第弐幕之伍「母ト名乗リシ老婆」

》同月十一日二一〇四フタヒトマルヨン 神戸・灘 とある安宿 ――皆無かいな


 六畳しか無い狭い一室で、皆無は璃々栖の背中を拭く。このような粗末な宿でも、泊まれるだけまだマシであった。最近では野宿の日も多い。びゅうっという隙間風も、いっそ愛おしく思える。

「……ッ!」また、耐え難いほどの頭痛。

 このところいよいよ第零師団とナッケの人形達による連携が緊密になり、その精緻な包囲網から逃れる為、皆無は二十四時間絶え間無い広範囲【万物解析アナライズ】を強いられる事となった。もう一週間近くまともに眠っていない。如何に悪魔化デビライズした強靭な肉体・精神と云えど、心身ともに限界だった。そして、間断無く襲ってくる、ヱーテル過多による頭痛と吐き気。

「――皆無!?」麗しき主が振り向く。その顔は青白く、目には涙が浮かんでいる。乳房を見られる事に対する恥じらいとか、そういう事を気にする余裕は当の昔に消え去っている。「もう良い、皆無! ほら、今すぐヱーテルを吸い出してやる」

「残念やけど、敵さんや」宿の入り口に、精緻な隠蔽魔術でヱーテル反応を隠していた悪魔祓い師ヱクソシストの反応が三つ。

 皆無は慣れた手付きで璃々栖に服を着せ、虚空から取り出した財布から、律儀にも迷惑料として宿代と同額を追加で畳の上に支払い、璃々栖を抱き上げて窓から夜空へと飛び立つ。

 一ヵ月前、


『そなたには、場合によってはの為に命を捨てる覚悟が必要じゃ』


 そう云った璃々栖に対し、自分は即座に『ええで』と答えた。……正直に云って、この時の自分は悪魔化デビライズに成功した事による万能感にひたっており、『命を捨てる』という凄まじいまでの一大決心をしたわけでは無かった。

 ……が。

 この一ヵ月間、絶え間なく璃々栖のそばに侍り、璃々栖を助け、支え、璃々栖とともに神戸中を奔走するうちに、『命を捨てる』という意味が腑に落ちた。

(俺は、璃々栖の騎士や)悪魔化デビライズした姿で夜空を舞いながら、皆無は思う。(俺の人生は璃々栖の為にある。俺は璃々栖の為に生き、死ぬ)

 今、己の腕の中にすっぽりと収まっている麗しき主。今でこそグランド・シジルが見つからず、多少弱ってはいるが、やがては腕を得、ナッケを縊り殺し、デウス領からモスの勢力を追い出し、大帝国を築くであろう未来の王女である。


万物解析アナライズ】からナッケの人形一個分隊――十体分の反応。槍で武装している。


「璃々栖、ちょい揺れるで」

「う、うむ!」麗しの主が、己が腕の中でぎゅっと身をちぢこめる。

 地上を第零師団がさらい、上空をナッケの人形が浚う。そういう作戦が、第零師団と悪魔侯爵ナッケの間に出来ているようであった。皆無は全身を悪魔化デビライズさせ、南の方角――海へと飛ぶ。阪神間を走る鉄道が見えてきて、すぐに眼下を通り過ぎる。東の空から、人形十体分の反応がぐんぐんと近付いてくるのを感じる。

 果たして海岸線で会敵した。眼下にはまだ細々と家屋があり、ここを戦場にするわけにはいかない。皆無は空で宙返りを打ち、北の方角へ逃げるような素振そぶりを見せる。敵達が追いすがって来て、

「【第二地獄暴風ミーノース】!!」

 振り向きざまに、風を纏った腕を振る。腕から膨大なヱーテルを纏った突風が吹き荒れ、人形達を遥か南の海へと吹き飛ばす。二体が風から逃れ、残った。が、各個撃破がやりやすくなってむしろ幸いである。

 皆無は内一体に吶喊し、

「【十二の悪の爪マレブランケ】!」腕を振る。名刀の如き切れ味を持つ鋭い風が、人形の体を十二等分する。(眼下に家屋は無いな――良し!)

