図書館の幽霊

富升針清

第1話

「お母さん」


 母親が夕食の準備をしていると、小学校から帰ってきたばかりの娘が一冊の本を持っていた。

 それは、少し薄汚れた本で、表紙に少し斜めに貼られていたラベルを見て小学校の図書館から借りてきた本だと直ぐに分かる。


「どうしたの?」


 いつもならば、ランドセルを置いて直ぐにテレビの前に直行しているはずなのに。

 母親は首を傾げならがらいつもとは違った娘を見た。


「あのね、お母さん。私、幽霊さんからお手紙貰ったの」

「幽霊?」


 突拍子のない娘の言葉に思わず、母親は同じ言葉で聞き返す。


「うん。ほら、見てよ。花木さんへって書いてあるでしょ?」


 そう言って、娘は持っていた本を開き、挟まれていた一通の手紙を取り出した。

 綺麗な文字で花木さんへと書かれた白い封筒が小さな手に握られていたのだ。


「あら、本当ね」


 軽く手を洗い、娘から手紙を受け取る。

 封筒の裏を見てみれば、そこには、今は無いはずの六年五組と、その下に小柳キクコと書かれていた。


「六年生の教室は、二組までしか無いのに可笑しいでしょ? これは、幽霊さんからの手紙だよね」


 母親は少し笑うと、もう一度手紙に目を落とす。


「本当に、幽霊さんからの手紙なのね」

 



