山の家

早坂慧悟

第1話

山のふもとで、雷鳴が響いた。

朝から3回目だ、今日はやけに多い。

その轟音を聞き少し不安になった僕は、本を机の上に置くと、外の様子を窺った。

机のすぐ上には、外の様子がわかるように小さな窓がある。今朝はひときわ窓からの光がまぶしい。

窓の外は春の日差しを受けた木々の葉の若い緑で溢れていた。植物は皆、生命がみなぎる季節の真っ只中にあって、その生き生きとした姿は、見る者には眩しく感じられる。

僕はママの言いつけ通り、外に出ることはない。食べ物も服も全部ママが用意してくれるから外に出る必要はないのだ。

だから僕は年頃の皆のように、友達と語りあったり、恋人と遊びに行くこともない。

毎日、部屋に閉じ込もって受験勉強をしてる。こうして若い体を持て余してると、ムラムラと行き場の無い欲望が勃興してくるのがわかる。

僕はアンニュイな気持ちになり、そっと本を閉じた。頬杖をついた瞬間、思わず溜め息がでる。


窓の外で草むらが少し揺れた。雑木林に大きな影が動く。

ク、クマ?

僕はメガネをかけ直すと、目をこすってもう一度よく見た。

しかし、外は穏やかで何の変りもなかった。

見間違えか。

僕は我に返ると、首を振った。

・・・だめだ、こんなことをしてる余裕はないんだぞ・・・

僕はいつもの、おまじないの言葉を思い出すと目を閉じて唱えた。

「見ないものは存在しない。見えないものは存在しない。」

そして気を引き締め、机に向かうと再び本を開いた。


To fear love is to fear life, and those who fear life are already three parts dead‥‥.


英語の原文が目に飛び込んでくる。前にも見たお馴染みのフレーズだ。たしか、バートランド・ラッセルの本の一節だ。

 僕は、まんざらでもない自分の勉強量に気づくと思わずニヤリとした。


『愛を恐れることは人生を恐れること。人生を恐れる者は既に死んだも同然』


我ながら完璧な訳だ。

僕はそれを記入しながら、なぜか不安な気持ちになった。

・・・次の英文も『既に読んだことのある』ものだったらどうしよう。

ページを捲ると、そこにはやはり見覚えのある英文が並んでいた。僕はさらにページを進める。

次のページ、その次のページ、最後のページに至るまで、すべてに見覚えがある英文が並んでいる。

僕は氷の手で心臓を掴まれたような冷たい感覚を覚え、動揺した。

この部屋にある問題集の全てが『既にやったことがある』ものだったら・・・。

不安な気持ちは止まらず僕は何も手につかなくなってしまった。

動悸を覚えながら、僕は本を確認しようと本棚に向かった。

丁度その瞬間(とき)。


ドスンッ!

玄関で大きな音がした。

窓の外を見ると、茂みから小さな影が玄関に転がり込むのを見た。

クマだ!

僕は急いで玄関の施錠を確認に行く。

近頃クマが出るからと、出かける時にママは何重にも玄関ドアを施錠して出かけて行く。だからクマが来ても、容易くドアが破られる心配はないのだ。

しかし玄関に来て僕は驚愕した。すごい衝撃で、ドア錠がかかっていた取っ手が粉々に破壊されているのだ。周辺には硝煙のような煙が立ち込め目と鼻が痛くなってきた。いったい何が起きたというのか。

