第壱幕之捌「元町ブラリ、デヱト」
》四月十日
風呂場にて。
「
「ん、あっ、ふぅぅ……んんんっ」璃々栖が恥じるように身をよじり、「まさぐるでない! そこまで触る必要は無かろう!? コラ、勝手に口付けしようとするな!」
「いつもして
「あ、あれはヱーテルの受け渡しの為じゃろう!?」
「もう良い、そなたは外に出ろ!
「
「
「へ?」思わず手が止まった。「あ、あいつ女なんか。知らんかった……」
「ほら、分かったらそなたはさっさと出て
†
皆無は精通を経験した。
性教育については学校や三人の
一つは、
以来、皆無は璃々栖に対して積極的に触れたり、口付けしたがるようになった。
反して璃々栖は最近、皆無に対する接触が減った。当初の
皆無は嫌われてしまったのかと一時不安で
「皆無!」お風呂上がりの自室で璃々栖の髪を梳いていた皆無の胸に、璃々栖がうりうりと頭をこすりつけてくる。その仕草は実に愛らしい。「今日の午後はいよいよ『元ブラデヱト』じゃ。デヱトプランは完璧なんじゃろうな?」
自惚れでなければ、璃々栖と目が合う機会が増えた。
「う~ん、
†
》同日
およそ軍人の居室らしからぬ、豪奢な調度品や絵画で溢れる西洋風の部屋――第零師団長、拾月中将の執務室にて。
「何とか考え直して頂けませんか!?」正覚は、この分からず屋な上官に対し何度目かも知れぬ意見
「人間を欺く為の策であろう」椅子にふんぞり返った拾月中将が、不機嫌そうに吐き捨てる。「人間の敵たる
「相手はヱーテル総量五億越えの大悪魔なのです。それを、【神戸港結界】再構築と同時に結界の力を
「出来るとも。その為の観艦式。その為の、全国から大々的に呼び集めた多数の参観者なのだから。帆を脱いだ、蒸気機関の力のみで海を走る軍艦――自然を超越した、文明開化と科学の象徴。その艦隊を親閲なさる
「レディ・璃々栖は日本国への協力を申し出ています。露西亜との
「あの方は
「なっ!?」
「露助を怖がるあまり、人類共通の敵たる
正覚は歯噛みする。国際世論。この時期の日本ほど、国際社会の声を気にした国家も無い。
「同盟と云えば、日英同盟がある。英国の資金援助と諜報支援があれば、日露の戦は勝てる。貴官は子の命を握られておるから、正常な判断が出来ぬのだ。あの
「私なら――」
「その腕を治すことすら出来ぬほど、消耗しているというのに? 口を慎むことだ。とは云え貴官の、二度も魔王から日本を救ったその実力は、首相閣下も、無論儂も大いに認めているところである。今後も日本国の為に励むように」
「
正覚は首を傾げる。「二度もありましたっけ? 十三年前、
「……もう良い。貴官と話していると頭が痛くなってくる。さっさと観艦式の準備に戻れ!」
「そうはいきません! お考え直し頂けるまで、私はここを動きませんからね!?」
†
》同日
「ふぉ~ッ、これが元町かぁ!」雲一つない晴天の下で、溢れんばかりの人だかりに璃々栖が目を白黒させている。
皆無は着物に袴姿だが、足元だけは軍支給の革靴を履いている。これが下駄なら書生風にも見えたであろうが、下駄は空を駆ける際に足元が
璃々栖はいつものように上は和服、下は
二人して、実にこの時代の日本らしい和洋折衷でハイカラな格好をしていた。
璃々栖の金髪が目立つかと云われれば、別段そんなことはない。観艦式当日ということも相まって、元町の大通りは実に雑多な色の髪と瞳で溢れていた。
「何食べよか」
通りは出店で溢れ返っている。
「あれは何じゃ? 随分と繁盛しておるようじゃが」璃々栖が皆無の袖をぐいぐいと引っ張ってくる。
まだお昼前だというのに長大な行列が出来ている、その先にある店は――
「
「ほほぅ、牛飯屋
我知らず出てしまった子供っぽい物云いを璃々栖に
璃々栖の左腕が皆無の脇腹を殴る。
「これこれ
璃々栖への暴言を許さない
「
「ええ加減にせぇや……並ぶけどええか?」
「うむ」
†