 背後から、もう一体がヱーテルの乗った槍を投げつけてくる。あれは当たると痛い。第零師団員が扱う銃弾の最高峰たる熾天使セラフィムバレットと同じくらいの威力がある。つまり並の悪魔デビルなどただの一発で消し飛ぶ。が、

「【ディースの城壁】!」

 皆無が叫ぶと同時、皆無の背中に赤熱した鉄の壁が生成される。人形の槍は鉄壁にぶち当たるや、溶けて消え去る。皆無は鉄壁を展開したまま人形に突進する。壁が形を変えて人形に巻き付くのを見届け、皆無は南の海へと飛翔する。【万物解析アナライズ】からは残り八体の位置と、背後の一体が燃え尽きた事が伝えられる。

 日本国とナッケとの間にどのような取り決めがあるのかは知らないが、ナッケの人形は人間を襲わない。が、積極的に襲わないと云うだけの話であって、奴らは皆無ごと周囲の人間や家屋へも平気で攻撃してくる。だから皆無はいつも、敵を人気ひとけの無い場所へ誘導しなければならないのだ。

 灘の海上で再び会敵。

 その頃にはもう、皆無の準備は終わっていた。丹田からありったけのヱーテルを引きづり出し、それでもって肺を満たし、

(【第七地獄火炎プレゲトン】ッ!!)

 皆無の持つ最高火力の術を吹き付ける。鉄すら溶かす青い火炎が視界一杯に広がった。

 後には、何も残らない。


   †


「げぇっ、っは、おえぇ……」六甲山の奥深くに潜む。皆無は木の幹に手をつき、ヱーテル酔いによる嘔吐を繰り返す。

「皆無、早くヱーテルを吸い出すのじゃ! 顔を上げよ!」そばでは璃々栖が泣き出しそうな顔をしている。

「待ってな、今口ゆすぐから」

「そのような事は良いから、早く!」

「――うっ」また、吐き気。地面にぶちまけたそれは、


 鉄の味が、した。


「……え?」呆然となる。手が震える。【万物解析アナライズ】が維持できない。頭が痛い。頭が痛い。冷や汗が止まらない。

「皆無!」

 気が付けばその場に倒れ込んでいた。視界は明滅していてあてにならない。

「皆無ぁ」璃々栖の、泣き出しそうな声が聞こえる。

 何とかして仰向けになった。すぐさま璃々栖にヱーテルを吸い出される感触……途端、頭痛と吐き気が引いていく。

「……大丈夫や」意識がはっきりする。未だ足腰は震えていたが、皆無は何とか立ち上がる。

「皆無ぁ……血じゃ。やはり戦いの時以外はヱーテルは最低限にすべきじゃ。でないとそなたが……」

「璃々栖のヱーテルが無いと追っ手を見つけられへんやろ。俺は大丈夫やから」

「じゃがぁ……」

「情けない事云うなや、璃々栖!」皆無は強めの口調で主をたしなめる。「お前は王になるべき女やねんで!? 家臣の一人や二人が弱ってるからって、自分まで弱る王がおるかよ」

「うっ……」よほど刺さったらしく、璃々栖が力無くうつむく。

 この場に璃々栖至上主義者の聖霊セアルが居れば、璃々栖を励まし、皆無を叱責したであろうが……彼女は今、ここにはいない。消滅寸前にまで消耗した彼女には、先王の軌跡巡り中に見つけた地脈――天然のヱーテル溜まりで休息を取らせている。

