アリスに、一直線

来栖

第1話

 


 

 「私を、私を食べてください」

 

 片倉小苗は、頭を垂れ、膝をつく。そして、慈悲を乞う――意味ある死を私にお与えくださいと。目の前の黄金色の異形に、彼女は、縋り付いた。

 洋館であった。長い年月を感じさせた。敷かれた赤と黄のカーペットは、淀んで久しい。家具達もまた古めかしい。

 静かに見下ろす瞳は、静謐なバイオレット。暗い室内に、仄かに輝くウィルオウィプスが如き紫の輝きは、静かに彼女を見下ろし、床までつくほどの黄金色の髪を指へ絡ませると微笑む。人との断絶を感じさせるほどの美麗には、どの動きもよく映えた。

 頭を垂れ、黒髪を枝垂れ柳が如く落とし、まるで面を上げる様子のない小苗と黄金の異形の合間に、少しの沈黙が流れた頃、形の良い薄い唇をゆるりと動く。気配を感じ取ったのか身を固くする小苗の顎を持ち上げたと思うと視界に映る笑顔は、花も恥らう。あまりのことに、顔は真っ赤に染まり、息が詰まり。


 「い・や・よ」


 告げられた無慈悲な拒絶に、声も出なかった。

 

 

 

 +++

 

 

 

 何かに、追われている。勘違いなんかじゃない。

 足音がする。ひたひたと路面を足裏が路面を打つ音。小苗の数メートル後ろからはっきりと聞こえてきていた。靴の足音じゃない。犬猫の足音ではないし、犬や猫ならとうに鳴き声を出しているはず。しかもわざわざつけてくるなんてするだろうか。じゃあ、私を追いかけているのは、なんなんだろうか。小苗は、ぐっと肩がけしたスクールバッグの持ち手を握り締め、背中を丸め、異様な気配に足取りを早めた。


 ――兆候は、あった。


 小苗は、自身を何かが見つめていたり、つけてきていたり誰かの気配をここ最近、日常的に感じていた。

 感じていながらも気のせいだと思い込んでいた。思い込もうとしていた。不審者、ストーカー。そういうものに付き纏われたことは、何度もある。ここ最近はなかったもので、もうあんな恐怖を味わいたくなかったから気のせいということにしていた。


 だがそれが間違いだったのに、今気づいた。

 

 気づけば小苗は、走り出していた。路地に、赤と黒がいつの間にか彩る路地へローファーの靴音がかつかつと響く。

 いつの間にか世界もおかしくなっていた。

 途中までは、いつもの帰り道だった。バスに揺られ、商店街を抜け、歩道橋を渡れば自宅のあるマンションに到着。歩く時間は、十分も無い。なのにもう一時間は、小苗は歩いていた。

 始まりは、どこだろう。気づけばこんなところで、何かに追われていた。

 こんな趣味の悪い場所があればいくらなんでも知らないはずがない。では、ここはどこだろう。どこに迷い込んだのだろう――小苗は、そこまで考えて。


 「行き止まりだ…………」


 路地の終着点は、周りと同じ高い壁だった。赤黒い壁。見上げた先には、窓がいくつか。窓は、遠く、手は決して届かない。届いても伸ばす気には、ならなかった。何かの視線を感じた。気づけば四方八方、窓や近くの隙間から視線を感じる。舐めるような、刺すような。様々な感情を孕んでいて、何より共通しているものを小苗は、よく知っている。

 悪意。無数の、形なき悪意が小苗の体を至るところから貫いていた。竦む体は、どうにもならなかった。知っている以上、足を止めてしまう。そして、足を止めてしまうから、


 「っ……!」


 足音が止まった。壁を見上げ、立ち竦んだ小苗は、動けない。だが振り向いてしまった。ぎしぎしと軋む首を小苗は、動かし、


 「ひっ……」


 「ミタ?」


 笑う瞳がある。手足の生えた人形の瞳。壁や道と同じ赤黒い肉塊で繋がれた手足体。頭の部分に、笑う瞳が嵌っている。全長は、170センチはある小苗よりも随分と大きい。二メートルはある。ひょろ長いからか、無風なのにぐらぐらと揺れていた。笑う瞳を体がしっかりと支えられていないのだ。だから一拍子を刻む。


 「みた?」


 声がする。口はないが声が聞こえる。小苗は、今、確かに、目の前の瞳の声を聞いていた。


 「み、タァ?」


 思わず後ずさる。背中から伝わる硬い感触が小苗に、行き止まりを改めて教える。


 「ネ?」


 笑う瞳が笑う――殺される。小苗は、直感的に理解した。笑う瞳は、小苗の見慣れた悪意を宿している。それなら確実に殺される。降り掛かる悪意は、きっと機会があれば笑って、小苗を殺すから。

 死にたくないわけではない。小苗の未来予想図に、生きることは入っていない。こんなものに殺されるのが嫌なのだ。こんな所で、意味も無く、意味も分からないものに見慣れたものを向けられ、殺されるなんて耐え難い。


 「見て、ない……!!」


 瞬く間に、恐慌に陥った小苗の精一杯の抗いは、最悪の一手となった。

 怪談や都市伝説ではよくある話。問いかけに答える時は、注意しなければならない。有名なもので言うと口裂け女だろう。

 そして、これもまたその一つだった。


 「ひっ……」


 視線が倍増した。声も増える。後ろに逃げる。一歩二歩、三歩。下がって気づいた。行き止まりだったはずだと。

 気づけば見知らぬ通路に、早苗は、立っていた。またかと天を仰ぐ暇もない。目の前に、笑う瞳は健在なのだから。


 「どこここ……!?」


 息せき切らして、薄暗く長い廊下を早苗は、走りながら周りに視線を走らせた。どこかの館のようだ。古びた様子、連なる窓の向こうには、赤地に黒雲の浮かぶ、満月の夜。窓の反対にあるドアは、皆閉ざされている。開ける暇はない。ひたひたと足音がする。視線が背中に突き刺さっている。

 廊下は、続く。緩やかにカーブする廊下は、ひたすらに果て無く続く。小苗自身は、あまり運動が得意な方ではない。追い詰められた心と酷使した足が合わさり、もつれ転びそう。


 「――!!」


 廊下の終わりに扉が見えた時、その向こうに、かすかな光が見えた。助かるかも知れない。そう思うと速度も上がる。最後の全速力だ。一気に、扉との距離が縮まると中に、飛び込んだ。