店に入るや、食欲をそそる割り下の良い匂いが襲い掛かってきた。店員に案内された席に着き、
「牛飯二人前。あと生卵二つお願いします」
「生卵など、どうするのじゃ?」
「牛飯に掛けんねん」
「な、生卵を掛ける……じゃと!? き、気色悪……そなた悪魔か?」
などと話をしているうちに、早々に牛飯が出てきた。ほかほかご飯の上に割り下の沁みた牛のこま肉と、臭み消しの白ねぎが乗っている。皆無が牛飯の上に溶いた生卵を掛けると、
「ほ、本当に掛けおった……」
「璃々栖もやってみぃって。卵溶いたるから」皆無が璃々栖の分の卵を割って溶くが、
「
「そう云わんで」
「
「喰うてみりゃわかるって。ほら」皆無が強硬手段に出る。璃々栖の牛飯の上に生卵をぶっかけたのだ。
「ぎゃぁあ!? 鬼! 悪魔!」
「悪魔は自分やん……ほら、口開けて」皆無がいつもの調子で璃々栖に食べさせようとするが、
「無理じゃ無理じゃ無理じゃッ!」
「う~ん……あ、じゃあ」皆無は璃々栖の丼に手をかざし、
(【
「はい、なんちゃって他人丼」
「おおお、これは美味そうじゃ。って、何故に他人なのじゃ?」
「鶏肉の卵閉じ丼を親子丼って云うねん。で、牛と卵は親子やないから他人丼」
「こ、これから食す相手に『親子』と名付けるとは……人間も、なかなかに
「はぁ?」
などと掛け合いをやっていると、
「なぁ、あんちゃん」ふと、隣の席に座っていた男性客から話し掛けられた。「あんた
「!?」学校や軍という閉じられた世界の中でしか人付き合いをしたことが無かった皆無が戸惑っていると、
「そうじゃぁ」代わりに璃々栖が答えて
「ははぁ~ッ! ありがたやありがたや……」
「良かったら俺の牛飯も他人丼にして
「え、ええですけど」男性客の皿に手をかざし、悪魔的魔術で生卵を熱する。
「儂のにも頼む!」
「私のも!」
「僕も!」
†
「お騒がせしてもてすんません……」食事を終え、虚空から洋風の財布を取り出す皆無に対して、
「お代はええよ!」皆無の術に目を白黒させつつも、店長がそう答えた。「ささやかやけど、感謝の気持ちや。いつも街を守って
店を出る時も、店員や客達が皆無と璃々栖に手を振って
(僕はまだ、人間として生きててもええんやろか……)その心地良さが、人魔の狭間で揺れる皆無の悩みを一層深くする。
「なぁ璃々栖……」元町の往来を歩きながら、麗しい主人に話し掛ける。
「ん?」
「璃々栖はこれから、どうするつもりなん?」
「甘い物が食べたいのぅ」
「そうやなくて」思わず立ち止まってしまった。
道行く人々が迷惑気に避けて行く。
「ふむ」璃々栖が低く抑えた仏蘭西語で話し始める。「当面は、神戸の霊場巡りの許可をもらう為の点数稼ぎじゃな。許可が出れば、神戸中を巡り歩いての腕探しじゃ。漠然とじゃが、余には腕の在りかが分かる。左腕に幻痛を感じるのじゃ。もちろん、そなたにも手伝ってもらう」
「うん」
「腕が見つかった暁には、
「ヱーテル体」父が至った悟りの境地に、自分が到達出来る気がしない。
「どのくらいの期間が掛かるかは分からぬが、余は必ずや
皆無は思わず、璃々栖から目を逸らしてしまう。
「……嫌ならまぁ、日本人として
それはつまり、人間として生きる道も考えて
「ごめん」
「
「んなっ!?」むっとなる皆無。無論、言外に『だから気にするな』と云って
†
いっぱい歩いて、いっぱい遊んだ。
道中、皆無は散財の限りを尽くした――と云っても食べ歩きをしたり、璃々栖に大量の衣類やら小物やらを貢いだくらいであったが。楽しかった。本当に、自分でもびっくりするくらい楽しかった。だからこそ、こう夢想せずにはいられないのだ。
もしも、璃々栖が人間だったなら。
……気が付けば、あれだけいたはずの人だかりが、波が引くようにいなくなっていた。まだいる人々も
観艦式が始まるのだ。
†
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