 璃々栖がうつむいたまま何も云わない。

 皆無は気まずくなる。皆無は璃々栖の圧倒的な精神力にこそ惚れて、惚れて、惚れ込んだ。それだけに、弱っている主の姿は見たくないのだ。


「随分と追い詰められている様子じゃアないか?」


 木の上から、声。

「……ッ!?」皆無はすぐさま璃々栖を抱き上げ、距離を取る。

 果たして木の上から飛び降りてきたのは、

愛蘭アイラム先生!?」よりにもよって第零師団の精鋭中の精鋭、『拾参じゅうさん聖人』である。「璃々栖、ヱーテルを――」

「待て待て! アタシゃ敵じゃアない!!」軍衣姿の愛蘭アイラムが、ぶんぶんと手を振る。

 罠かもしれない、と皆無は警戒する。

 愛蘭アイラム軍袴ぐんこのポケットから十字架ロザリオを取り出す。「完全にヱーテル反応を遮断してれる結界さね。まぁ、効果は一度発動させてから半日程度だけど」

 それはつまり、丸半日もの間、無警戒で眠れると云う事だ。喉から手が出るほど欲しい一品。

れてやるよ」

「えっ!?」皆無は十字架ロザリオ愛蘭アイラムの顔を交互に見る。

 愛蘭アイラムがにやりと微笑み、「云ったろう? アタシゃ可愛い子が大好きだ、と」


   †


 愛蘭アイラムが取っているというORIENTAL HOTELの続きスイート部屋ルームに案内された。皆無達は十字架ロザリオの効果で気配を消しつつ窓から入ったが。

 西洋式の部屋は寝室と居間リビングルームが分かれており、何と浴室シャワールームまである。璃々栖が嬉しそうにしているのが良かった。

「アタシゃ可愛い者の味方なンだ」虚空から取り出した和洋中様々な料理や甘味スイーツをテーブルに並べながら、愛蘭アイラムが云う。

 璃々栖が目を輝かせている。く云う皆無の目も料理に釘付けだ。

「お前も小悪魔チャンも実に可愛く、そして健気に頑張っている。逆に豚の拾月じゅうげつやいけ好かん阿ノ玖多羅の味方なンざ、する気も起きないさね。あぁ、好きに食べていいよ」

「「いただきます!」」

 愛蘭アイラムは、わちゃわちゃと食事をしている二人の様子を楽しそうに見ていたが、やがて、「食べながらで良いからお聞き」と云った。「明日の九時、布引の滝に向かいなさい。そこでアンタ達は、この窮地を打破し得る好機オポチュニテを手に入れるだろう」


   †


 愛蘭アイラムは退散してしまった。部屋は明日の朝八時までは自由に使って良いとの事だった。八時――つまりここから徒歩小一時間ほどで着く布引の滝に九時に間に合うように行け、という事である。後始末もしてれるとの事で、何とも至れり尽くせりであった。

「……で、どうするん璃々栖?」久々に璃々栖を風呂に入れ、自身も烏の行水を済ませた皆無は、居間リビングルームでお茶を入れながら主に問う。「罠かもしれへん」

「ここまでしてもらっておいて、罠も何もあるまい。いやまぁ、罠に掛ける為の仕込みの可能性もあるかも知れぬが……乗ろう!」すっかり顔色が良くなった璃々栖がわらう。「そも、余はあやつが好きなのじゃ。人を甚振いたぶるような嗤い方や、己の愉悦の為ならば国家をも裏切るような在り方……あやつからは悪魔味デビリズムを感じる。それより見たか皆無、あのベッドを! ふっかふかであったぞ?」

「そりゃ良かったなぁ」

「今夜は久々にヱーテルが回復出来そうじゃ」


 ヱーテル。


 璃々栖の文化圏では『魔力』とも呼ばれるその超常の力は、魔術を使ったり悪魔化デモナイズで消費しても、次第に回復していく。ヱーテルは、その者の感情アストラル体が安定していればいるほど、空気中の微細なヱーテルを吸い込み、へその下にある『丹田』に溜め込まれていく。

 有体に云えば、満腹状態で眠っている時が最も回復する。弛緩リラックスしている時や、快楽を得ている時も回復しやすい。一部の密教道で儀式に性行為が用いられるのはそうした理由からである。

 が、この頃の璃々栖は心身の疲労はなはだしく、かつ皆無が使う量も非常に多い為、そのヱーテルは目減りする一方だったのだ。元は五億もあったヱーテルは、今や一億程度にまで落ち込んでいる。何しろ奥の手たる全力の【第七地獄火炎プレゲトン】が大きい。先ほど人形八体を屠ったあのひと吹きに、一千万近くのヱーテルが込められている……そうでもせねば、確殺出来ないのだ。

「しっかしそなたも上達したのぅ!」

「ん、何が?」

「魔術じゃ」

 皆無は今、お茶の準備をしている――使。【念力サイコキネシス】でティーポットに茶葉を入れ、【火炎ファイア】と【水球ウォーターボール】の混合魔術で生み出したお湯を注ぎ、ティーカップへ器用にお茶を注ぎ、そのティーカップをこれまた【念力サイコキネシス】で璃々栖の口元に固定している。そして、璃々栖が飲みたそうな素振そぶりを見せれば、絶妙な角度でカップを傾ける。

