第参幕之弐「犠牲」

》同日一四〇三ヒトヨンマルサン 天上寺てんじょうじ ――璃々栖リリス


 ゆらりと立ち上がった皆無かいなの頭部が、驚くべき速度で修復されつつある。頭蓋が形成され、眼が耳が鼻が盛り上がり、皮膚が出来上がり、その口が、

「【第三地獄貪食ケルベロス】ッ!!」


   †


》同日一四〇四ヒトヨンマルヨン 皆無かいな


 父の姿を取った何者かに向けて、地獄の魔術を放つ。

 何者かの腹の中から顔を出した三頭の犬が、そのはらわたを貪り食う。何者かが仰向けに倒れる。普通の生物ならば、これで確実に死ぬ。が、

(【苦悩の涙の結晶・悪の果樹園の果実】)皆無は次の魔術の準備を始める。術式を編み上げながら、父の姿をした何者かを部屋の隅にまで蹴り飛ばし、璃々栖と老婆の安全を確保する。(【客人を裏切りしアルベリーゴよ・魂までも凍り尽くせ】)

 敵の回復は早かった。「ははっ!」敵が飛び起きる。その腹部は、既に服まで元通りだ。「ヱーテル体相手に物理的な攻撃が効くとでも!?」

 そんなことは百も承知だ。素早く展開出来る【第三地獄貪食ケルベロス】は、続く必殺の魔術を放つまでの時間稼ぎに過ぎない。

「【第九氷地獄コキュートス第参楽章・プトロメイア】ッ!!」

 皆無は必殺の魔術を放つ。敵のヱーテル体を凍らせ死に至らしめる魔術。ヱーテルにのみ効果を及ぼす極寒の吹雪が敵に襲い掛かる。それが、


「【火炎ファイア】」


 ことごとく相殺され、掻き消えてしまった。敵が唱えた、

「そん…な……」

良いグート! ただの【火炎ファイア】でこの威力か。期待外れとの言は撤回しよう」

(あの腕は――…まさかッ!?)台座の方へ知覚を飛ばすと、先ほど――急に記憶が途切れる前は置いてあったはずの腕が、無い。

「もう終わりか?」

 状況が分からない。が、

「ならば今度は、こちらから行くぞ?」

 父の姿をしたこの敵を、倒して腕を取り返さなければ。だが何故か今の己は残りのヱーテルが異様に少なく、攻撃手段が無い。

(なら時間稼ぎや! 【物理防護マテリアル結界・バリア】ッ!)己と璃々栖、老婆を包み込むような円形の結界を形成し、右手の平だけを結界外へ突き出して、「【第二地獄暴風ミーノース】ッ!!」

 地獄の暴風が地下室を満たした。地下室の上に立っていた社が吹き飛び、構造物諸共もろともに敵の体が摩耶の空へと吹き飛ばされていく。

「――皆無っ!」金縛りが解けたらしい主が、駆け寄ってくる。

「すまん璃々栖、油断した」

「良い良い、よくぞ戻って来てれたッ!」

「状況は?」問い掛けながら摩耶の空へと知覚を飛ばす。

 纏わりつく暴風によって、敵はなおも北の空へと吹き飛ばされている。相応の時間稼ぎになるであろう。

「あやつはモスの分体であり、十三年前からダディ殿に憑りついておる。あの右腕は印章シジルじゃ。そなたのヱーテル残量が異様に少ないのは、あやつに奪われたからじゃ」

「けど、あいつのヱーテル量はそれほどでも無かった」

 先ほど対峙して感じたところでは、敵――モスのヱーテル量は大したものでは無かった。だからこそ己は、こうして悠長に会話している。【渡り】は大量のヱーテルを喰う、実に燃費の悪い秘術なのだ。

「ダディ殿の体に十分なヱーテルが供給されると、ダディ殿の意識が戻るのだそうじゃ。だからあやつはそなたから引きずり出したヱーテルの内、最低限だけを喰らい、残りは【収納アイテム空間・ボックス】に仕舞っておった」

