rail─レール─

aza/あざ(筒示明日香)

rail─レール─

 



 京急本線の車窓から覗くあの海は、


 祖母が、祖父を想った海だ。




 私は今年も横浜から横須賀中央へ行き、三笠公園へ向かう。







   【rail─レール─】

 

「お母さん、早くっ」

「大きな声出さないのっ」

 横浜駅から三崎口へ向かう京急本線の車内では、クロスシートのため通路はそこまで広くなく、身動きはそう取れない。娘に急かされ焦るも、由海子ゆみこはすかさず叱責した。けれど娘は唇を尖らせ言うのだ。

「お母さん、遅い」

 由海子は腰を下ろしつつ一つ嘆息した。小声で、娘へと反論する。

「乗車は順番でしょう?」

 娘の名誉を損なわないよう弁明するなら、暑さに負けて飲み物を買う由海子を余所に、娘は乗車列の一番前に並んでいたのだ。とは言え。

「どうせ上大岡や金沢八景辺りで人は降りるだろうから、そんなに慌てて席取らなくて良いのよ。子供じゃないんだから、恥ずかしいでしょ?」

 今年十八を迎えると言うのに他人もいる車内で、大声で母親を呼ぶのは如何かと、由海子は思う。

「そうだけど。窓際の席取っちゃったし、お母さんが立ってて私が席を譲ろうにも、いちいち人の前通るの? 逆に迷惑じゃない」

 が、ああ言えばこう言う。口ばかり達者な娘に、由海子はこめかみを撫でた。


 快特電車では横須賀中央まで二十数分、だいたい三十分前後と言ったところだった。しかし少々遅れが出ているのか、前の電車との時間合わせのためにしばらく停車すると言う。由海子は今の内に中身を整理しようと、鞄を開けた。

 世間一般に学生は夏休みの今日、横須賀中央駅から三笠公園へ向かうため、由海子たちは生活路線の横浜線から乗り換えたのだった。目的地はこの時期バーベキューなどで人気の猿島ではなく、戦艦『三笠』だった。


 三笠公園へは、よくこの京急本線を使った。由海子の子供のころ、仕事でいない父を除いて、母と兄と、祖母と。

 祖母が行きたがったからだ。三笠公園へ。京急本線で。


「あ、動いた」

 窓の外を眺めていた娘が呟いた。由海子も不意につられ顔を上げる。電車は動き出していた。


 由海子の母方の祖父は、船で死んだらしい。戦争のときのことだ。

 三笠と同形の船だったのかなど詳細は知らないけれど、祖母が「おじいちゃんの近くにいられる気がする」と、夏になると行きたがった。


「由海ちゃんの名前はねー、おじいちゃんから貰ったんだよー」

 歌うみたいに、訪れた戦艦三笠の上できらきら光る海を眺めながら、祖母はそう言った。


 その祖母も、娘が生まれて二、三年程で他界した。本当に祖父の近くへ行ってしまったのだ。


 祖母がいなくなってからも、由海子はこうして三笠公園へ行った。夏に。去年も、夫も娘もいなくても。自身の名前の由来だからか、奇しくも夫と知り合った場所だったからか。由海子にもよくわからなかった。そう言えば、と、ふと思い立って、由海子は娘へ問うた。

「ねぇ、美由みゆちゃん」

「んー」

 名前を呼ばれ、娘、美由は母へ首を巡らせた。つまらなさそうな顔をして「何」娘は訊き返して来た。

「今日はどうしたの?」

「何が」

「いっしょに行きたい、なんて」

 そうなのだ。朝、夫を送り出し仕度する由海子へ、夏休みは絶対昼近くまで起きて来ない美由が「今日横須賀行くの」と声を掛けて来たのだ。

 普段の日だって、起こされなければ起きない娘が起きて来たのは、由海子からすれば正直有り得なかった。いきなり話し掛けられたときは驚いて「ひっ」小さく悲鳴を上げたくらいだ。

 由海子の問いに、やはりつまらまそうな表情のまま、美由は窓へ顔を戻してしまった。年ごろの娘の無視に慣れてしまっていた由海子は、ああこれは答えてくれないな、と半ばあきらめ、再び鞄の整理を始めた。

