SNOW GLOBE -怪談 雪女-

アユ・シェパード

起の章 第1話

血流が異様な熱を帯びた感覚を覚えた瞬間、強烈な吐き気が込み上げた。同時に反射的に動いたはずの指先が正確にベルトを捉える。首に食い込むベルトを外そうとすると、爪が皮膚をえぐった。

ベルトを外して床に倒れこんだと同時に、嘔吐する。

気がつくと、俺は胃液を口から垂れ流し、床に仰向けになりながらドアノブから垂れ下がるベルトを眺めてた。


仙台駅西口から近い、1泊7000円ほどのビジネスホテルの部屋。決心するまで時間がかかった。何泊してるのかも忘れてしまった程に。だというのに、結局、ホテルの部屋の床を嘔吐物で散らかしただけという自分に嫌気がさす。

怖気付いたのだ。心の痛み程、辛いものはないと思っていた。しかし、俺は肉体的な苦痛に悲鳴をあげ、それに恐怖した。その結果がこれだ。人間を心の弱さで順位分けしたら、俺は下から数えた方が早いだろう。だが、逆を言えば、それは生物が持つ強さでもあるだろう。DNAに深く組み込まれたように生きることをプログラムされているのだ。だから、生きようとするため人間は苦痛を覚え恐怖する。


いつか、女に殺される。学生時代からの友人が俺に言った言葉だ。そいつは上に兄が二人いた。二人の兄は有名大学に進学するほど頭が良かったが、そいつは高校を卒業すると自動車工場に就職した。地元の仲間とやさぐれていたが、そいつの頭の良さを俺は知っている。進学しようと就職しようと元々に頭の良い奴は頭が良いのだ。俺が、そいつの言った言葉の重さに気がついたのは何年も後だった。


俺は申し訳ないと反省しながら部屋の床を掃除した後、頭を冷やすために外に出た。ホテルを出た瞬間、冷気が頰を刺激する。宮城県の南に位置する仙台と言っても12月にもなると厳しい寒さを感じる。厚手のジーンズ、ブーツ、セーターにチェック柄のマフラー、そして、くすんだワインレッドのライダースジャケットを着ていても寒い。本革のライダースジャケットだったら少しは今より暖かく感じるのかもしれないが、どうも本革というのは動物に悪い感じがして好きではなかった。自分は肉も食べるし、動物愛護団体にも入っているわけではない。ただ、動物に悪いと思ったり、可哀想と思ってまで着飾る気持ちがしないだけだった。

すっかり日が暮れるのが早くなった夕方の薄暗い空と冷えた空気に冬を感じる。


せっかく外に出たから食事でもしようかと思ったが、もう少し外の冷えた空気で頭を冷やそうと駅前の喫煙所に向かった。今のご時世、数少ない喫煙所だが駅前に今も一つ存在している。駅前のブリッジ状に広がる通路の階段を降りると喫煙所内は普段より人が少なく感じられた。その喫煙所は外に設置された簡単な板で区切られただけのものだった。

日に10本程度だったタバコも、最近は倍の量になっていた。

駅前の喫煙所と映画館は似ている様に思える。映画は主人公の人生を描き出す。映画館では毎日色々な人物の人生が上映されているのだ。そして、駅前だけあって、この喫煙所内でも色々な人物の人生が垣間見ることが出来る。サラリーマンだけでも、仕事帰りで疲れている者がいたと思えば、家に帰りにくそうに時間を潰している者。どこから金が湧いてくるのか派手なコートにブランド物の買い物袋を脇に抱えた若い女がいたと思えば、その横で申し訳なさそうに俯く大学生ほどの地味な女もいた。人それぞれ人生という映画がある。

そんな事を考えていると嫌な考えが頭をよぎった。もしかしたら、俺が周りを眺めながら考えていた様に、周りの人間も俺を見て、俺は自殺に失敗した男という風に考えてるかもしれない。

すぐに馬鹿げた考えだと我に帰ったが、嫌な寒さを覚え急ぎ足で喫煙所を後にした。


日本国内でも大都市に分類されることもある仙台だが、街はコンパクトに作られており地下鉄やタクシー、バスなどを使わなくても一通り徒歩で周れる。逆に徒歩の方が美しい街並みを楽しむことが出来るので観光に向いている都市と言えるだろう。