「まぁ確かに」いろいろな魔術を覚えた。璃々栖に教えてもらった。

 地水火風に空間系、補助系を多数。中でも最も強力な魔術群が、『地獄級』と呼ばれるもの。何とも禍々しい名前だが、悪魔デビルが使える最上位魔術群の事である。中でも奥義と言われる四つの地獄級魔術が、

「【第九氷地獄コキュートス第壱楽章・カイーナ】」泉だろうが海だろうが、辺り一面を凍らせてしまう魔術。当然、生き物も皆凍る。

「同【第弐楽章アンテノーラ】」どんなに強い相手でも必ず凍らせる事が出来る、【第壱楽章カイーナ】の局所集中型。

「同【第参楽章プトロメイア】」相手のヱーテル体を凍らせる技。つまり肉体を持たない悪霊デーモンも凍らせられるし、父のようなヱーテル体相手でも効果がある。

「んで、奥の手の奥の手が――【第九氷地獄コキュートス第肆楽章・ジュデッカ】!」

「それは、教えたくなかったのじゃ……」

 そう、四月三日から始まった璃々栖による魔術講座の中で、この魔術だけは、なかなか教えてもらえなかった。が、皆無は但丁ダンテの『神曲』を知っており、第九層の氷地獄コキュートスが四種に分かれている事を知っていたので、璃々栖も隠し通す事が出来なかった。

「良いか皆無? その術は、本当にもうどうしようもなく追い詰められて、死ぬか使うかという時になるまでは絶対に使ってはならぬ」

 その効果は、『己の心臓を凍らせる』というもの。己を疑似的な仮死状態にし、本当に死んでしまうまでのわずかな間に、天寿を全うするまでに使うはずだった全ヱーテルを前借りする事が出来るのだ。

 何しろ悪魔の体である。完全に悪魔化デビライズしている状態であれば、心臓が凍っても数分くらいは動けるであろう。そして皆無には、己に【完全パーフェクト治癒・ヒール】を掛け続けて死と蘇生の狭間を維持するという荒業もある。

「分かっとる」皆無はうなずきつつも、璃々栖の為に命を捨てる場面になれば、迷わず使うつもりであった。

「頼むぞ、本当に……」璃々栖が溜息を吐き、一点楽しそうな表情になって、「しかし、余の初の弟子たるそなたが斯様かようなほどに優秀であって、余は嬉しいぞ! これは、魔王化サタナイズに至る日も近いやも知れんな!」


 魔王化サタナイズ


 悪霊化デモナイズを第一段階とし、悪魔化デビライズを第二段階として、第三段階目にして最終段階。人の身で至れる最高の境地である。

 魔王化サタナイズに至ると、その者は肉体を捨て、高濃度のヱーテルでもっ感情アストラル体を肉付けマテリアライズした体を得る。この体は己の意志によって自由に形を変じる事が出来、老いる事は無く、ヱーテルの続く限り朽ちる事も無い。

 父・正覚と同じ状態だ。即ち仏教に云うところの『悟り』、『即身成仏』である。父の口を借りるならば、その次元に至る為には『無』と『くう』を理解しなければならない。

「……あれ? そう云やセアって自由に体の形変えれるけど、もしかして魔王化サタナイズしとんの?」

「ん? あ~そう云えば説明しておらんかったか。セアのは【変身トランスフォーム】の魔術じゃ。『悪魔君主セア』は代々デウスの『最後の近衛このえ』。衣類や道具などに変じて主に侍り、いざという時には【瞬間移動テレポート】を使うのじゃ」

「なるほど、敵に気付かれずに護衛が出来るんか!」

 いずれにせよ、腕を得て、ナッケを殺し、璃々栖の野望成就の為にアストラル界へ馳せ参じる為には、自分は魔王化サタナイズに至らなければならない。

(俺に、至れるやろうか)

 悪魔化デビライズに成功してからはや一ヵ月。未だ至れる気配は無い。


   †


 空は曇天。翌朝九時、布引の滝のそばにある茶屋にて。

 璃々栖と二人、帽子を目深にかぶり、縁台に並んで座って団子を喰らう。十字架ロザリオの効果はもう切れるかどうかという時間に差し掛かっている為、吐き気を押して璃々栖から大量のヱーテルを引き受け、広範囲【万物解析アナライズ】で索敵をしている。

