第参幕之肆「璃々栖之戦」

》同日一五三一ヒトゴーサンヒト 摩耶山 ――璃々栖リリス


「悪かったねぇ、小悪魔チャンの父親じゃアなくて」木の上で、愛蘭アイラムが微笑む。

 彼女が何故、ここにいるのか。璃々栖は理解が追い付かない。が、

「助けが、必要かな?」

 助け。助けとったか、この女は、今。

「――頼むッ!!」ほとんど絶叫だった。「お願いじゃ! どうかを、皆無を、セアを助けてれッ!!」

「いいとも。ただし、条件がある」

「呑む! なんでもれる! どんな条件でも受け入れる。だから――…」

モスを、殺せ」愛蘭アイラムが飛び降りてきた。彼女は宙に浮いて目線を合わせ、璃々栖の両肩を掴み、酒臭い息を吐きかけてくる。「必ずやあの、モスの分体を――いいや、必ずやにっくきあの小僧の本体を、その手でくびり殺せ。それが約束出来得るならば、起死回生の一手をやろう」憎悪に満ち満ちた表情が一点、笑顔になる。「お前さん、誓えるかい? 今、ここで、アタシにさ」

「誓う」その言葉は、あっさりと滑り出てきた。「誓えるとも。それこそが余の望みであり、願いなのだから」自分が壮絶な笑顔を浮かべていることに、璃々栖は気付かない。

「あっはははっ、良い目、良い殺意だ。やはり小悪魔チャンは可愛いねぇ! ――あの腕にはね、先王の記憶が眠っているンだ」

「先王の、記憶?」

「そう。小悪魔チャンが腕を使いこなす為の、先王からの覚え書き。教科書さね。本来は小悪魔チャンがあの腕を身に着けた時に、先王の記憶が小悪魔チャンに流れ込むはずだったんだ。だけど、腕は憎きモスに奪われてしまった」

「――…」

モスが腕を身に着けた時に腕が沈黙を続けたのは、ヱーテル切れによるものだろう。百年はあまりに長すぎたというわけさ。あの腕は今、寝惚けているというわけさね。だからあの腕にヱーテルと、をぶち込む。そうすれば、必ずやあの腕は目覚め、望まぬ主たるモスに対し、抵抗を示してれるだろう――その隙に、あの小僧から腕を切り離すンだ」

 己が履いている革靴の爪先は、ヒヒイロカネを練り込んだ鋼鉄によってよろわれている。他ならぬ左腕グランド・シジルが己に対して協力的になってれるならば、この足でモスの肩を蹴り砕き、腕を分断せしめることも出来るやも知れない。

「だが、どうやって腕にヱーテルを供給する? 余は最早もはや受肉マテリアライズもままならぬ」

「小悪魔チャン、利き足は?」

「え? 右、じゃが」

「よし。じゃあ右足をお上げ」

 云われるがまま、右足を愛蘭アイラムの目の前まで上げる。自慢では無いが、璃々栖は体が柔らかい。

 愛蘭アイラムが自身の臍の下――丹田へと手を突っ込む。

「……えっ!?」

 文字通り、突っ込んだのだ。服を通り抜けて。

「なァにを驚くことがあるさね。アタシゃ『拾参聖人』の一人だよ? 悟りの境地にくらい、うの昔に至っているさね」云いながらも丹田から手の平大のヱーテル塊を取り出し、虚空から取り出した小瓶の中身――何やらどろりとした液体を混ぜ合わせる。そうして出来た『気付け薬』を、璃々栖の革靴の爪先に塗りたくる。

