第弐幕之伍「母ト名乗リシ老婆」
》同月十一日
六畳しか無い狭い一室で、皆無は璃々栖の背中を拭く。このような粗末な宿でも、泊まれるだけまだマシであった。最近では野宿の日も多い。びゅうっという隙間風も、いっそ愛おしく思える。
「……
このところいよいよ第零師団と
「――皆無!?」麗しき主が振り向く。その顔は青白く、目には涙が浮かんでいる。乳房を見られる事に対する恥じらいとか、そういう事を気にする余裕は当の昔に消え去っている。「もう良い、皆無! ほら、今すぐヱーテルを吸い出してやる」
「残念やけど、敵さんや」宿の入り口に、精緻な隠蔽魔術でヱーテル反応を隠していた
皆無は慣れた手付きで璃々栖に服を着せ、虚空から取り出した財布から、律儀にも迷惑料として宿代と同額を追加で畳の上に支払い、璃々栖を抱き上げて窓から夜空へと飛び立つ。
一ヵ月前、
『そなたには、場合によっては
そう云った璃々栖に対し、自分は即座に『ええで』と答えた。……正直に云って、この時の自分は
……が。
この一ヵ月間、絶え間なく璃々栖のそばに侍り、璃々栖を助け、支え、璃々栖とともに神戸中を奔走するうちに、『命を捨てる』という意味が腑に落ちた。
(俺は、璃々栖の騎士や)
今、己の腕の中にすっぽりと収まっている麗しき主。今でこそ
【
「璃々栖、ちょい揺れるで」
「う、うむ!」麗しの主が、己が腕の中でぎゅっと身を
地上を第零師団が
果たして海岸線で会敵した。眼下にはまだ細々と家屋があり、ここを戦場にするわけにはいかない。皆無は空で宙返りを打ち、北の方角へ逃げるような
「【
振り向き
皆無は内一体に吶喊し、
「【
背後から、もう一体がヱーテルの乗った槍を投げつけてくる。あれは当たると痛い。第零師団員が扱う銃弾の最高峰たる
「【ディースの城壁】!」
皆無が叫ぶと同時、皆無の背中に赤熱した鉄の壁が生成される。人形の槍は鉄壁にぶち当たるや、溶けて消え去る。皆無は鉄壁を展開したまま人形に突進する。壁が形を変えて人形に巻き付くのを見届け、皆無は南の海へと飛翔する。【
日本国と
灘の海上で再び会敵。
その頃にはもう、皆無の準備は終わっていた。丹田からありったけのヱーテルを引きづり出し、それで
(【
皆無の持つ最高火力の術を吹き付ける。鉄すら溶かす青い火炎が視界一杯に広がった。
後には、何も残らない。
†
「げぇっ、っは、おえぇ……」六甲山の奥深くに潜む。皆無は木の幹に手をつき、ヱーテル酔いによる嘔吐を繰り返す。
「皆無、早くヱーテルを吸い出すのじゃ! 顔を上げよ!」そばでは璃々栖が泣き出しそうな顔をしている。
「待ってな、今口ゆすぐから」
「そのような事は良いから、早く!」
「――うっ」また、吐き気。地面にぶちまけたそれは、
鉄の味が、した。
「……え?」呆然となる。手が震える。【
「皆無!」
気が付けばその場に倒れ込んでいた。視界は明滅していてあてにならない。
「皆無ぁ」璃々栖の、泣き出しそうな声が聞こえる。
何とかして仰向けになった。すぐさま璃々栖にヱーテルを吸い出される感触……途端、頭痛と吐き気が引いていく。
「……大丈夫や」意識がはっきりする。未だ足腰は震えていたが、皆無は何とか立ち上がる。
「皆無ぁ……血じゃ。やはり戦いの時以外はヱーテルは最低限にすべきじゃ。でないとそなたが……」
「璃々栖のヱーテルが無いと追っ手を見つけられへんやろ。俺は大丈夫やから」
「じゃがぁ……」
「情けない事云うなや、璃々栖!」皆無は強めの口調で主を
「うっ……」よほど刺さったらしく、璃々栖が力無くうつむく。
この場に璃々栖至上主義者の
璃々栖がうつむいたまま何も云わない。
皆無は気まずくなる。皆無は璃々栖の圧倒的な精神力にこそ惚れて、惚れて、惚れ込んだ。それだけに、弱っている主の姿は見たくないのだ。
