捜査篇(7)
翌朝、アラン・ベックフォード探偵は、誰にも告げずに馬車に乗った。彼の手には一枚の報告書が握られていた――それは、エリザベス・アリスンに頼んでいた、ジャン・クルックの身元の報告書であった。
「旦那、どちらへ?」
「クルック公の本邸へ」
「ほほう。旦那、もしかしてあの事件を追ってるので?」
「まあな」
御者は彼の方へ頭を振り向けた。頬がこけて皴の寄っている中で、両目が鋭い光を放っている。
「実はね旦那、あっしはあの日、『暁闇』を乗せて『常闇の墓場』へ行った者でね」
「なんだと」
アランは身を乗り出した。御者はくつくつと笑い、
「ええ、ええ。忘れもしませんよ。部外者ながらゾッとしましたなあ」
「確かあなたは、彼らがダンジョンへ潜って出てくるまで、ずっと出入り口にいたんだったね?」
「ああ、そうでさあ」
「その間、何も出てくるものはおらなかったのだろうね?」
「確かですよ。あっしはこれでも目には自信がある。ネズミ一匹出ようとこの目は誤魔化せんぜ」
「それがたとえ真夜中でも、だろうね?」
「ええ、確かですよ。我らが大地の神に誓いまさあ」
「おお、それは異国の宗教の言葉かな」
「ええ、あたしは西の方の出身でしてね。ごめんなさいね、そちらの神を信じられなくて」
「なあに、僕も神は信じてないから大丈夫だ」
馬車は舗装された道路から砂利道へ行き、森を抜け、川を越え、広大な自然の広がる中に建てられた巨大な屋敷の前で止まった。
「ここでさあ、クルック公爵様のお屋敷は」
「ありがとう」
アランは御者に駄賃と心づけを与え、激しく揺れる馬車の中で痛めた尻をさすりながら降り立った。久々の地面は妙な感覚がした。
門の前に門番が二人いる。彼らは警戒心むき出しでアランをにらみつけ、槍を構えている。
「ごきげんよう、旦那方」
道化師探偵は両手を挙げて害意のないことを示しながら近づいた。
「何者だ、貴様」
二人のうちの、年かさの方が低い声で問う。
「私はアラン・ベックフォード。お宅のご子息失踪事件について騎士団に協力をしている者です」
「証拠は?」
アランは懐からきれいに折りたたまれた紙を門番に手渡した。受け取った男はそれを開き、騎士団長の押印のなされているのを確認した。
「……本物だな。失礼した」
「いえ、お仕事お疲れ様です」
公爵邸の庭は段々になっており、中央に舗装された階段がまっすぐ玄関へ伸びている。一段目から四段目に分かれていて、それぞれには季節の花々、噴水、刈り込まれた生け垣、壁龕に石像など、いかにも貴族趣味らしい飾り立てがなされている。
アランは興味深くそれを眺め、一歩一歩ゆっくりと歩みを進め、玄関の前に立った時はニコニコ笑いながら、彼の応対に出てきた若いメイドに、
「いやあ、流石公爵様のお庭です。見ていて飽きることがない! ここまでたどり着いてしまったのが惜しいですなあ」
と言った。メイドは愛想笑いを浮かべ、
「アラン・ベックフォード様、お越しいただきありがとうございます。こちらへどうぞ」
屋敷ははるか高い天井からシャンデリアが吊り下がり、大広間には赤く上品な絨毯が敷かれている。メイドや執事姿の者が数人行き来をしており、いずれも来客を認めると立ち止まって礼をするが、それ以上のことはしない。
「そうだ、いきなり公爵様のところへ行くのは気が引けるから――妹のところへ連れて行ってくれたまえ」
「承知しました」
メイドが導いたのは、らせん階段を登り切った二階の一室。職人の手で仕上げられたドアの前で、メイドがドアをノックすると、
「どなた?」
という水の流れるような声が聞こえてきた。
「お嬢様、お客様をお連れいたしました」
「入りなさい」
メイドがドアを開けた。
そこは純王国風の様式で統一された、女性の部屋らしい部屋だった。最近流行りとかいう共和国風の――はっきり言うと安価で下劣で不格好な調度とはかけ離れていた。まさしく美を具現化したような家財で、白く繊細なベッドの天蓋が特に麗しい。そして、その天涯の中から、天使のような少女が顔を出した。
「アン、お客様とはそちらの?」
「はい、お嬢様」
「ふうん」
お嬢様は天蓋から出て、シルクの部屋着に身を包んだ全身をあらわにした。痩せ気味だが、健康的な肢体。光り輝く銀色の髪。人形のように整った顔、そして宝石よりも繊細な肌――まったく、これで背中に翼が備わっていないのが不思議と言うべきである。
「お嬢様、お休みのところをすみません。私、アラン・ベックフォードと申しまして、お兄様失踪の行方を追っている者でございます」
しかし流石はアラン・ベックフォード、天使のごとき存在を前にしてなお、飄然とした態度を崩さず、万人のために用意された笑顔を浮かべ、慇懃に一礼をした。
「ああ、あなたが」
少女は得心した顔をした。「お話には聞いてるわ。わたしはアイリス・クルック。お兄様の妹よ」
