第壱幕之捌「元町ブラリ、デヱト」

》四月十日〇五〇一マルゴーマルイチ 風呂場 ――皆無かいな


 風呂場にて。

璃々栖リリス」皆無はいつものように、『花王石鹸しゃぼん』の泡を纏った手で璃々栖の裸身を磨く。

「ん、あっ、ふぅぅ……んんんっ」璃々栖が恥じるように身をよじり、「まさぐるでない! そこまで触る必要は無かろう!? コラ、勝手に口付けしようとするな!」

「いつもしてれるやん」

「あ、あれはヱーテルの受け渡しの為じゃろう!?」

 軍袴ぐんこの中の一物は、張り裂けんばかりに膨張している。

「もう良い、そなたは外に出ろ! セアに腕になってもらって自ら洗う!」

セアにやったら触られてもええんか?」

セアは同性じゃからの」

「へ?」思わず手が止まった。「あ、あいつ女なんか。知らんかった……」

「ほら、分かったらそなたはさっさと出てセアを――ああんっ」


   †


 さかのぼること、三日前。

 皆無は精通を経験した。


 性教育については学校や三人の莫迦ぶかから人並みに施されていたので、精通自体にはそれほど驚かなかった皆無だが、とある二つの理由により、大きな『安堵』と『衝撃』を感じた。

 一つは、悪魔化デビライズを経験した己の体が、ちゃんと人間らしい成長をしているということに対する『安堵』。もう一つは――…その精通体験が、よりにもよって、全裸の璃々栖に迫られる夢を見たことによる夢精だったことへの『衝撃』だ。

 以来、皆無は璃々栖に対して積極的に触れたり、口付けしたがるようになった。

 反して璃々栖は最近、皆無に対する接触が減った。当初の揶揄からかうような、過剰なまでの触れ合いスキンシップは鳴りを潜め、口付けも一日に二回、出撃時のヱーテル供給と、帰投時のヱーテル吸い戻しの時以外はしなくなった。一度、皆無が寝ぼけて璃々栖の布団の中に潜り込んだ時など、本気で怒ってベッドから蹴り落としたほどだ。

 皆無は嫌われてしまったのかと一時不安でたまらなかったが、特段そういうわけでもないらしい。現に今など、

「皆無!」お風呂上がりの自室で璃々栖の髪を梳いていた皆無の胸に、璃々栖がうりうりと頭をこすりつけてくる。その仕草は実に愛らしい。「今日の午後はいよいよ『元ブラデヱト』じゃ。デヱトプランは完璧なんじゃろうな?」

 自惚れでなければ、璃々栖と目が合う機会が増えた。

「う~ん、計画プランて云われても適当にブラついて何か食って――あ、折角やからお昼はがっつり元町で食べよか」


   †


》同日〇九四九マルキュウヨンキュウ 神戸鎮台ちんだい ――正覚しょうがく


 およそ軍人の居室らしからぬ、豪奢な調度品や絵画で溢れる西洋風の部屋――第零師団長、拾月中将の執務室にて。

「何とか考え直して頂けませんか!?」正覚は、この分からず屋な上官に対し何度目かも知れぬ意見具申ぐしんを行う。「レディ・璃々栖は我々に協力的です。現に、彼女に命を救われた兵や民間人が相当数おります」

「人間を欺く為の策であろう」椅子にふんぞり返った拾月中将が、不機嫌そうに吐き捨てる。「人間の敵たる悪魔デビルに肩入れするなど。貴様、異端審問に掛けられたいのか?」

「相手はヱーテル総量五億越えの大悪魔なのです。それを、【神戸港結界】再構築と同時に結界の力をもって封印すると? 出来るとお思いで?」

「出来るとも。その為の観艦式。その為の、全国から大々的に呼び集めた多数の参観者なのだから。帆を脱いだ、蒸気機関の力のみで海を走る軍艦――自然を超越した、文明開化と科学の象徴。その艦隊を親閲なさる明治聖帝へいか。大日本帝国の国威を裏付けるように、英国を始めとする各国の艦艇が参加する。国民は必ずや大いに感動し、そのうねりは巨大なヱーテルを生むだろう」

「レディ・璃々栖は日本国への協力を申し出ています。露西亜とのいくさを前にして、これほど心強い援軍もいないでしょう? 伊藤閣下も前向きにご検討下さっておいでだと伺っております」

「あの方は耄碌もうろくしておられるのだ」

「なっ!?」

「露助を怖がるあまり、人類共通の敵たる悪魔デビルと同盟を結ぶ? 正気ではあるまい。そも今の内閣を取り仕切るのは桂首相閣下である。首相閣下からは、国防上の重大な不安要素であり、かつ国際社会からの非難の的たるあの悪魔リリスを速やかに調伏せよとのご命令を受けておる」

