エピローグ


「駄目だ、朱莉あかり

「やだ!」

 言葉が通じているようで通じていない。まだ二歳なんだから仕方がない。床に転がって暴れまわる朱莉を眺めて、息を吐く。このまま疲れるまで放置すれば眠ることはわかっている。朝になれば機嫌も治っているはずだ。

 でも今この子は辛そうだ。顔を真っ赤にして泣いて暴れて嫌だとごねる。警報のような、耳につく甲高い声で朱莉が泣く。俺と離れるのは嫌だと言って、泣く。

「ぜっがいといっしょにいるの! あかりはずっとここにいるの!」

「駄目だ、朱莉。俺といると危ないんだよ」

「ぜっがいどいるのっ! あかりはずっとおうちにいるの! よそへなんかいかないの!」

「……泣くなよ、朱莉……」

 これがほしい。これだけでいい。  

 だって俺のだ。そうだ、この子は俺が育てたんだ。俺がここまで育てたんだ。ミルクを飲ませて、オムツをかえて、着替えさせてはオムツをかえて、泣きわめくこの子を夜通し抱いて、初めての寝返りも、這い這いも、つかまり立ちも、立つところも、歩くところも俺が見た。この子が最初に認識した名前は俺の名前だ。この子が一番笑うのは俺の側だ。俺がいなきゃずっと泣くんだ。そのぐらいこの子だって俺が好きなんだ。俺が、ずっと、俺が、この子を、ずっと……なのに、なんで手放さなきゃならない。

 こんなにほしいのはこれだけなのに、どうしてこれすら俺の手に残らないんだ。

「やだぁ、あかり、いるの、ぜっがいど! だめじゃないの! ぜっかいといるの!」

 俺だって、朱莉といたい。

 ずっとこの子を見ていたい。この子が大きくなるところが見たい。それが叶わないならせめて、この子が俺を忘れないようになるまで側にいたい。ずっとこの子の味方でいたい。

 それだけのことすらどうして俺には許されないんだ。

 どうして俺はこんな、どうにもならない生き方しか選べなかったんだろう。

「……ぜっかい?」

 ぺたりと湿った朱莉の手が俺の頬に触れる。泣きすぎて真っ赤になった朱莉の目が俺を見ていた。

「なかないで」

 その言葉で自分が泣いていると気が付いた。気が付いたら、もっと泣けてきてしまった。勝手に落ちていく涙を止める術がない。だって、俺だっていやなのだから。

「なあ、朱莉……本当に嫌か? だったらもう、俺とずっと一緒にいるか?」

「うん! けっこんする!」

「……ああ、そうだな。もう結婚しようか」

「ほんと⁉」

 朱莉はどこまで覚えていてくれるだろうか。ほんの少しでいいから覚えていてほしい。こんな小さな女の子に振り回される馬鹿なヤクザなんてそういないから、どうか記憶の片隅においてほしい。

 この三年近く、あまりにも大変で、あまりにも幸福だった。

 俺の人生で唯一のきれいな日々だった。

 でももうおしまいだ。もう十分だ。この思い出だけで俺は生きていける。

「うれしい! ずっといっしょよ、ぜっかい! あかりがおよめさんになってあげる。うふふ、たくさん、いっぱい、ぎゅーってしてあげる! しあわせにしてあげる!」

「……ああ、約束だ。……絶対俺を離すなよ……」

 朱莉を抱き締めて、なんて可愛いのか、といつも思うことを思った。朱莉と離れる一週間前のことだった。




絶海ぜっかいさん、おはよう」

「うっ……うえっ……。おはよう、朱莉」

「起きて。一緒にごはん食べましょう?」

 頷くと、私の腹の上に乗っかっていた朱莉がにこりと笑った。上体を起こしその頭を撫でる。

「大きくなった」

「太ったってこと?」

「太れ。きみが大きくなればなるほど私は嬉しい」

「横には大きくなりたくないの。絶海さん、今日もご飯の前にシャワー浴びるの?」

「ウン、……加齢臭がしたら困るから……」

 私の腹から下りた朱莉は「そんなこと気にしてたの? どんな匂いしたっていいでしょ。実際おじさんなんだから」とさらりと言った。それはそうだがそんなことで嫌われたくないのだ。バスローブとバスタオルを片手にバスルームに向かった。朱莉は「絶海さんは良い匂いよ」なんて言ってくれたが、全身を洗い、バスルームの水気をタオルで拭いながら軽く香を焚いた。こうしておくとカビの臭いも消えるからちょうどいいのだ。