「素晴らしい部屋ですね、アイリス嬢。ここには部屋主の心遣いが細部にまで宿っている。僕がもしも劇作家だったら、ここを舞台に世界三大悲劇にも負けない傑作を書ける自信がありますよ!」
アランのお世辞に、少女は顔を赤らめて嬉しそうに笑った。まだ世辞には慣れていないらしい。
「おかけになって、探偵さん」
アイリス・クルック嬢は草模様の彫られた椅子を引いた。「アン、お客様にお茶を」
「かしこまりました」
出入り口で待機していたメイドは、一礼してその場を立ち去った。
「失敬……本当は話を少しだけ聞いて、あなたを退屈させないうちに退散しようと思ってたんですがね。素敵な方と東方産のかぐわしい紅茶を囲みながらティータイムというのも悪くないな。だがこれでは、お嬢さんを退屈させないために僕の舌がもつれるくらい働かなきゃいけないようだぞ」
「面白いことおっしゃるのね。わたし、あまり人と会うことがないから、あなたみたいな人は好きよ」
アイリスはアランの正面に座った。最高級のカーテンから漏れ出た光が、彼女の顔にゾッとするほど美しい陰影を投げかけている。これを見るだけで世界中の美術館を回るよりも価値のある経験ができるだろう、と探偵は思った。
「さて、先ほども申し上げたが、僕はあなたの親愛なる兄上失踪事件の真相を追っている。話を聞かせてくれるね?」
「ええ、喜んで。わたしも両親も、そしてこの屋敷に仕える者たちも、兄さまの帰還を願っています」
「いい返事だ、マドモワゼル」
言いながら、アランはポケットから葉巻を一本取り出したが、ちょっと考えてからまた元の場所に収めた。
「どうなさったの? お吸いにならないの?」
「僕は愛煙家だがね」
アランは部屋の内装を見回して肩をすくめた。「同時に美を愛する者でもあるんだ」
「まあ、風雅なお方なのね」
「お望みであれば、わが王国における美術の歴史――いや、それのみならず、古今東西の人類史と芸術の発展の関係をそらんじてみせましょう。しかしね、君、今我々は極めて現実的な――まあ、ある意味では幻想的とも言える事件に足を突っ込んでいる。さあ、お聞かせ願いたい。ジャン・クルック氏とはどんな人物だったのか」
「兄はとても聡明な方でした」
アイリスがハープを奏でるような声で言った。「そして優しく、礼儀正しく、上下分け隔てのない人でした」
「過去形で思い出をつづるのは演技が悪いな、お嬢さん。それで、君のお兄様は四六時中仮面を被っていたという話だが……」
「ええ、そうよ。兄は七歳の時に大やけどを負って、それからずっと仮面をつけているの」
最後の方、彼女は暗い顔を見せた。アランは気の毒そうに彼女を見た。
ドアを叩く無機質な音が聞こえた。
「お嬢様、お茶を持って参りました」
アンの声だった。アイリスが「入りなさい」と言うと、背筋を伸ばして見事な歩行でテーブルに寄り、心地よい静寂にアクセントを加えるようにカップを二つと菓子を置き、一礼して出て行った。
アランが紅茶に砂糖を一つまみいれ、持ち上げた。
「ところで、親愛なるお兄様の素顔を見たことは?」
「もちろん、あります」
「どんなご尊顔だったのだね」
「それはもう、身内のわたしが言うのもなんですけど、線が細くて中性的な、きれいな顔立ちよ」
「ほほう。仮面を被ってからも?」
アランが尋ねると、アイリスは暗い顔になった。
「実は、わたしはそれ以降――つまり兄さまが七歳になってから――素顔を見たことがないのです」
「生まれてから、一緒にお風呂に入ったことはありますか?」
「お風呂? いいえ」
アランは一息ついてから、
「まるで鉄仮面だねえ」
「鉄仮面?」
アイリスはきょとんとした顔で聞き返した。アランはテーブルをトントンと叩きながら、
「昔、ある国のある監獄に、仮面を被った囚人が入ってきた。身元は一切不明、顔には鉄仮面をつけており、すべての囚人から隔離され、顔どころか声すらろくに聞けない。食事や入浴、洗濯など身の回りの世話はというと監獄長自信が行っていたとも言われている。その死まで素顔を見せることはなく、死後その亡骸は極秘裏に火葬された、と」
「なんだか――」
「まさにこれは現代版鉄仮面とも言いうべき事件だね」
紅茶の香りを堪能し、一口飲んでアランはつぶやいた。しかし、その深刻な声音とは裏腹に、彼の顔には喜悦とでもいうべきものが浮かんでいた。
「お嬢さん」
「え?」
「あなたのおかげで一つ、大変重要なことが分かったよ。しかもそれはこの事件に――まさしく――根本の部分でかかわる部分だ」
「ほんとう!」
静謐な天使の顔に、驚きのひびが入った。アランは満足げに、
「今日は宵闇を告げる鐘が鳴る前に家に帰れそうだよ」
それだけ言うと、空になったティーカップをソーサラーに置き、すくっと立ち上がった。
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