Chapter2

 その姿とその音色は、すでに森の一部となっていた。


 俺は音楽をあまり聴かないから、何の曲を弾いているのかは分からない。


 だが、ただただ、美しい曲、美しい音だと言うことは、俺でも感じることができた。


 森の中にポツンと佇む、一台のピアノ。


 それに息を吹き込んでいる、一人の少女。


 現代ではあり得ない、いやおそらく過去も未来もあり得ない、空前絶後の光景だろう。


 その光景を前に、俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。


 徐々に状況を理解し出してきたところで、音は止んだ。


「ねえ、もっとこっちきてよ」


 少女は言葉を発した。


 長く、艶やかな髪。二重瞼の下に輝く、碧眼。雪のように白い肌。


 背格好からして、大体17歳ぐらい。


 外国人が日本人かは分からないが、美しい人だと言うことは、紛れもない事実だった。


「今のはね、エルガーの『愛の挨拶』って言う曲。自分の教え子の婚約記念に送った曲なんだって。いい先生よね」

「……」

「あなたは興味ないのかもしれないけど」


 彼女は少し寂しそうに、またピアノへ向かう。


 そして、また音色を奏で始めた。


 すらっとした長い指で、柔らかく鍵盤に触れる。


 曲調に合わせて上半身を動かし、ペダルも踏みかえている。彼女はまさに、全身で音楽を奏でている。


 先ほどの彼女の表情をそのまま表したような、綺麗な曲だった。


 ――ここにいると、何もかも忘れてしまいそうになる。


 つい数時間前の出来事が、まるで無かったかのように……。


 そして彼女は、指を鍵盤から離した。


「今のは、なんて言う曲ですか」

「即興よ」


 なるほど。だから音の表情と彼女の表情が似ていたのか。


「――こんな場所に人が来るなんて、思ってもみなかった」

「君は一体、何者?」


 何の前置きもなく、直球に質問をしてみる。


「私は、森の妖精よ」

「そうなんだ……」

「嘘嘘、冗談。信じるとは思わなかったよ」


 そういうファンタジー的な答えを、実は俺は期待していたのだが。


 しかしそうでなければ、彼女はこんな森の奥地で何を……。


「このピアノは、最初からここにあったの?」

「わからないよ。私が初めてここに来たときには、すでに置いてあった」


 彼女が置いたものではないということか。


「君の家はこの近く?」

「――難しい質問ね。近くと言えば近くだけど、遠くと言えば遠く」

「何だよ、それ」

「だって、これ以上答えようがないんだもん。――そもそもこの森が、すごく独特な場所だから」


 話を聞いていると、どうにも近くとか遠くは、距離の話ではないみたいだ。


 もっと、深い何かがある。


「それで、君はいつもここでピアノを弾いてるの?」

「何か特別なことがない限りは、毎日来てる。ここにいると、森と一つになったような気がして、楽しくて心地いいの。それに、私が弾いてあげないと、この子もボロボロになっていくから」


 確かに、これだけのものが誰にも使われずに朽ちていくのは、もったいなく、寂しい感じがする。


「でもまさか、人が来るとは思わなかったな。ここではこの子と二人きりだったから、ちょっと嬉しいよ。ありがとう」


 来ようと思って来たわけではないが。


 それでも、少しでも彼女の力になれたなら、来た甲斐がある。


「じゃあ、今度は私の番。あなたはどうしてこんなに奥地まで来たの?」


 今度は彼女から質問が飛んできた。


「――大したことじゃない。……自分探し、というかなんというか」

「本当は?」


 嘘は一瞬で見抜かれた。


「本当は……振られたんだ」


 こんなにあっさりと口にしていいものか、と思った。


「――高校時代からずっと付き合ってて。でも、別々の大学に進んでからは会う機会が減って。今日久しぶりに呼び出されたかと思えば、メリットを感じなくなったって言われて。それで、勢いのまま……気がついたらここに」


 でも、それは仕方のないことだ。分かっている。


 居場所が変われば、会う機会も少なくなる。そんな当たり前のことに、気づけない俺が悪かった。


 すると、黙って聞いていた彼女が口を開いた。


「――メンデルスゾーンって知ってる?」

「いや」

「有名な作曲家なんだけど、彼はユダヤ人の家系で、迫害を受けてきたの。差別されてきた人の中にも、才能を持った人は存在しているのよ」

「それで?」

「私の言いたいことがわからない?」


 わからない、と俺が言いかけたところで、彼女はまた鍵盤に触れる。


 そして、また美しい曲を弾き始めた。


 これが、その人の曲なのだろうか。


 聴いていると、どんどんその世界に引き込まれていく。まるで宙に浮いているような感覚だった。


 こんな才能を持っていた人物が迫害されていたなど、人類の歴史も輝かしいものだけではないと言うことを思い知らされる。


 ゆっくりと彼女が手を離す。


「今のが、『甘い思い出』っていう曲。私が言いたかったのはね、自分が信じていることを疑ってみてってこと。世の中には、当たり前だと思っていても、実際そうでもないものって、かなりたくさんある」

「……」


 俺のさっきの話と、何の関係があるのだろう。


「呼び出されたとき、その人は怒ってた?」

「いや、悲しそうだったよ」

「あなたのことを嫌いだって言ってた?」

「いや……」


 確かに言われてみれば……。


 なるほど、そういうことか……!


「理解した?」

「したよ。少し元気でた」

「じゃあ、もう行ったら?行動は早いほうがいいよ」


 そう言って、彼女は微笑む。


「そうだな。ありがとう、また来るから!」

「いつでも待ってるよ」


 俺は後ろを向き、歩き出す。


 前へ進むたびに、歩くスピードは増し、気づけば、すでに全速力で走っていた。


 来るときにチラッとみた時刻表には、あと1本だけ列車があった。


 それに乗れば、まだ戻れるかもしれない。


 俺にとっての、甘い思い出に。

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