 財布やポーチなどの物を寄せ、買ったばかりのペットボトルを鞄の端に挿し入れたのと同時に「何かさ」美由が喋り始めていた。由海子は無意識に美由を見た。

 美由は先程の再現のようにつまらなそうな、不機嫌そうな面容で由海子のほうを向いていた。由海子は「うん」相槌を打った。

「前さ、ライブ行ったじゃん」

「……ああ、去年横須賀行こうって言ったとき?」

 一瞬、何のことかと考えてしまったが、思い出し挙げてみる。美由も頷いた。合っていたみたいだ。

「在ったわね、そんなこと」

「それでさー、お母さん勝手に一人で行っちゃってさ。もう夏、行かなかったでしょ」

「そうだね。でも仕様が無いじゃない? 美由ちゃん、お友達とライブ行くって」

 好きなアーティストのライブチケットが取れたとかで美由は、去年由海子の誘いを蹴った。美由の年齢を考えれば仕方ないわね、と由海子は横須賀へ、三笠公園へ単身行った。

「お母さんも仕事在るんだもの。休みだって合わせてあげられないし」

「そうなんだけど……」

 これまで、家族の無遠慮さで小気味良く放たれていた美由の言葉は、急に歯切れが悪くなった。口籠もった娘に由海子は首を傾げた。美由は目線を落としどうやら考え込んでいるようだ。

 気が付けば、上大岡はとっくに着いて発車するところだった。どんどん、横須賀中央に近付くにつれ風景が変わって行く。家が山に埋もれているかの如く木々に囲まれた、緑豊かな住宅街に。少しレトロな光景は、映画に出ていそうな一種のファンタジーさえ感じさせた。

「……」

 祖母と出掛けたときもよくこうやって、祖母越しに車窓を覗いては、宮崎監督の映画アニメを想起していた。

 祖母は、この京急本線で横須賀中央へ行きたがった。祖母が祖父と結婚したときは、この京急本線は在ったのだろうか。


 夫が結婚前付き合っていたころ、横浜から浦賀、三崎方面の線路開通を湘南電気鉄道が計画していたんだけど、関東大震災に遭ったりして様々困難に見舞われて、後に湘南電気鉄道は京浜電気電鉄が助けられたとか語っていた。それで無事開通して日中戦争時に合併したとか。由海子は夫の薀蓄を可能な限り思い起こした。けれども、実際祖母の時代どうだったのかはわからなかった。日中戦争時合併したなら、祖母が祖父と出会ったころには合併後だろうし、なんて推察を重ねていたところで「……あのね」美由が再度口を開いた。


「私去年凄い靄々したんだよね。横須賀行かなかったとき」


 ライブにも行き、楽しく夏休みを過ごした美由はとても充実していた気分だった。だのに、なぜか二学期が始まってから、胸が痞えている気がしていたのだと言う。何かを忘れているみたいな……だけれど、いったい『何』が原因なのか美由は判然としない。美由は休み明けだからやる気が起きないのかと、忘れることにした。


 結果として秋も冬も、居心地の悪さは消えなかった。

 頭の奥で引っ掛かっていたのだと言うのだ。違和感が、片隅を占拠していたと。

 それから美由の学校では先輩たちが卒業して、美由が三年に学年が上がった。


「今年も教育実習の先生がさ、来たじゃん」

「ああ、そうね」

 今年の春、もう殆ど夏だが、教育実習生が美由の高校にやって来た。教育実習生はこんな話をしてくれたそうだ。

“人は、二度死ぬ”

「へぇ」

「で、思い出したんだよね。ああ、去年は横須賀行ってないんだって」


 美由は何だかんだと、由海子と共に去年以前は横須賀に毎年行っていた。生まれたときから。生まれる前、お腹にいるときも。物心付いてからは猿島へ家族で行くときや物で釣ったりしていたけれど。

「去年、横須賀に行ってなくても、別に関係無いんじゃないかしら? だって美由ちゃんはひいおばあちゃんのお墓にお参りはしているじゃない? 去年も」

 美由にとって祖母は曾祖母、『ひいおばあちゃん』だ。“人は二度死ぬ”、と言うのは由海子も聞いたことが在る。人は一度生物的に死に、忘れられるともう一度死ぬのだと……出典は不明だけれども、こう言う話は聞いたことが在った。多分、美由が言いたいのはこのことなのだろうと由海子は思っていたのだが。