 花木カナが祖父母が住むこの町の小学校に転校してきたのは、四年生の夏休みが終わった九月の事だった。

 東京の友達から貰った彼女との別れを惜しむ色紙は、今も大切に机の上に飾ってある。

 この町での、初めての冬が近づく今日も、彼女は休み時間を一人、図書館で過ごす。

 未だ周りに馴染めず、人が寄り付かない図書館で本を読んでやり過ごすのが、最早彼女の日課だった。

 ただ過ごすだけではない。そう、やり過ごすのだ。

 東京にいた頃は、それ程本が好きだった訳では無い。何方かと言えば彼女は活発で男子に混じってボールを追いかけていた方だ。

 しかし、ここでは違う。

 彼女は常に居場所のなさを感じていたのだ。

 子供とは言え、既にグループが出来上がっている集団に途中から介入するのは些か難しいものがある。

 まさに今、彼女もその難しさを感じていたのだ。

 輪に入れない彼女は、自分の居場所を求めて彷徨った先で、図書館の本を捲ることでその寂しさを紛らわしていた。

 本を読むと言う習慣がない小さな彼女にとっては、この図書館自体が未知なのだ。

 絵本や教科書となれば馴染み近いものを感じるのだが、大人が読んでいる本とは彼女にとっては魔法の本と同じ。

 少しの魅力と、憧れと。そして大きな戸惑いと得体の知らない怖さを孕んでいる。

 この図書館に迷い込んだとき、彼女は本の数に圧倒された。

 前の学校でも図書館と言うものもあり、授業の一環で訪れた事があるが、その時は何も感じなかった。

 先生が言った通りの本を探し持ってくる。それは一種の冒険であり、ミッションでもあったが、それ以上でもそれ以下でもない。

 持ってきた本を借りて読みましょうと先生は言ったが、結局返却日が来るまで彼女は本を開くこともなかった。

 純粋に興味がなかった。

 だからこそ、なんの目的もなくこの図書館に辿り着いた時、彼女は圧倒されたのだ。

 そして、聡い彼女はここで過ごす為には本を手に取らなければならないのはよく知っていた。だって、図書館と言う場所はそう言う場所なのだから。

 彼女はおずおずと本の背表紙を脳内で読み上げていく。

 まだ四年生の彼女には読めない漢字も少なくはない。

 どの本を手に取れば正解なのだろうか。

 どの本を手に取れば良いのか。

 まるで、魔女の家に迷い込んでしまった子供の様に心細さを彼女は感じたのだ。

 しかし、それは最初だけ。

 たまに、どうしようもなく迷う時もあるが、今は慣れたものだ。

 本なんて選ばない。

 目につく本を手に取り、ページを捲る。

 文字を追うように視線を動かし、またページを捲る。

 これの繰り返しで時間が経つのを待ち焦がれる。

 結局は、やり過ごせれば良いのだ。一人の時間という、恥ずかしくて惨めな時間を過ごせる言い訳が出来ればいい。

 本を読むなんて、好きじゃない。

 楽しくない。

 けど、一人でいる理由があれば何でもいい。

 恥ずかしくなければそれでいい。

 惨めじゃなければそれでいい。

 そんな少女が図書館の不思議に気付いたのは、ある日の事。


「あれ?」


 いつもの様に、図書館に行き、読まない本を借りる。

 手慣れた作業の様な動作が途中で止まる。

 本の背表紙に貼られた貸し出しカードに花木と書き始めた時、彼女はある不思議な事に気付いた。

 自分の一つ上の欄に書いてある、小柳キクコと言う人物の組についてだ。

 そこには、見慣れない数字が書かれていた。

 六年五組。

 この学校には、五組なんてクラスは存在しない。

 現に彼女が在籍している四年生のも五組なんてクラスはない。

 五年も、六年も、同じ筈だ。


「五組なんて無いのに、なんでだろう……?」


 彼女は首を傾げた。

 この小柳少女が間違えてしまったのだろうか。

 彼女は落とし所を見つけ、いつもの様に本を捲る。

 しかし、人間一度気になってしまえば、気になってしまうものだ。

 次の日から、彼女は貸し出しカードに小柳少女の名前がないか確認する様になってしまった。

 そして、彼女がどの本を手に取ろうとも、小柳少女の名前はカードの欄にからなずと言っていい程書かれていたのだ。

 更に、どのカードの欄にも彼女の学年と組は六年五組。

 存在する筈がないクラスが書かれている。


「書き間違いじゃ、ないんだ……」


 彼女はポソリと声を漏らした。

 流石に、全てを書き間違えるだなんてどんな慌てん坊でもないだろう。

 存在しない五組の生徒。

 それが、彼女の中で唯一分かる小柳キクコの情報である。

 先生に聞いてみようかな。

 それとも、同じクラスの人に聞いてみようか。

 話すきっかけになるかもしれない。

 小さな希望が、彼女の仲で見知らぬ小柳少女のお陰で膨れ上がって行く。

 しかし、その希望が光り輝く為には、些か希望に見合うだけの勇気が必要なのだ。

 結論的に言えば、彼女は勇気がなかった。

 先生にも、クラスメイトにも、自分から話しかけると言う細やかで、簡単な勇気が、なかった。

 残念ながら、転校したばかりの頃ならば彼女もまだ勇気を振り絞れた事だろう。

 しかしながら、季節が一つ変わってしまった程の月日が経てば、その勇気も枯れてしまう。

 それ程、彼女は孤独に塗れ、彼女はクラスで孤立してしまっていたのだ。

 先生にさえ、どう話せばいいか言葉が出ない。

 そんな自分が酷く惨めで不甲斐なくて。

 涙を我慢する様に、彼女は顔を下げで家路に着いた。




「お帰り」


 母親は振り返りもせずに夕飯を作りながら彼女に声を掛けた。


「……ただいま」


 少し赤くなった目を見られたくなくて、彼女は母の背中から隠れる様に洗面所に滑り込む。

 泣いている自分が酷く恥ずかしかった。

 母親にはどうしても見られたくなくて、彼女は何度も水で顔を洗った。


「カナ、いつまで手を洗ってるの?」

「今行く!」


 母に呼ばれて、漸く彼女は重い腰を上げリビングに戻った。


「髪まで濡れてるじゃない」

「顔洗ってたから」


 何か言われるだろうか。

 しかし、彼女の心配は杞憂に終わることとなる。

 母はそうかと言えば、再び台所に向かったからだ。

 ホッとしたような、それでいて、少しばかり物悲しい。

 聞いて欲しくないと言う気持ちと、少しだけ、聞いて欲しい気持ちが入り混じる。


「そうだ、カナ。今日お母さんね、学校に行ったの。久々に校長先生と会ったのよ。校長先生はね、お母さんの六年生の時の担任の先生で……」

「え? 何で?」


 学校に?

