それは案外、目の前に。
横銭 正宗
第1話
人との距離感は、いつだって難しい。
詰めすぎてはいないか、逆に離れすぎてはいないか。他人と接する機会があるたびに、そんな風に自分の立ち位置を気にしてしまうものだ。
…特に、俺のように目の悪い者は。
「距離感って、物理的な意味ですか…」
目の前の人物がため息をつく。こいつは佐々木という名前で、年齢的には俺の一学年後輩に当たる。
狭い部屋で二人きりだと、距離感が難しいなぁなんてつぶやきも、はっきりと聞こえてしまうものだ。
なぜ年下の女の子と二人きりなのか。
それはありていに言えば、部活の時間だからだ。
大きさだけは第一校舎よりも大きいものの、老朽化と立地のせいで日陰という不名誉な通称で呼ばれている第二校舎。
その一角に部室を構え、昔からあるというだけでどんなに部員が少なくとも活動を続けられる日陰クラブ、文芸部。
そのたった二人の部員が、俺と佐々木。通称は日陰者。
「これでも俺は真剣に悩んでるんだけどなぁ」
チェアをくるんと回し、佐々木と向かい合う。
「文芸部の部長が『人との距離感は難しい…』なんて言い出したら、どんな思いを込めた言葉なんだろう、お友達かな、それとも彼女!?…って、思うものじゃないですか」
大げさに身振り手振りを交えながら、佐々木は語る。
別に小説を書く人間だって、すべての言葉を奥ゆかしく表現するわけじゃない。
「…そんなくだらない話よりも、今月の図書室だよりの原稿は作ったんですか?これも文芸部の大事な活動なんですから、ちゃんとやらなきゃダメですよ」
俺のモニターに表示されている画面が新人賞用の小説原稿なのを見て、佐々木はたしなめるように言う。俺はすぐさま図書室だよりの原稿ページを開いて反論する。
「ざ~んね~ん、優秀な文芸部部長サマは今月のノルマ終えてるんだよな~」
佐々木はそのページをちらりと見て、モニターの中央をとんとんと叩きながら言う。
「ざ~んね~ん、今月の新作は『隔離病棟303号室』じゃなくて『隔離病棟030号室です。優秀な文芸部副部長サマがいてよかったですね?」
俺は自分のミスを何度も確認する。
ぐぬぬ…悔しいが、何も言い返せない。
該当部分を削除し、正しい作品名を打ち込む。
どうせなら、と思い、原稿を一枚コピーする。
文章と白黒の写真だけの簡素な原稿用紙。
俺はそれを自分の机に置いて、絵を描くことにした。
雪景色と、桜吹雪。実際に共存するのは難しくても、絵ならそれを表現できる。
だから、俺は絵が好きだ。
「先輩って、絵上手ですよね。なんで美術部に入らなかったんですか?」
俺の手元をのぞき込んで、佐々木が言う。
「絵はお金がかかるから、かなぁ」
佐々木はふ~ん?と、納得がいったのかいっていないのかよくわからない声を出して、自分の席に戻った。
「そういう佐々木は、なんで文芸部に入ったの?」
「私ですか?私は…先輩がいるから、ですかねぇ」
俺がピタっと静止したのを見て、佐々木は笑う。
「お前…じゃあ、俺がもしバレー部だったら?」
「マネージャーをします」
佐々木はそう言われるとわかっていたかのように、間髪を入れずに返す。
「吹奏楽部だったら?」
「同じ楽器を演奏します。先輩の隣で」
「……帰宅部だったら?」
佐々木は振り返って、にっこりと笑う。
「その時は、一緒に帰りましょう」
…そのセリフは格好いいが、要はこいつ、俺がいる部活なら何でもいいのか?