 光り輝いていたヱーテル塊は、やがて光を失い、靴の表面と同化した。

「この爪先で以て先王の腕――手の甲を蹴りつけるンだ。気付け薬を直接口にぶち込むわけさ。さ、お行き」

「ありがとうございます……あの」

「ん?」

愛蘭アイラム殿は何故、斯様かようにも先王様のことにお詳しいのじゃ?」

 愛蘭アイラムが気恥ずかしそうに苦笑し、「あいつとは、そう……腐れ縁なのさ」


   †


 再び、来た道を戻る。

万物解析アナライズ】によって皆無達が居る方向を見定め、シジルの無い身で使える数少ない放出系魔術【光源ライト】の小さな明かりを頼りに、真っ暗闇の中を駆ける。

「ォァアアァ……」

 耳元で亡者の声と腐臭を感じ、

「ヒッ……」振り向くと、目の前にはぐずぐずに崩れた顔を体を持った鎧武者の姿。慌てて飛び退こうとするも、腐ったその手で着物の袖を掴まれた。「このぉッ!!」必死になって蹴りを見舞おうとするが、亡者にその足を掴まれる。無我夢中で飛び上がり、もう一本の足を振るう。果たしてその足がまぐれ当たりで亡者の頭部を蹴り砕くことに成功した。

「はぁっ、はぁっ」ぼろぼろと崩れ落ちる亡者をよそに、激しく肩で息をする。恐怖で震える、不甲斐ない我が身だ。


 印章シジル持ちの悪魔デビルは、強い。


 それは、悪魔デビルの世界では常識である。印章シジルを持つ者と持たない者との間では、天と地ほどの……巨象と羽虫の如き戦力差がある。

 が、印章シジル持ちはその印章シジルを失った瞬間、攻撃魔術を始めとした多数の魔術を行使する力を失う。現に、今の己にも使える魔術と云えば、補助系魔術の【収納アイテム空間・ボックス】や【万物解析アナライズ】や、強いて攻撃的と云えるものでも【睡眠スリープ】くらいなものであり、効果も限定的だ。だからこそ、印章シジルを失った元印章シジル持ちは嘲笑の的にされるのだ。

(……怖い……)碌な魔術は使えず、腕も無く、亡者の一体を倒すのも命懸けで、ヱーテルも残り少ない。斯様かようにも弱い己に、あのモスを倒すことが出来るのだろうか。(じゃが……戦わねばならぬ!)

 思えば叛逆の憂き目に遭い、腕を失ってからと云うもの、己はセアや皆無に守ってもらってばかりであった。いつだってセアや皆無を前線に立たせ、己は安全な後方で見守っているか、もしくは皆無に抱きかかえられてじっとしていた。

 それでも仕方が無い、と思っていた。シジルが無いのだから、仕方が無いのだと。

(違うであろう!?)璃々栖は己を奮い立たせる。(腕が無い? 攻撃手段が無い? それが何だと云うのじゃ! そも、これは余のいくさじゃ! 余が戦わずして何とする!!)

「アァァァ……」「オォォォ……」

 正面から、亡者達の集団。数十体はいるだろうか。

(戦え、抗え……ッ!!)璃々栖は最も層の薄い一帯を見定め、吶喊とっかんする。


   †


》同日一五五三ヒトゴーゴーサン 摩耶山 ――皆無かいな


「いい加減に諦めて、余の物になれ」仰向けに転がり、何体もの亡者達に全身のあちこちを食い千切られている皆無を、モスが見下ろす。「このままでは、本当に死ぬぞ?」

「【治癒ヒール】…【治癒ヒール】……」

 正直云って皆無は、どうすべきか決めあぐねていた。ここでこいつに従う振りをして魔術を解かせ、魔王化サタナイズした体に戻って反攻する手は無いか、とも考えた。が、

「またそれか。余の物になるからには、隷属の首輪で縛らせてもらうと、先ほど云ったであろう」こちらの心を読むことが出来るモスが、ため息交じりに云ってくる。「何度目だ、その思考は? 最早もはや正気ではあるまい」

 生きながらに喰われていて、正気など保てるものか。どうすればいい。どうすれば。

(やっぱり…もう、死ぬしか……)モスの使い魔になり、璃々栖と敵対するくらいならば、死んだ方がマシであった。(璃々栖……)

 頭に浮かんでくるのは璃々栖の笑顔だ。璃々栖と一緒に生きたかった。璃々栖とともに、やりたいことが沢山あった。なのに。

 この先、璃々栖の道が何処に続いているのかは分からない。覇道を進み、王へと至れるかは分からない。だが少なくとも己は、璃々栖の道を遮る邪魔者にはなりたくない。


(…………死のう、か)


 覚悟を、決めた。

(【イスカリオテのジュダの領域・永久凍土の監獄】……)せめて、己の命を燃やす秘術で以てモスに一矢報いるのだ。(【苦患の王国を統べる帝王ルキフェルよ・我が心臓を噛み砕き・かつての栄光を分け与え給え・パペサタン・パペサタン・アレッペ・プルートー】)


 輪廻転生があるのなら。

 いつかどこかで、璃々栖と再会したいと思った。


(――【第九氷地獄コキュートス第肆楽章・ジュデッカ】ッ!!)






