二度と関わらないでください

プラナリア

前編

 玄関のドアを開けようとしたら、ママの泣き声がした。


 「二度と関わらないでください!」


 ガチャンとドアが開き、困り顔のおじさんが出てきた。知らない人だけど、薄青ねずみ色(という色があるかは知らないけど、そんな感じの色)のジャンパーは、区役所の人だろう。白髪のおじさんはドアを閉じて溜息をつき、私に気付いてたじろいだ。


 「お疲れさんです」


 対峙した私とおじさんに、のんびりした声が掛かった。見なくても分かる、土屋さんだ。おじさんがホッとした顔になる。お揃いのジャンパーを着た土屋さんは、おじさんよりもうちょっと若い「おじさん」だ。

 「三石さん、どんなでしたか」

 「担当交代のご挨拶に来たんですけどね。途中で怒り出されて……『二度と関わるな』ですよ」

 「初対面の相手は苦手ですからね。皆、その洗礼受けますよ。男性だと尚更。保護課には会わないといけないって、頑張って会われたんでしょう」

 「DVもあったから、仕方ないんでしょうけどね。しかし、本当に情緒不安定な方だ」

 土屋さんがそっと私に視線を向ける。おじさんは急に黙って「お先に」と退散した。こどもの前でする話じゃない、ということなんだろう。言葉の意味は分からなくても、ニュアンスは伝わっちゃった気がするけど。

 「唯ちゃん、元気か」

 土屋さんがくしゃっと笑った。久しぶりだなと思う。土屋さんは、私が保育園の頃から家に来る。ママの話を聞いたり、一緒に区役所で手続きをしたり。小さい頃は、土屋さんが私のお絵描きを褒めてくれるのが嬉しかった。未だに、何故家に来るのか分からないけど。

 「ママに会いに来たの?」

 「うん。でもタイミング悪いから出直す。俺もこないだ『二度と関わらないでください』って言われたとこだからな。今会ったら同じ台詞を言わせちまう」

 「……土屋さんも言われるんだ」

 「おぅ、年一回は言われる」

 私が黙り込んだら、ぽんぽんと土屋さんの手が頭に乗った。思わず振り払う。

 「やめてよ、こども扱いして」

 「小4だろ。こどもじゃねぇか」

 もう何も分からないこどもじゃない。そう言いたかったけど、変わらない笑顔を見たら言えなかった。土屋さんは目を細める。

 「いいんだ。あの台詞を言うのは、三石さんなりの理由がある。俺はすぐ調子に乗るから、三石さんに喝入れてもらう方がいいんだ。少しは考えろってことだ」

 黙ったままの私に、独り言みたいに土屋さんは呟く。

 「三石さんは『関わらないでください』って言うのが凄いよな。普通は、関わるな! って怒鳴りつけるとこだろ。でもあの人はギリギリで抑えるんだ。そういう人なんだな」

 またな、と土屋さんは自転車に乗って去っていった。私は回れ右して、ぶらぶら歩きだす。

 家に区役所の人が来るのは、ホゴを受けているのと関係あるんだろう。ママは月末「ホゴヒが足りない」と難しい顔になり、月初めは「ホゴヒが入った」と明るい顔になる。普通の家は、ママかパパが働いてお金をもらう。ウチはママだけだし、働いていない。というか、あれでは働けないと思う。つまり、ウチは普通じゃない。

 近所の公園に着いた。ブランコと滑り台と、草ぼうぼうのグラウンドしか無いけど、いつも空いてて私のお気に入りだ。滑り台の階段を昇ると、重いランドセルが肩に食い込んだ。てっぺんで空を見上げる。

 ママはまだ泣いているだろう。区役所の人達は知らないけれど、怒鳴った後のママはすごく落ち込む。ごめんなさい、と言いながら泣くこともある。私が何を言っても耳に入らない。一人にしてあげた方がいいのだと、分かってきたのだ。

 滑り台の上を、そよそよと風が吹き抜ける。

 私はもう、こどもじゃない。


 家に帰るとママは赤い瞳で、それでも笑顔で「おかえりなさい」と出てきた。一応落ち着いたらしい。ホッとする。

 「今日は遅かったのね」

 「クラブの日だから」

 そう、とママは頷く。ママはすぐ騙される。クラブがある曜日を覚えていないのだ。ママがそんなだから、私はどんどん嘘つきになってしまう。

 いつものように宿題をして、ママに丸付けを頼む。ママは算数ドリルの答を見ながら丸付けしてくれるけど、漢字帳はすぐ花丸をつけてしまう。去年の先生からは「間違った漢字はちゃんとやり直しをしてね」と注意され、ママに間違いは直してほしいとお願いした。今は、私は何も言わない。ママは、私が勉強している漢字が分からないのだと気付いたからだ。今年の先生は、間違いがあれば黙って赤で書き直してくれるから助かる。