「あ、でも心配しないでくださいね?私、小説は大好きですから」
それは、普段の姿勢で十分感じている。
佐々木は自分ではあまり小説を書かないが、しっかりと校正をしてくれる。特に、一作の中で句点や読点の位置が安定しない俺にとって、読者目線での校正はありがたい。
読み終えて感想を聞いた時も、俺の伝えたいことを読み取ってくれるし、そのうえでアドバイスもくれる。多分、小説を読み慣れているんだろうと思う。
「そういえば、佐々木が読書にはまり始めたきっかけの本って何なの?」
「あれ、言ってませんでしたっけ」
記憶をたどってはみるが、聞いた覚えはない。
「先輩が去年の四月に新歓で配ってた本ですよ」
去年の四月…?あんまり記憶にないな。
「初めて好きになった女の子が遠くに引っ越すことになっちゃって、主人公はその女の子が自分のことを好きだって知らないんです。だから最後の日に女の子が家に来ても行かないでって言えずに…っていう話です」
あぁ、そうか。その話か。
俺が自信をもって書いて、あまりにも受け取ってもらえずに仕舞おうとしたら一人受け取ってくれて、その人がその場で読んで面白いって言ってくれて、それからみんな手に取ってくれたんだった。
「私はその時は小説にはあまり興味がなくて。でも先輩の書いた本だから読んだんですけど、すごく面白くて。それからいろんな小説を読むようになりました」
佐々木は、俺の小説からいろんな小説を読もうと思ってくれたんだな。なんだか物書きの本望みたいで、すごく嬉しい。
「そういえばあれ以来恋愛小説って書いてないですよね?先輩の恋愛小説、また読みたいなぁ」
恋愛小説、ねぇ。
書いていないというよりも、書けないが正しいかな。俺は口に出さず、そう思った。
今日の会話の中で、思い出したくもない記憶が蘇ってしまった。
俺は真っ白な原稿を眺めながら、それを忘れることだけに没頭していた。
「私、先輩の小説で描かれてる恋愛観、好きですよ」
「…悪いけど、書きたくないんだ」
俺の頭によぎるのは、痛々しい思い出だけ。
だから俺の恋愛観は、ぐしゃぐしゃになって戻らない。
「でも、原稿進んでないじゃないですか。恋愛は目新しさはないけど人気のジャンルだしいいと思うんですよ」
「…書きたくても、書けないんだよ」
俺はそう言い残し、足早に部室を出る。
季節は十月。年内締切の新人賞が、俺にとっては最後のチャンスで。
それなのに原稿は、一ページどころか一文字も書けていない。
俺の錆びきった感性では、おもしろいものは書けない。
毎日徹夜しようが、毎日読書をしようが。
至る結論はいつも同じ。
俺には恋愛小説は書けない。
素朴でいい。簡素でいい。
それでも。
百万人に一人でも、俺の小説が刺さってくれれば。
俺の理想像に、共感してくれれば。
そう願って、そうあろうと努力して、毎日文章を書いたって、頭に浮かぶのはあの文字。
『この作品の恋愛観は、なんかこう、傲慢。恋愛をしたことがなさそう』
涙がこぼれた。そんな言葉で折れてしまう俺の芯の弱さが、情けなくて。
本当は百万人に一人でも、なんて思ってないんじゃないか。
そんな自己否定の繰り返し。
正直キーボードを叩くのすら、俺にとっては苦痛だった。
それでも小説は書き続けた。
文章の美しさを追い求めて、純文学に寄せてみたり。
一方の理想を押し付けて終われるように、ヒロインの自殺からストーリーを組み立ててみたり。
…そんなことができるほど、俺は器用じゃなかった。
いつだって根底にあるのは綺麗事で、恋を中心に回る世界だった。
俺がそれにこだわるのは、他でもない俺自身に、憧れがあったから。
相手を目で追ってしまう、生まれたての恋心に。目が合うと逸らしてしまう、いじらしさに。両片思いが起こすすれ違いのもどかしさに。互いの意見が食い違っても、最終的には落としどころを見つけられる相互理解に。お互いがお互いなしでは生きていけないと強く思う共依存に。
「先輩!!」
気が付くと、目の前に佐々木がいた。
いつのまにか着いていたのは、食堂横の自動販売機だった。
「先輩は、悔しくないんですか。自分の恋愛観を馬鹿にされたことが。自分の小説で言いたかったことを否定されたのが」