 「……騒々しいわ」


 小苗が飛び込んだのは、寝室のようだ。薄暗い室内だが天蓋付きの大きなベッドがあった。声もそこからした。部屋の主、高く甘い声。少女の声だ。


 「た、助けてください!!」


 反応はない。代わりに、ベッドの上、紫の光が瞬いた。小苗は、怪訝と眉を顰めた。灯りだと思っていた。だが近くによって見ると違うように思えた。


 「邪魔よ」


 瞬きした時には、小苗の隣から声がしていた。そこでようやく小苗は、気づく。瞳だ。明かりじゃない。ヴァイオレットに輝く双眸があった。その時、すっと窓から月光が降ってきて、双眸の主が照らされた。

 黄金に飾られた紫。細い眉、高く小さな鼻、薄紅の唇、青白いとも言える肌。小さな顔にあるのは、黄金比。小柄な体に、扇情的な黒のベビードールを纏っている。

 何よりも目を引いたのは、押しつぶされた肉塊。小苗は、最初何か分からなかった。だがすぐに理解した。足音が消えている。笑う瞳は、もう見る影もなかった。無惨な肉と血の塊になって、絨毯のシミになっていた。


 「邪魔者は、居なくなった。次は、貴方を頂こうかしら」


 「食べるの?」


 「食べるわ」


 「……貴方は、人食い? ばらばらにして、食べてしまうんですか?」


 「人食い鬼オーガじゃないわ。あんなのと一緒にしないでくださるかしら」


 不敵に微笑むと彼女は、薄い胸に、小さな手を当てて。


 「私は、アリス。吸血鬼。貴方の血を頂くわ」


 そう、名乗った。


 「……はは」小苗の唇が描いたのは恐怖じゃなくて「はははは……! はは、ははははははははは……!!!!」笑みだった。


 「? 私、なにか可笑しいこと言った?」


 「いえ、全然。全く、おかしくない。ただただ嬉しくて」


 「嬉しい……?」


 怪訝とした表情に、困惑が加わる。それでもアリスは美しい。だから小苗の胸の高鳴りは、収まらない。跪き、歓喜に震えて、小苗は言う。

 「私を、私を食べてください」

 

 


 +++

 



 「……え?」


 「そういうの駄目なの、私。ごめんなさいね」


 全く申し訳無さそうじゃない謝罪だった。アリスは、意気消沈とばかりに深い溜め息をつくと踵を返した。


 「どういうこと……?」


 「どうもこうもねえ……」ぼふんとベッドに腰を沈ませ「萎えちゃったの」アリスは、足を組んだ。


 「萎えた……?」


 「そ、首を差し出されるってなんだか……駄目なのよね。なってないわ」


 「ええ……?」


 「鮮度が落ちる。味が落ちる。貴方のやってることは、私の食欲を削いでる。そんなところ」


 「そ、そんな……嘘、そんな、私、知らなくて……」


 「知らなくて当然といえば当然だけれど。私の常識だから」


 「……吸血鬼の?」


 「そっ、吸血鬼の」


 「じゃあ、そのさっきのは……」


 「あれも吸血鬼なんて言わないでね? 潰したくなっちゃうから」


 アリスは、言うとやや不機嫌そうに目を細めた。小苗の背筋が凍えた。たった少し、アリスの気が変わるだけで、死ぬのを小苗の体は、如実に感じ取っていた。


 「あれは、屋敷の周りに住み着いてるだけ。分類をしたことないから何かは知らないわ」


 素っ気なく返したアリスは、開いたままの扉の外を指差し。


 「ほら、もう帰りなさい。私、そろそろ寝たいの」


 「え、で、でも……」


 流石の小苗も逡巡した。出ればまたあの迷路やさっきのとは、別の化物が待ってるかもしれない。


 「大丈夫。心配しなくても貴方の入ったところに戻れるから」


 「入ったところ……?」


 「ま、出てみれば分かるわ。出たらもう忘れることね。何もなかった。白昼夢といったところかしら」


 「……でも」


 小苗は、まだ粘ろうと口を開こうとして、


 「…………はい」


 再度、アリスの圧を受けた彼女は、従うしかなかった。了承以外認めないと言外に伝えてきていた。

 渋々と立ち上がり、名残惜しげ背後のアリスに視線を送りながら部屋を出ると――ピンポーンと聞き覚えのある音がした。そこで、自宅のあるマンションのエレベーターに入ったことを思い出した。目の前に広がるのは、見慣れた10階のエレベーターホール。振り向いた先にあったのは、毎日使うエレベーターの扉が閉じゆく様。


 「……夢、か」


 呟きながらも体中に纏わりつく疲労と汗の名残は、現実味を帯びすぎていた。本当に、何だったのだろう。


 「死ねなかった、な」


 酷く残念そうに洩らした。あれ程に、素晴らしい死に方もなかったろうに。

 また会えるといいな。早苗は、そう願った。叶うのはすぐだった。

 

 

 

 +++


 

 

 「吸血鬼が血を啜る理由は、何だと思う?」


 アリスの寝室に小苗は居た。最近の彼女は、ここに入り浸っている。


 「生きるため……?」


 ソファに腰掛け、手元の本をぺらりと捲った小苗は、ベッドの上にいるアリスから投げかけられた質問に対し、さして悩まず答えた。吸血鬼を名乗るのだから普通そう考える。


 「いいえ、違うわ」


 「? じゃあ、なんで?」


 「感情を啜るの。人の心の有り様は、血に現れる。今、何を感じているのかを感じたいから吸血するのよ」


 「なんで、そんな迂遠なことを?」


 「吸血鬼は、人でなしだもの。人でないから人がわからない。人であった頃の名残を人であった部分の名残が寂しがって欲しがるから吸血鬼は、血を啜るの。別段、生きていく上で必ず啜る必要はない。けれど、どうしても血を啜りたくなる。血を啜らないのは、そうね。人で例えるのなら……呼吸をしないってところかしらね」


 「……死んじゃうよ?」


 「吸血鬼だもの。我慢が効くのよ。今は、しないけど」


 首筋に、牙を突き立てる。呻きが一つ上がった。甲高く、弱々しく。勿論、アリスと小苗のものではない。


 「……そっか。それは、どんな味がする?」


 「そうねえ」


 口を離し、ぺろりと唇を舐め上げると瞳で空を撫でながらアリスは、味の感想を言語化する。


 「苦痛と深い絶望と怒り……後は、そうねえ。なんだったかしらこれ」


 眉根を寄せ、八の字にしたアリスは、悩ましげに言う。


 「酸っぱい、爽やかな酸っぱさ? 甘酸っぱい感じね。ああ、あれよ。昔食べたレモンの味」


 「初恋、かも」


 「初恋……初恋ねえ。死ぬ瞬間まで、そんなことを考えてるなんて、可愛いわね」


 「……そうかな」


 私は、そう思わない。この子の初恋がどうなろうだなんて、小苗には、どうでもよかった。違う。小苗は、自身の考えを否定するように、かすかに首を振った。嬉しい。とても嬉しい。小苗は、口元が緩んでしまう。

