第弐幕之肆「逃避行」
》
元町の北、神戸駅にて。
「ほほぉ、本当に石炭の火力だけで動いておるのか!」髪を結い上げ、大きな麦わら帽子を被った
帽子は、今や全国手配されているであろう璃々栖の、目立つ金髪を隠す為だ。麦わら帽子が男物なのは、皆無の私物だからである。己の衣類を璃々栖が身に着けていることに、皆無は何とは無しに璃々栖に対する支配欲のようなものを感じるが、
(あかんあかん……俺は璃々栖の騎士。剣であり盾や)璃々栖のことは好きだ。が、
璃々栖が皆無のそばに駆け寄ってくる。心なしか、並び立つ際の距離が近い。
†
「殿方と二人旅など、胸が高鳴るのぅ」揺れる車内。客車の片隅で、並んで座る璃々栖が甘えるようにもたれ掛かってくる。
皆無としては、璃々栖に頼られることがひどく心を高揚させる。と同時に、
「と、殿方!?」璃々栖が己のことを男として見て
「ごほん!」
「そ、そうじゃったな!」璃々栖が真っ赤になって顔を逸らした。
†
》同日
(わ、我ながら何とはしたない……)顔が熱い。「か、皆無よ!」
「ああ」皆無が即座に返事をする。
こういう時、従来であれば『うん』と来たように思う。雰囲気といい話し方といい、皆無が突然に男らしくなってしまい、璃々栖はこれをどう扱って良いやら分からない。
「そ、そなたは
「ああ」
「なればそなたには、場合によっては余の為に命を捨てる覚悟が必要じゃ。必要とあらば、余はそなたを捨て駒にもする。覚悟せよ」
『捨て駒』などという極端な言葉を使ったのは、そうとでも云わねば、自分の方がこの逞しい少年に依存してしまいそうだったからだ。
果たして、
「ええで」皆無が力強く頷く。それから不敵に嗤い、「
「~~ッ!!」顔が真っ赤になる。この胸の高鳴りは、一向に収まる気配を見せない。
†
兵庫駅で降りる。西に向かったのは、今や
『神戸』と定義される地域の西端たる兵庫から順に、神社や寺院といった人々の信仰の集まる場所、のみならず人々の
皆無は今、元ブラデヱトの時と同じ姿――上は着物、下は袴に私物の革靴――をしている。顔を隠すためにぶかぶかの山高帽を被っているのが何とも可愛らしい。
愛しい使い魔との二人――と従者一人――旅に、璃々栖はすっかり舞い上がっている。気分はさながら神戸一周旅行であった。無論、自分が今ここで生きているが為に犠牲となった者達――父、家臣達、王族派の臣民、そして自分の戦いに巻き込まれて死んだ巡洋艦『
そうして、皆無が広げた『神戸市細見全図』という地図の西端が、
†
「和田岬砲台。あの勝海舟が設計してんで」
「『あの』と云われても、分からぬのじゃが」
皆無が潮風に
観光解説を受けている当の璃々栖は、砲台ではなく皆無の横顔を見つめている。
†
「ここが和田神社。蛭子大神……恵比須様、えべっさんを祭ってる神社の一つやな」
砲台から北へ少し歩いて。二人は東西を運河、南を橋に囲まれた、浮島かと錯覚させる不思議な神社の只中にいる。
「どや、何か感じる?」
「ううむ……なるほど確かに、先ほどの砲台に
璃々栖は己の左腕――生来存在しない、己の
『腕が近くにある時、腕に認められし者は、
父のそばに居る時、その痛みを感じないのはきっと、未だ父が健全であり、己が腕に認められていないからなのだろうと勝手に解釈していた。父が賊どもに吶喊して――…殺され、その
その途端、左腕に幻痛を得た。鮮烈な痛み。歓喜の痛みであった。
四方八方、周り全てが敵。そういう状況下にあって、己があれほどまでに気丈に振舞うことが出来たのは、『確かにここに、腕がある』という確信を得られたからに他ならない。
が、今。あの夜感じた鮮烈なまでの痛みとは、この幻痛はほど遠い。痛みに慣れてしまったというのはあるだろうが。
(ここに腕は無い、と云うことか? いや、思えば生田神社でも、
