第壱幕之陸「接吻之練習」

》同日二一〇四フタヒトマルヨン 外国人居留地・自室 ――皆無かいな


「レディ・璃々栖リリス、ひとまず貴女の身柄は私がお預かりすることとなりました。こうっては何ですが……貴女が神戸に現れたが為に【神戸港結界】が破られてしまい、今まさに大量の西洋妖魔が神戸港を襲わんとしているのです。よって、その補填として」父が皆無の肩を叩き、「貴女の使い魔と貴女のヱーテルを、港の防衛の為に使わせて頂きます。よろしいですね?」

「ふむ」薄桃色の和服と臙脂えんじむらさき馬乗袴うまのりばかまを皆無に着せられながら、璃々栖が頷く。「仕方あるまい。断ればまたぞろ皆無を人質に取るのじゃろう?」

「はい」

「えぇぇ……」呻く皆無。

「皆無、お前はお前が人間に対して安全な存在であり、かつ日本国にとって有益な存在であることを示せ。それだけが、お前が第零師団から討伐対象とされずに済む唯一の道だ」

「わ、分かった」

「よし、行け!」


   †


「【韋駄天の下駄】」軽く地を蹴ると、皆無の体は鳥と同じ高さにまで舞い上がる。略式詠唱でありながら、この威力。「【梟ノ夜目】――【もんじゅけいがん】」

 神戸港にいる全ての妖魔と、それらと交戦中の悪魔祓い師ヱクソシストの位置とヱーテル総量が頭の中に入ってくる。

『外国人居留地』の南端には第いち波止場と神戸税関と検疫所があり、その検疫所が妖魔の群れに襲撃されている。

「丙種悪魔デビルまでおるやん!」電柱に音も無く着地し、佐官クラスが死を覚悟して挑む次元レヴェルの敵の元へ飛ぼうとしたところで、

「こらこら、を置いていくな」璃々栖の叱責。

 皆無は道路に着地し、璃々栖を抱き上げる。そうして再び屋根の上に飛び乗り、ポン、ポン、ポン、と家々の屋根の上を疾走していく。潮風が皆無と璃々栖の顔を打つ。

「あはっ、爽快じゃなぁ!」

「こっちは切羽詰まっとんねんけど」反応によると、死者こそ出ていないが被害は甚大だ。

 すぐに海岸通りが見えてきた。皆無はちょうど着地地点にあった『ORIENTAL HOTEL』と書かれた看板を踏み台にし、戦場へと飛び込む。

 敵を目視。地上近くを飛び回る、翼を持った石像の怪物ガーゴイルの群れと、上空で配下達の働きを督戦しているらしいひときわ大きなガーゴイルの親玉だ。敵の数は丙種が一、丁種が十。対する軍側は、かき集められたのであろう尉官が十数名と、ほぼ非戦闘員と云っていい下士官が数十名。

 個人々々が一騎当千の対魔集団である第零師団では、数名の尉官が『分隊』を部署し、互いの背中を守りながら戦う操典となっている。一名の佐官と、それを補助する若干名の尉官が分隊を部署する場合もある。

 そもそも【神戸港結界】が西洋妖魔の侵入を阻んでおり、厳しい検疫を潜り抜けてきた単体の妖魔を分隊で叩くのが前提である為、現況のように妖魔が集団で攻めてくることが想定されていないのだ。

 尉官達の方は操典に従い、数名ずつの分隊を組織して村田銃を構え、各隊が丁種一体を相手取りながら何とかやっているようであったが、当然取りこぼが出て来る。その取りこぼしに追い回されているのが、検疫、照明等の支援業務専門の下士官達である。ろくな退魔武装も無く、防護結界聖術による自衛手段しか持たず、それすら満足に展開出来ずに、


「だ、誰か助け……ッ!」


 悲鳴を上げる下士官を引っ掴み、今まさにその頭蓋を嚙み砕かんとしている丁種へ皆無は吶喊する。道路上に着地し、璃々栖の体をふわりと放り上げ、「【虚空庫】!」丁種の腹に村田銃の銃口を打ち付け、引金を引く。丁種の体が大きく吹き飛び、下士官が放り出される。

かたッ)