 けれど、同時に嫉妬は、眼底でヘドロのように煮えていた。視線は、めくっていたページからアリスの足元に転がるクラスメイトに向けられ、


 「ほんと羨ましい」


 女々しい嫉妬が口をついて出た。


 「正直ね」


 「最初に、言った通りだから。私は、私をアリスに食べて欲しい……気は、変わってない?」


 「まだ・・変わらない」


 そう言い、アリスは、小苗のクラスメイトを片手で持ち上げた――彼女を虐めていたクラスメイト達のその中核、主犯。殺したくてたまらなかった悪意の象徴に、アリスは、唇を開いた。開かれた口から覗くのは、白く長い牙が一対。


 「私が味わいたいのは、この子からする味なの。小苗、貴方では無理」


 「やめて……やめて……死にたく、ない……」


 「大丈夫」首筋に口づけ、「大丈夫よ」彼女の茶髪を撫でる。


 「本当に? 本当に?」


 「ええ、勿論」


 小苗は、歯軋りした。歯が砕けしそうになるほどに、強く。痛いくらいに。嫉妬と殺意でどうにかなってしまいそうだった。


 「勿論……」優しく囁き「貴方は、死ぬの」牙を喉に食い込ませた。


 ピアス穴のように、3つ目と4つ目の穴が喉笛に空けられた。唇を寄せ、キスするように、白い喉を嬲る。ごきゅりごきゅりと細枝のような喉を鳴らし、加減なく。

 どうしてあそこにいるのが私じゃないの――早苗は、心中穏やかではなかった。本などもう読むどころではない。視線は、アリスの食事に釘付けになっていた。

 みるみるうちに、少女の顔から感情も生気も抜け落ちていく。ぐったりと体から力が抜けた後、最後、彼女の瞳は、色を失った。


 「ふぅ……ご馳走様」


 頬から唇までを真っ赤にしたアリスは、満足気に呟くとベッドから腰をあげ、小苗の腰掛けたソファの肘掛けに腰を下ろした。


 「ありがとうね、小苗」


 「……うん」


 伸ばされた掌が小苗の頭を優しく撫でた。それだけなのに、憎悪も怒りも、不服さも何もかもが消えていく。


 「次も、楽しみにしてる」


 ――私って、簡単だなあ……。小苗は、俯き、柔らかに髪を撫でる感触と頬を染める熱さに逆らえなかった。

 

 

 

 +++

 

 

 

 小苗がこうやって、アリスに人間を提供し始めたのは、ほんの数日前からの事になる。

 

 

 

 +++

 

 

 

 濡鼠の小苗が秋の冷気に震えながら、開けたドアの先には、アリスの寝室があった。ひと目見れば彼女の部屋だと分かった。しかし、何事か理解できず小苗は、周囲を見渡した。数日前見た時と変わらず、月光が窓から差し込んでいる。夜ではなかったのに。ただ、あの時の肉塊そのものも痕跡も見当たらない。


 「幻覚……? もしくは、妄想なの……?」


 「残念ながら違うわ。ほんと、すぐ来ちゃったわね」


 ベッドに、ふわりと腰掛けたアリスの姿があった。


 「私、その……ごめんなさい……」


 呆れたを混ぜた微笑を向けられ、早苗は、叱られた子供のように体を小さくした。


 「別に、怒ってなんてないわよ。それよりほら」


 アリスの指差す方を見ると摺りガラスの入ったドアが一つ。なんだろう。早苗が首を傾げると。


 「お風呂、使っていいわよ」

 

 「いいんです?」


 「ま、これもなにかの縁よ」


 「……ありがとう、ございます」


 遠慮して来た道を戻るのは、嫌だった。何より今日はもう、教室に戻る気分にならなかったから。

 水滴をできる限り部屋に落とさないよう早苗は、素速く部屋を横切り、ドアを開けた。すると、中に詰まっていた真っ白な蒸気がぶわりと早苗に、被さった。すぐに晴れた視界に映ったのは、大理石の浴室。室内を照らす照明は、控えめだが早苗の目でも隅々まで見て取れた。猫脚バスタブには、たっぷり湯が溜まっている。シャワーに、バスチェア。見慣れたシャンプーやリンスさえもあった。蒸気に乗った花の香しさが小苗の鼻孔に流れ込んでくる。


 「ほら、早く入りなさいよ」


 「え? ってええ!?」


 背中に声を掛けられ、振り向いた小苗は、目を見開いた。

 一糸まとわぬアリスがいた。ベビードールから覗いていた白い肌は、あまりにも目に悪い。薄い胸、か細い手足。バイオレットの大きな瞳は、アメジスト。それらが黄金に縁取られている様は、もう芸術品としか言えない。


 「まさか、服を着て、お風呂に入る気?」


 「いや、そんなことは決して! 無いけど!!」


 いたずらっぽく笑うアリスに、小苗は、あからさまに動揺してしまった。突きたした手を振って、首を横に振る。


 「ほらほら。私も入りたいんだからさっさと脱いじゃって」


 「いや、でも!」


 「はいはい、手を伸ばしてー。ブレザー脱いで―。ほらシャツも。あら、おっきいと思ってたけどさらに下着で押さえつけてたのね。いけないわよ、そういうの苦しいでしょう? 体にも悪いわ」


 小苗の意志を無視して、アリスの手は、素早く衣服を剥がしていく。小苗に、抗う暇はなかった。只々、その場で、あわあわと狼狽えて気づけば、すっぽんぽん。大きいところと細いところのはっきりしたメリハリボディが露わになる。さらりと垂れる濡烏の黒髪も麗しく、彼女を彩った。


 「女の子って感じ。羨ましい」


 「ひゃぁ!!」


 手付きがいやらしい……!小苗は、思ったけれど抗えなかった。首筋から腰に指が下り、腰骨から尾骨を撫でた後、大きく柔らかなお尻に指が食い込んだ。


 「ぴっ!?!?!!」


 「ふふ、小鳥みたいね。素敵……って、大事な事忘れてたわ。私ったらほんとだめね」


 「え、な、何を……?」


 くるんと華麗なターンで、小苗の前に回ったアリスは、胸をついばむように、指を這わせながら顔と顔を近づける。ぐっと近づくバイオレットの瞳に、早苗は、引き込まれた。


 「お名前、聞いてなかったわ。また会うなんて思ってなかったから。教えてもらえる?」


 「小苗、です……。片倉小苗」


 「小苗、小苗。素敵。可愛い名前ね。日本人よね? どんな字で書くの――「くしゅん!」――ああ!! そうだったわね。ごめんなさい。夢中になっちゃった。お風呂の中で教えてもらいましょう」


 「え、ちょっと、ちょっと待って――!?」


 

 

 +++

 

 

 