己の不正確な感覚だけでは無く、
「お、おう」顔を赤らめる皆無。
二人してひと気の無い本殿裏に行き、
「神の
†
》同日
璃々栖からの口付け。出逢った当初の
己も随分と興奮している自覚があるが、見れば璃々栖もまた、その頬が真っ赤に上気している。明らかに、口付けそのものを楽しんでいる様子であった。その
(あかんあかん! 【
「そう……か」束の間、物憂げな表情を見せた主だが、すぐにいつもの泰然とした笑みを取戻し、「まぁ神戸横断作戦も始まったばかりじゃ! 臆せず先に進もうぞ!!」
†
》同月十二日
「いやぁ、『遊園地』というのは面白いのぅ!」
和楽園の屋上にて。日傘が掲げられた洋風テーブルに着いた皆無は、璃々栖の口へ団子を運ぶ。
「腕があるなら、あの釣り堀で釣りをしてみたいものじゃ」
「せやな。腕見つけたらまたデヱトで来よう。――あ、魚と云えば昔ここに水族館があってんで」
「すいぞくかん? 何じゃそれは?」
「こう、でぇ~~っかい水槽の中で泳ぐ珍しい魚を鑑賞すんねん。今は湊川神社に移ってもたけど」
「ほほぅ! 見たい! 見たいぞ皆無!」
†
》同月十五日|一四二五 神戸・湊川神社 ――
「皆無、皆無! 本当に窓の中で魚が泳いでおるぞ!?」
「見りゃ分かるって」
湊川神社内の水族館にて。巨大な硝子窓の向こうですいすいと泳ぐ魚達を、璃々栖が楽しそうに眺めている。が、その表情がやや曇り、
「これで、腕がここにあればなお良かったのじゃがのぅ……」
「大丈夫や、そのうち見つかる」皆無は、やや丸くなった璃々栖の背中をそっと撫でる。
†
》同月十八日
「異人館街やな。ここいらの景観は物珍しいから、見物客がようおんねん」
「ふむ。余からすれば、むしろここいらの景観の方が馴染みを感じるが……しかし煉瓦の壁に瓦屋根? 和洋
「あ、この屋敷や」皆無は、その屋根に風見鶏を乗せている屋敷の前で立ち止まり、しばし合掌する。「ここに憑いてる乙種
四月一日の夜。
「ふぅん? 【赤き蛇・神の悪意
皆無はびくりと震える。「た、確かに祓った後のヱーテル核は蠅の形しとった! けど、なんで分かったん?」
「
「けど……この屋敷に憑りついた
「うぅむ……まぁ何だ、我が眷属
「なっ!?」皆無は一瞬気色ばむが、巡洋艦『
「
†
》同月二十日
「これが『布引の滝』か!」
「日本三大神滝のひとつやねんで。あと、ここの水は美味しくて世界中の船乗り達に人気やねん。『KOBE WATER』云うてな」
天から降って来るかの如き水の奔流に、璃々栖の表情がぱっと華やぐ。このところ、璃々栖が物憂げな表情をすることが多かっただけに、皆無は主の笑顔が嬉しい。
「数年前には
「なるほど、これだけの景観であれば、さぞ人の子らの
「仰せのままに。【
†
》同月二十一日
「灘と云えば酒! 酒と云えば灘! どや、俺はまだ飲めへんけど……美味い?」
酒蔵に併設された店舗で、璃々栖が試飲する。「う、う、う……」
(美味いの『う』!?)
「うわぁぁあああん!!」いきなり璃々栖が泣き出す。「余は駄目な女じゃ。祖国復興を誓ってこの地に来たというのに、未だ腕の一本も見つけられぬとはッ!!」
「ちょちょっ、璃々栖、シーッ! え、酔っぱらっとんの? 試飲だけで!?」
†
》同月二十三日
「ここにも無い、か。
†
》五月十日
「何故じゃ、どうして見つからぬのじゃ!?」主が、悲痛としか云いようの無い悲鳴を上げる。「
†
けして楽な旅路では無かった。むしろ困難の方が多かった。
絶望的な状況の中で、次第に覚悟が出来上がっていった。
必要とあらば、璃々栖の為に死ぬ覚悟が。
……そんな風にして、四月十一日の旅立ちから、実に一ヵ月が過ぎた。
†
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