その時、玄関の物陰に潜んでいた何かが、わっと僕にとびかかると僕を羽交い絞めにした。手には銃のようなものが握られている。

黒い影は、僕の頭に銃を突きつけながら言った。

「仲間はどこにいる、答えろ!」

銃を突きつけたまま黒い影が声を押し殺して聞いた。強盗か。

「マ、ママなら朝からお使いに行って、まだ戻ってきてないよ。」

僕は震えながら影にそう答えた。

小さいもう一つの影が反対側の物陰から出てくると、家中の部屋を探り始めた。銃を突きつきられ頭を動かせない僕はそれを目で追うことすらできなかった。

「異常なしね。他に誰もいないわ」

数分後、玄関にもどってきた小さな影は言った。

黒い影は僕に銃を突きつけたまま身体検査をし、僕が何も持ってないことがわかると部屋まで案内させ、壁際に座るよう命令した。

そして、銃をこっちに向けたまま誰何を始めた。

「お前とママの他に、ここには何人いる?」

「マ、ママと僕と、二人だけだよ」

「反革命軍か? ここで何をしている」

「革命なんて知らないよ。ここに・・・住んでるだけだよ。」

「ここは諜報や補給の拠点じゃないのか?いつからいる」

「もう何年も前からこの山小屋に住んでるんだ。ママが受験環境にいいからって、都市の喧騒を避けてここを見つけてくれて……」

それは屈強な体躯をした短髪の男だった。手には小銃を構え、ライフルのような長銃とザックを背中に担いでいる。なにか軍服のようなものを着ているが、見たことのない国章を胸に付けている。サバイバルゲームの途中で、ここに迷い込んだのだろうか。

 下手に逆らわない方がいい、かなり危険な感じがする。睨まれて僕は思わず下を向いた。


「嘘は言ってないようね。わたしはただの民間人だと思うけど。」

小さな影が男に言った。

「しかし、前線の境界近くある小屋だからな・・・。村人の言ってた通り、近くまで来ないとわからないよう木々や草むらでうまく艤装されているこの感じから、恐らくゲリラが建てたものだろう」

男は、僕の椅子に座りながら言った。

「思ったより造りが頑丈ね。井戸や発電設備まであるわ」

小さい影が部屋の壁を叩きながら言った。

「偽装した残置諜報者の隠れ家かもしれん。山小屋に似せたアジトが空爆に耐えるため、そこらの一軒家なんかより頑丈に出来てるのはよくある話だ。発電機も古いディーゼル製だがしっかり稼働してるし、大したものだ」

「もう、これでは山小屋でなくて堡塁ね」

もう一つの影の正体は、小柄な若い女だった。男と同じ軍服を着ている。武器は腰のホルダーにある拳銃だけのようだが、ズボンの正面に革製のナイフ入れが垣間見れた。茶色の髪をショートに束ね、肌は綺麗な小麦色で捲られた上着から露出していた。僕は思わず息をのんだ。

「俺は念のため、周りをちょっと探索してくる。ミカは俺が戻るまで、この男を監視しててくれ。」

そう言って立ち上がると、男は銃を担いで玄関から外に出て行ってしまった。


家はまた、静寂に包まれた。

部屋には僕と、ミカと呼ばれた小柄な女だけが残った。女は特別警戒してるそぶりもなく、ただじっとこちらを見ていた。無論、手は拳銃のところに置いたままだ。

「あら英語ね、なつかしいわ。なにを読んでいるの?」

ミカは茶色に日焼けした逞しい腕で机の上の参考書を持ち上げるとパラパラページをめくった。

「ま、まだ、途中までで。ちょっと行き詰まってるんだけど」

壁際に体育すわりで座らされた僕はぼそぼそ答える。

傍線やアンダーラインの書き込みに溢れたカラフルなページを見て、ミカは言った。

「随分熱心に書き込んでるのね、あなた研究者?」

僕は、ミカたちのその奇抜な服装と言動から、彼女らが精神病かなにかだと睨んでいた。まるで話がかみ合わないのはそのためだ。

「と、東京では競争が激しくて、受験英語をマスターしないと社会で相応の地位を得られないんだ。好むと好まざるとに関わらず、あらゆるシーンでその能力が試されるからね。だから僕はこうして毎日、寝る間も惜しんで勉強している・・。」