「どうする?」己のヱーテル残量は実に残り数百とったところ。受肉マテリアライズもままならない状態だ。そして璃々栖もまた、万全の状態とはとても云い難い。「俺ではまず勝てへんと思う……【第九氷地獄コキュートス第肆楽章・ジュデッカ】を使わん限りは」

「【第肆楽章ジュデッカ】は無しじゃ!」

「せやな、悪かった。けど、そう云うからには何か作戦があるんやろうな?」

「ある」主が、しっかりと頷く。

 皆無は心が震えるのを感じる。弱い璃々栖も愛すると決めた。が、やはり。


 強い主は、くも美しい。


「あやつは、ダディ殿の意識を乗っ取れるのはダディ殿が弱っている時のみと云っておった。そして、乗っ取れる時間はそう長くない、とも。どれくらいの時間かは分からぬが、『長くない』と云った以上、一週間や一ヵ月と云うことはあるまい」

「つまり最大数日間の時間稼ぎが出来れば、ダディが意識を取り戻して勝利ってことになると? あの野郎の言葉が本当ならやけど」

「無論、彼奴きゃつの嘘という可能性もある。が、こちらとしても時間を稼いでヱーテルを回復させる必要がある。そなた、今のヱーテル量は?」

「今、三十万を超えた」

 一分でおよそ十万単位の回復量。ヱーテル総量が十億単位もあると、自然回復の速度も半端なものでは無い。が、地獄級を駆使して戦うには心もとない。

「では皆無、モス相手に遅滞戦術を取るにあたり、一回の【瞬間移動テレポート】でどの程度のヱーテルが必要じゃ?」

 遅滞戦術。モスから距離を取って戦いつつ、少しでも危なくなったら奴の知覚の及ばない所まで転移で逃げる。そして体勢を立て直して挑む……それを、父が目覚めるまで延々と繰り返すというわけだ。

「一回につき数十万」

「足らぬな。【瞬間移動テレポート】だけでヱーテルが枯渇する。よし、やはりセアと合流しよう」

瞬間移動テレポート】のグランド印章・シジルを受け継ぎし悪魔君主にして、【瞬間移動テレポート】の天才の名が出てきた。


   †


》同日一四一二ヒトヨンヒトフタ 璃々栖リリス


 セアの力を以てすれば、いっそ地球の裏側にすら逃れることが出来る。(じゃが、それでは意味が無い)

 モスが神戸を抜け出し、彼奴きゃつの本体や配下と合流する可能性は大いにあるのだ。腕がモス本体に渡ってしまっては、最早もはや勝てる見込みなど万に一つもあるまい。どれだけ絶望的な戦いになろうとも今、全力を以てモスに当たり、これに勝利するほかに道は無いのだ。

セアもそろそろ全快しておるはずじゃ。万全のセアならば、神戸内の短距離転移を何百回、何千回とこなすことが出来る。皆無の武力とセアの【瞬間移動テレポート】。この二つを以てモスを翻弄せしめ、ダディ殿が目覚めるまで余達の前に釘付けにする。これが余の作戦じゃ」

「分かった。ええと思う」

「うむ。そなたは戦いでヱーテルを消耗するであろうが……逆に余は回復し続けるであろう。すきがありそうなら、余がダディ殿の体にヱーテルを供給するという手も」

「口付けはあかん!」

「何じゃ何じゃ、斯様かような事態じゃというのに、可愛い奴め。独占欲か、んんん? ……さて、まずはセアを探さねばならぬ」

 セアは摩耶山にある複数のヱーテル溜まりを転々としている。ナッケの人形や悪魔祓い師ヱクソシスト達から逃れる必要があるからだ。ここに来る前に合流しておかなかった己の不明を呪いたいところだが、呪ったところで現実は変わらない。