 「ねえ、小苗。貴方は、どうして私に食べられたいの?」


 湯煙が立ち昇る浴室。微かな照明が二人を照らしていた。あらゆるところをアリスの手により、洗われた小苗は、ぐったりとバスタブに背中を預けていた。声は、そんな小苗の胸元、彼女の豊満な胸を枕にしたアリスは、不思議そうに早苗を見上げていた。


 「食べられたいってすっごく変わってると思うの。きっととっても痛いし、死んじゃうじゃない? 訊いたらきっと皆、食べられたくないって言うわよ? 犬も猫も、鳥も魚も」


 「えっと、それは……」


 小苗は、どう答えようか言葉に迷った。なぜならあまりにも情けない顛末だからだ。最初から最後まで、下らなくどうしようもない。恥部に等しく、大ぴらにしたくもない事。この美しい人に、失望されたくはない。彼女の頭の中で、言葉が堂々巡りする。


 「そういえば今日は、雨じゃなかったはずだけれど。どこで水浴びをしたのかしら?」


 「あの、その……私、花壇の水やりを……」


 「下手な嘘ね」アリスは、嘆息をついた。「吸血鬼は、五感も鋭いのよ? 貴方からする匂いは、花壇の水やりで着くような匂いではないと思うの」


 これは、そうね……。アリスは、考え込むような素振りを見せ、


 「お手洗いの水かしら?」


 抵抗も隠し事も全部無意味だというのを小苗は、すぐに悟った。目を伏せ、唇をどうにか動かし、気重く言葉を発した。


 「……私、虐められてるんです。ずっと、ずっと」


 アリスは、口を挟まなかった。小苗は、言葉を続ける。


 「私の学校、エスカレーター式でクラスメイトが変わらなくて、同じクラスメイトに同じように虐められ続けていて。机を隠されたり、上履きに落書きされたり、教科書をばらばらにされて、ノートに落書きされたり、虫を食べ物に入れられたり、トイレの水を掛けられるのだって、いつものことで……。全部いつものことだけど慣れないですね」


 なんて情けない。小苗は、苦笑いしかできない自分が実に情けなかった。怒ることもできずに、只々、これまでの虐めを受け入れ続けるしかなかった自分は、見下げられて当然だ。いつの間にか目を瞑っていた。潤む目を見せたくない精一杯の強がりと、無様な告白を受けたアリスの視線に耐えられそうになかった。


 「ね、小苗。貴方の死にたがりには、まだ何か理由があるわよね?」


 小苗は、首を横に振り、否定した。


 「話して」


 アリスに、優しく囁かれた小苗は、固く結んでいたはずの口を自然と動かしていた。何故かは、分からない。彼女の優しさに甘えてしまったのかもしれない。言葉は、スムーズに紡がれた。


 「私の母は、女優なんです。一流で、ドラマとかバラエティの番組にも出てて、すごく有名で。私もいつかあんなに成りたかった」 


 「成れなかったの?」


 「……駄目なんです。誰かが見ている。それに耐えられない」


 舞台の上。晴れの舞台。熱いスポットライト。弾丸のような視線。母の期待や赤の他人の期待。知ったことかと振り切れなかったものが今よりずっと小さな小苗の背中を押しつぶす様。幼き日、栄光が瓦解とかして、突き刺さり、癒えぬまま開き続ける傷跡が視線に、また抉られた。


 「視線に負けて、失敗してから、私は、もう舞台に立てませんでした。母とも上手く行かなくなりました。もう一緒に暮らしてもいないです。欠陥品とか失敗作とか思っているんでしょうね」


 あの時の失望の込められた視線を小苗は、今でも憶えていた。忘れられるはずがない。


 「それからずっと、見られてるんです」


 今の今まで、感じてなかったいつもの感覚が小苗の背中を刺した。浴室の隅に何かを感じる。後ろは壁で、隅には、何も誰も居ないというのに。


 「ずっと、ずっと見られてるんです。学校でも、帰り道でも、家でも。おかしいですよね。どこに居ても誰かの視線を感じてて、付きまとわれているみたいに思えるんです。誰かが私を監視しているみたいで。そんなわけ無いのに。眠っても、夢でも誰かに見られている悪夢ばっかりで眠れなくて。眠れなくて、限界が来て、眠って。また夢を見て。学校でも見られている気がして。虐められたのもきっと私が過剰におどおどするから。止めたくても止められなくて。生きているだけで辛くて。だから、私、もう……」


 「だから、死にたい?」


 「……死にたかったけど怖くて死ねなかった。私は、逃げるために死んでしまいたかった。だけど、痛いのは嫌。辛いのも嫌。怖いのも嫌。楽になりたいのに、そんなのは嫌だったんです。そんな時……」


 早苗は、ようやく目を開いた。ぽろりと雫が目尻から頬を伝う。


 「アリスに、出会えた」


 「大体わかったわ。まあ、自殺用ロープみたいに思われてるのは、遺憾ね」


 「わ、私、そんなつもりじゃ……!」


 「冗談」くすくすとアリスは、笑みを零し「でもね、それでもね。貴方の願いに答えてあげられない。グルメなの。死にたがりは嫌よ」


 「…………どうしたらいいの?」


 「うーん、そうねえ……」


 見上げるのを止めたアリスは、小苗の胸へぼふんと後頭部を落とした。髪先が鼻をくすぐり、鼻孔をつくミルクみたいな香りが小苗には、もどかしい。


 「そういえば、育てたことはなかったわね……」


 育てる……? 小苗が首を傾げていると。


 「決めたわっ」


 ざばんとバスタブの湯を散らし、立ち上がったアリスの顔は、笑みを浮かべている。悪戯を思いついた子供みたいな顔だと小苗は、思った。


 「小苗、貴方、人間を連れてきなさい」

 

 

 

 +++

 

 

 

 ――小苗がやることは、単純だった。


 アリス曰く、〈縁〉というものが小苗とアリスの間にはできたらしい。願って、ドアを開ければアリスの住まうこの館、この部屋に繋がる。実際、小苗は、一度それが出来、二度目もまたこのように出来た。

 人を連れてくるのも簡単だった。彼女の後をつけ、自宅に入るところ、代わりにドアを開いた。するとアリスの部屋に直通だ。


 その後は、アリスの独壇場だった。混乱し、騒ごうとした彼女もアリスに見つめられたら口を噤んで、瞳を潤ませたと思えばふらふらとアリスに、近づいていった。後はもう、前述の通り。


 吸血鬼――アリスは、そういうもの。小苗は、吸血鬼について少しだけ調べてみた。調べてみると言ってもインターネットで検索するくらい。元々有名だから小苗もある程度知っていたからあまり調べるのに時間は食わなかった。