ぽかーんと僕の顔を見ていたミカだったが、急にふき出した。

「あははは、あなた、おもしろいのね。で、どっちを支持してるわけ?」

そう言ってまじまじと僕を見つめる。

「どっち、て?」

僕は聞く。

「革命か反革命かってことよ」

ミカは真顔で言った。

僕は言葉に詰まる。

「・・・・ 言ってる意味がちょっと」

ミカは静かに言った。

「安心して。私たちは民間人には手を出さないわ。人々がこの革命をどう思っているのか知りたいだけなのよ」

「革命って、言葉の意味が本当に理解できないんだ・・」

ミカは少しがっかりして言った。

「この国が今後どうなっちゃうか、あなたは関心ないの?」

「国が?どうかなっちゃうの?」

「そうよ、どうかなっちゃうのよ」

自分でも言い方がおかしかったのか、ミカはそう言って笑った。

「あなたも町から逃げて来たなら、あの爆弾の惨状を見たでしょ。わたしは絶対に許さないわ」

ミカは眉間にしわを寄せて言った。

「で、でも、いまの平和な日本では戦争なんて起こらないと思うよ。経済もいまのところ順調だし・・」

僕は冷静に諭すように言った。

「日本なんて、もうないじゃない」

彼女は吐き捨てるように言う。

お互い、会話が途切れた。

かわいそうに・・・と僕は思った。彼女は社会に適応できず、妄想の世界に逃げこんでいるのだ。あの男もたぶんそうだ。落ちこぼれが、この学歴社会で自分の敗北を受け入れられず現実を見ないようにしてる。社会逃避者の典型例だ。


「そ、そんなことより、きみもちょっと英語を勉強して見ないかい?何ならボクが教えてあげるよ」

突然出たその言葉に僕は自分でもびっくりした。こんな小麦焼けの肌を平気で人前にさらす、魅惑的な女性の出現に、僕の性欲と本能が暴走してきたのだろうか。

ミカはぎこちなく笑いながら言った。

「ありがとう、でもわたしは敗戦国の言葉には興味ないから」

敗戦国・・!?

僕は、ちゃんとした歴史認識すら欠落している底辺の現実に触れ、悲しくなった。

ドン!

