第弐幕之陸「璃々栖之希望、皆無之絶望」

》同月十二日一〇五三ヒトマルゴーサン 天上寺てんじょうじ手前の山道 ――皆無かいな


「皆無、その方を下ろせ」

 父に命じられるまま、おぶっていた老婆を下ろした。

「あなた、阿ノ玖多羅さんですか?」老婆が父達の方へのんびりと歩き出す。「見た目は随分と違うけれど、この感じ……確かに阿ノ玖多羅さんなのですね!」

「なっ!?」やはり老婆は敵だったのだ。

「あなたが情報提供者ですね?」と父。

「状況がよく呑み込めないのですけれど……百年前の約束を果たしに来て下さったのでは無かったのですか?」

「そもそもあなたは誰です? 初対面かと思いますが」

 父と老婆の要領を得ない会話。

「おい、さっさと連れて行け!」

 拾月中将の命で、老婆が佐官の一人に背中を押されて寺院の方へと連れて行かれる。

(どうする? 腕はもう目の前や)皆無は息を吸い、「拾月中将閣下ッ!!」声を張り上げる。彼我の距離は数十メートル。「腕――デウス家のグランド印章・シジルの在りかが分かったのです! お願いです! あなた方の監視の元でも構いません。どうか腕を手に入れさせて――」

「何だと!?」声を張り上げたのは父だった。父が何だかおかしな様子で、「腕は何処どこにある!? 何処だ!」

「少将!」拾月中将の一喝。

「――…」父は拾月中将を恨めし気に見たが、すぐに黙った。

「これは内閣の決定。国家の方針だ! その悪魔デビルを差し出せ、阿ノ玖多羅少佐。そうすれば」拾月中将がいやらしく微笑む。「貴様の命だけは助けてやっても良い」

 はらわたが煮えくり返るとは、このことだと思った。「――断るッ!!」

「そうか、ならば」

 その時、遥か南、神戸港の海上で『ずん』とも『どん』とも云える、恐ろしく腹に響く重低音が立て続けに四発鳴った。皆無の【万物解析アナライズ】がその音を敏感に拾い上げた。(艦砲射撃?)

「祓うまでだ」拾月中将が十字架ロザリオを掲げる。


 ひぃぃいいいんッ!!


 風を切る音と共に、四本の巨大な釘が降り注いできた。幅三〇.五サンチ、長さ一五〇サンチ、重量数トンを誇る物体が広場の東西南北に突き刺さり、地震の如き振動を生じさせ、膨大な土砂を撒き散らす。

 皆無は璃々栖を抱き寄せ、【物理防護マテリアル結界・バリア】で土砂や砂埃から主を守る。全身を高濃度ヱーテルで覆い、悪魔化デビライズを為す。刺すような頭痛と引き換えに、無敵の力を得る。

『釘』は皆無達と第零師団小隊を取り囲むように、これから始まるであろう死闘劇の舞台ステージでも演出するかのように、数百メートル四方の正方形を結ぶ形で配置されている。明らかに、結界術か何かの為の装置である。

 急な突風で、土砂と砂埃が一気に晴れた――第零師団員の術であろう。

 そして。


「――【ザカリアの釘】」


 その時にはもう、拾月中将の結界術は完成していた。「英国に無理を云って取り寄せた最高級品の悪魔デビル封殺結界である。とくと味わえ」

 四方の釘が紫色に光り、戦場が薄っすらとした光に包まれる。

 皆無は猛烈な倦怠感に襲われる。瞼が重たい。力が出ない。特にヱーテルが思うように動かせず、丹田からヱーテルを引き出す速度がひどく緩慢だ。見れば璃々栖も辛そうな様子である。

「これでも耐えるか! 甲種悪魔デビルですら祓い切れるはずの秘術なのだがな!」


 小隊が、動いた。


 佐官らによる熾天使セラフィムバレットの一斉射撃。その弾丸を追うようにして、抜刀した三人の将官による突撃。射撃はいずれも精密に皆無だけを狙ったもので、璃々栖に向いていないのがせめてもの救いだ。