 起源から古今東西の創作。吸血鬼、ドラクル、ヴァンパイア。串刺し公という人物がモデルの創作の怪物。というのが一般的な認識。だけれど小苗の目の前に、吸血鬼は居る。創作ではない。彼女は、実在している。幻覚などではない。実際目の前で、一人彼女に血を吸いつくされたのだから。


 「あら、ちょっとはいい顔になったじゃない」


 「そう、かな……」


 覗き込んできたアリスがにっと笑うのに、小苗は、首を逸して、逃げるようすると頬を赤らめた。真っ赤も真っ赤。アリスの顔は、慣れない。こんなに可愛らしく美しい人のことをそんなちょっとした事で理解した気になったのは、あまりにも傲慢だった。小苗は、今後の戒めにすることにした。


 「ほんと、可愛い子」


 「……ね、アリス」


 さらりと最後に撫でた手が頭を離れるのを名残惜しく思いながら小苗は、期待を込め、アリスを呼んだ。


 「これで、どうでしょうか? 私を食べてもらえますか? アリスの好みになれましたか?」


 「焦らないで、小苗」


 小苗から離れ、いつものようにベッドに腰掛けた後、足先で転がる屍を弄ぶアリスは、首を振る。彼女の足が屍の顎を動かすとごきりごきり骨が鳴る。


 「まだよ。まだ貴方の遺恨は、晴れてないでしょう? それじゃあ駄目。貴方の血は、熟さない」


 「まだ……そっか。そうですね」


 納得した小苗は、まだ自身が成していない事があるのに、気づく。先走りすぎていた。


 「次も楽しみにしているよ。小苗」


 「うん、アリス」


 花のようにほころぶアリスに、つられて小苗もまた満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

 +++

 

 

 

 「おい、テメエ」


 刺すような声。雑踏でもやけに通る声。最初、小苗は、呼ばれているのに気づかなかった。


 「そこのテメエだよ。馬鹿みてえに髪を伸ばしたそこのテメエだ」


 定期テストのため、昼間で学校は終わりだ。久々に出歩く昼の商店街は、人が多い。振り向くと少女が立っていた。黒いセーラー服。ボブを撫でる風が赤のインナーカラーを顕にする。黒い円柱の入れ物――バットケースをたすき掛けていた。早苗より背は低く、150センチ後半だろうか。キレイな顔立ちを台無しにする刃が如し赤みがかった瞳と牙のようの気配が人混みに、中洲を作っていた。誰もが目を向けない。誰もが早足だ。彼女に、関わりたくないのだろう。


 「ドブ見てえな臭いがすんな」


 「……え?」


 今日は、水を掛けられていない――いや、もうかける人はいない。小苗を虐めていた人間は、中核の少女達を失って瓦解した。失踪、誘拐などの可能性で警察に届け出されたが二度と見つからないだろう。必然、虐められることもなくなった。だから、臭くなんて無いはずだ。小苗は、思わずくんくんとワイシャツの袖を嗅いだ。大丈夫。柔軟剤の匂い。洗濯は、着たら毎回してるし、お風呂もちゃんと入ってる。髪は、長いから面倒だけどちゃんと洗って乾かしてる。だから臭くないと思う。


 「そういうことじゃねえよ」


 呆れたように、黒いセーラー服の少女は言う。馬鹿にしているように小苗は感じた。ちょっとムッとする。


 「じゃあ、どういうこと?」


 「臭え。てめえ、あっち・・・に行ってんな。行っただけじゃねえ。特上のクソと〈縁〉を結んでる。そういう臭いだ」


 「……分からない。何を言いたいのか全然分からない」


 じりりと後退っていた。小苗は、既に逃げる段階に入っていた。怖い。怖い。怖い。リアルな怖さだ。言ってる事は、意味不明。口調も怖いし、見た目も怖い。こういうタイプと小苗は、関わり合いに絶対なりたくなかった。


 「すっとぼけやがって。いいぜ。そっちがその気なら喋りやすくしてやる」


 すたすたと気安く距離を詰めてくる少女の顔は、実に剣呑。誰か警察を呼んでくれないかと小苗は、淡い期待を抱いていたがどうやらそんな様子もない。

 なので

 「あっ、てめ!!」


 逃げ出した。踵を返し、全速力で逃げ出す。ローファーは、あまり走りやすいものではない。がそれでも全力だ。アスファルトを鳴らし、人混みを小苗は、駆け抜ける。どうにか人混みに紛れて、逃げ切る。というのが彼女の目標だった。


 「逃げてんじゃねえよ」


 「……うそでしょ」


 大通りまで出て、自宅のあるマンションへ繋がる歩道橋の前、階段にて立ち塞がるのは、あの黒セーラー服の少女。煙草を咥える余裕すら彼女にはあった。甘い煙が息絶え絶えの小苗に絡まった。咳が思わず溢れる。


 「逃げたってことは認めてるも同じだな。どこだ。てめえに唾つけてる化物は」


 「っ!」


 詰め寄ってくる少女に、早苗は、踵を返してまた逃げ出した。が、一歩遅く、少女に腕を掴まれ、引き止められる。


 「面倒くせえから逃げんじゃねえ」


 苛ついた視線に、早苗は、身をすくめた。


 「化物どもが怖いからって、逃げる必要はねえだろ。脅されてんのか? 人質か? どこにいんだ。全部殺してやる」


 「ば、化物って、なに……?」


 「あん? 化物って言ったら裏側のクソ共だ。赤と黒と月の世界、知ってるだろ? あそこに住んでるクソ共だよ。わかるだろ」


 その時、やっと早苗は、気づいた。この少女が吐き捨てるように作る言葉の向けられてる先を理解した。

 アリスだ。この少女が言う化物とは、アリスのことだ。言いたいことは色々あるが早苗は、彼女がどういう存在なのかも気づいた。化物退治の専門家だ。吸血鬼を殺す専門家なんていうのも存在するのを早苗は、以前の調べもので見つけていた。きっと、彼女もその一人、もしくは、似たものなのだ。


 「それは、その……」


 「大丈夫だって。オレはあんたの味方だ」


 ――口調や態度は、ともかく、この娘は、言葉の通り、味方のつもりらしい。

 どうにか冷静になろうと努めて、早苗は、現状を切り抜ける策を考える。逃げるのは無意味だった。きっと彼女は、とんでもなく足が早くて体力がある。だから化物退治なんて出来ている。そうなると下手な事はできない。暴力では決して叶わないのだから。


 「貴方、名前は? 私は、早苗。片倉早苗」


 「ん? ああ、自己紹介くらいしといたほうがいいよな。レンだ。苗字は無い」


 「れ、レンね。わかった。よろしく」


 「おう、よろしく。それで、どこにいる?」


 まずい。話がすぐに戻ってしまった……。ど、どうしよう。小苗は、表情をどうにか変えないようにする。変わってないよね?