その時、荒々しく玄関のドアが開くと、男が戻ってきた。

「周りにそれらしきやつは、やはりいない。村人が言ってた通り、この山小屋が一番あやしいな」

男は背に掛けていた長銃を肩から下ろすと、そのまま側に立てかけるように置いた。

手には短銃を構えたままで、まだこちらを警戒している。

「ミカ、そっちはどうだ。その男、何か白状したか。」

荒々しい声で男が告げると、ミカは答えた。

「特に何も・・。周りから遮断されてたみたいね、言ってることがちょっとおかしいわ・・・・」

「おかしい?」

「戦争や革命があったことを、知らないのよ」

「そんなバカな、いくら山の中にいるからってそんな訳ないだろ。」


ミカたちが話す会話を聞いて、僕は思わず聞いた。

「戦争があったんですか?いつ?」

その質問にミカと男は顔を見合わせる。そしてミカが言った。

「そうよ、15年前に。大きな都市はみんな新型爆弾で焼き尽くされたわ。残った町も中性子爆弾や毒ガスでやられて・・大勢死んだわ。」

「知らないわけがない、こいつ、病気なのか?」

男が怪訝そうに、ミカに尋ねる。

「彼はたぶん病気じゃなくてあれよ、ほら、こんなこと憶えていたくないってやつ。なんだっけ、あの時たくさんそういう人がいたじゃない」

「なるほど。絶望して自殺しなかっただけ、まだマシってわけか」

「本当に、悲惨な状況だったから・・・無理もないわね」

僕にはふたりの会話の意味がまるで解らない。どうやら二人だけに理解できる架空戦記のストーリーらしい、ここまできて、まだサバイバルゲームを続けるつもりなのだろうか。

「で、この本を・・・・」

そう言ってミカは机の上にあった参考書を男に見せた。

その本をパラパラめくりながら男は言った。

「なんだこれ、英語じゃないか。そいつが持ってたのか」

ミカは頷く。

「今時こんな物持ってたら、過激派と間違われるぞ。」

僕を見ると、呆れた顔で男は言った。

「とりあえずゲリラの隠れ家じゃなさそうか・・・、しかし記憶障害といい、どうもあやしいな。こいつが言うママってやつも調べる必要があるな」

男はリュックをおろすと中を窺った。

「ちっ、レーション切れてやがる。悪いがここでちょいと調達せにゃならんな・・・・」

男は苦い顔をしてミカの方を向くと言った。


「仕方ないわね。・・・ねえ、私たちは革命で人々のために戦ってるの、ちょっとだけ協力してもらうけど、いいわね」

ミカは僕に向き合うと静かに言った。

「なーに2,3日分さ。こんなところ長居はしねーからな。いつもの物資調達用の軍票置いていけよ。あとでコミッサール(革命評議委員)がこいつに補填できるようにな。」

横から口を出してくる男を無視して、ミカは言った。

「ねえ同志、あなたの協力が必要なの」

あらためて向き合うとミカは僕に言った。


「き、協力って・・・お金とか食べ物のことかい?」

「とりあえず食料がほしいわ。弾薬なんかここにはないでしょうから」

「た、食べ物のことは僕はわからないよ。いつもママが用意してくれるから」

「そう・・なにか貯蔵はないかしら?少しでいいんだけど・・・」

「いつもの肉なら、地下室に少しあるかもしれない」

僕は台所の地下扉を指さすと女に答えた。


「あー。これか」

男は隣の台所に入ると、床の地下扉の前で言った。

そして台所のテーブルの皿に置かれた肉片をいくつか摘まむと口に頬張った。

僕が朝飯で残した燻製肉だ。

「ここから地下にはいれるのか?」

「カギはかかってないよ」

「そうか、じゃ失礼すんぜ」

男はそう言いながら扉を開けると、地下室への階段を下りて行った。

男が扉が開くと、いつもの食卓の燻製肉の臭いがこっちにも流れてきた。

僕はこのまま扉を鍵で閉めて男が二度と出てこれないようにすることもできると考えた。この災厄はあの男の妄想によるものだ。それはあの男の、自分を兵士だと思い込んでいる言動の、攻撃的で疑り深い部分で十分推測できた、ミカは従わされているだけなのだ。

彼女に行き場の無いならここで一緒に暮らしてもいい、ママはいつも娘がほしいと言っていた、気に入ってくれるはずだ。


向き合ったまま、ミカは何も言わない。

褐色に日焼けしてるせいで分からなかったが、彼女は思ったより歳が若そうだ。それは日焼けした肌の、水をはじきそうなほど初々しい張り具合からいってもそう見えた。

「ねえ・・・」

僕は、久しぶりに会う外の世界の女性を前に、思わず聞いた。

「なに?」

ミカが目を合わせる。午後の日の光が当たり、茶色の髪が綺麗に輝く。

「キ、キミには男の友達とかいるのかな、つまりその・恋人とか」

ちょっと面食らったようにミカが訊いた。

「なんでそんなこと知りたいの?」

僕は勇気を振り絞って言った。

「だ、だって、あなたはとても魅力的だからー」

僕は部屋の中の鍵の場所を確認しようとした。


ドスン!

勢いよく台所の地下扉が開き、青ざめた顔をして男が戻ってきた。流しに向かうと、げえげえ吐いた。

やがて大声で言った。

「ミカ!!その男を連れてこっちに来い!」

ミカに連れられて僕が台所に行くと男は言った。

「おい、お前!知ってたな。なんて野郎だ!ミカと一緒に地下に来い」

男に腕をひかれながら、僕は地下室への階段を降りて行った。

地下室に降りるのは、本当に久しぶりだ。

くごもったいつもの食卓の臭いがする。燻製肉の臭いだ。

地下全体に染みついてしまっているのか、その臭いが地下室に充満して淀んでいた。

昔はここに薪や燃料を貯蔵してたので、僕もよく取りに入ったものだが、そのうちここが食料専門の置き場になるとママだけが入るようになった。食べ物に関することはママのすることだからだ。