駅から伸びる、人通りの多い賑やかなアーケード街を避けて広瀬通りから国分町方向に向かうことにした。国分町とは仙台一の繁華街で呑み屋、スナック、バーなどがひしめく場所だ。駅からは徒歩で20分ほどで、昼間は乾いた空気によどんだ印象だが夜になるとネオンに染まり活発になる。

俺は普段、駅前や中心部で食事を済ませ、国分町に行くことは少ないが、たまに行く場所がある。数えるほどしか行ったことはなく、行きつけとまでは言えないが、国分町の一角に佇む水タバコバーだ。

水タバコというものは香りのついたタバコをアルミホイル越しに炭で炙り、その煙を美しいガラス細工が施された瓶の中に注がれた水で越して楽しむというものだ。水タバコ単体のバーもあれば、中東料理専門店などでも楽しむことが出来る。

俺は、そこで軽い食事と水タバコを楽しむことにした。

向かう途中、俺は足を止めた。広い通りの真ん中に並木が100メートルほど続いている。

「もうすぐ、光のページェントの季節か……」

仙台の冬のイベントで光のページェントというものがある。文字通り、イルミネーションで通りが美しく照らされるのだ。並木に飾られた数え切れないほどのライトが通りをシャンパンゴールドに染める。その幻想的な美しさに息を飲んだ記憶が頭の中で蘇ったが、今の自分の状況を考えて我に返った。

自分には特に関係のないイベントだ。心臓の奥が痛痒いような感覚と同時に感傷的な気持ちが湧いてきた。そして、頭の中で違うイメージが湧きだす。もしも、今、この瞬間に心も体も水のように溶けて消えることが出来たら。それは、どれだけ楽なことか。自分の体がザザーッと音を出してアスファルト上に崩れ、そして意識が消えてゆく。

そんなこと出来るはずもないのに。


水タバコバーに客は数人ほどしかいなかった。店内は狭く、テーブル席が2台にカウンター席だけという作りだったが美しい装飾と温かい店内の雰囲気が心を少し落ち着かせてくれた。

カウンター席に腰掛けるとすぐに、温かいスープと赤ワインを注文する。間もなくしてスープと赤ワインが運ばれてきた。そして、グラスワインを一口飲んだ後、鞄から一冊の本を取り出した。

ラフカディオ・ハーンの「怪談」という本だ。その何度も読み返した本の中でも特に好きな話が雪女についての話だった。日本の民話や伝承を元に書き上げられた物語は恐怖と同時に美しさも覚えるほどだ。昔、何かの合宿先の部屋でテレビをつけた時に古い映画を観た。それはラフカディオ・ハーンの「怪談」を元に作られた映画で、俺は心の底から恐怖したのを覚えている。しかし、月日が経ち大人になって原作を読み返してみると少し違った感覚を覚えた。100年以上前にラフカディオ・ハーンによって描かれた物語には恐怖と美しさがある。俺は物書きの端くれだが、そんな俺でさえ「怪談」の洗礼された美しさと恐怖に震えた。それから俺は、時間があれば本を読み返すようになる。


気がつくと、だいぶ時間が経っていた。冷め始めていたスープを急いで飲み干して水タバコを頼む。

運ばれてきた大きな花瓶のようにも見える水タバコの瓶は淡いブルーに花柄のような装飾が施されていて美しい。

ボコボコという音を出しながら瓶の中の水でろ過された煙を吸うとオレンジの香りが鼻腔に広がる。深く吸いすぎたのか頭が少しぼんやりする。水タバコは香りが良いので急いで深く吸ってしまうことがあるが、それは少し危険で、水タバコを吸う時はゆっくりと香りを楽しめるほどの深さにすることが大事だ。

一般的に知られた普通のタバコと違い、水タバコは煙ではなく香りを楽しむ。中ぐらいの大きさの水タバコだと使うタバコの量にもよるが1時間ほど香りを楽しめる。

カフェでコーヒーを飲みながら読書するのも良いが、俺は特に水タバコの香りを楽しみながら読書する時が贅沢な時間を過ごしているようで好きだ。


オレンジの香りが薄くなったので会計を済ませた。店を出ると外は一段と冷え込んでいた。国分町はネオンに染まり賑やかだ。その賑やかさが自分の侘しさを増大させる。タクシーを使ってホテルまで戻ってしまおうか?そう思ったが、すぐに考え直して歩き出した。