「そうなんだけど……何かね、違うんだよね。そうじゃなくて」

 由海子の意見に美由は同意したけど、眉を寄せて顰めっ面していた。微かに首を振り、答えを探って選別に苦労している風だった。

「じゃあ、」

「ひいばあのこと、私憶えてないんだけど、だから何だろう……うーと、……だめだと思ったの」

 美由は祖母のことを『ひいばあ』と呼んだ。美由だけでなく兄の子供たちも祖母をそう呼んでいた。

「駄目? 何が?」

「……“死んじゃう”って思ったの。直感だからわかんないけど。何か、“私が忘れちゃったら、もう死んじゃう”って」

「何、が」

「全部。ひいばあのことも、お母さんが横須賀に来ていたことも、全部」

「───」

 悩んで、悩んで搾り出したのが、先の発言だったのだろう。自分でも漠然としていて正しいのか、決め兼ねているのか美由は唇をへの字に曲げていた。


 由海子は、美由の葛藤は己と似ているな、と感じていた。

 由海子自身、どうして横須賀に、三笠公園に通うのかはっきりとした理由は無い。

 ただ、生まれたときから来ていて、祖母が死んでも来ていて。

 兄は、祖母が死ぬ前、中学を上がるころには来たり来なかったりしていた。

 由海子だって結婚もして、子育てもして、仕事もしていて。

 なのに、由海子に“行かない”と言う選択肢は無かった。

 美由も同じと言うことだろうか。電車は、金沢八景に近付いていた。金沢八景のトンネルを抜ければ海が見えるだろう。

「……」

 祖母の見ていた海が、窓からも。


「────『習慣』かもね」

「え?」

 ぽつっと、由海子は零した。美由は、母が突然言うので、きょとんと見返していた。由海子は笑った。苦味が滲んだのはご容赦願いたい。

「『習慣』、よ」

 横須賀に、三笠公園に、戦艦『三笠』に来てしまうのは、きっと『習慣』なのではないだろうか。由海子も、美由も、母親の胎内にいるときから訪れていたなら。

 やがて世に生まれ出て、成長する毎に刷り込まれ、決まりごとになって行ったのではないか。

 ゆえに、“行かない”などの選択は、端から頭に無かったり、行かなければ不安定になったりするのだろう。

「……『習慣』、かぁ」

「そう、『習慣』……ああ、そうそう今日、おばあちゃんも来るわよ」

「おばあちゃんもか……いよいよ恒例行事っぽいね」

「そうね。あとさとしくんも来るって」

「はっ! 何でっ?」

 美由は由海子の科白に目を剥いて素っ頓狂な声を出した。敏とは兄の子で由海子の甥、美由の従兄に当たる。今年大学三年で、教育学部に通う彼は来年から忙しくなってしまい母と、彼と美由にとっては祖母と、同行が難しくなるため今年は付き添いに志願したそうだ。

「……マジか……」

「敏くんはおばあちゃん子だから」

「今日お母さんと出掛けるだけとか思って、普段着で来ちゃったよぉおおっ……」

 従兄の予定外の出現で、美由は両手で顔を押さえた。失礼な言い草だが、由海子も気持ちは理解出来るので苦笑しただけだった。

 女子高生の美由にすれば、親戚内でもお洒落で評判の従兄と会うには、気合が必要だろう。手を顔から外すと恨みがましい目と声で「何で教えてくれなかったの……?」抗議して来た。

「急に来るって言うからでしょ。お母さんはもう出られる状態だったし」

 横須賀へ行くか尋ねられ肯定したら「じゃあ私も行く」と美由はそのまま玄関へ向かってしまったので、告げる暇など無かった。説明したら、「あー……」美由は唸って、今度は窓へへばり付いてしまった。

 由海子が見て、美由の格好は今どきで、別段だらしない訳でも酷い訳でも無いのだけど、美由には美由なりに拘りが在るのだろう。ここで今日の服装をフォローしたとして意味が無いことを察していた由海子は、静かに微笑んでいた。




 金沢八景を出た車窓はトンネルに入った。

 出て抜けるたび、美由の向こうで海が輝いているだろう。


 祖母の見詰めていた、海が。







   【 了 】

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