 が、皆無の方も準備は万端であった。まずは、全てを焼き滅ぼす地獄の業火でもって銃弾の雨あられを蒸発せしめんと息を吸い、

(【第七地獄火炎プレゲトン】ッ!)しかし、出たのは単なる吐息だけ。慌てて最強の攻性防護結界たる地獄の壁を構築せんと試みるも、丹田からヱーテルが思うように引き出せない。皆無はその悪魔的な回転速度を誇る頭脳と獣じみた動体視力を以て、銃弾群の前に初級魔術たる【物理防護マテリアル結界・バリア】を展開する。一発の弾丸が結界にぶつかり、大爆発を起こす。結界は消滅したが、弾丸を道連れにすることに成功した。皆無は小型で薄っぺらな結界を何十と展開し、己に殺到する熾天使セラフィムバレットの群れを受け流しつつ、(【ステュックスの沼の真ん中・陰惨なる窪みの底・亡者と悪魔を取り囲む地獄の鉄壁よ現出せよ――ディースの城壁】ッ!!)脳内詠唱したことでようやく丹田から十分なヱーテルを引き出すことができ、突き出した両腕から手のひらを通り、眼前に真っ赤に焼けた鉄の城壁の姿となって表れた。高さ数メートルほどの頑強な結界魔術が、皆無と璃々栖の前方に半円を描くようにそびえ立つ。さばき切れなかった弾丸が壁に当たり、大爆発を引き起こすも、壁には傷一つ付かない。

(【赤き蛇・神の悪意沙磨爾サマエルが植えし葡萄の蔦・アダムの林檎――万物解析アナライズ】ッ!!)皆無は己と璃々栖を大いに弱体化させている結界【ザカリアの釘】について調べる。(良かった、俺らを内側に閉じ込めるような壁は無い!)

 それはつまり、結界の端まで逃げ切れば、結界の効果から逃れられるということだ。

 地獄の壁には皆無の後を追尾する機能がある。壁に自身達を守らせつつ結界の端まで飛翔しようと考えた皆無は、璃々栖を抱き上げようとして、


 壁が、真っ二つに引き裂かれた。


「なッ!?」

 見れば『拾参聖人』の一人に数えられる武人が、ヱーテル光でまばゆく輝く軍刀の刀身を大上段から振り下ろしたところであった。ソロモン七十二柱の悪魔デビル・不和侯爵アンくびり殺せるだけの力を持つ皆無が構築した、取って置きの防御壁を一刀両断せしめる。

 これが、単騎将官。これこそが、国家戦力の最高峰。

 割れた壁の中から二人目と三人目が飛び込んで来る。二人目が、こちらの首筋を狙って軍刀を振るう。皆無は左腕にこの短時間で出来得る限りのヱーテルを集め、十数枚の【物理防護マテリアル結界・バリア】を重ね掛けしつつ、光の如き一閃を受け止める。結界が全て叩き割られ、刃が左腕の骨にまで達する。が、その将官を蹴り飛ばすことには成功した。痛覚が悲鳴を上げているが、皆無は必死でそれを無視する。三人目の行方を見てみれば、果たして三人目が璃々栖の足を払い、その身を地面に打ち付けたところであった。

「璃々栖ッ!」三人目を排除しようと駆け出すも、その背中に二度目の一斉射撃が襲い掛かる。まともに喰らった。熾天使セラフィムバレット。並みの悪魔デビルなら一発で消し飛ぶ威力の弾丸を十数発。咄嗟に【ウォーターの壁ウォール】と【氷結アイス】の混合で爆炎からは身を守るも、弾丸は着弾。肉が弾け飛び、四肢が千切れそうになる。(【完全パーフェクト治癒・ヒール】!)発動しない。まろころびながら璃々栖に手を伸ばすも、父にヱーテルを纏った足で蹴りつけられ、背中を踏みつけられる。「ここまでだ」後頭部には、焼け付くほどのヱーテルを帯びた銃口の感触。


 ……絶体絶命。


 こうなった時の対処方法として、皆無は二つの方策を用意していた。まずは一つ目、覚悟の要らない方を試みる。

「お願いやダディ、俺たちを見逃してれ!」命乞い、懇願である。「見逃して下さい! 腕を見つけてモスを打倒しさえすれば、あとは一生、一生涯かけてこの国の為に働くと誓うから! 命を捧げると誓うからッ!!」

「――…っ、駄目だ。これは内閣が下した判断、国家の方針だ」

 策の一つ目は、失敗。続いて二つ目の策に移る。それに先立ち、


 己にとっての勝利条件とは、何か。


(それは、璃々栖が左腕グランド・シジルを手に入れること。腕さえ手に入れれば、璃々栖はヱーテル総量五億の七大魔王の一人になる。そうすれば、相手がダディやろうがナッケやろうが、まず間違い無く勝てる)璃々栖が腕を手に入れる為には、どうすれば良い?(腕はもう目の前にある。璃々栖がこの場を切り抜けて、腕を手に入れるまでの短い時間が稼げれば、それでいい)