「随分と追い詰められている様子じゃアないか?」
木の上から、声。
「……ッ!?」皆無はすぐさま璃々栖を抱き上げ、距離を取る。
果たして木の上から飛び降りてきたのは、
「
「待て待て! アタシゃ敵じゃアない!!」軍衣姿の
罠かもしれない、と皆無は警戒する。
それはつまり、丸半日もの間、無警戒で眠れると云う事だ。喉から手が出るほど欲しい一品。
「
「えっ!?」皆無は
†
西洋式の部屋は寝室と
「アタシゃ可愛い者の味方なンだ」虚空から取り出した和洋中様々な料理や
璃々栖が目を輝かせている。
「お前も小悪魔チャンも実に可愛く、そして健気に頑張っている。逆に豚の
「「
†
「……で、どうするん璃々栖?」久々に璃々栖を風呂に入れ、自身も烏の行水を済ませた皆無は、
「ここまでしてもらっておいて、罠も何もあるまい。いやまぁ、罠に掛ける為の仕込みの可能性もあるかも知れぬが……乗ろう!」すっかり顔色が良くなった璃々栖が
「そりゃ良かったなぁ」
「今夜は久々にヱーテルが回復出来そうじゃ」
ヱーテル。
璃々栖の文化圏では『魔力』とも呼ばれるその超常の力は、魔術を使ったり
有体に云えば、満腹状態で眠っている時が最も回復する。
が、この頃の璃々栖は心身の疲労
「しっかしそなたも上達したのぅ!」
「ん、何が?」
「魔術じゃ」
皆無は今、お茶の準備をしている――
「まぁ確かに」いろいろな魔術を覚えた。璃々栖に教えてもらった。
地水火風に空間系、補助系を多数。中でも最も強力な魔術群が、『地獄級』と呼ばれるもの。何とも禍々しい名前だが、
「【
「同【
「同【
「んで、奥の手の奥の手が――【
「それは、教えたくなかったのじゃ……」
そう、四月三日から始まった璃々栖による魔術講座の中で、この魔術だけは、なかなか教えてもらえなかった。が、皆無は
「良いか皆無? その術は、本当にもうどうしようもなく追い詰められて、死ぬか使うかという時になるまでは絶対に使ってはならぬ」
その効果は、『己の心臓を凍らせる』というもの。己を疑似的な仮死状態にし、本当に死んでしまうまでの
何しろ悪魔の体である。完全に
「分かっとる」皆無は
「頼むぞ、本当に……」璃々栖が溜息を吐き、一点楽しそうな表情になって、「しかし、余の初の弟子たるそなたが
父・正覚と同じ状態だ。即ち仏教に云うところの『悟り』、『即身成仏』である。父の口を借りるならば、その次元に至る為には『無』と『
「……あれ? そう云や
「ん? あ~そう云えば説明しておらんかったか。
「なるほど、敵に気付かれずに護衛が出来るんか!」
いずれにせよ、腕を得て、
(俺に、至れるやろうか)
†
空は曇天。翌朝九時、布引の滝のそばにある茶屋にて。
璃々栖と二人、帽子を目深にかぶり、縁台に並んで座って団子を喰らう。
だから、すぐに気付いた。一人の小さな
「皆無、皆無かい!?」
驚いて顔を上げれば、比丘尼は老婆の顔をしていた。
「なんじゃ、知り合いか?」
「……あなたは、誰です?」皆無は問う。知らない。このような女性と会った記憶は無い。
「十三年振りですもの。覚えているわけ無いわよねぇ」老婆が寂しそうに笑う。「まぁまぁ本当に大きくなって! 大きな目やすらっとした鼻筋なんて、
皆無はますます狼狽する。父は一重まぶたの細い目で、如何にも日本人然とした短めの鼻をしている。
「だ、誰やあんた」声が震える。もはや敬語を取り繕う余裕も無い。
「私かい?」老婆が優しく微笑む。「私は、お前の母ですよ」
「…………え?」
皆無は老婆の言葉の意味が理解出来ない。が、老婆はさらに驚くべき事を口にした。
「腕を探しているんでしょう? 案内しますから、ついておいでなさい」
†
「皆無におんぶしてもらえる日が来るなんて! 長生きはしてみるものねぇ」
六甲山地の中央を成す
「済まないねぇ……百年前だったら、