「そこで、二手に分かれる」

「璃々栖がセア探し、俺がモスの足止め、か」

「左様じゃ」

「なら、ヱーテルもらうで」

「う、うむ」目をつむる。何故だか急に恥ずかしくなってきた。皆無が、己が皆無の父の体と口付けするのを嫌がったからであろうか。

 果たして皆無が唇に吸い付いて来て、ずるずるとヱーテルを吸い出される。受肉マテリアライズ維持限界まで吸われ、これで己のヱーテル残量が一万程度、対して皆無が一億程度となった。

「行ってくる」

 目を開くと、そこには美しく均整の取れた悪魔デビルの姿がある。皆無がその翼で以て舞い上がろうとしたその時、

「私も一緒に行きますよ!」育子いくこ大姉たいしがそう云った。「私も、一緒に戦います!」

「いや、あんたには無理やろ……」呆れたように皆無が云う。

「いいえ、戦えます。デウス先王様に魔術の手解きもして頂きましたし、魔力量だって相当なものなんですよ!?」

「ええと、ヱーテル量――…数十万!? え、本当ほんまに凄いやん」

 数十万単位。第零師団の将官を狙えるレベルである。

「母は強し、です!!」鼻息荒く、大姉が頷く。「私は、必ずや姫様と腕の邂逅を実現させると、先王様に誓ったのです。だから、私も戦います」

「……死ぬかも知れへん」悲痛な表情の皆無と、

「私は大丈夫だから」妙に自信たっぷりな育子大姉。「お願いだよ、皆無」

「まぁ、御母堂様がそう仰るなら、余は止めぬ」

 璃々栖の意見がとどめになったのか、皆無が深いため息をき、「直接当たるんは俺がやるから、援護をお願いします」

「ありがとう、皆無!」

 最後の戦いが、始まる。


   †


》同日一四一七ヒトヨンヒトナナ 摩耶山上空 ――皆無かいな


 曇天の中、舞い上がる。眼下には天上寺を取り囲む様に森があり、他にはぽつりぽつりと植樹された場所があるくらいで、六甲山の大半は禿山になっている。

 視線を上げ、北の空を見れば、「モス

 父の姿を取った敵が、七大魔王の一人が、『暴食』の魔王ベルブブを追い落とし、デウス王国を崩壊させた最強の魔王が、摩耶山上空にまで飛翔してきたところであった。

「【全てこの世は舞台・男も女もみな役者】」空中に立ちつつ、モスが何かを唱え始める。「【退場と登場が変わり番こ・幾つもの役に右往左往】」

 術の展開を待つ義理など無い。皆無は大きく息を吸い込み、(【第七地獄火炎プレゲトン】ッ!!)

 的を絞った火炎ファイア吐息・ブレスを、まるで火砲のようにモスに叩き付ける。ヱーテル体に物理的な攻撃は効かない。が、濃密なヱーテルの乗った攻撃魔術であれば、ヱーテルの分だけ相手のヱーテル体は傷付くのだ。――だと云うのに。

「【全てこの世は余の遊び場――余の気の向くままエゴエステッシュ】」

 爆炎が収まってみれば、そこには無傷のモスが立っていた。

良いグート!」モスが、こちらに向けて掲げていた両手の平をまじまじと眺め、「たったこれだけの魔力で、地獄級の炎を防ぐ、か。素晴らしい魔力増幅力だ」

 モスの周囲には、光り輝く半透明の布――いや、舞台の幕のようなものが展開されている。これが防護結界の役割をしているのだろう。

「ようこそ、我が舞台へ」いつの間にか、モス燕尾服テールコートに身を包み、山高帽を被っていた。大袈裟な身振りで西洋貴族風の礼を取って見せる。「さっそくだが、お前の魔術を封じさせてもらおう」

 デウス左腕グランド・シジルを掲げて見せて、


悪魔グラン・シジル大印章・レ・ジャビル――展開デプロイィ!」


 皆無は身構える。いつかの、四月一日に不和侯爵アンが見せたと父から聞いた、全ての魔術を封じられる空間が展開されるのかと警戒する。

 が、

「……おや?」他ならぬ、施術者たるモスが首を傾げる。「よもやこの腕には、悪魔グラン・シジル大印章・レ・ジャビル世界・モンドの展開能力が無いのか? 何故? ……まぁ良い。手段は他にもあるのだから」