 その為には、どうすれば? 皆無は自問自答する。己の覚悟を、を、確実に固める為に、己に問う。

(俺が、稼げばいい。その為に覚えた、うってつけの魔術でもって!!)顔を上げる。倒れ伏し、将官に押さえつけられている璃々栖と、視線が絡み合う。「璃々栖」

 主。我が王。初恋の相手。愛する人――…璃々栖。


 覚悟を、決めた。璃々栖の為に死ぬ、覚悟を。


   †


》同日一一〇二ヒトヒトマルフタ 天上寺てんじょうじ手前の山道 ――


「璃々栖」皆無が――いとしい人が、おのが名を呼んだ。たったそれだけのことで、地面に打ち付けられ、締め上げられている痛みを忘れる。「かい――」、と云おうとして、皆無が口の形だけで己に何かを伝えようとしていることに気付く。


 逃・げ・ろ。


(な、何を?)璃々栖は狼狽ろうばいする。皆無からの魔術反応に、『使うな』と命じた禁術の反応。(や、止めよ、止めるのじゃッ!!)


   †


》同日一一〇三ヒトヒトマルサン 天上寺てんじょうじ手前の山道 ――皆無かいな


(【イスカリオテのジュダの領域・永久凍土の監獄】――)

 おのが命を代償として、ほんの僅かな間だけ限界を突破した力を発揮せしめる奇蹟きせきの術式。


 己の命は璃々栖の為にる。


 確かに己は、璃々栖とモスの争いに巻き込まれる形で第一の命を落とした。が、璃々栖はその補填として多大なヱーテルを皆無に与え、その命を存続せしめた。そして忘れもしない四月十日、璃々栖は皆無の自由意思を尊重し、使い魔という立場から解放してれた。

 だから今ここにある命は、この心臓は、阿ノ玖多羅皆無の自由意思の元にある。その意志の元、皆無は願う。璃々栖の願いの成就を。無限の意志力を持った彼女の、その悲願のいしずえとなることを。

(【苦患の王国を統べる帝王ルキフェルよ・我が心臓を噛み砕き・かつての栄光を分け与え給え・パペサタン・パペサタン・アレッペ・プルートー】)

 事前詠唱が全て終わる。ひどい寒気がする。心臓が凍るように冷たい。最後の一節を口にした瞬間から、己の命は終わりの奈落へと転げ落ち始めることとなる。最後の一節を口にしてしまったら、もうどれだけ後悔しようがしまいが、どれだけ奮闘しようがしまいが、数分で己は死ぬこととなる。

(……怖い……)

 最後の勇気を得たいが為に、今一度、璃々栖の顔を見る。泣き出しそうな顔をしている璃々栖。出来れば笑顔が良かった、と思う。あの泰然とした笑顔にこそ、璃々栖が秘める無限の意志力にこそ、自分は心底惚れ込んだのだから。






「【第九氷地獄コキュートス第肆・ジュデ――」






いやじゃッ!!」あるじの悲鳴。

 魔術の展開が中断され、心臓の冷たさが消えてゆく。「……璃々栖?」

 この王は今、何と云った? 皆無の中では、璃々栖はあくまでも圧倒的強者たる王であった。璃々栖は彼女の腕で、手でもって仇敵をくびり殺し、国を興して王と成るべき存在であり、その為ならば全てを犠牲にする覚悟を持っているはずであった。皆無の献身に対し、璃々栖は当然これに感謝し、悲願成就の為に皆無を捨て石にしてれるものと皆無は期待していた。それでこそ璃々栖だと、そうでなければ璃々栖ではないと、皆無は考えていた。なのに。

 皆無の、『逃げろ』という意見具申ぐしん、まさしく命を賭けた願いに対し、この王は何と応えたのだ?

「厭じゃ!」再び、璃々栖が云った。

「な、何云っとんねん!」皆無は激しく狼狽ろうばいする。「俺が時間を稼ぐ! その間に腕を手に入れるんや! そしたら璃々栖、お前はお前の悲願を達成出来るようになる! その為なら俺は死んだって――」

「厭じゃ厭じゃ厭じゃ!」璃々栖は、まるで年相応の少女のように泣いていた。「そなたを死なせとうない! そなたにまで死なれてしまっては、は、余は……」

 まるで、駄々をこねる子供であった。そこに、王を目指す強い璃々栖の姿は無かった。在るのはただ、弱々しくちっぽけな年相応の少女の姿であった。皆無があれほど惚れ込み、文字通り命を賭して守ろうとした王の姿は、そこには無かった。


 失望、した。


 気が付けば、悪魔化デビライズが解けていた。皆無を燃え上がらせていた情熱が、璃々栖を守り、璃々栖の望みを叶え、璃々栖の国家実現の礎にならんとするその熱が、決意が――…覚悟が、冷めてしまった。

