでしょうか? 私たち親ならともかく人様にだけは……」
「確かにお母様が心配されることはもっともですが、その点でしたら心配には及びません。睡眠治療用ベッドには、
別に今は、相手に病気の感染の仕方などを詳しく話さずにいても、不安要素を
それを聞いて、お母様は胸をなでおろし、表情が改善されたのが
「でしたら入院の方をお願いしたいのですが、1度持ち帰って、主人とも相談させていただいても?」
「構いません、いつでも受け入れられるよう準備を整えておきますので。何かありましたら、再度、病院にその
互いの意見が
今日は、他の受診予約が普段の平日に比べて多い上に、対応できる医師が僕と隣の診察室を任された
そのため、回転率をあげねばならなかった。
「では、今しがたの入院と自宅療養の説明を持ちまして、診察は以上となります。お大事にしてください」
「ありがとうございました。ほら遥佳も
「おねえさんせんせぇ! ありがとござました!」
お母様に腕を軽く持ち上げられ挨拶するよう
「見た怖い夢について良く頑張って話してくれたね。僕も遥佳ちゃんが早く良くなるようお手伝いするから。……あとね、一応僕は男の先生なんだ、紛らわしくてごめんね」
背もたれから体を前に
よく顔を合わせる病院関係者からも間違われるほど女顔なので、初見の人からは九割の確率で性別を勘違いされる。
別段、相手に落ち度はないので、僕は気にしていない。
ただ、遥佳ちゃんとの会話を聞いた反応を見るに、お母様の方も、僕の性別をあやふやに判別していたようで、僕の顔をしばらくチラチラ見ていたのは面白かった。
…… ZZZ ……
診察室から出て行くまで手を振り続ける遥佳ちゃんに、僕も扉が閉まるギリギリまで手を振り、その笑顔に応えた。
しかし、姿が見えなくなると同時に、思わず、大きなため息が漏れてしまう。
「……とりあえず一組目からヒットしちゃったか」
「しちゃいましたか」
「そうだね、……って誰もいないのか。僕も
声の方へ向くと、そこには隣の診察室とここを
――が、いつも通りの反応をして、視線を元に戻しておく。
「えっ⁉ もしかしてまた私がちっちゃいこと
再度後ろを振り返ると、声の主は両手を高く上げ、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、自分の存在を主張し始める。
しかし、
「あ、木下さんいたんだね。そっちの様子はどう? こっちに顔出してても大丈夫なの?」
「あ、はい。私も今診察が終わった所ですが次の患者様が少し遅れますと連絡があり四分ほど待ちなので。――って、そうじゃなくてまた私のこと探しましたよね⁉ 見ててください、今にこんなに大きくなりますから、
僕は、平然と仕事の会話に持ち込もうとするが、木下さんは
長い
病院の
『今年成人式です!』『大人の女性の仲間入りです!』と張りきってはいるが、看護師や患者の間では小動物に例えられ、その愛らしさに可愛いと
木下さんの
「そういえば
けろり、とテンションを一転させ急に仕事モードに移るのは、同じ治療班の『彼ら』と通じるところがあるな、と少し面白く感じながら、その問いに返答する。
「そうだね。環境の変化が大きな四月に溜めこんだストレスがゴールデンウィーク明けの
「なるほどなるほど」と、木下さんは
一月の仮配属で初めて会ったころから、木下さんのメモの取り方は、すべてこれで定着していた。
本当にそれで覚えているかは、定かではないが。
「まあでも、今さっきの遥佳ちゃんみたいなストレスは季節に左右されず、いつ、誰にでも起こりえるものだからね。はいこれ」
問診中、入力した電子カルテを木下さん渡す。
「――【車に跳ねられそうになったことによる、自分より巨大なモノへの恐怖】ですか。特に幼い子ほど、こういったストレスの発生は多く現れるって
こめかみに手を当てながら、首を
「あ、そういえば、そっちの受診予約ってどんな感じで割り振られてる? 少ないようなら、手伝ってほしいんだけど」
「そうですね、予約は三件。あと14時半から
「じゃあそっちの説明に付きっきりって感じか。だから、僕の方がこんなに忙しいわけだ」
「患者様を早く看護師さんに引き渡すことができたら、こっちに戻ってきますので」
「そうしてもらえると助かるよ。じゃあ僕はそろそろ次の患者さんを迎えるから」
「かしこまりです、頑張ってくださいね!」
木下さんは胸の前に小さな握りこぶしを作り気合を入れた後、そそくさと来た道を戻った。
一人に戻った診察室は静まり返り、少しだけ寂しさも覚えた。
僕は大きく息を吐いて、気合を入れると、パソコンで外に表示されている電光掲示板に次の患者の受付番号を映す。
番号を呼び出す放送は
その後、まもなくして戸を叩く音が聞こえ、僕は声高に返事した。
…… ZZZ ……
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