 正覚は歯噛みする。国際世論。この時期の日本ほど、国際社会の声を気にした国家も無い。

「同盟と云えば、日英同盟がある。英国の資金援助と諜報支援があれば、日露の戦は勝てる。貴官は子の命を握られておるから、正常な判断が出来ぬのだ。あの悪魔デビルと手を組んだとして、土壇場で彼奴きゃつが裏切らぬと云い切れるのか? ヱーテル総量五億の化け物を、一体誰が調伏出来ると云うのだ」

「私なら――」

「その腕を治すことすら出来ぬほど、消耗しているというのに? 口を慎むことだ。とは云え貴官の、二度も魔王から日本を救ったその実力は、首相閣下も、無論儂も大いに認めているところである。今後も日本国の為に励むように」


?」


 正覚は首を傾げる。「二度もありましたっけ? 十三年前、モスと戦った以外に」

「……もう良い。貴官と話していると頭が痛くなってくる。さっさと観艦式の準備に戻れ!」

「そうはいきません! お考え直し頂けるまで、私はここを動きませんからね!?」


   †


》同日一一〇三ヒトヒトマルサン 神戸元町 ――皆無かいな


「ふぉ~ッ、これが元町かぁ!」雲一つない晴天の下で、溢れんばかりの人だかりに璃々栖が目を白黒させている。

 皆無は着物に袴姿だが、足元だけは軍支給の革靴を履いている。これが下駄なら書生風にも見えたであろうが、下駄は空を駆ける際に足元が覚束おぼつかなくて好かないのだ。

 璃々栖はいつものように上は和服、下は馬乗袴うまのりばかま、そして革靴である。左肩には腕の姿に変じたセアを付けており、右肩を隠す為に大判のショールを掛けている。ショールは国産のウール製だ。

 二人して、実にこの時代の日本らしい和洋折衷でハイカラな格好をしていた。

 璃々栖の金髪が目立つかと云われれば、別段そんなことはない。観艦式当日ということも相まって、元町の大通りは実に雑多な色の髪と瞳で溢れていた。

「何食べよか」

 通りは出店で溢れ返っている。

「あれは何じゃ? 随分と繁盛しておるようじゃが」璃々栖が皆無の袖をぐいぐいと引っ張ってくる。

 まだお昼前だというのに長大な行列が出来ている、その先にある店は――

ぎゅうめし屋さんやね」

「ほほぅ、牛飯屋かぁ!」

 我知らず出てしまった子供っぽい物云いを璃々栖に揶揄からかわれ、皆無は真っ赤になる。「うっさいねん! 痛っ!」

 璃々栖の左腕が皆無の脇腹を殴る。

「これこれセア、そう目くじら立てるでない」

 璃々栖への暴言を許さないセアの無言の叱責を、璃々栖がたしなめる。セアは『人前では喋らぬように』と璃々栖に云われているのだ。

兎角とかく、その牛飯屋・に入ろうかの」

「ええ加減にせぇや……並ぶけどええか?」

「うむ」


   †


 店に入るや、食欲をそそる割り下の良い匂いが襲い掛かってきた。店員に案内された席に着き、

「牛飯二人前。あと生卵二つお願いします」

「生卵など、どうするのじゃ?」

「牛飯に掛けんねん」

「な、生卵を掛ける……じゃと!? き、気色悪……そなた悪魔か?」

 などと話をしているうちに、早々に牛飯が出てきた。ほかほかご飯の上に割り下の沁みた牛のこま肉と、臭み消しの白ねぎが乗っている。皆無が牛飯の上に溶いた生卵を掛けると、