「ダディ殿……いや、阿ノ玖多羅少将閣下よ」璃々栖の声が、ひどく遠くで聞こえるように感じる。「提案が、ある」

「……伺いましょう」父が、皆無の後頭部から銃口を離した。


   †


 一つ、璃々栖は己の身柄を第零師団へ明け渡す。その後は、たとえナッケに差し出されようが構わない。

 一つ、第零師団は結界術【ザカリアの釘】を解除する。

 一つ、第零師団は皆無を殺さず、傷付けない。

 それらのことが、拾月中将と璃々栖の間で取り決められた。

今生こんじょうの別れになる。挨拶の時間くらいはやろう」

 そして、今。皆無は父に銃口で背中を押され、草原の真ん中で寂しげに佇む璃々栖の元へと歩いてゆく。璃々栖と向かい合う。が、皆無は璃々栖の顔を見上げる気になれない。

「皆無、顔を見せてはれぬか?」

 皆無がなおもうつむいていると、

「皆無」璃々栖が一歩、二歩と歩み寄って来た。まるで抱き締めようとでもしているかのように、ぎゅっとその身を皆無に密着させる。

 皆無は璃々栖より背が低い。だから自然と皆無は、璃々栖の乳房に顔をうずめる形となる。璃々栖の匂いがする。この一ヵ月間、ずっとずっと、ずうっと一緒にいた璃々栖の匂いだ。璃々栖の涙が皆無の髪を濡らす。

 璃々栖が、震える声で、云う。






「腕が欲しい……そなたを抱きしめる為の、腕が」






ちゃうやろ!?」皆無は顔を上げる。思わず泣き叫んでいた。「お前の腕は、そんなことの為やなくて、お前の悲願の為に」

 口付けされた。四月一日のあの夜から何度も何度も重ね、すっかり覚えてしまった璃々栖の唇の感触。暗い悲しみが胸を押し潰す。

 唇が、離れる。

「地獄への旅路に付き合わせてれるんと、ちゃうんかったんかよ……」

「すまぬ、な」

 ぽつりぽつりと、雨が降り始める。


   †


 璃々栖は拾月中将以下第零師団の小隊に連れられ、行ってしまった。父以外にも少数存在する希少な【渡り】使いの力でもって、一瞬で。

 後には皆無と、父だけが残る。

「さて、阿ノ玖多羅単騎少佐」父が、口を開いた。「貴官は国家に対する叛逆はんぎゃく行為を働いた。貴官は、祓うべき甲種悪魔デビルとして認定されている」

「……え?」

 父が、未だ殺気の込められた目で皆無を見ている。包帯に包まれていない方の腕――その左手には、未だ村田銃が携えられている。

「ま、待てやダディ、さっき璃々栖とした約束は……?」

「守る義理など無い」

「そんな、やとしたら璃々栖は何の為に……」

「日本国の為に、だ」淡々とした、父の声。

「俺やって日本の為に働ける! それに、逃げてる間やって出来るだけ人や街に被害が出ぇへんように立ち回っとった!!」

ナッケの使い魔とお前達の戦いに巻き込まれて亡くなった人が、居なかったとでも? 壊された財産が、無かったとでも?」

 血の気が引く。「そ、それはッ! そもそもナッケや使い魔を【神戸港結界】内に招き入れたのが原因で――…」

「招き入れざるを得なくなった元凶が、何を云っているんだ?」


 父が右手の差し指で地面を示す。仏教における印相の、降魔印だ。悪魔デビルである皆無を、これから殺すという明確な意思表示。


「【ナウマク・サマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカ】――」父の全身が真っ白に輝き出す。

「あ、あぁぁ……」皆無は恐怖を禁じ得ない。知っている。これが、これこそが、父の『奥の手』。

「【のくさんみゃくさんだい――涅槃寂静ニルヴァーナ】」

 光り輝く父の体が、瞬く間に成人男性の体格になる。【涅槃寂静ニルヴァーナ】――短時間のみ許された、父が全盛期の力を発揮出来るようになる秘術中の秘術。これを見て死なずに済んだ悪魔デビルはただ一人、他ならぬモスのみである。

「皆無、分かっていないのか? お前はレディ・璃々栖に付いて行ったあの朝すでに、ルビコン川を渡ってしまっている」光が収まり、一八〇近い身長になった父が、村田銃を構えながらこちらを

「あぁぁ……」父に、見下ろされる。それがこれほど恐ろしいことだとは、知らなかった。

「他ならぬ賽を投げたのはお前だぞ、皆無」

「待っ――…」

 絶望的な戦いが、始まる。





   † 





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