 もしかして……。

 カナは、自分の姿を見られたのではないかと、怯える心で問いかけた。


「何でって、お母さんもあの学校に通ってたからよ?」

「あ、違うの。何で、お母さんが学校に……?」


 もしかして、私の事を誰かから聞いて……?

 そんな心配が、彼女の中に駆け巡った。


「ああ、PTAの回答用紙を届けに行っただけよ。カナは授業中だから会えなかったけど、お母さんに学校で会いたかったの?」


 ニヤニヤしながら、母がカナに問いかける。


「ち、違うしっ!」


 お母さんは直ぐに茶化すんだから!

 しかし、彼女が胸をほっと撫で下ろしたのも事実である。

 今、自分の身に起こっている状況を母親には知られたくない。

 これは、彼女の中では絶対なのだ。

 虐められているわけではない。

 ただ、輪に入れない、馴染めないだけ。

 孤立の事実が、ただただ恥ずかしかった。

 しかし、彼女だって人と話したくないわけじゃない。

 田舎特有の、皆んなが知ってる共通の話題に入れないだけで、見ているテレビや漫画は同じなのだ。

 だけど、テレビや漫画だけの話しかしないわけじゃない。そうなると、カナの居場所は無くなってしまう。

 最初は、自分からそれは何? と、聞いてみた。最初は誰もが親切だが、それが続けばうんざりした顔になるのは致し方ない。大人だって、何度も聞けば機嫌が悪くなる人がいるぐらいなのだから。

 無神経な人間なら良かったのに。

 しかし、彼女は無神経にはなり切れない。

 聡い彼女は何処かで引くことを覚えてしまう。引いた分だけ、現実で距離が出来た。一歩、また一歩と。

 カナの周りから皆んなが居なくなる。

 恥ずかしい。

 一人になってしまう自分が恥ずかしい。

 親はどう思うだろうか。恥ずかしいと思うだろうか。それとも、心配をかけてしまうのだろうか。

 だから、今日も誰とも話せなかった。

 そんな為体な話を母親に出来るわけがない。


「そう言えば、カナは最近図書館に通ってるんですってね」

「えっ?」


 何故、母がそれを?

 しかし、よくよく考えてみれば、図書館には彼女一人でいるわけではない。

 常に、係の先生や委員会の上級生がいたのだ。

 きっと、係の先生から母に伝わったのだろう。


「う、うん」

「前の学校では本読まなかったのに、凄いじゃない」

「ま、まあ、ね」


 読んではいないと言う事実が後ろめたくて、どうしても返事に身が入らない。


「どんな本が好きなの?」


 読んでもないのに?