「ほら、行くんだ!」

男にうながされて階段から離れて歩くと、男が照らす照明器の光に晒されて階段の陰に何やらこんもりしたいくつかの山があった。

それらは均等に置かれ、現代芸術のようだった。


ひとつめの山は靴がうず高く積まれていた。子供用、大人用、性別ももろもろの様々な種類の靴だ。それにまじって皮製品も積まれている。カバンとか帽子とか、その類のものだ。


ふたつめの山は服が高く積まれていた。子供用、大人用、性別ももろもろの様々な種類の服だ。夏用のワンピースから冬用のコートまでありとあらゆる種類の身に着ける衣服が綺麗に畳まれて置かれてそこにあった。


みっつめの山はがらくたの山だった。がらくたの前には何かが等間隔に積まれ、整然ときれいな山の形を成している。それは丸っこい石のように見えた。ところどころに染みや窪みがある、火山岩かなにかの軽石の様だった。しかし、目が慣れていくにつれてそれが違うことが分かった。それは人間の頭蓋骨だった。何十人分あるだろうか。丁寧に積まれたそれらは、不気味なほど稜線を均一にして整った山を築いていた。背後のがらくたと思われた物は、すべて人の骨だった。肋骨や大腿骨、背骨・・・・人の骨が無造作に積まれ異臭を放っている。


「きやあああああああ」

ミカは照明器に照らされたそれを見ると金切り声をあげ、手で顔を覆いしゃがみ込んでしまった。


「おい、しっかりしろ!」

男がミカの肩をさすって言う。

しかしミカは呻くだけで、座り込んだまま動かない。

「しょうがねえな、先にうえに上がって待ってろ。お前は俺と一緒に来るんだ!」

男に銃を突きつけられながら、僕はその奥へ向かった。

 倉庫の奥にテントの天蓋のようなものに覆われた一角があった。壁にはディーゼルで動いていた冷凍機と製氷機の残骸がある。ふたつともだいぶ前に壊れてしまったとママが言っていた。むかしはこれで冷凍して生肉をいつでも食べれたものだった。いまは、肉類は保存がきくように燻製にしている。

男とその天蓋をくぐると、そこは精肉店の解体場のような様相を呈していた。中央には木製のテーブルが置かれ、真ん中に巨大な金属製のまな板が置かれていた。傍らには何種類もの肉切包丁が置かれ、血が滴った跡があった。テーブルの横には大きな計量器がぶら下り、両隣の机の籠の中には大鋏や金づちなどの様々な道具が置かれている。まるで病院の手術室のようだ。

向こうに見えるのは燻製用の機械装置だ。むかしまだママが若かったころ、豚肉の燻製を作るのにサクラの薪木を一緒に運んだおぼえがあった。

燻製用の機械装置の中には何体もの肉塊が天井から吊り下げられて燻製肉と化していた。あの独特の焦げるような臭いがさらに強まる。

男は僕と地下室を回り、誰もいないことを確認すると、呪詛の言葉を吐きながら台所へ戻った。

「なんて奴だいったい!ひとでなしめ!」

男はテーブル上の燻製肉の塊を指差し叫んだ。そしてまた喉に指を入れて何かを吐き出そうとしたが、もう男の胃から出てくる物はなかった。


「村人の言ってた噂は本当だったんだ。この山に食人婆がでるっていう・・・・・。」

荒ぶり乱れた呼吸を整えながら男は言った、あまりの恐怖にいままでの落ち着いていた面影はもはやなかった。

先に台所に戻っていたミカは、壁に靠れたまま何も言わなかった。その目は暗く、もはや生気はない。

「人をさらって食ってやがったんだ。とんでもない奴らだ。」

男は憤り、銃口を僕に向けようとした。

「もう一人の仲間が帰ってくるはずよ、それを待ちましょう」

男を制止すると驚くほど冷静な声でミカは言った。しかし僕の方を見ることは二度となかった。


僕は部屋の片隅に蹲りながら時間がたつのをじっと待っていた。ママが帰ってくれば真実がわかり、こいつらを追い出せる筈だ。あの地下室にあった頭蓋骨だって本物かどうかわからないぞ。彼らが家を乗っ取るためあらかじめ準備して置いたものかもしれない。いままで地下室にあんなものはなかったはずだ。

