幻想ピアノ
卯月悠凛
Chapter1
窓から見える視界を、徐々に緑が侵食していく。
日本人は昔から、四季と共生してきた。
自然を見つめ、そこからコンセプトを得て、文化が形成されていく。日本の歴史とは、そういうものだった。
しかし、今はどうか。
近代の文化は、自然や四季との関わりが少ないように感じる。
明治の文明開化から、昭和の高度経済成長。ここ100年で、日本人は多くの新たな文化を創造したが、同時に、自らの原点である自然から離れ、むしろ害すら与えるようになってしまった。
自然と近代文化の共生に目を向けられつつあるが、実際に行動しているのはごく一握りの日本人だけ。
もう少し日本全体で考えていくべきではないか。なんて、都会生まれ都会育ちの俺が言っても、説得力の欠片もない。
だが、そんな俺が雄大さを感じるぐらい、日本の自然はまだまだ残存している。
これからどうなっていくかは知らないが……。
『母なる大地のふところに、われら人の子の喜びはある』
中学の頃に合唱で歌った、「大地讃頌」の歌詞をふと思い出した。
今だから、この歌詞の意味を理解することができる。
そんなことを考えながら、俺は駅で買った緑茶を口に運ぶ。
列車はホームに入った。
人の姿はない。列車のドアは開くことなく、発車した。
2つ前の駅で俺以外の乗客は全員降車した。地元民でも、取材にきたジャーナリストでもない、ただの学生の俺だけが、列車に揺られている。
――何か目的があるわけではない。
田舎に移住したいとか、実家に帰るとか、そういうものではない。
――何となく、ただ、遠くへ行きたかった。
「まもなく、終点……」
車掌の声が、ガラ空きの車内に響く。
俺の冒険も、どうやらここまでみたいだ。
――冒険と言うと、小学生の家出みたいに聞こえてしまう。
俺がしていることは、それと同レベルのことなのかもしれないが。
列車はゆっくりと減速し、ホームに入った。
俺はボタンを押して扉を開け、列車を降りた。
木製の白い駅舎を通り抜け、外に出る。
駅の入り口で立ち止まり、大きく息を吸う。
森の香りが鼻を一気に通り抜けていった。
新鮮だが、どこか懐かしい、そんな香りだった。
駅前の野菜の直売所を横目に、俺は歩き出した。
周りに集落は見当たらない。この駅は何のために建てられ、誰が利用しているのだろうか。
もう少し進めば、田畑が見えてくるかもしれない。
そう思って、俺は歩き続ける。
雀の鳴き声を聞きながら足を進めていると、十字路に差し掛かった。
左右には割と整備された道路が続いているが、前の道路は、長い間手をつけられていないのだろう。
ボロボロのアスファルトと、変色したガードレール。
そして、その先にはどこまで続いているか分からない森。
ふとスマホを取り出し、現在時刻を確認する。
14:28。通信は圏外を示していた。
日が沈むまでに、まだ時間はある。行く当てはないが。
――俺は覚悟を決め、道路を渡り、直進した。
一歩ずつ、森の奥へと、足を踏み入れていく。
少しは続いているだろうと思っていたアスファルトの道はすぐに消え、足元は落ち葉で埋め尽くされた。
カサッカサッと、落ち葉の音が鳴るたびに、街を出ることには完全に沈んでいた俺の気持ちも、段々落ち着いていった。
森の空気には、人を落ち着かせる力があるのかもしれない。
アスファルトではないとはいえ、一応進路は見える。登山道は、こんな感じなのだろうか。
――どこまで歩いても、見えるのは一本の道と空、聞こえるのは風と鳥の鳴き声だけ。
目的もなく、ただ前へ、前へと俺は進んでいった。
――30分、いや、1時間ぐらい経っただろうか。この空間は、時間感覚も狂わせる。
沢を渡り、倒木を越え、そろそろ休憩をしようかと思っていた、そのときだった。
ピロリロロン……。
森に入ってからずっと同じ音しか聞いていなかっただけに、その音ははっきりと、耳に入り込んできた。
具体的に何の音なのかは分からない。それに、幻聴という可能性もある。
少し驚いてしまったが、とりあえず、気にせず前へ進もう。
ピロリロロリロロン……。
俺はとっさに振り向く。
今度はもっとはっきり聞こえた。やはり幻聴ではなかった。
聞こえた方向は、左の斜面の方からだった。
俺はすぐに、音の方向に向かって早足で歩き始めた。
その音が、森の中では聞こえることがまずありえない音だったから……。
その音が近づいてくるたびに、俺の心臓の鼓動は高まり、高揚感を覚えていった。
突如、目の前が開ける。
その光景に、俺は息を呑んだ。
森の中にポッカリと開いたその空間は、言葉では言い表せないぐらい、神秘的だった。
中央に存在したのは、黒いグランドピアノと、その横の椅子に座る少女だった。
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