 これ以上質問を続けられても困ると、カナは逆に母親には問いかける。


「それより、お母さん。あの小学校って六年五組ってあるの?」

「六年五組?」


 不思議そうな顔で母が首を傾げる。


「無いんじゃない?」


 昔、通っていたなら何か知っているかと思ったが、どうやら空振りのようだ。

 期待していたわけではないが、少しだけがっかりした表情をカナが作ろうとした時だ。


「今は」


 そう、母親が続けたのだ。


「今は?」


 それって、まさか……。


「お母さんが通ってた時は、あったのよ。お母さんも六年五組だったし。懐かしいわね」

「えっ!? お母さん、六年五組だったの!?」

「うん。でも、今はクラスも減って五組もないはずだけど?」

「そう、だよね……」

「特に、六年五組なんて今は校長室だしね。長瀬校長先生がいる所が六年五組だったの」


 校長室か。

 校長先生の顔は彼女もぼんやりと覚えている。

 お婆ちゃんぐらいの年齢で、女の人。それぐらいだ。


「長瀬校長先生はお母さんの担任でね……」

「その話は、さっき聞いたよ!」

「あ、そう。でも、どうしたの? 急に六年五組だなんて」


 彼女は母に、あの貸し出しカードの話をしようとしたが、矢張り止めようと口を止めた。


「うんん。何でもないよ。それより、今日のご飯何?」

「そう? 今日はカナの好きなコロッケだよ」


 何だが勿体ない気がしたからだ。




 既に無いはずの六年五組の小柳キクコは今も尚、頻繁に本を借りている。

 あの後も、カナは図書館に通い、貸し出しカードを観察していた。

 何度も借りている本もあれば、一度しか名前のない本。

 珍しいものだと、カナの方が先に借りている本もある。

 何だが、不思議な気分だ。

 幽霊なのだろうか?