 ……皆無の、命懸けの願いは、

 発動、しなかった。






「は、はは……」一縷の望みも絶たれた。だが、考えても見れば己は今、強制的に人の身に戻されてしまっているのだ。地獄の秘術が扱えなくなっているのも当然であろう。「【収納アイテム空間ボックス】……」

 虚空から、南部式自動拳銃を取り出す。自決の為である。渾身の力を振り絞って右腕を振るい、纏わりつく亡者達を振りほどく。銃口を咥えてから、引き金を引く為の人差し指が欠けていることに気付く。

(左手…は……?)小指が欠けていたが、他の指は無事であった。また、渾身の力で以て左腕を振るい、亡者を払い、拳銃を握る。(璃々栖……)

 目を閉じようとした、その時。


 空から、璃々栖が降ってきた。


 最愛の女性が、璃々栖が、美しい金髪を棚引かせて!


   †


》同日一六〇二ヒトロクマルフタ 摩耶山 ――璃々栖リリス


 己にとっての勝利条件は、モスの左肩に付いているデウスグランド・シジルへ蹴りを入れること。蹴りの一発さえ当てることが出来れば、愛蘭アイラムから受け取った『気付け薬』が発動し、腕が目覚め、こちらの味方になってれるはずなのだ。

消音サイレント】の魔術を使ったところでヱーテルが枯渇してしまったのは痛手だったが、決行した。

 音も無くモスの背後に着地し、渾身の力をこめて蹴りつける。


「【物理防護結界マテリアル・バリア】」


 ……が、その爪先は、モスが展開する結界に阻まれてしまった。

「わざわざ囚われに戻って来たのか、姫君?」

「くっ……」璃々栖は飛び退ずさって距離を取る。「セアッ!!」

「あぁ、そこに転がっているぞ」

 指差された方を見れば、頭部を失ったセアが転がっていた。

(そんな――…)璃々栖は絶望する。が、一秒で立て直した。(弔い合戦じゃぁあッ!!)

 己を奮い立たせ、モスに吶喊する。


   †


》同日一六〇四ヒトロクマルヨン 摩耶山 ――皆無かいな


 璃々栖とモスによる格闘が始まった。

 自決は取り止めだ。璃々栖の目的は分からない。モスは璃々栖の敵う相手ではない。が、彼女が破れかぶれになって無意味な戦いを挑むような愚かな女では無いことを、皆無は知っている。

 援護すべく立ち上がろうとするも、足の腱が、筋肉が食い散らされてしまっており、全く動きそうにもない。

 璃々栖は猫のように俊敏に動き、時に木の幹を、枝の上を足場に使いながら、モスへ無数の蹴りを浴びせ掛けてゆく。が、それはどれもモスの結界に阻まれてしまい、届かない。

 ……そして。

「いい加減、終わりで良いだろう」璃々栖の右足首を、モスが右手で掴む。モスが宙に浮かび、璃々栖は逆さまで宙吊りにされてしまう。

(あぁ、璃々栖……)何か、援護は出来ないか。何か無いか――


 ――ある。


 南部式自動拳銃が、一年以上の時をともに戦ってきた愛銃が、今まさに、己の手の中にあるではないか!