 モスが、まるで舞台役者のように大袈裟に両腕を広げ、「【To be生か, or not to be死か.】」

 皆無は右手の爪にありったけのヱーテルを込めてモスを守る舞台幕に斬り掛かるが、傷一つ付けられずに爪が弾かれる。

「【To be忍耐か, or not to be復讐か.】」

 モスの頭上に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。何処からともなく、軽快なファンファーレが聴こえてくる。

「【To be人生か, or not to be神罰か. ――That is the question.】」

 魔法陣が眩いヱーテル光を放ち、そして。

(…………えっ!?)体が落下し始めて、皆無は己の身から悪魔デビルの翼が無くなっていることに気付く。

「【くも悩める現身うつせみは・無様に現世に繋がれる――腐肉ファウレ礼讃・ウェルト】」

 落下する。両脚にヱーテルを込めて着地しようとするが、思うようにヱーテルが操れない。この感覚は、知っている。拾月じゅうげつ中将の秘術たる【ザカリアの釘】で弱体化させられた時の、否、それよりももっともっと弱々しかった頃の――

 璃々栖に出逢う前の、

 つまり。

(墜落死する……ッ!? 【韋駄天の下駄】ッ!!)

 発動しない。重力軽減の真言密教が、省略詠唱ではその効果を発しない。

(くっ――【偉大なる軍神スカンダの剣・ニュートンの林檎――)

 詠唱が間に合わない、地面に激突してしまう、死んでしまう――…


「【羽布団ウィンド・クッション】ッ!!」


 老婆の声。気付けば地面に激突する寸前で、老婆が発した風の布団クッションに身を包まれていた。

「……助かりました」飛び起き、肩で息をしている老婆へ礼を云う。

「貴方は私の子供だもの。当然よ」額に汗をかきながら、老婆が微笑む。が、その表情はすぐに曇り、敵の姿を見上げる。「けれど……」

「はははっ!」魔王モスが地上へ降り立つ。

 周囲は禿山。彼我を遮る物は何も無い。

「どうだ、人の身に戻った気分は? この魔術は、魔王化サタナイズに至ったヱーテル体を強制的に生身の体へと戻す。今のお前は、死ねば死ぬ」

 人の身。人間の体。魔術の仕組みは分からないが、現にこの身は悪魔化デビライズを解かれ、肉体を自由に変化させる力を失い、細く弱く未発達な十三歳の人間――阿ノ玖多羅あのくたら皆無かいなの体へと成り果てている。

 つまり――…、

モスの云う通り、死ねば、死ぬ。心の臓を失えば死ぬし、脳を破壊されれば死ぬ……ッ!)

「さぁ、踊れ――【肥えた土・蔓延はびこる雑草】」

 禿山であるはずの地面から、無数の雑草やつたが生えでてくる。それらは皆無の体を拘束せんとうごめく。

「【第七地獄火炎プレゲトン】ッ!」発動しない。「【大爆裂フレア】ッ!!」発動、しない。

 見る見る間に、皆無の四肢は不気味な蔦によって拘束される。

「はははっ、実に良く馴染む。この国でも、沙翁シェイクスピアはよくよく嗜まれていると見える。文学は良い。人間どもの歓心アストラルを集め、魔力に変えてれるからな」

(【偉大なる烏枢沙摩明王うすさまみょうおうよ・烈火で不浄を清浄と化せ・オン・クロダノウ・ウンジャク――浄火じょうか】ッ!)