 そう、思い始めたのは、クラスで今、学校の七不思議の様な怪談話が専らの噂になっているからだ。

 昔、自殺した女の子が本が好きで未だに図書館に本を読みに通っている。

 その話を聞いた時、彼女は貸し出しカードを思い出した。

 存在しない六年五組に在籍している小柳キクコ。

 彼女が、その自殺した少女ではないかと。

 不思議と、怖い気持ちは湧いてこなかった。

 幽霊なんだから、わざわざ貸し出しカードに名前書かなくても良いのに。

 それぐらいしか、思わなかった。

 律儀な幽霊の読む本は、何だが不思議な気がしてカナはゆっくりとページを捲る。

 いつしか、文字を追いかける程に、ゆっくりと。

 ゆっくりと、歩く様に。




 カナが本を読み出して幾ばくかの日が流れた頃。

 そろそろ、クラスが変わる。

 そんなある日、彼女は絶望の中にいた。

 それは、とても些細な事だった。

 ただ、人気者のクラスメイトの可愛らしい消しゴムが無くなった。それだけの事だ。

 何処かに落としたかもしれないし、そもそも今日は持ってきていなかったかもしれない。

 そんな曖昧な中で、彼女は視線を感じていた。

 誰もが口にはしなかった。

 ただ、視線だけで、嫌でもわかる。

 クラスメイトの何人かが、彼女が犯人ではないかと視線を投げていた事が。

 勿論、カナはそんな事はしていないし、読書を楽しむ事を覚えた今、彼女にそんな時間なんてない。

 そもそも、席も近くなければ、その子が持っている消しゴムすら彼女は、見た事はないのだ。

 しかし、誰とも関わりを持たない彼女を怪しいと思う子は少なく無なく、それがどの様な結果に結びつくのか形になって分かってしまった。

 違うと言えるだけの勇気も、伝えられる人も、彼女にはない。何も無い。

 その事実が、受け切れるだけの強さも、彼女には無かった。

 学校に行きたくない。

 でも、行かなければ矢張り犯人だったと思われるのではないか。

 誰にも言えない。

 こんな事、母親にも、祖父母にも、先生にも。誰にも。

 ベッドの上で恐怖に支配される彼女に、机の上に置いてある一冊の本が目に入る。

 それは、図書館で借りた本。

 幽霊が、何度も借りている本。

 友達ではない友達と、旅する本。

 もう、既に居ない友達と、友達になる本。

 彼女は、何を思ったか使わなくなったレターセットを取り出して机に向かった。

 何度も悩みながら、ペンを走らせた。

 誰にも言えない。

 誰にも相談できない。

 誰にも分かってもらえない。

 そんな文章を書き溜めた。

 いつしか、窓の外は薄白く輝いている。

 人生初めての、夜明けを彼女は見たのだ。

 その書き溜めた文章を、彼女はせっせと折っては可愛らしい封筒に入れ、表に六年五組の幽霊さんへと書いた。

 小柳キクコという本名を書くには、どうも馴れ馴れしいと感じてしまったからだ。

 そして、そっと閉じた手紙を本の中に刷り込ませる。

 何も解決などしていない。

 今この時間も、誰かが彼女が犯人だと思っているかもしれない。

 勿論、それは怖い。

 何がどう怖いのか。考えるだけでも怖かった。

 それでも。

 それでも、だ。

 手紙を書いた彼女はもうベッドの上で蹲る事はなかった。

 少しだけ、気が晴れた気がしたからだ。

 読んでもらえるかも分からない手紙を書いただけなのに。

 まるでそれは冒険に出かける主人公の様にドキドキして。

 それはまるで魔法にかかるヒロインの様に心が踊った。

 その日は学校に向かうまで、彼女は眠る事は無かった。




「お返事……?」


 それから数日経ったある日の事だ。

 あの消しゴム事件の顛末が、実に下らなく、何処にもありふれた様な理由で解決してしまった彼女は、また読まずに返してしまったあの本を借りようと図書館に訪れていた。

 何気なく、手紙を挟んで返却した本を開けば一通の手紙が挟まっていた。

 表には、花木さんへと貸し出しカードに書かれた綺麗な文字が並んでいたのだ。

 裏を見れば、其処には六年五組小柳キクコの名前もある。

 カナは目を見張った。

 何と、幽霊から返事が来たのだ!

 信じられない。

 口から心臓がこぼれ落ちそうなぐらいドキドキしている。

 彼女は、少しだけ封筒を楽しむと、すぐ様待ち切れない様子で中を開けてみる。

 そこには、規則正しく並んだ綺麗な文字で、カナの手紙の返事が書かれていた。

 心配してくれてる、慰めてくれる。そして、最後に本好きなのかと聞かれた。

 彼女は待ち切れない気持ちを抑える事なく、すぐ様家に帰り、手紙の返事を書く。

 嘘も繕いもせずに、ありのままの自分の言葉で、本は好きじゃない。でも、幽霊さんが読む本は面白い。ワクワクする。あの消しゴム事件の顛末は、隣のクラスの子に貸したノートに挟まっていたと言う下らない事件解決だった。そんなにも気ままに、悩みもせずに。

 そして、本に挟んで図書館に返却する。

 また、中身は読めなかった。

 でも、いいのだ。

 幽霊の手紙が、彼女をなによりもワクワクさせてくれたのだから。




 カナが六年生に上がる頃には、孤独に泣いていた頃なんて嘘の様に友達の輪が広がっていた。

 と、なれば良かったのだが、事実は小説よりも上手くは行かない。

 六年生に上がったカナはいつも様に図書館に居た。

 勿論、友達が居ないわけではない。この二年間で、仲良くなった友達も数人はいる。

 しかし、彼女はそれでも図書館に通う事を辞めなかった。

 それは、未だに幽霊と文通が続いているからだ。

 春が来ても、冬が過ぎても、幽霊の学年やクラスが変わる事は無かった。

 今や、彼女の中で一番の友達はこの貸し出しカードの幽霊と言っても過言ではないだろう。

 カナは、誰にも打ち明けられない事や、読んでいる本の事、何が好きで何が嫌いか。

 毎日の様に幽霊に話を聞いて貰っていた。

 幽霊は、決して自分の事を話す事はないが、カナの話を真剣に受け止めてくれて、そしてお勧めの本を教えてくれる。

 あれ程本に興味がなく、寧ろ嫌いだった彼女は今や学校一の読書家になったのはこの幽霊のおかげだろう。

 もう、男子に混じってボールを追いかける彼女はいない。

 いないが、文字を楽しそうに追いかける彼女はいる。

 それは、変化だ。

 悲しむことでも惜しむことでもない。

 両方、彼女だった。

 最初は、こんなのは私ではないと悩む自分がいた。

 けど、良いのだ。人は、変わるのだ。

 本の中で、その変化に彼女は何度も立ち会った。

 そして、その変化の先には希望も絶望も、嬉しさも悲しさも、楽しさも物寂しさも全部がある事をよく知っている。

 その変化を受け入れて、何かを捨ててもそれは終わりではない。いつも始まりなのだ。

 自分もきっと。

 本の主人公ではないけれど。

 きっと、自分も同じなのだ!

