Chapter3
都会に戻ってきても、俺は走っていた。
森の中で走り出してからの記憶はない。
ただただ、ある場所を目指して、走り続けた。
途中で、ポツポツと、にわか雨が降り出した。
だが、そんなものは関係ない。
その場所にたどりつければ、あとのことはどうだっていい。
分かっている。
行ったって意味がないのは分かっている。
でも俺は、思い立ったことを行動に移さずにはいられない人間だ。
自己満足だっていい、自分勝手だっていい。
そこに行ければ、それでいい。
公園の入り口を抜け、池の方へ向かっていく。
すでに息は上がり、喉はカラカラだ。
それでも、俺は走り続けた。
そして池のベンチの前に着いたとき、俺の体は限界に近い状態になっていた。
俺は息を整えようと、その場にしゃがみ込んだ。
その時だった。
記憶にはっきりと残っている甘い香りが、鼻に入り込んできた。
何度も聞いた、その声とともに。
「真二、くん……?」
ああそうだ、俺だ。
言葉にすることはできなかった。
「こんなに濡れて……風邪引くよ?」
その彼女の言葉は、震えていた。
「ごめん。私が振ったのに、泣いてる場合じゃないよね……」
ユカは悪くない。
「連絡する回数も減ったし、出かけることなんて、全然なくなったから……。ここでけじめをつけとこうと思ったの。……ごめん」
だから、ユカは悪くない。
「でも、ここにきて思った。……私がこんなこという筋合いもないけど……ああ、真二くんしかいないんだなって。……ダメだよね私、自分勝手で」
「だからユカは悪くない」
俺は立ち上がった。
彼女は目を見開く。
その直後、彼女は俺の腕の中にいた。
「自分勝手なのはお互い様だ」
「――でも、いいの?本当に。……私、一回振ったんだよ?」
「簡単だよ。俺にも、ユカしかいない」
彼女の傘は、地面へと落下した。
先ほどまで降り続いていた雨はとっくに止み、空には青空が見えていた。
視界が歪んでいるから詳しくはわからないが。
彼女を放すと同時に、俺は言い放った。
「俺と、付き合ってください」
右手を前に差し出す。
少しの間の後、その右手に感触があった。
「――はい」
彼女の顔は、まだ濡れていた。
「――プッ」
「どうした?」
「いや、普通逆だよねって思って」
「いいじゃないか、最初もこうだったんだから」
「――そう言えばそうだったね」
5年前、俺が最初にユカに思いを伝えた時も、この場所だった。
まさか、同じ場所でもう一度同じことをすることになるとは、あの時の俺も想像していなかっただろう。
「――じゃあ、何があったのか、じっくり聞かせてもらいましょうか」
「……」
確かに、傘もささずに全速力で公園に突っ込んでくるなんて、警察につかまってもおかしくないレベルだ。
「まあ、じっくり話すよ」
そう言って俺たちが見上げた空には、七色の橋が架かっていた。
「ここだよ、その場所」
「って、ど田舎じゃん」
数年ぶりに、この地に降り立った。
あの時は、何もかもノープランで、気の向くままに歩いていた。
「本当に、そこまで案内してくれるんだよね?私はまだ半信半疑だけど」
「大丈夫、ルートもはっきりと覚えてる」
あの十字路を渡り、森の中へと進む。
澄んだ水が流れていたあの沢。飛び越えるのに一苦労だった倒木。
ここだけ時間が止まっているかのように、数年前と全く同じ景色だった。
「ここだよ」
「いや、どうみても登山道じゃないよね、こっち」
「大丈夫大丈夫」
そして俺たちは、まっすぐと進んでいった。
ピアノの音は聞こえない。
数分歩くと、開けた場所に出た。
「っ……!」
俺の視界には、想像とは相反する光景が広がっていた。
下に広がっている落ち葉の絨毯。
所々に生える、緑の苔。
――その落ち葉と苔に包まれ、ガラクタと化したグランドピアノ。
もちろんそこに、少女の姿などあるはずもない。
「これが、そのピアノ?」
「いや、前来た時は、新品のように輝いていたよ」
俺たちはさらに足を進める。
ピアノの蓋を持ち上げると、キーという音とともに、鍵盤が姿を見せた。
触れてみたが、音は出なかった。
「でも確かに、グランドピアノね」
「ここにその子が座っていたんだ」
ふとピアノに目を向けた時、側面に彫られた文字が目に入った。
「こんなもの、前はなかったぞ?」
「本当に?」
そこにはこう記してあった。
Make her happy till the end.(彼女を最後まで幸せにしなさい)
自然と笑みがこぼれた。
そして、その下にあったスペースに、近くに落ちていた石で、こう書き加えた。
Yes, of course.(はい、もちろんです)
「ねえ、真二は、ここでその子とどんなことを話したの?」
ああ、覚えているさ。
してあげようじゃないか、俺の気持ちをピアノで変えた、美しい少女の話を。
「――なあ、ユカ。メンデルスゾーンって、知ってるか?」
幻想ピアノ 卯月悠凛 @sokun421
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