 「えっと、それが……」


 「それが?」


 「何してるの、小苗」


 小苗が言葉に詰まりかけた時だった。一つ声が割り込んだ。声の方には、女性が一人。綺麗に染め上げた茶髪をシニヨンスタイルに纏めている。顔は、サングラスとマスクが隠されている。日除けの傘に、白のカーディガンと紺の布地に花柄をあしらったロングワンピース。背は高い。小苗よりも高いのは、ハイヒールのせいだろう。


 「友人は、選びなさい」


 「あん?」


 サングラスの裏から覗く瞳が見下すように細まり、気に入らないなとレンの瞳もまた剣呑に細まった。


 「お母さん……」


 小苗の母。片倉翔子。職業は、女優。小苗が成りたかったもの。成れなかったもの。


 「そう呼ばないように、言ったはずよ」


 「……ごめんなさい」


 冷たい声が小苗に向けられた。生まれてこの方、幾度と投げかけられた言葉に、小苗は、萎縮した。そんな彼女を一瞥した翔子は、歩道橋の階段をハイヒールで、かつかつ鳴らしていく。


 「ごめんなさい」声を潜めた小苗は、レンに言う。「お母さんを人質に取られてるんです。だから、また今度」


 「なるほどな……。分かった。これ連絡先」


 納得した様子のレンから差し出された紙切れには、電話番号とメールアドレスが記されている。小苗は、頷き、受け取ると母の後を追った。


 「……アリスに、伝えなきゃ」


 「まさか、な……」


 レンもまた呟き、一息吸った後、唇を空に向けると紫煙を吐いて、地を蹴った。

 

 

 

 +++

 

 

 

 視線の先で、茶髪が規則正しく揺れている。歩く姿は、流石に売れっ子女優。背筋はぴしりと伸びていて、美しい。小苗は、その背中に近づかない。一歩と二歩は、距離をとっている。そして、物理的な距離以上に、小苗と母の心の距離は、もっと離れている。久々に、その母の背中を小苗は見ていた。顔を見るのも久しぶりだ。。


 こんな事になった原因自体は、自身にあると小苗は思っている。あの時、舞台を台無しにしたのは、自分で、逃げ出したままなのも自分。だから悪いのが自身だと彼女は、思う。誰も訂正しなかったし、誰も彼女を庇うことはなかった。母は、諦めの溜息を最後に口を閉ざし、見捨てた。故に、彼女の考えが変わる事はなかった。


 さっきの会話も久しぶりだった。どれだけ久しぶりだろうか。小苗も見当がつかなかった。もう忘れ果ててしまうほど前のこと。


 これできっと最後だ。視線もきっと無くなる。小苗は、自身につきまとう視線が目減りしているのは、肌に感じていた。だから、これで最後。この人がいなくなればもう悩む必要もない。それからアリスに、お願いしよう。血を吸って欲しい、と。


 歩道橋を渡った後、マンションの自動ドアを二人はくぐった。エレベーターのボタンを小苗が押すと、数秒と待たずにやってくる。


 「……さっきの子に」


 そのほんの少しの間、翔子は、口を開いた。


 「余計なことは言っていないわよね?」


 感情の乗っていない冷たい声だった。小苗は、首を振った。言葉は口にしない。答えられなかった、のではない。

 ぽーんとエレベーターが到着して、扉が開く。翔子の細く形の良い眉が顰められていく。エレベーターの扉が開いた先に、エレベーターが無い。


 「アリス」


 口端を持ち上げ、小苗は、アリスを呼ぶ。紫の瞳がぼうっと光る。彼女は、いつもの通り、そこにいる。


 「お帰りなさい、小苗」


 そして、一歩踏み出されて、


 「やっぱり、」


 翔子の体が真後ろに引っ張られ、アリスの視界から消えた。翔子の後ろに、影が一つ。


 「んなことだと思ったよ」


 代わりに、黒髪が揺れる。赤を孕んだ黒。鮮烈に赤熱する瞳がアリスを撃ち抜く。

 エレベーターの扉が閉まった。部屋に暗がりが戻ってくる。居るのは、三人。小苗とアリスと――――。


 「小苗。それは?」


 「違う。私は、違う……! 違うの……!!」


 巻いたはずだった。あれで納得させたはずだった。小苗は、目の前の想定外に狼狽した。こうしないように努力はした。したのに、彼女は、今、小苗の目の前に居た。


 「よお、化物」


 ――――レンだ。金属バットを片手に笑う彼女は、あまりに衝撃的だった。


 「ぶっ殺しにきたぜ」


 「口が悪いこと。御両親が泣いているわよ」


 「いねえよ」


 「あらあら、川上から流れてきたのかしら」


 かんかんとバットの先端で床を叩き、手癖とばかりにバットをレンは、手の中で回す。同時に、小苗から見て、無造作としか思えない動作で踏み出したレンは、適度に、アリスとの距離をとっていた。


 「喋んじゃねえよ。口がくっせえんだよ。ドブのような臭いさせやがって、歯ァ磨いてんのかぁ? ああ?」


 「全く。本当に、度し難いわね」


 「はっ。言ってろ」


 床が弾け、次いで生まれた旋風が部屋を掻き混ぜた。小苗の髪も服もまた部屋と同じように乱れた。衝撃波に、吹き飛ばされないよう足に力を込め、堪えた小苗の視界には――何も映らなかった。アリスもレンも。二人の姿は無く。ただ荒れ果てた部屋があった。直後、窓ガラスが全て砕けた。カーテンが内側から膨らみ、バサバサと乱れる。


 「な、なにが……」


 きょろきょろと小苗は、見回す。しかし、意味はない。何も見えない。

 ベッドがひっくり返った。見事に回転して、天蓋と足が上下逆転。勿論、そんな風にできてはいない。瞬く間に、悲鳴を上げ、ぐしゃりと折れて、砕けて、ばらばらとなって床の上に散らばった。とそれもまた蹴飛ばされ、叩き出され、空中を舞い、散らばる。何度も重なる金属音。何かの軋む音と何か鈍い音。


 そこまで来て、小苗は、ようやく現状を理解した。


 早すぎて、見えていない。小苗の、常人の身体能力を遥かに超えた殺し合いだ。一瞬たりとも小苗には、捉えられない。割って入って止めてだとか静止させるとか出来るわけがない。


 「そもそも……」


 小苗は、唇を噛んだ。柔らかな掌に、整えた爪が食い込んだ。


 「私が言って、止まるわけがないよね」


 疾風が嵐となり、部屋を破壊して、小苗の目の前で、ついに天井が破壊された。パラパラと破片が落ちてきて、吹く灰色の風が小苗の髪をもてあそんだ。


 「ほんと、私、最悪だ」


 満月が空いた穴から覗く。赤い雲、黒い空。影が二つ浮いていて――交錯した。


 「あっ」


 声を上げた時、天井の穴を通って、矮躯が落ちてきた。その体は、形容し難い音をたて、何度と転がり、止まったのは、小苗の丁度、足元だった。真っ赤な水たまりが広がっていく。いつの間にか膝をついていた。血に汚れる事など気にも止めなかった。