 彼女は今日もページを捲る。

 もう、ゆっくり歩く速さでは間に合わない。それは些か、競歩の様に。




 冬が近くなり、卒業式の曲が図書館にも聞こえてる頃、カナはいつもの様に手紙を書いていると、ふとペンが止まる。

 彼女ももう六年生。

 あと、何回幽霊と手紙を交わす事が出来るだろうか。

 幽霊は、かの図書館に彼女が卒業しても一人寂しく本を読んでいるのだろうか。

 それは、随分と物悲しい。

 変化のない、物語の様に。


「長瀬先生、今年で定年なのよね」


 そんな事を考えながら彼女がぼんやりと夕飯を食べていると、母がテレビを見ながら溜息を吐く。

 テレビでは、卒業特集なるものが放映されていた。


「校長先生?」

「そう。お母さんの先生だし、お年でしょ? 今年で定年なんて何か送ろうかしら? 何が良いのか聞ければいいのだけど、先生も忙しいわよね。卒業証書に全員の名前書かなきゃいけないし……」

「定年って、学校に来ないんだよね?」

「ええ。カナと同じで先生も卒業するのよ」

「へー……」


 先生にも、卒業と言うものがあると言うのに。

 幽霊には無いのか。

 それはそうだ。幽霊だもんな。

 ぼんやりと啄く箸の先の焼き魚の白い目を見ながら、彼女はぼんやりと手紙を、思う。

 もう、誰も幽霊のあの綺麗な文字が並んだ優しい手紙を読まないのか、と。




 卒業式の練習にも力が入る三月の中旬。

 幽霊との手紙に寂しさが募ったせいか、カナは大きく体調を崩してしまった。

 流行病ではないが、中々熱は引かない。

 だから、学校にも行けない。

 つまり、図書館にも行けず、手紙すら取りにも行けないのだ。

 きっと、あの本には幽霊からの返事が挟まっていると言うのに。

 熱に浮かされた頭で、カナは幽霊の事ばかり考えてしまう。

 何故、彼女は私の名前を知っていたんだろう。

 何故、彼女は私に返事をくれたのだろう。

 何故、彼女は今も六年五組にいるのだろう。

 本当は、最初から不思議だった。

 聞いてみたかった。

 けど、もし、それを聞いて返事がくれなくなったら? そう思うと怖くて何も聞けなかった。

 私、幽霊さんのこと、何も知らないんだ。

 幽霊は、自分の事は話さない。

 いつもカナの言葉を聞き、彼女を心配して、励まして、褒めて、楽しい話をして、本の話をしてくれる。

 詰まるところ、彼女は四年生の時と同じで幽霊の名前しか知らないのだ。

 もっと、勇気を持つべきだったのかな?