 鏡に映った自分の顔を見る。若い頃はやたらともてはやされた顔だが、さすがに最近は皺が増えた。眉間の皺はきっと消えることはないだろう。歯を磨いてから服を着る。

 キッチンに入ると、朱莉がせかせかと食卓に朝食を並べていた。

「絶海さん! 座って、座って」

「ン? ウン……珍しい。洋食だな。ヒロは?」

 朝食は厚く切られたトーストに半熟の目玉焼きと青リンゴだった。

「今日は私が作ってみたの。ジブリ飯よ。ア、刃物は使ってないからね」

「朱莉が作ったのか……食べる前からもう美味しいな」

 朱莉の頭を撫でると「絶海さん、甘すぎ」と彼女はクスクス笑う。

 この子は大きくなった。とてもきれいになった。そして可愛いままだ。

「食べましょう、絶海さん。うましかて!」

「ウ? ……いただきます」

 頬張ると概ね想定通りの味がした。ただ、パンだけ想定よりも甘く、美味しい。しっかりとバターが使われている味がする。

「このパン、美味しいな」

「よかった。それ今朝焼いたのよ」

「パンを自分で焼いたのか? すごいな」

「大したことじゃないわ、こんなの……小麦から作ったときに誉めてくれる?」

「小麦から作るのか?」

「うん、学校でやってみたいって言ったらやらせてくれるって……」

 朱莉があれこれ話す姿が可愛くて、興味はない話でもつい最後まで聞いてしまう。

「でも頑張ってもパンが作れるほどは出来ないのよ……」

「……朱莉」

「なあに?」

「大好きだぞ」

 二歳の朱莉は、膝にのせて抱き締められながらこう言われるのを一番喜んだ。きゃっきゃっと笑って本当に可愛かった。でも今の朱莉はそうではない。

「……え、キモ……」

 そう言うとわかっていたが傷ついたふりをした。今の朱莉は傷ついたふりをする私を見ると楽しそうに笑うからそうした。そうしたらやっぱり彼女はクスクスと意地悪く笑う。それなのになによりも可愛い。ただ可愛くて、仕方がない。

「……朱莉、東京は好きか?」

「うん、好き。佐渡も好きだけど、東京も好き」

「なら、大学もここから通いなさい」

 朱莉は私の顔を見ると、困ったように眉を下げた。

「絶海さん、一緒に佐渡に行こうよ。いいところなんだよ? お母さんとも仲良くしてね」

「……朱莉はおかあさんと私だったらどっちが……」

「母さんよ? ……絶海さん、嫌な顔しないの。私はお母さんと十三年も一緒にいたのよ?」

 そうだ。あの女、こんな可愛い子を俺から奪った挙げ句に今まで一度も連絡どころか写真の一枚も寄越さず、十三年だ。このまま帰しては成人式の写真も見せてもらえないなんてことになりかねん。そうだ……やっぱり、このまま俺の娘にしておこう。俺の戸籍などどうでもいい。この子と家族になれるなら、他のことはどうだっていい。

「……朱莉はいい子だな」

 今の俺に彼女を手放す理由はない。今度こそ、これは俺のものにする。

「絶海さんは優しいね」

 そんなことを私が考えているとも知らずに彼女は笑う。

 他の人間だったらとうの昔に殺している。でもきみ相手だから、私はどこまでも従順に優しくしてやっている。二度とこの手から逃げられないぐらい依存させてやるためだ。

 なのに素直に甘えてきて、馬鹿な子だ。馬鹿すぎて可愛い、俺の朱莉。

 手を伸ばし、その頬についたパンの粉を払ってやると彼女はにっこりと笑った。

「ありがとう……絶海さんが東京にいてくれてよかった」

「……そうか。なら、……」

 ――ここまで生きていてよかった。

「存分に使ってくれ。きみに使われるのは面白い」

「なにそれ。だったらまたコンサートやってくれるの? ……そんな顔しないで、冗談よ」

 朱莉が笑う。だから今日はいい日だとぼんやり思った。

 ――この二週間後に朱莉が泣きながら「絶海さーん‼ 助けて‼ もう一回アイドルしなきゃいけなくなっちゃったー‼」と抱きついてくることになるのだが、マア、それはまた別の話だ。




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東京は怖いところです 木村 @2335085kimula

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