 さすがは悪魔デビル。石の腹は凹んでいるものの、貫通はしていない。

(【二面二臂のアグニ・十二天の一・炎の化身たる火天かてんよ】)銃口の先に火天の曼荼羅と、(【神に似たる者・大天使聖彌額爾ミカエルよ・清き炎で悪しき魔を祓い給え】)セフィロトの樹を展開し、秘儀・セフィロト曼荼羅『神使ミカエルショット』を放つ。「【――AMEN】!!」

 父の時とは違い、今装填されているのは比較的低威力のアーク天使エンジェル・バレット。果たして弾丸は煉獄の炎を纏った火の玉となり、丁種の胴を穿ち、爆炎と共にその体を粉砕せしめた。

「皆無」璃々栖の声に振り返ると、「投げるなとは云わぬが、事前に告げよ」皆無に投げ上げられたにも関わらず、器用に着地し、さらには放り出された下士官を肩で器用に支えた璃々栖が笑っている。この姫君は相当に体術が出来るらしい。

「ごめん、璃々栖」皆無は次のセフィロト曼荼羅を展開する。「【五大の風たるヴァーユ・十二天の一・風の化身たる風天ふうてんよ】」銃口の先で風天の曼荼羅と、「【旅人達の守護者・トビトの目を癒せし大天使羅法爾ラファエルよ・その行き先を示し給え】」曼荼羅と羅法爾ラファエルの『栄光ホド』を合一させ、「【――AMEN】!!」

 夜空に向かって残弾の四発全てを乱発する。『追尾ラファエル風撃・ショット』は黄色いヱーテル光を纏い、己の意志を持つが如く縦横無尽に軌道を変え、交戦中だった四体の丁種の眉間に命中する。

「器用なもんじゃのぅ。じゃが」下士官を立たせてやりながら、璃々栖が云う。「火力がまるで足りておらんようじゃぞ?」

「めっちゃヱーテル込めたんやで!?」

「込め方がなっとらんのじゃ。貸してみよ」

 云われるがまま懐からアーク天使エンジェル・バレット入りの弾倉を取り出すと、璃々栖がそれに口付けする。次の瞬間、

「あちちっ!?」弾倉が真っ白に輝き出す。

「さっさと撃て」

「う、うん」皆無は弾倉を村田銃に装填し、追尾ラファエル風撃・ショットの詠唱を行い、「【――AMEN】!!」

 引き金を引いた瞬間、そのあまりの反動に、皆無の体は後ろに吹っ飛んだ。受け身を取りつつも脳内詠唱の【もんじゅけいがん】で弾丸の行き先を確認すると、弾丸が、こちらに殺到しようとしているガーゴイルの頭部を粉砕せしめたところであった。

「あはっ、すっっっげぇ!!」皆無が年相応の子供のように笑う。

 璃々栖が満足げに微笑みながら、「良いからさっさと残りも撃て」

「せやった!」

 残りの四発も、きっちり四体の丁種達を屠った。

「さて」璃々栖が空を見上げる。探照灯サーチライトに照らし出された空では、残る丁種達が交戦を止め、上空の丙種――親玉ガーゴイルに合流しようとしているところだった。「彼奴きゃつら、そなたに狙いを定めたようじゃぞ?」

「ガァゴォオオ!!」咆哮とともに、丙種が丁種らと共に殺到してくる。

「璃々栖、お願いや!」慌てて新しい弾倉を取り出し、璃々栖に差し出す。

「仕方ないのぅ」云いつつも、璃々栖がさっさと口付けしてれる。

 追尾ラファエル風撃・ショットの詠唱を脳内で行い、「【――AMEN】!!」

 果たして五発の弾丸は四体の丁種を屠ったものの、丙種には傷一つ追わせられなかった。皆無は璃々栖を抱き上げ、脳内詠唱の【韋駄天の下駄】で夜空へと飛び上がる。

 道路に激突した丙種が、こちらに向かって羽ばたいて来る。

「投げるで」

「またか」

 空中で璃々栖を放し、より高威力のプリンシパリ使ティーズ・バレットを装填し、

「【大地より涌きでし七宝しちほうの瓶・十二天の一・地鎮の女神たる地天ぢてんよ】」銃口の先に地天の曼荼羅と、「【隠されしセフィラ・神の真意・大天使烏里爾ウリエルよ・悪しき魂を地獄に縛り付け給え】」セフィロトの樹を展開し、曼荼羅と烏里爾ウリエルの『知識ダアト』を合一させ、「【――AMEN】!!」