 真言密教術に伝わる初級の火炎術を脳内詠唱し、ようやくもって皆無は、その四肢を拘束する蔦を燃やせしめることに成功する。そのまま、モスから距離を取ろうと走り始めるが、


「――【人生は歩く影法師】」


 モスが唱えた途端、真昼間だったはずの空が、真夜中の如き闇に覆われる。足元が見えない。早速、足元の出っ張りで転びそうになり、

「【阿闍世アジャータシャトルの愚・釈迦牟尼如来しゃかむににょらいが説きし十三の観法・観無量の尊き光・オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン――光明】!」

 光源を発する真言密教術を使う。ランプ程度の明かりに照らし出された世界では、地面のありとあらゆるところで不気味な蔦が蠢いている。

「……ひっ!」気味の悪い蔦の群れから逃れようと地を蹴るが、

「――【速く走る奴ほどすぐ転ぶ】!」モスの声。

 途端、何もない所で皆無は盛大にすっ転ぶ。

「ははっ、無様じゃないか、デウスの使い魔?」モスが、己の目の前に立つ。

 己はと云えば、際限なく地面から湧き出てくる蔦に身を絡み取られ、地面に縫い付けられている。

「……なんでや、何でこんなことをする?」

「何故? お前は、何について問うているのかな?」

「何でお前は、璃々栖の祖国を襲い、璃々栖の腕を奪い、今こうして、璃々栖と俺を窮地に追い込んどるんや? 何の為に」

「何故ってそりゃあ、戦力強化の為だ。世界を支配するにあたり、強力な印章シジルは、強力な手駒は幾らあっても困らない」

「何で、世界を求める」

「そりゃあ、余が強いからだ。強く生まれたからには、覇権を手にしたい――覇権主義、帝国主義という奴だ。強きが弱きを挫き、全てを奪う。人間どもの世界が、シナオランダポルトガル西スペインフランスドイツイギリスアメリカロシアが日本がやっていることと、同じではないか。余だけが非難されるいわれはあるまい?」

 笑顔であった。いっそ無邪気と云って良いほどの、笑顔。こいつはただ、遊んでいるだけなのだ。人間の命を駒にして。

「それにしても、随分とお喋りじゃないか? 何が目的だ」モスがヱーテル光を纏った瞳で曇天を見上げ、「あぁ、姫君が逃げる為の時間稼ぎと云うわけか。健気なことだ」

 蔦が皆無の体を無理矢理起き上がらせる。まるで十字架に縫い付けられたような体勢で立たされる。

「なぁ、少年。不義理な主など捨てて、余の物にならないか?」

「断るッ! たとえ天地が引っ繰り返ったって、俺の王はあいつだけやッ!」

「そうかい……あぁ、魔術を連発した所為で魔力が残り少ないな。お前から頂いたヱーテル塊はまだまだ残っているが――…どれ、お前を直接喰ってやろう」心底楽しそうな、悪魔の笑顔。「なぁに、手足の一本や二本くらい、失ったって死にはすまい。そも、お前の主がそうであろう?」

 モスの体が、見る見るうちに四足獣へと変じていく。ゾウと云うには鼻が短く、サイと云うには体が大きな獣。

 蔦が動き、右腕がモスの口元へ差し出される。その巨大な口が、顎が開き、皆無の右腕に喰らいつこうと――


「【大爆裂フレア】ッ!!」


 皆無は上級の火炎魔術を、化け物の口の中へと放り込んだ。

 モスの胃の中で大爆発が発生する。

(――これならどうやッ!?)

 地獄級の威力ならずとも、ありったけのヱーテルを込めたのだ。


 ……だと云うのに。


「ぶはっ! あっはっはっはっ!」口から煙を出しつつも、モスにはまるで効いていない。「良いグート! 今のはなかなか良かったぞ、人間!? これが地獄級の炎なら効いたかも知れない……が、たかが上級魔術ではなぁ。どれ、では味見を――」

 もう一度、皆無の腕を丸呑みしようと巨大な口を開く。

(あぁ、あぁぁ……)

 万策尽きた皆無は、恐怖のあまり目を閉じてしまう。


(璃々栖…パパ……)