 「唯は字が上手。すごいね」

 優しくママは笑う。毎日、ママはとても丁寧に私のノートに花丸を書き込む。私は漢字を間違えないよう、すごく頑張っている。ママの花丸が、本当の花丸になるように。


 夕飯はカレーだった。二人分には多い、大鍋いっぱいのカレー。ママは料理が「あまり好きじゃない」らしく、3日同じメニューだったりする。私は気にしない。ソースをかけたりチーズをかけたり、どんな味に変わるかママと実験するのは楽しい。

 「洗面所の電球が消えたから、電器屋さんで買ってきたの」

 「チカチカしてたもんね」

 「マイナスイオンのドライヤーが安くなってたから、買っちゃった。髪がさらさらになるんだって」

 「……月末なのに大丈夫?」

 「今月は大丈夫よ。あと一週間でホゴヒだもの」

 ママはニコニコしている。私は心の中で大丈夫かなぁと思う。ママは考えなしなところがあって、後で「こんな筈じゃなかった」ってなることもあるから。

 「今日、学校で集金袋もらったよ」

 私の一言に、さっとママの顔が青ざめる。やっぱり。食事中だったけど、ママに言われて集金袋を渡す。金額を見て、ママは「大丈夫よ」と笑った。やっと私はホッとする。

 「忘れないうちに、お金入れないと」

 忘れん坊なママは、いそいそとバックを取り出した。そして短い悲鳴を上げた。

 「ママ?」

 嫌な予感しかしない。近寄ると、ママがギギギッと顔を私に向けた。

 「お財布が、無い」

 「は?」

 ママのバックを覗き込む。可愛い黒猫がついたお財布が迷子だ。鍵の入った小さなポーチだけ、バックの底にぽつんと転がっている。

 「どうしよう……」

 ママは瞳を大きく見開いて、はぁはぁ言い始めた。興奮すると、ホッサが起きてしまうかもしれない。私はママの背中をゆっくりさする。

 「ママ、大丈夫だよ。一緒に探そう」

 ママは頷いて、リビングの物を手当たり次第に投げながら探し始めた。キッチン、寝室、玄関。二人で思いつく限りの場所を探し、トイレの中まで覗いたけれど、黒猫はどこにもいない。

 「電器屋さんかもしれない」

 飛び出したママを追いかけて、私も外に出る。もう真っ暗だ。余計に心細くなって、泣きたくなるのを堪える。

 案の定、ママはお店でパニックになり、店員さんの前で固まってしまった。代わりに私が聞いたけど、誰もお財布を知らなかった。

 私とママは、とぼとぼと家までの道を歩いた。お月様に照らされたママの横顔は、小さなこどもみたいに頼りない。

 「ごめんね……」

 ママが鼻水を啜りながら呟く。私はママの手を握った。

 「あと一週間だよ。どうにかなるって。カレーだってまだ一杯あるし」

 冷たいママの手をあっためるみたいに、ぎゅっと握りしめる。

 今までも、ホゴヒが足りなくなることはあった。食事がふりかけご飯だったり、カップ麺だったり。二人で「あとちょっとガマンだね」って言ってきた。でも、今までで一番長いガマンになりそうだ。

 「あ……お米、もうすぐ無くなっちゃう……」

 「大丈夫だよ、ママ」

 大丈夫。魔法の言葉みたいに繰り返す。

 嗚咽を堪えるママに、心の中で話しかける。

 私がいるから大丈夫。だからもう、泣かないで。


 ママがお風呂に入っている間に、本棚からこっそり一冊抜き出した。

 ママの育児日誌。私が生まれてからの記録。ミルクの時間やおむつ替えの回数なんかが一日毎に書き込まれている。ママ以外の人の書き込みもたくさんある。

 ママは一人で私を産んだ。でも、保健師さんや看護師さん、いろんな人が家に来て手伝ってくれたのだと言っていた。

 よる、ねてくれない。げっぷがうまくだせない。はじめてねがえりした。わらうとすごくかわいい。

 丁寧に書き込まれたママの字。応援のメッセージ。

 ノートを眺めていると、少しだけ気持ちが柔らかくなった。

 大好きなママ。

 私、頑張るから。呟くと、ほんのちょっとだけ強くなれる気がした。

 

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