 銃口から発射された弾丸が緑色に輝く無数の鎖に変じ、丙種の体にまとわりつく。皆無がさらにもう四発撃つと、それらは四本の杭に変じ、鎖で巻きになった丙種の四方を引っかけ、海岸通りの一角へとい付ける。

「一丁上がり」

「さ、さっさと抱えんか! 落ちとるぞ!?」慌てる璃々栖と、

「はいはい」璃々栖でも慌てることがあるのか、と新鮮味を感じる皆無。出来るだけ優しく空中の璃々栖を抱き留め、【韋駄天の下駄】を展開させた脚で音も無く着地する。「璃々栖て運動得意そうやし、一人で着地出来たんちゃうん?」

莫迦ばかを云うな! 魔術も無しにあんな空の上から着地したら、脚が折れるわ!」

 それでも、折れるだけで済むらしい。

もんじゅけいがん】で海岸通りの方を探ると、丙種は全く身動きが取れない様子だった。

「じゃ先に怪我人の介抱や」

 皆無は璃々栖と共に夜空を駆け、外国人居留地の一角、最も重症と思しき三人組の前に着地する。果たしてそれは、愛すべき三人の莫迦ぶか達であった。

「何や、貴官らか」皆無が何気なく語りかけると、

「「「ヒッ……」」」三人の表情が恐怖に染まった。

(そっか……こいつらは、僕がもう人間やないことを知っとるんか)皆無は心を痛めつつも、まずは治療を優先する。「【釈迦しゃか如来にょらい脇侍わきじ・星宿光長者の薬壷・オン・ビセイシャラ・ジャヤ・ソワカ――治癒】」

 怯える三人の内、最も手ひどくやられている尉官に触れ、その傷を癒す。他の二人の傷も、跡形もなく治った。

「お世話に、なりました」皆無は三人から背を向ける。自分はもう、あの輪の中には戻れないのだと、痛いほど思い知らされた。


   †


「じゃあこいつを始末するか」海岸通りに戻り、丙種悪魔デビルを見上げる。「下手な威力の攻撃で、鎖だけ外れでもしたら困るし……」隣に立つ璃々栖へ、虎の子の熾天使セラフィムバレットの弾倉を差し出し、「璃々栖、またお願い出来る?」

「さっきから思っておったのじゃが……悪魔化デビライズすれば、このような雑魚、容易くひねりつぶせるぞ?」

「ひっ」悪魔化デビライズした時の、激痛と共に肉体を改造される恐怖を思い出す。

「あぁ、なるほど。あのようになるのは初回だけじゃから安心せよ」

「え、そうなん?」

「と云うわけで、まずは口付けの練習じゃぁ」

 璃々栖の悪魔的な微笑みに、顔を引きつらせる皆無。周囲では、探照灯サーチライトに照らし出された自分達を、兵達が遠巻きに眺めている。

「下らん羞恥心など捨てよ」

「わ、分かったから」皆無は唇を突き出し、顔を赤くして目を閉じる。「ん、ん~……」

「女か!」璃々栖に頭突きされた。「男じゃったらこう、ガッと来んか!」

「うぅぅ……」皆無は目を閉じて真っ赤になりながらも、背伸びをして自分から璃々栖の唇に吸い付く。既に何度か経験した、甘くドロリとした高濃度ヱーテルが喉に流し込まれ、胃を犯し、腸に至り、丹田に留まる。そして襲い掛かってくる、猛烈なヱーテル酔い。「おえぇ……」

「シャキっとせい」

 よろけると、璃々栖がその悪魔的乳房で支えてれる。悪魔的に良い匂い。

「意識を集中し、悪魔デビルの姿となった己を想像するのじゃ」

悪魔化デビライズした時、どんな姿やったんか覚えてへん」

「山羊のつの、長く鋭い爪、隆々たる筋骨、蠍の尾、余と同じ真っ赤な瞳、尖った牙」

「え、何、山羊の角? 角…角……」ひとまず『角』から想像する。山羊のようなねじれた角。丹田のヱーテルが頭の先にすっと抜けていく感覚があり、

「おぉ、出てきたのぅ」

 璃々栖の云う通り、皆無の頭から、二本の禍々しい角が生えた。

 皆無よりも一回り背丈の高い璃々栖が、顎でその角に触れようとするが、「ありゃ?」すり抜ける。「何じゃ皆無、受肉マテリアライズ出来ておらぬではないか。これでは局所的な悪霊化デモナイズ留まりじゃ。まぁこの状態だけでも、相当な魔力操作力向上が成っているはずじゃ。ほれ、魔力を込めて撃ってみよ」