骸骨の山を僕は以前、歴史教科書の写真で見たことがあった。カンボジアで実際に起きた革命政権による蛮行、民主カンプチアとかポル=ポトとか言ってたっけ……。彼らはしきりに革命がどうだ言ってるんだから、間違いない。

こんな軍服を着て山の中で戦争ごっこしているような連中だ、きっとイカれているんだろう。この家と食料が目当てで押し込んだ軍事マニアの強盗くずれ……それならそれで困ったことになったが・・・。

やがて玄関のドアが開く音が聞こえた。


ぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ

ズズズスズズズズ・・・・ズズズズズズズズ・・・・。


ママだ。あのすり足のような音は獲物があった時の音だ。


「ただいま、大丈夫だったかい?ドアの取っ手が壊れてしまってるけど、ぼうや、何かあったのかい」

玄関からこちらの薄明かりに照らされてママがゆっくり部屋に入ってきた。

「今日は獲物があったからね、久々の大ごちそうだよ、新鮮な生肉でシチューでも作ろうかね」

みると何かをずるずると引き摺っていた。ママに片足を持ち上げられ引き摺られているのは、まだ年の端もいかない小さな子供だった。頭をかち割られ出血している。

「動くな!」

その瞬間、壁に身を隠していた男がママの前に立ちふさがった。

男がいるのを見て、ママは素早く肩に掛けていた猟銃を構える。それを見て男も銃を構えた。銃声が聞こえた。胸を赤く染めながらママが床に倒れた。

ママは其のまま動かなかった。

ままーーーーーーーー

僕は夢中になってママに駆け寄る。


「なんだこれ?弾が入ってないじゃないか」

男が倒れ込んだママから猟銃を取り上げると弾倉は空だった。男はしゃがみ込んでママの様子を確認した。

「こりゃだめだな、急所だ。でも、初めに銃を構えたのはそっちだからな、悪く思うなよ」

男はさらに屈みこんで、斃れ込んだママの銃創の様子を確認しようとした。

その瞬間、ママは懐から腕を出すと、渾身の一撃で男の脇腹を突き刺した。狩猟用の長ナイフだ。男は驚いた顔をして中座のままよろめくとその場に倒れる。

ミカが悲鳴をあげて男に駆け寄った。男の脇腹から大量の血が流れる。

「・・・弾なんか・・とうの昔・尽きてしまったよ・・そんなものあれば・・・こんな子供に手を出さないよ・・」

うつ伏せのまま苦しそうにそう言うと、ママは動かなくなった。

「ママ、・・・どうして、こんなことしたの?」

ママは言った。

「だって仕方がないじゃないか・・・木の実やドングリだけじゃもう持たないんだよ・・・・備蓄品も・・・尽きてしまったから。・・・でも・・・・お前が・・肉が食べたい・・・肉が食べたい・・・・って毎日言うから・・・もう・・・どうしょうもなかったんだよ・・・」

ゼイゼイ言いながらママが言った。僕はハンカチで必死に朱色に染まりつづけるママの胸元を抑えたが効果はなかった。

「・・・それで子供を・・・狙ったのか」

ミカに介抱され半身を起こしながら男が言った。男も出血が止まらない。ミカは衛生袋から包帯を出して手当てしている。

「最初は・・・シカやイノシシ・・・・を狩ってたよ・・・・でも・・・弾が尽きてからは・・・・このあたりを通る・・・・・避難民を・・猟銃で・脅して・・・ナイフで・・・・でも最近は、年とって・・・・・・・それも・・できなくなって・・・こどもを・・・・・」

ママの呼吸が荒くなってきた。話すのも苦しそうだ。

「ママなんてことしたの!僕はそんなことしてまでお肉を食べたくなかったのに!」

「そんな・・・悲しいこと、言わないでおくれよ・・ぼうや・・・みんな・・・お前のためじゃないか・・・・。戦争がはじまっても・・・お前は・他の若者たちみたいに・・・革命に参加するって・・・親元を離れなかったじゃないか・・・ずっとママのそばにいて・くれるって・言ってくれたじゃ・・・ないか・・・・・・ママは・・うれしかったよ・・・・」