 大型の南部式自動拳銃の施条ライフリングにヒヒイロカネを練り込んだ退魔特化型拳銃『丙型』たるこの銃は、弾倉に八発の銃弾を持つ。今、この銃の中には、八発と薬室の一発、計九発の実包――最強の弾丸たる熾天使セラフィムバレットが装填されている。

 皆無は血塗れ傷塗れの震える左腕で以てモスへ銃口を差し向ける。狙いは奴の、璃々栖を拘束している右手の手首。

 狙いを定めた途端、驚嘆すべき集中力が体の震えを抑え、立て続けに引き絞られた引き金が、射出された弾丸が、吸い込まれるようにモスの右手首へと命中する。

 一発、二発、三発……皆無は走馬灯でも見ているが如き引き延ばされた時間の中で、弾丸が命中しつつも敵の手首に傷一つ負わせることが出来ずにいると見抜く。モスによる結界の魔術か、もしくは璃々栖の腕が持つ印章シジル特有の強度なのか。

 だから、六発目からは目標を変えた。モスの頭部へ。


 果たして弾丸は、モスの頭部の上半分を吹き飛ばした。


   †


》同日一六〇五ヒトロクマルゴー 摩耶山 ――璃々栖リリス


(皆無、よくやってれたッ!)璃々栖は狂喜する。

 これでモスの手が少しでも緩んでれれば、視界を失ったモスの左手へ蹴りを入れることが出来る。手が緩めば――…

「ははっ、残念だったな!」残った顔の下半分。その口からモスが言葉を発する。「貴女が何を企んでいるのかは知らないが、今更この手を放すわけが無いだろう?」

 璃々栖は掴まれていない方の足で、モスの右手を蹴りつける。が、びくともしない。

 ここまで来て。瀕死の皆無がせっかく援護をしてれたのに、成す術も無く敗れるしか無いのか――…


 その時、急に視界が切り替わった。


(――えっ!?)気が付けば、己はモスの背後、少し距離を置いたところに寝転がっている。【瞬間移動テレポート】だ。(セア!? まさか生きて――)

 いや、今はモスが先だ。見ればモスの頭部が急速に修復されつつある。璃々栖は飛び起き、モスに向かって駆け出す。

「はははっ! 目が見えず、音が消されていても、気配でわかるぞ、姫君」

 気配。それこそが、先ほどの失敗の原因だ。だが、気配隠蔽の魔術を使うだけのヱーテルが残っていないのだ。


「【隠者ハーミットは霧・イン・ザの中・フォッグ】ッ!!」


 その時、璃々栖が渇望していた、己の気配を覆い隠す魔術の霧が、璃々栖の周りに展開した。

(ご母堂様の声!?)

 育子いくこ大姉たいしこそ、死んでいるはずであった。先ほど己がこの目で死体を見たのだから。だが、今はその姿を確かめている暇など無い。

 璃々栖は駆ける。駆け、皆無が、セアが、育子大姉が作ってれたこの好機で以てモスに肉薄し、


 その右足で、モスの左手の甲を、蹴り上げた。


 すぐさま、モスから距離を取る。

「……は?」今や頭部を完全に回復せしめたモスが、困惑に満ちた様子でこちらを見ている。「何だ、今のは? こんな、痛痒をすら感じさせないただの打撃に、一体何の意味があるのだ?」

 璃々栖は答えない。答える義理が無い。だが璃々栖は成功を確信していた。それが証拠に、己が蹴り上げた手の甲と、己の右の爪先が、白く輝くヱーテルの糸で繋がっているのだ。

 糸がその輝きを増し、靴の表面に擬態していた愛蘭アイラムのヱーテルを喞筒ポンプのように吸い上げ、デウスグランド・シジルの、口元へと供給していく。

「な、何だこれは!? お前、この腕に何をした!?」モスが戸惑う。左腕が、モスの意に反したかのようにびくりと震え、「く、糞っ、何だこれは、何故腕が勝手に動く!? や、やめ――」

 デウスの手がモスの頭を鷲掴みにし、直視出来ないほどの輝きを放つ。

「うがぁぁあぁぁああッ!?」

(ヱーテルが…腕の記憶が、流れ込んでいる……?)

 数秒ほどで、光は収まった。

 気が付けば、亡者どもも蔦も、その動きを止めている。

 デウスの腕が、だらりと垂れさがる。

 そして。






「思い出した……ッ!!」






 モス――いや、今や意識を取り戻した皆無の父が、皆無に向かって語り掛ける。























かいなだ!! !!」





   † 





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