「う、うん」熾天使セラフィムバレットの弾倉を左手でぐっと握り込むと、弾倉が直視できないほどの強烈な光を放ち始める。念の為、海側かつ桟橋が無い方角が狙える位置に回り込み、至近距離から見上げるようにして丙種の巨躯きょくへ銃口を向け、引き金を引く。「AMEN!」


 瞬間、神戸港に昼が訪れた。


 太陽かと見まごうばかりの巨大な火の玉が銃口から飛び出し、目の前の悪魔デビルの胴体に大穴を空け、そのまま海の向こうへと飛んでいき、夜を照らし上げ、その衝撃波が海を真っ二つに割った。

「えぇぇえええッ!?」皆無は己がしでかした所業に卒倒しそうになる。慌てて【もんじゅけいがん】で弾丸の飛んで行く先を探査してみれば、幸いにも――本当に、本当に幸いにも――弾丸を喰らった船は居なかった。が、そこかしこで停泊している船が激しい波で引っ繰り返りそうになっている。


 いつの間にか現れた父と一緒に、夜通し港を駆け回り、海へ投げ出された人々の救助活動に当たった。


   †


》同月三日〇三四〇マルサンヨンマル 神戸鎮台ちんだい ――阿ノ玖多羅あのくたら正覚しょうがく


「この大莫迦ばか者めがッ!」神戸鎮台――洋風二階建ての施設の一室。陸軍第零師団の中枢の中枢、拾月じゅうげつ中将の書斎にて。正覚の、息子とレディ・璃々栖の戦いぶりとその後の人災ハプニングについての報告を聞いて、拾月中将が顔を真っ赤に染め上げて怒鳴り散らした。「外国の船も泊まっておるのだぞ!? 国際問題にするつもりか!」

 確かに、息子の不用意な――丙種悪魔デビルをたったの一発で屠った――弾丸が外国船にかすりでもしていたら、いや、あのなみの中で船舶の一つでも転覆していれば、立派な国際問題になっていた。それでなくても日本は今、【神戸港結界】を失い、各国の船を危険にさらしていることについて列強各国から厳しい非難を受けているのだ。

「まぁまぁ……彼らも反省しておりますし、それに、結果として兵士・民間人共に死者どころか負傷者ゼロで乗り切れたんですから」

「少将! 貴様やけにこの甲種悪魔デビルの肩を持つな?」拾月中将――薩摩出身であるという理由だけで第零師団長の座についているこの小心者が、レディ・璃々栖に関する報告書をばんばんと叩く。「前々から思っていたのだが、貴様からは瘴気しょうきを感じる。よもや十三年前にモスを撃退した時に、彼奴きゃつの邪気で感情アストラル体が汚染されてやいないだろうな!?」

「閣下は私めの、この十三年間の献身的な働きをお疑いになるので?」

「ぐっ……」拾月中将が苦虫を嚙み潰したような顔になり、「と、とにかく! 一週間後の観艦式の日まで、あの悪魔デビルと使い魔のことはしっかりと監視しておくように!」

「はっ」正覚は直立し、敬礼した。右の義腕は動かないので、左腕で。


   †


》同日〇三四五マルサンヨンゴー 外国人居留地 屋敷の浴室 ――阿ノ玖多羅あのくたら皆無かいな


「こ、この淫乱女夢魔サキュバス!」またぞろ乳房の下やらを執拗に洗わせようと命じてくる璃々栖の、その悪魔的所業に皆無が悲鳴を上げる。

「失敬な、余は女夢魔サキュバスではないぞ? ほれ、次は股下じゃぁ」

「ひぃっ」


   †


 そんな風にして、一週間が過ぎた。

 夜は戦い、璃々栖を風呂に入れ、同じ部屋で眠り、食事を摂り、今や皆無と璃々栖が起臥きがする城――監獄とも云う――となった『パリM.外国E.宣教会P.』神戸支部の屋敷で璃々栖から魔術を学んだ。

 不安はあったが、楽しくもあった。そんな毎日の中で皆無はどうしようもないほどに、璃々栖の魅力に溺れていった。

 幸せだった。幸せだったのだ。

 ――四月十日の夜、人生の岐路に立たされることになる、その時までは。





   † 





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