ネオンが眩しく騒がしい国分町を早足で抜けると街の色が一気に暗さを増す。

寒さが厳しい、途中でホットの缶コーヒーでも買って飲もう。

コンビニで熱い缶コーヒーを買ったが、素手で持つのも辛さを覚えるほどの熱い缶コーヒーは、外に出てから数分で冷め始めた。半分も飲んでないのにぬるくなった缶コーヒーを飲みながら歩いていると通りの先に自分が泊まるホテルの看板が見えてきた。


ホテルに戻ってフロント前を通ると、ビジネスマンが数人チェックインの手続きをしているようだった。仙台まで出張だろうか?このホテルは比較的にチェックインの手続きが早い。フロント係の効率的な対応も理由だが、清算からカードキーの受け渡しを機械で行なっているからだ。エレベーターに乗って自分の利用する部屋がある階へのボタンを押す。その時、チェックインをしている団体を待っていようか考えた。俺は気が利かない男だとつくづく思う。何にしても、気がつくのが遅いのだ。エレベーターのドアがすぐ閉まり、上階へ上がっていく。

自分の利用する部屋のある階に付きエレベーターのドアがゆっくり開いた。角部屋だったので長い廊下を進んでいると、若い女の喘ぎ声が聞こえた。どの部屋だろうか。ビジネスホテルではよくあることだ。喘ぎ声が聞きたくないなら、ランクの高い部屋が並ぶ静かな階を利用するか、高級ホテルに変えるか。しかし、このホテルは平均的なビジネスホテルより料金も部屋の質も高く、部屋に入れば音が気になることはない。廊下で聞いた女の喘ぎ声だが、よっぽどの声量なのだろう。泣き声にも似た日本人独特の喘ぎ声が耳にこびりつく。


自分の部屋の前に着くと、カードキーで部屋のドアを開ける。部屋に入り、ルームライトを点けるとジャケットを脱いだ。すっかり、冷え込んだ。シャワーじゃなく風呂にでも入ろう。平均的なビジネスホテルに比べると大きいバスタブにお湯を張り始める。この大きさだと湯を張り終えるまで少し時間がかかるだろう。

机の上に置きっ放しにしていた缶チューハイを飲みながら窓の外を眺める。再びこみ上げる侘しさと心臓のそこに覚える心の痛みであろう痛痒さ。結局、今日も何も出来なかった。

缶チューハイを飲み終えてバスルームに向かうと、バスタブの湯が丁度いいくらいになっていた。

湯船に肩まで浸かると熱めのお湯で皮膚が痺れる。それが心地よかった。俺の身長だとバスタブの大きさで足が伸ばせないが、冷えた体を温めるには十分だ。しかし、今日は寒かったな。その時、俺は気がついた。その尋常ではない考えに震えを覚えた。

……寒さだ。

何で気が付かなかったんだ? 寒さだったら……冬の厳しい気候を利用すればいいんじゃないか。首に食い込むベルトで苦痛を味わいながらホテルの床を嘔吐物で散らかして自殺に失敗するよりも、自然の寒さで凍えて眠る方が効率的だ。寒さも苦痛と言えるかもしれないが、それよりも、自然の中だったら誰にも迷惑をかけずに済む。

だが、そうとなると場所選びが重要だ。自然といっても、何処でもいいわけじゃない。温度が氷点下を下回り、特に厳しい場所。雪山だろう。

ふと、雪女の話を思い出す同時に鮮やかなイメージが広がった。凍てつく氷点下の白い世界。人間の叫び声にも、動物の雄叫びのようにも聞こえる吹雪の音。遠くに長い黒髪を風になびかせる着物姿の女が立っている。絶え間無く降り注ぐ大粒の雪で着物の柄まではよくわからない。女が近づいてくる。しかし、それは妙で不自然な動きだ。その動きは、まるで直線にスライドして近づいてきてるようだ。雪女だ。そして、俺の体が凍ってゆく。白い氷点下の世界の中で。

熱い湯船の中だというのに一瞬寒気が走って、俺は我に返った。長風呂をするつもりでは無かったが妙な寒気の感覚が脳にこびりついていたので、もう少し湯船に浸かっていることにした。その後、体が温まるまで時間がかかったのは言うまでもない。


風呂を上がった後も酒を飲もうと思っていたが、代わりに温かいコーヒーにした。タバコを吸いながらコーヒーを用意する。そして、俺は自分の手が震えてることに気がついた。

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