 でも、聞かれて嫌な事だってあるよね。

 後悔と言い訳が、彼女の中で交差する。

 結局、彼女が再び学校に行ける日は、卒業式の日になってしまった。

 卒業式の日は図書館はお休み。

 最後の最後まで彼女は幽霊の最後の手紙を見る事が出来なかった。

 ただただ、後悔ばかりが募っていく。

 晴れの日だと言うのに。

 目出度い門出の祝いの日だと言うのに。

 彼女の心は晴れることも祝うこともない。

 最後に、最後に。

 幽霊に言いたかった。

 今迄有難う。

 貴方のお陰で卒業出来たと。

 何も伝えられるまま、何も知ることもなく、彼女は今日、この小学校を卒業する。

 卒業式は滞りなく進み、卒業証書の授与が始まった。

 カナは一番最後の三組。

 男子が終わった後に女子が呼ばれる。

 風邪の為練習を休んだ彼女は上手く受け取れるかと心配もあったが、これ程多くの手本を見せられるならば問題はない。

 となるなと、矢張り最後の心残りは幽霊だ。

 自分が呼ばれる番まで、カナは幽霊に想いを馳せる。

 この学校の何処かで、一人で卒業式を見ているのだろうか。

 この学校の何処かで、一人で本を開いているのだろうか。

 せめて、最後ぐらいは……。

 そう彼女が思っていると、優しい声で名前が呼ばれた。

 壇上を見れば、自分の一つ前の出席番号の子が壇上を降りようとしている。

 カナは慌てて席を立ち、壇上に上がった。

 目の前には、優しい顔の校長先生がいる。


「花木さん、ご卒業おめでとう」

「ありがとう、ございます」


 お辞儀をし、卒業証書を受け取った。

 そして、カナはもう一度校長先生を見る。

 卒業証書には、見慣れた字で花木カナと書かれていた。

 その文字をカナは四年生から知っている。

 見間違える訳がない。

 だって、それは……。


「ゆっ!」


 幽霊からの手紙に並んでいた文字なのだから!


「花木さん」


 幽霊さんと、叫ぼうとした時、長瀬校長先生が口を開く。


「中学校へ行っても、沢山本を読んでね」


 カナの目から涙が溢れ出す。

 ああ。そうか。

 良かった。


「はい。校長先生も、ご卒業おめでとうございます」


 幽霊さんも、卒業するんだね。

 一人じゃないんだね。

 一人で寂しく、ないんだね。

 カナは、涙を堪えながら壇上を降りた。

 手には、幽霊の手紙に書かれた文字と一緒に。

 校長、長瀬キクコの文字と共に。

 後から母に聞いた話だが、小柳とは長瀬校長の旧姓だった様だ。

 校長になっても本が好きな先生は生徒に混じって図書館を利用しており、その際にクラスを自分が居る改築前の六年五組と記載していたらしい。

 こうして、三年間、カナと幽霊との文通は呆気なく幕を閉じた。




 それから、二十年は経とうとしていると言うのに。


「やっぱり、幽霊さんでしょ!?」


 カナの娘はあの時の、最後の手紙を彼女に、いや。母親に届けてくれた。


「ええ。これは、本当に幽霊さんからの手紙ね」


 正真正銘、幽霊からの最後の手紙だ。

 去年の冬に、長瀬先生は旅立たれた。

 もう、カナに手紙が届く事はない。


「ねえ、サキちゃん。このお手紙、読んだ?」

「うん。けど、難しい漢字もあってよく分かんなかった」

「そっか。ねぇ、お母さんにも読ませてくれる?」

「いいよ」


 あの時、読めなかった最後の手紙。

 二十年も前の卒業を祝ってくれる手紙。

 大切に、大切に。カナの事だけを考えて綴られた優しい文字は、いつも一人だったカナを勇気づけてくれた時と同じように暖かくて、優しくて。

 ずっとずっと、待ち望んでいた手紙だった。

 あの頃を思い返すと、涙が溢れそうになる。

 幽霊さん……。

 そして、最後の一文に彼女は目を見張った。

 それは、最初に幽霊からの手紙が返って来た時の様に。

 カナは立ち上がり、娘を見る。


「サキちゃん、借りて来た本、お母さんと一緒に読まない?」

「え? 何で?」

「何でだろ? 不思議でしょ?」


 そこには、真新しいインクで……。

『娘さんと一緒に、この本を最後迄是非読んでね。私が一番好きだった本なの』

 と書かれていたのだ。

 いつ書かれたかは分からない。

 たまたま学校に行く用事があり、その時に忍び込んで書いたのかもしれないし、そうではないかもしれない。

 でも、それは確かに小柳キクコの文字で、はっきりと。

 カナは娘のサキと本を開く。

 彼女の大好きな幽霊が、最後に勧めてくれた本をページを捲る。

 それは、あの頃と同じ様に。

 ゆっくりと歩く速さで。

 


おわり

 

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