そんなわけで、皆無が己の母を名乗る老婆をおんぶし、二時間ほどの登山道を進む事と相成った。
不思議な老婆であった。まず、年齢が分からない。声はしゃがれているし、顔には相応の皺も刻まれている。が、肌は驚くほど
「ええと……何で今日、ここに来たん?」
「白髪の
聞きたい事は幾つもある。が、何から聞けば良いやらと悩んでいると、急に老婆が『あっ』と云った。
「そうだったわ。お前に会えた事を、あの人に伝えないと! ちょっと降ろして
「あ、ああ……」云われるがまま、老婆を下ろす。
老婆はしっかりとした足取りで山道に立ち、「――【虚空庫】」
「「省略詠唱ッ!?」」
老婆が虚空から手帳と鉛筆を取り出す。【虚空庫】は佐官級でもなければ使えない極めて高位の術。四月一日の夜、璃々栖から大量のヱーテルを引き受けるまでは、天才肌の皆無ですら完全詠唱でなければ行使出来なかったと云うのに。
「『皆無見ゆ。これより
さらに、皆無も璃々栖も見た事の無い術を使う。手帳から、老婆が書き込んだ
「何やあの術……って、そやなくて! 今の手紙、誰に届けようとしとるん!? 俺らは居場所を知られるわけにゃいかんねん!」
「あらあら」のほほんとした様子の老婆。「そう云えば、布引の滝の辺りに、お前や璃々栖お嬢さんの手配書がありましたけど……お前、追われてるのかい?」
「うっ――…」
「まぁ悪魔だもの、そういう事もありますよ」老婆に頭を撫でられる。「大丈夫。今お手紙を飛ばした相手は百年前に、お前に絶対に害を
「「ひゃ、百年……!?」」
「あらあら、息ぴったり! 皆無と璃々栖お嬢さんは、仲良しさんなのね。
また、意味深な事を云われ戸惑う。
「あ、あの……その、お婆さん?」
「皆無……母とは呼んで
「いや、その……ええと、あなたは何で俺の事分かったん? 十三年間も見てなかったら、面影も何も無いと思うんやけど……」
「分かりますとも」また、頭を撫でられる。「百年もの間、お前をお腹の中で
†
山行は続く。
巨大な六甲山地は幾つかの山から成る。『摩耶山』はその中でも六甲山地の中央を成し、神戸港の北に位置する。摩耶山は正式には、
『
と云う。
『摩耶』とは
そして、
「
「あはっ。色欲の化身たる
「あと、この寺には
「皆無は物知りさんなのねぇ!」背中から当の老婆の声。
「それで、皆無の御母堂様よ」隣を歩く璃々栖が、嬉しそうに老婆に話し掛ける。「その『トウリテンジョウ
「社の地下に隠してありますよ」
「なるほど、社の辺りに優れた地脈が流れているというわけじゃな?」
「違いますよ」
「
「腕には私が魔力を注ぎ続けてきました。けれど
坂を上り切った。
「……え?」
木々が消え、広々とした平野に出る。遠目には
「そ、そんな……」
そして。
その平野を、寺への道を通せんぼするかのように、父が立っていた。
阿ノ玖多羅単騎少将が、
将官・佐官のみで構成された一個小隊。うち拾月単騎中将、阿ノ玖多羅単騎少将、更にもう一人の顔を見たことのある単騎少将が、いずれも『
「な、何で……」何故、待ち伏せに気付けなかったのか。
「
「ひっ」彼らが発する凄まじいまでの殺気、闘気、憤怒、憎悪、覚悟といった感情が、ヱーテルの風に乗って皆無を打ち付ける。
大気が震える。拾月中将の結界術で隠蔽されていた彼らのヱーテルが突風となって木々を揺らす。
「お前は昔から手の掛からない子だと思っていたが……」
笑っていない。どれだけ反抗しても、どれだけ
足が、震える。
†
↓超美麗イラスト付きキャラ紹介・超豪華PV(CV山下大輝・伊藤静)はこちら
https://kakuyomu.jp/users/sub_sub/news/16817330650038669598
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