そう言って僕に手を伸ばすと、そのままママは本当に動かなくなった。


「死んだわ」

ミカはママの脈を確認して、そう言った。

「でも、悪く思わないでね。私たちが来なくても早晩、反革命軍にやられていたでしょうから。聞こえるでしょ、加農砲の音が近づいてくるのが。まもなく、この辺りにも攻勢がくるわ」


もうほとんど動けなくなった男の体を抱きかかえながらミカは言った。

「あなたのママ、昔軍にいたようね。彼の肝臓を狙っているわ、これは訓練された戦闘術よ」

「彼は大丈夫?もう遅いし暗いから、朝までここで治療していってもいいんだよ」

僕はミカに言った。

「いいえ、わたしはもうこの家にはいたくはないの。」

冷たい瞳でそう云い放つと、ミカは玄関から出て行こうとした。

「ミカ!僕も戦うよ。武器の使い方も覚えるから!キミらのような立派な戦士になって一緒に戦いたい」

僕のその言葉に、ミカは一瞬顔を引きつらせると冷静な声で言った。

「ありがとう。だけど、あなたの歳じゃもう戦闘は無理ね、残念だけど。」

その言葉に何かをあばかれたような不安感を覚え、僕は真っ暗闇の窓ガラスに映った自分の顔を見た。

そこには白髪で頬のやせこけた貧相な男の姿があった。もうとっくに50歳は過ぎているだろう、不気味なほどやせ細り、足にも腕にも筋肉と呼べるようなものはない。無表情のまま、ギョロ目でおどおどしながら鏡を覗きこんでいる、汚い眼鏡をした猫背の中年男。

これが自分の姿か。


「あなた、お母さんがかわいそうよ。どうみても 70歳は越えてるでしょ・・・こんな歳まで食事の世話をさせていたあなたは罪が深いと思うわ。」

ミカは憐れむように言った。

「ねぇ、僕を連れてって・・頼むよ。」

僕の必死の懇願に、ミカは首を振った。

「彼は夫なの。だからあなたは、一緒に行けないわ。わたしはあなたを可哀そうだと思うわ。わからないけど……あなたのような人が、戦争のほんとうの犠牲者なのかもしれないわね」

そう言って男をだき抱えながら、ミカはふらふら夜の闇に消えていった。


そして、家には僕だけが残った。

ママとこどもの死体を台所の隅に片付けると、僕は部屋に戻りドアを閉めて見えないようにした。

そして僕はいつもの、おまじないの言葉を目を閉じて唱えた。


「見ないものは存在しない。見えないものは存在しない。」


ハッ!なにをしてたんだ僕は、こんなことしてる場合じゃないぞ!もう受験まで時間がないんだから・・・


そう自分に言って気を引き締めると、僕は机に向かい英語の本を開いた。



The wise man, though he will not sit down under preventable misfortunes, will not waste time and emotion upon such as are unavoidable, and even such as are in themselves avoidable he will submit to if the time and labour required to avoid them would interfere with the pursuit of some more important object.

 


 英語の原文が目に飛び込んでくる。前にも見たお馴染みのフレーズだ。たしか、バートランド・ラッセルの文の一節だ。

 自分のまんざらでもない勉強量に気付くと、僕は思わずニヤリとした。前もこんな覚えがあった。まったく同じことを考えた気がする。


『'賢い人間'は防げる不幸を座視することはしないが、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう・・・・』


英語の訳をノートに記しながら僕は思った。

なんだこれは?この日本語の意味が僕にはまるで解らない。


その瞬間、ひときわ大きな雷鳴が響くと、家が大きく揺れ電気が消えた。

近くに落ちたらしい、停電だ。

「もう駄目だ。」

暗闇の中で僕は呟いた。


(村田基 作品(1989) 改題)


           《終わり》


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山の家 早坂慧悟 @ked153

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