 「あ、ああ……」ぐったりと力のない手を握り「ア、リス……」作った声は、震えていた。


 「もう……ひどい顔ね……」


 「そんなの、アリスに言われたくない……!」


 「あら、言うようになったわね」


 ぽつりぽつりと落ちる大粒の涙がアリスの頬を打つ。かく言うアリスは、苦笑を浮かべ、激しい咳を零した、口と喉元と赤が赤で上塗りされる。アリスの鳩尾には、大穴が空いている。上下分断されていないのが不思議なほど。足ももう片手も形を成していない。戦闘の激しさが伺い知れた。


 「血を吸えば、まだ、なんと……かなるかもしれないわね」


 「血を、血があれば、大丈夫なんだよね……!?」


 ぼんやりと言うアリスと正反対に、小苗は、必死の形相で、首筋を差し出した。


 「イヤよ。貴方は、イヤ」


 「なんで、なんでよ! 死んじゃうんだよ!? 死んじゃうのに!!」


 駄々をこねる子供のように小苗は、叫んだ。アリスがいなくなるのが嫌。だって、アリスに小苗は、食べて欲しい。いなくなったらどうすればいいの。


 「だって、今の貴方の血。悲しい味がしそうだもの」


 直後、アリスの体が灰になり始めた。変化は、急速だった。指先から始まり、早苗の手の内で崩れた後、肘に到達し、肩を消し去った。


 「そう……これで終わりなのね」諦観を抱いた瞳が空を見つめ、「残念」溜息をアリスは、吐いた。


 「嘘、何!? どうして――!!?!」


 諦観を抱き、無抵抗なアリスと真逆に、消えていく彼女の残骸に早苗は、必死に手を伸ばして、指は空ぶった。


 「さようなら、早苗」

 

 

 

 +++

 

 

 

 頬をふわりと何かが撫でる感覚に、小苗は、目を覚ました。

 ゆっくりと開く瞳に映ったのは、見覚えのない天井。真っ白。ぼうっと焦点が合うのを待って、ふっと髪が頬を撫でていった。天井から横に、髪をもてあそぶ風の入り口へと小苗は、目を向けた。これまた真っ白。レースのカーテンが窓前で、小苗の髪と同じように揺れていた。ベッドから体を起こして、ひんやりとしたフローリングの床に足をつけ、カーテンを脇に追いやった。


 「わっ……」


 すると、彼女の視界一面に広がったのは、山間に広がる小さな街。そのさらに向こうには、日差しにきらめく海があった。天気は、晴れ。いい景色だった。穏やかな秋風が部屋の中に吹き込んできて、小苗は、彼女を無視して風と遊ぶ髪を押さえた。


 どこだろうここは――彼女は、彼女の疑問を解決できなかった。検討もつかない。街並みは、遠くだからはっきりとは視認できない。都会ではない。家屋は、背が低く、大きな建造物も見えなかった。窓から見下ろして、小苗は、気づいた。この部屋のある家屋は、二階建てだ。窓から外観を見て、学校のようだと思った。廃校。塗り直したり、改修が入っているように見えるが古めかしい気配までは多い隠せていない。


 小苗は、振り返って、部屋を見渡してみる。ここがどこなのか。その答えへたどり着く材料がもう少し欲しかった。反対側には、木のドアが一つ。備え付けの洗面所と壁に立て掛けられたパイプ椅子がいくつか。ベッドサイドを改めて見てみると小さな液晶テレビが一台。


 「……病室かな」


 推測。大きく外れていないと小苗は、思う。となると、


 「ここは、病院」


 ベッドのサイドテーブルに置かれていたリモコンを手に取り、テレビに向ければ、ぱっと画面が点く。


 「日本のどこかにある病院……」


 小苗の耳朶を打つのは、女性の声。バラエティ番組のリポーターだ。テレビの隅で、時刻が13時を過ぎているのが分かった。母も何度か出演した番組。昔は、そんな母の姿に、憧れを抱き、興奮して見ていた。しかしそんな感情は、とうの昔に消え失せた。リポーターに最後まで話させる事なく、ぷつんと画面は、黒に染まった。

 その時、がちゃりと背後でドアの開く音がした。ばっと小苗が振り返れば、


 「起きたのか」


 「君、は…………」


 小苗の視界で、赤と黒がふわりと揺れたのを見て、ぎゅっと握った拳を小苗は、振りかぶっていた。


 「ご挨拶だな」


 呆れた声とともに、小苗の拳は、受け止められていた。顔面へと一直線の拳は、届かず、空中で小さな手に釘付けにされている。すごい力だ。小苗は、振り払おうにもびくともしない手に、歯噛みした。


 「それにしても、意外にちゃんと殴りに行けるんだな。箱入りっぽいのに」


 突き飛ばされ、たたらを踏んだ小苗をいつも通り黒のセーラーを身に纏ったレンは、嗤う。怒りが小苗の中で、ぐつぐつと溶岩のようになって満ちた。


 「へえ、怒ることできたんだ」


 「君、は……!! ふざけないで!!」


 小苗は、へらへらと唇を歪めるレンの胸ぐらを掴んみ、見下ろして、睨んだ。対するレンの表情は、変わりない。


 「アリスを殺しておいて、何を……!」


 「おいおい、言う事かいて何かと思えば……」


 心底おかしそうに、レンは、笑い出した。


 「なにがおかしいの! 言いたいことあるなら言いなさいよ!!」


 「ふざけるなってのは、こっちのセリフだってことだ」


 胸元を掴んだ小苗の手を掴んだレンは、冷え冷えとした視線を向けた。


 「離せ。伸びるだろ」


 「っ……」


 笑みを引っ込めたレンに、小苗は、言葉を詰まらせ、大人しく従った。力を込めすぎて強張った指をどうにか剥がし、近づけていた体を離した。


 「オレの仕事は、あの吸血鬼みたいなのを生け捕りにするか殺すかだ……。人殺しは、入っていないししない。運が良かったな」


 声も出せず、小苗は、思わず後ずさりしていた。冷や汗がぶわりと背中に吹き出る。小苗にも覚えのある感覚だった。ここ数日何度か感じたもの――殺気だ。震えが手足の先まで走り抜けた。