 だから、すぐに気付いた。一人の小さな比丘尼びくにがこちらに向かって歩いて来ている事に。


「皆無、皆無かい!?」


 驚いて顔を上げれば、比丘尼は老婆の顔をしていた。

「なんじゃ、知り合いか?」

「……あなたは、誰です?」皆無は問う。知らない。このような女性と会った記憶は無い。

「十三年振りですもの。覚えているわけ無いわよねぇ」老婆が寂しそうに笑う。「まぁまぁ本当に大きくなって! 大きな目やすらっとした鼻筋なんて、にそっくり!」

 皆無はますます狼狽する。父は一重まぶたの細い目で、如何にも日本人然とした短めの鼻をしている。

「だ、誰やあんた」声が震える。もはや敬語を取り繕う余裕も無い。

「私かい?」老婆が優しく微笑む。「私は、お前の母ですよ」

「…………え?」

 皆無は老婆の言葉の意味が理解出来ない。が、老婆はさらに驚くべき事を口にした。

「腕を探しているんでしょう? 案内しますから、ついておいでなさい」


   †


「皆無におんぶしてもらえる日が来るなんて! 長生きはしてみるものねぇ」

 六甲山地の中央を成す摩耶まや山、その上にある忉利とうり天上寺てんじょうじグランド・シジルる、と老婆は云った。

「済まないねぇ……百年前だったら、韋駄天いだてん様のお力を借りてひとっ飛びで行き来出来たのだけれど」

 そんなわけで、皆無が己の母を名乗る老婆をおんぶし、二時間ほどの登山道を進む事と相成った。

 不思議な老婆であった。まず、年齢が分からない。声はしゃがれているし、顔には相応の皺も刻まれている。が、肌は驚くほど瑞々みずみずしく、腰はとしている。それでいて、聴いていると何とも心地良くなってくるその深い声色からは、この老婆が生きてきた底知れない年月を感じさせる。そういった諸々の印象が、老婆を六十歳にも九十歳にも、はたまた三十歳にも見せるのだ。

「ええと……何で今日、ここに来たん?」

「白髪のほとけ様から、夢のお告げがあってねぇ。今日、この時に来れば息子に会える、ってねぇ」

 聞きたい事は幾つもある。が、何から聞けば良いやらと悩んでいると、急に老婆が『あっ』と云った。

「そうだったわ。お前に会えた事を、あの人に伝えないと! ちょっと降ろしてれるかい?」

「あ、ああ……」云われるがまま、老婆を下ろす。

 老婆はしっかりとした足取りで山道に立ち、「――【虚空庫】」

「「省略詠唱ッ!?」」

 老婆が虚空から手帳と鉛筆を取り出す。【虚空庫】は佐官級でもなければ使えない極めて高位の術。四月一日の夜、璃々栖から大量のヱーテルを引き受けるまでは、天才肌の皆無ですら完全詠唱でなければ行使出来なかったと云うのに。

「『皆無見ゆ。これよりやしろへ向かふ』っと」老婆が口に出しなが書き連ね、「【MAILERメーラーDAEMONデーモン】」

 さらに、皆無も璃々栖も見た事の無い術を使う。手帳から、老婆が書き込んだペヱジだけが独りでに切り離され、それが紙飛行機の形に折り畳まれ、空の彼方へと飛んで行ってしまった。

「何やあの術……って、そやなくて! 今の手紙、誰に届けようとしとるん!? 俺らは居場所を知られるわけにゃいかんねん!」

「あらあら」のほほんとした様子の老婆。「そう云えば、布引の滝の辺りに、お前や璃々栖お嬢さんの手配書がありましたけど……お前、追われてるのかい?」

「うっ――…」

「まぁ悪魔だもの、そういう事もありますよ」老婆に頭を撫でられる。「大丈夫。今お手紙を飛ばした相手は百年前に、お前に絶対に害をさないと、お前を守り育てると、デウス先王様とお約束下さった方ですもの」