「ほ、本当に掛けおった……」

「璃々栖もやってみぃって。卵溶いたるから」皆無が璃々栖の分の卵を割って溶くが、

はいい」

「そう云わんで」

いやじゃ!」

「喰うてみりゃわかるって。ほら」皆無が強硬手段に出る。璃々栖の牛飯の上に生卵をぶっかけたのだ。

「ぎゃぁあ!? 鬼! 悪魔!」

「悪魔は自分やん……ほら、口開けて」皆無がいつもの調子で璃々栖に食べさせようとするが、

「無理じゃ無理じゃ無理じゃッ!」

「う~ん……あ、じゃあ」皆無は璃々栖の丼に手をかざし、

(【第七地獄火炎プレゲトン】)璃々栖から学んだ魔術を極小規模で行使する。皆無の手のひらが熱を放ち、丼が瞬く間に卵閉じになった。ふわっとした玉子の匂いが立ち上る。

「はい、なんちゃって他人丼」

「おおお、これは美味そうじゃ。って、何故に他人なのじゃ?」

「鶏肉の卵閉じ丼を親子丼って云うねん。で、牛と卵は親子やないから他人丼」

「こ、これから食す相手に『親子』と名付けるとは……人間も、なかなかに悪魔味デビリズムに溢れておるではないか!」

「はぁ?」

 などと掛け合いをやっていると、

「なぁ、あんちゃん」ふと、隣の席に座っていた男性客から話し掛けられた。「あんた悪魔祓い師エクソシスト様かい?」

「!?」学校や軍という閉じられた世界の中でしか人付き合いをしたことが無かった皆無が戸惑っていると、

「そうじゃぁ」代わりに璃々栖が答えてれる。「こやつはな、幼いながらも毎晩々々、神戸港の平和の為に戦っておるのじゃ。あがめるが良いぞ」

「ははぁ~ッ! ありがたやありがたや……」

 おがまれてしまい、戸惑う皆無。

「良かったら俺の牛飯も他人丼にしてれへんか? ご利益ありそうや」

「え、ええですけど」男性客の皿に手をかざし、悪魔的魔術で生卵を熱する。

「儂のにも頼む!」

「私のも!」

「僕も!」


   †


「お騒がせしてもてすんません……」食事を終え、虚空から洋風の財布を取り出す皆無に対して、

「お代はええよ!」皆無の術に目を白黒させつつも、店長がそう答えた。「ささやかやけど、感謝の気持ちや。いつも街を守ってれてありがとぅな!」

 店を出る時も、店員や客達が皆無と璃々栖に手を振ってれた。今日まで生きてきて、こういう体験をしたことがなかった皆無にとっては、嬉しいやら恥ずかしいやら、何だかフワフワした心地であった。

(僕はまだ、人間として生きててもええんやろか……)その心地良さが、人魔の狭間で揺れる皆無の悩みを一層深くする。

「なぁ璃々栖……」元町の往来を歩きながら、麗しい主人に話し掛ける。

「ん?」

「璃々栖はこれから、どうするつもりなん?」

「甘い物が食べたいのぅ」

「そうやなくて」思わず立ち止まってしまった。

 道行く人々が迷惑気に避けて行く。

「ふむ」璃々栖が低く抑えた仏蘭西語で話し始める。「当面は、神戸の霊場巡りの許可をもらう為の点数稼ぎじゃな。許可が出れば、神戸中を巡り歩いての腕探しじゃ。漠然とじゃが、余には腕の在りかが分かる。左腕に幻痛を感じるのじゃ。もちろん、そなたにも手伝ってもらう」

「うん」

「腕が見つかった暁には、アストラル界へ戻り、祖国の周辺に潜んでモスの勢力を追い落とすべく機を窺う。――出来れば」璃々栖と目が合う。「そなたには、一緒に付いて来てもらいたいと思っておる。その為にはまず、『む』か『くう』か『悟り』かはよう知らぬが、肉体を捨て、ダディ殿のようにヱーテル体になってもらわねばならぬ。でなくばアストラル界へ渡れぬからな」

「ヱーテル体」父が至った悟りの境地に、自分が到達出来る気がしない。

「どのくらいの期間が掛かるかは分からぬが、余は必ずやモスを祖国の領土から排除し、デウス王国を再び興して見せる。そうしたら、まずは日本国との同盟締結じゃな。そなたは余と抜群に相性が良いから、是非とも余の右腕として働いてもらいたいものじゃが」


 皆無は思わず、璃々栖から目を逸らしてしまう。


「……嫌ならまぁ、日本人としてデウス王国大使になるか、デウス王国人として日本大使になるかのどちらかかのぅ」

 それはつまり、人間として生きる道も考えてれているということだ。

「ごめん」

グランド・シジルさえ手に入れれば、余に味方する悪魔デビルは多かろう。そなたより頼りになる者など掃いて捨てるほど居るであろうよ」

「んなっ!?」むっとなる皆無。無論、言外に『だから気にするな』と云ってれているのは分かっている。「……璃々栖、ありがと」


   †


 いっぱい歩いて、いっぱい遊んだ。

 道中、皆無は散財の限りを尽くした――と云っても食べ歩きをしたり、璃々栖に大量の衣類やら小物やらを貢いだくらいであったが。楽しかった。本当に、自分でもびっくりするくらい楽しかった。だからこそ、こう夢想せずにはいられないのだ。

 もしも、璃々栖が人間だったなら。

 くも強く美しい女性を娶ることが出来たなら、きっと自分は父への隔意などという小さな葛藤になど悩むことなく、伴侶の為に生きることが出来るだろう。

 ……気が付けば、あれだけいたはずの人だかりが、波が引くようにいなくなっていた。まだいる人々もみな一様に東の方――神戸港へ歩を進めている。

 観艦式が始まるのだ。





   † 





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