 「はぁ……もうこういう話しに来たんじゃないんだけどな」


 「話……?」


 「そっ、話。ぱっぱとオレも終わらせたいからさ。とりあえず、座れよ」


 レン自身もさっさとパイプ椅子を取ると広げ、座ってしまった。小苗もそうなった以上、彼女に従うしかなかった。渋々、向かい合うようベッドの端に腰を下ろす。


 「単刀直入にいくぞ。あんたに残ってるのは、1択だ。全て忘れ、元いた場所に帰る。皆ハッピー、さようなら。あんたは、家族やクラスメイトを失い、悲しい事故で行方不明、だったということになる」


 アリスを忘れる事になる。けれど、何もかも無かったことになる。レンが提示したのは、小苗の救済策だ。これ以上にない。しかし、けれど。


 「それは……」


 「嫌でもクソでもあんたの結末は、それだよ。諦め――「選択肢は、もう一つ用意したはずだよ。レン」――チッ」


 会話に、割り込んできた声。男が一人、ドアを潜っていた。小苗には、見覚えのない顔だった。

 短く刈り上げられ、透き通る金髪は、天然だろう。身長は高く、190センチはあり、司祭平服カソックをまとっている。彫りが深く、白い肌。つまり日本人ではない。丸メガネの奥にある翡翠色の瞳は、思慮深さと穏やかさ、理知的な光を宿していた。


 「選ぶ価値がない」


 「それは、君が決めることではない。彼女が決めることだよ。レン」


 「……わーったよ」


 隣に立った男へ盛大な溜息とこれもまた盛大な舌打ちを鳴らすとレンは、心底嫌々という調子で、口を開いた。


 「2つ目――全て忘れず、元いた場所を捨て去る。これは、まあ最低だ。なんたって、誰もハッピーにならない」


 「……君、優しいね」


 小苗が思わず発した言葉を言い終わるか終わらないか、ごうっと小苗の耳元を強風が吹き荒んだ。伸ばした黒髪がばらりと一緒に空中に踊る。


 「次、んなこと言ったらその綺麗な顔、叩き潰してやる」


 実体を持った殺意が喉元に突きつけられたような感触に、小苗は、静かに頷いた。


 「誰が考えたの。これ」


 「私だよ。忘れさせるなら、忘れない選択肢も用意しておくべきだと思ってね」


 「分かったろ。さっさと選べ」


 「選ぶ前に――」レンから隣の男に視線を向け、「神父様ですよね……?」


 「んーまあ……そうだね。一応、資格は持ってるし、前は神父として教会に居たこともある」 


 「それじゃあ、一つ聞きたいことがあります。いいですか?」


 「おい――「構わないよ」――たく……」


 片眉を大きく上げたレンを神父が制し、促すように手を出した。


 「吸血鬼は、死んだらどこに行くんでしょうか」


 「……君、死にたいのかい?」


 「死にたかったです。出来るならアリスに、殺して……うんん、食べて欲しかった」


 「なるほど」


 納得したように、男――神父は、片手で、顎を撫でるとレンの方に視線をやった。顰めっ面の彼女は、ふんと鼻を鳴らし、不機嫌に他所に視線を逸した。


 「君は、吸血鬼……アリスの居るところに、行きたいんだね」


 「はい」


 真っ直ぐな視線だ。嫌になるほど真っ直ぐな。見ていられないな。と神父は、思った。


 「そうか。では答えよう。吸血鬼は、どこにもに行けない。彼女らは、神に背いている。挙げ句、世界から排斥されて、あんなところに閉じ込められている」

 

 「じゃあ、地獄も……?」


 「前提として、吸血鬼に、天国や地獄があったらそこかもしれない。吸血鬼の天国地獄の振り分け方なんて知らないけどね」


 「……そう、ですか」


 会話の切れ目に、ばちんと音がした後、もわりと上がる甘やかな煙が部屋の天井を撫でた。


 「くだらん話は、終わったか? 答えは、決まったか?」


 つまらなさそうに煙草を吹かし始めたレンが横目に、訊く。


 「レン、まだ吸ってたのか……」


 「うるせえ」咎める神父をレンは、一瞥し「んで、どうするんだ? スッキリ爽やかに忘れ去るか、それとも忘れず地獄に行くか――ああ、言ってて嫌になる。答えが見えてる」


 レンは、紫煙と同時に、大きな溜息を吐き出した。


 「忘れない。忘れなければいつかきっと、アリスに逢えるから」


 「それが地獄、その他もっと酷いところでも?」


 「アリスが居ないところが私の地獄だから」


 「けっ、クソッタレが……。ほらな? だから言わなかったんだ」


 「選ぶのは、権利だよ。どう生きるのも権利だ。なにより私達に、他人の人生を左右する権限も権利もない。そうだろう?」


 「……そーだな」


 イライラとレンは、咥えた煙草のフィルターを噛むと乱暴に立ち上がった。


 「オレは、もう行く。二度と会わないことを祈ってるよ」


 「ねえ、レン」


 去りゆくレンの背中に小苗が声をかけると一歩二歩歩いて止まり、振り向くレンは、心底嫌そう。


 「…………んだよ」


 「ありがとう」


 「……嬉しくもなんともねえよ。クソが」


 反吐が出るとばかりに顔を歪めたレンは、ドアを壊しそうな勢いで開け、叩きつけるように閉めて、去っていった。


 「怒らせたかな……」


 「さ、どうだろうね」


 残ったのは、小苗と神父の二人だけ。肩を竦めた神父は、空いたパイプ椅子に腰掛けた。


 「これから私は、どうなるんです?」


 「まず死んだことになる。君が憶えていることは、一般に持ち出せないんだ。喋らないとか黙っておくとかそういうレベルの話じゃなくてね。だからそうだな……」


 ふっと何事か考える素振りを見せ、


 「……君は、これからどうしたい?」


 「進路相談ですか? 神父様は、いつもそういうことをされているんですか?」


 「まあね。末端で、他人のレール作りさ。レンもこうやってやることを決めた。具体的じゃなくていいよ」


 「レンとか神父的にいいんです? 未成年をあんな風に働かせて」


 片方は、子供が怪物狩り。片方は、吸血鬼のところに行きたい。どこの神父でもあまりいい顔はしないだろう。


 「神父的には駄目だけど今の僕は、資本主義の奴隷だからね。お金が貰えれば大体何でもするよ。そうそう、僕、楽してお金を貰いたい人だから早めに決めてもらえると嬉しいね」


 両手を広げ、戯ける神父に、小苗は、くすくす笑い声を上げた。


 「じゃあ、都合がいいですね。私の進路、もう決まってますよ」


 「へえ? なんだい。言ってごらん」


 興味深げに促され、穏やかに微笑みながら小苗は、言う。これ以上の、これより他に行き先はないと。行き着く先が地獄だろうと構わない。


 「アリスに、一直線です」




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アリスに、一直線 来栖 @kururus994

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