「「ひゃ、百年……!?」」

「あらあら、息ぴったり! 皆無と璃々栖お嬢さんは、仲良しさんなのね。デウス先王様が仰っておられた通り!」

 また、意味深な事を云われ戸惑う。

「あ、あの……その、お婆さん?」

「皆無……母とは呼んでれないのかい?」

「いや、その……ええと、あなたは何で俺の事分かったん? 十三年間も見てなかったら、面影も何も無いと思うんやけど……」

「分かりますとも」また、頭を撫でられる。「百年もの間、お前をお腹の中ではぐくんでいたのだもの。お前のの感じは、すっかり覚えてしまいましたよ」


   †


 山行は続く。

 巨大な六甲山地は幾つかの山から成る。『摩耶山』はその中でも六甲山地の中央を成し、神戸港の北に位置する。摩耶山は正式には、


仏母ぶつぼ摩耶山まやさん


 と云う。

『摩耶』とは釈迦しゃか牟尼むに如来にょらい――仏陀ブッダの生母『摩耶まや夫人ぶにん』の事である。真言宗の開祖・空海くうかい弘法こうぼう大師たいし)がこの地に立ち、摩耶夫人像を安置した事が摩耶山の由来である。

 そして、デウス家のグランド印章・シジルが隠されていると老婆が云う寺院と云うのが、

忉利とうり天上寺てんじょうじ」老婆をおぶって『天狗道』と呼ばれる林道を進みながら、皆無は璃々栖に解説する。「忉利ってのは忉利天とうりてんの事で、摩耶夫人の生まれ変わりで仏教の神様や。欲の世界を統べる六欲天の第二に座り、まぁその……婬欲いんよくを司っとる」

「あはっ。色欲の化身たるデウスグランド印章・シジルを安置するにはもってこいの場所じゃぁ」

「あと、この寺には八百やお比丘尼びくに伝説もある」百年生きているという老婆の言葉や、老婆が披露する数々の術式から、皆無は老婆の事をそういう存在ではないかと疑っている。人魚の肉を食べ、不老不死となった尼の話である。

「皆無は物知りさんなのねぇ!」背中から当の老婆の声。

「それで、皆無の御母堂様よ」隣を歩く璃々栖が、嬉しそうに老婆に話し掛ける。「その『トウリテンジョウ』の何処に腕はあるのじゃ?」

「社の地下に隠してありますよ」

「なるほど、社の辺りに優れた地脈が流れているというわけじゃな?」

「違いますよ」

ちゃうんかい」

「腕には私が魔力を注ぎ続けてきました。けれど魔力総量もすっかり減ってしまって……」老婆は、璃々栖に対しては敬語を使う。「、最近は腕を維持するのに苦労しているところだったのです。だからこうして、腕の主様が来て下さって本当に良かった。……さぁ、この坂道を登り切れば、お寺が見えてきますよ」

 坂を上り切った。

「……え?」

 木々が消え、広々とした平野に出る。遠目には忉利とうり天上寺てんじょうじの社の姿も見える。

「そ、そんな……」

 そして。


 その平野を、寺への道を通せんぼするかのように、父が立っていた。


 阿ノ玖多羅単騎少将が、拾月じゅうげつ単騎中将が、他三名の単騎将官が、そして十数名もの単騎佐官が、寺への道を封鎖するように陣取っていた。

 将官・佐官のみで構成された一個小隊。うち拾月単騎中将、阿ノ玖多羅単騎少将、更にもう一人の顔を見たことのある単騎少将が、いずれも『拾参じゅうさん聖人』に数えられる、この国における最高戦力保持者達。まさに日本国の対西洋妖魔戦力の粋を集めた部隊であった。

「な、何で……」何故、待ち伏せに気付けなかったのか。

たわけが」小隊の中央に立っている拾月中将が、その手で組んでいた印を解いた。途端、

「ひっ」彼らが発する凄まじいまでの殺気、闘気、憤怒、憎悪、覚悟といった感情が、ヱーテルの風に乗って皆無を打ち付ける。

 大気が震える。拾月中将の結界術で隠蔽されていた彼らのヱーテルが突風となって木々を揺らす。

「お前は昔から手の掛からない子だと思っていたが……」軍衣ぐんいに身を包み、怪我をしていない方の腕――その左手で村田銃を持つ父が、云った。「初の家出が駆け落ち付きとは……やってれるじゃあないか、皆無?」

 笑っていない。どれだけ反抗しても、どれだけ揶揄からかっても、いつも優しい笑みを絶やさなかった父が今、本物の殺気を込めた目で、こちらを見ている。

 足が、震える。





   † 





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