 ……………………




 …………





 ……






 数秒が、経った。


 痛みは、来ない。

 疑問に思い、恐る恐る目を開いてみると、


「――――お母さんッ!?」


 老婆が皆無とモスの間に割って入り、代わりに喰われていた。

 突き出した右腕の、その二の腕が真っ赤な血に染まっている。そんな老婆が、震える声で何事かを唱えていて、

 そして。


「――【クピドの矢キューピッド・アロー】ッ!!」


 視界が、黄金色で染まった。

 暗闇の中で、モスの喉の奥深くへと突っ込んだ老婆の右手の先から無数の黄金の矢が飛び出し、四足獣の姿を取るモスの全身をめった刺しにする。

 一瞬で、モスの体が小間切れになり、その欠片一つ一つが真っ赤に燃え上がって塵になった。


 光が収まり、世界は再び闇に閉じる。


「お母さんッ!!」

 母が、右肩から先をごっそりと失った母が、その場に崩れ落ちる。

 皆無は力を失った蔦を引き千切り、母の元へ駆け寄る。

「お母さん、あぁぁ…お母さん……」

「……やっと…呼んで…れた、ねぇ」母が、云った。「私は…大丈夫、だから……は、やく……璃々栖お嬢さんの……も…と…へ……」

「【完全パーフェクト治癒・ヒール】!」発動しない。「くっ、糞――【エクストラ治癒・ヒール】ッ!!」発動、しない。「あぁぁ……【治癒ヒール】、【治癒ヒール】、【治癒ヒール】……」

 ようやくもって発動した。が、腕を失い、焼け焦げた断面を喰い破る勢いで出血は止まらず、右半身は酷い火傷を負っている。初級の治癒魔術などでは、とても追いつくものでは無かった。






 老婆の体が、急にと重くなった。






「あぁ……あぁぁ……あぁぁぁぁあああ…………」

 死んだ、死んでしまった。母が、母が。己を庇って死んでしまった。

「お母さん、お母さん……」

















「はははっ!」

 背後で、笑い声が聞こえた。

 皆無は呆然と、振り向く。

 空中に、フィレンツェの絵画から飛び出してきたような、小柄な天使の姿を取ったモスが漂っている。

「雑魚かと思っていたが、その女、なかなかやるじゃないか」

 そう云う間にも、空中を漂う塵芥ちりあくたが空中で塊を形成していき、二人目の天使、三人目の天使の姿が形成されてゆく。

「だが……なんだ、死んだのか」


 どうすべきなのか、分からない。


 皆無には、自分がこれからどうすれば良いのかが分からない。

 怒れば良いのか? 悲しめば良いのか? 絶望すれば良いのか?

 母は死に、己は弱々しい十三歳の肉体に封じ込まれ、ろくな魔術は使えず、使ったところで効果も無い。

「とは云え今ので余も相応に消耗した。ここからは趣向を変えて、余の配下に戦ってもらうこととしよう。死霊伯爵ビフロンスから奪った取って置きのグランド印章・シジルである。とくと味わえ」モス達が虚空から喇叭ラッパを取り出す。その喇叭ラッパを高らかに吹き鳴らし、「【踊れ踊れ亡者ども・余が世の為に喰い散らせ――死霊操作ネクロマンシー】!」

 皆無の足首を、何者かが掴んだ。手。地中から生え出でた手が。

「――ひッ!?」皆無はその手を払い、後ずさる。が。

 地面の、そこかしこから這い出してくる。血塗れの甲冑に身を包んだ亡者達が。摩耶山で、あるいは六甲山地で、あるいは湊川で命を落とした、源平や足利や楠のつわもの達の魂が、地獄の底から黄泉よみがえる。

「――者ども、かかれ」

 モスの号令と共に、この世の者ならざる死霊達が無力な皆無に掴みかかり、かぶりついてくる。

 皆無は母の遺体を背負いながら、逃げ惑う。


 どうすればいい。

 どうすれば。





   † 





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