…なんでお前が、泣きそうなんだよ。
泣かないでくれよ。俺なんかのために。
「私は悔しいですよ。私が大好きな小説が否定されたのも。私が大好きな価値観を否定されたのも。何よりも」
佐々木は大きく息を吸い込んだ。そして、叫んだ。
「私が大好きな先輩を否定されたのが、一番悔しいです!」
そう言い切って、佐々木は校舎の方に走っていった。
俺はしばらく呆然と、佐々木の言ったことを咀嚼していた。
…なんなんだよ、アイツ。
俺には理解できなかった。佐々木が俺よりも悔しそうにする意味が。
佐々木が俺を、こんなに好いてくれる意味が。
俺は自販機で緑茶を買い、一気に飲み干した。
のぼせあがっていた頭が、急速に冷えるのを感じる。
…飛び出してきたせいで、荷物を忘れていた。
冷静さを取り戻し、部室に戻る。
パソコンは二つとも電源が着いたままで、俺のモニターには文化祭の作品展示部門の講評コメントが映し出されていた。
その中にたった一つだけある、俺がキーボードを叩く度に浮かんでくる文字。
それは美術部部長のコメントだった。
アイツはこれを見て、あんなに怒っていたのか。
その文字は編集されていて、斜線が入っていた。
モニターの端に付箋が張られている。
『うるせーばーーーーーーか!』
雑な字で、大きく書いてある。
なぜだかそれを見ると、元気が湧いてきた。
佐々木のモニターも確認する。
そこには、俺の書いた原稿が映し出されていた。
スクロールしていくと、赤文字で感想が書かれていた。
『誰が何と言おうと、私の中の一番!』
ははは。
何が、百万人に一人だよ。
いるもんだな、案外近くに。
俺の小説が刺さった一人っていうのは。
おせっかいで、うざったくて、何をやるにもいちいち俺に話しかけてきて。
それでも俺の小説をちゃんと読んでくれて、感想をくれて、応援をしてくれる。
気づけば俺は走り出していた。
階段を降り、渡り廊下を抜けたところに、佐々木はいた。
「佐々木!」
佐々木は振り向いたが、すぐに向き直して先へ進もうとする。関係ないよ、そんなの。
「絶対!見返してやるからな!」
俺はその日から、毎日原稿を書いた。まだ浮かんでくる文字列には斜線を引いて、うるせぇバーカと打ち消して。
佐々木は原稿が完成するまでの間、一度も部室に顔を出さなかった。
完成した原稿は恋愛もの。
大事な人は案外近くにいるもんだという、簡素な内容。
でも俺はその出来に満足していた。
俺には、この小説を心待ちにしてくれている人がいるから。
その日、佐々木は部室に顔を出した。
俺は黙って、印刷した原稿を手渡す。
佐々木はしばらく普通に読んでいたが、後半は何やら嬉しそうだった。
「面白かった、です」
それだけ言って、原稿を抱きしめた。
そうして、いつもの調子で俺を呼んだ。
「先輩。明日、いつも通りここで待っててくださいね」
そう言い残して、その日は帰ってしまった。
佐々木が帰るのと同じタイミングで、美術部部長が現れた。
「まだ才能のない小説なんてやってるの?」
俺は気にせずに、あぁ、と答える。
「去年の文化祭の時にも書いたけど、あなたの価値観は傲慢で、見るに堪えない」
俺はその言葉に、にっこりと笑って返す。
「うるせぇ、ばーーーーーーーーーか」
美術部部長は唖然として、しばらく言葉を失っていた。
そして怒りを顔に表しながら俺に言った。
「あなたほどの才能がどうして向いていない分野に熱中するの!?私はあなたのような才能に刺激を受けながら絵を描けると思っていたのに!」
そんなことで、こいつはあのコメントを書いたのか。
どうして向いていない小説を書く?答えは決まっていた。
「それを楽しみにしている奴が、案外隣にいたんでね」
俺は原稿を突き付ける。
部長は渋々受け取って、読み始めた。
読み終えると、部長は悔しそうに言った。
「面白…かったわよ」
俺は差し出された原稿を受け取る。
「…それで、あの子にこの小説、読ませたの?」
変なことを聞く。当たり前だと答えると、部長はびっくりしたような顔をした。
「これ、告白同然じゃない!」
はぁ?
俺はもう一度原稿を読み直す。
あなたが隣にいてくれたから。あなたが応援してくれたから。
あなただから、嬉しかった。
あなただから、頑張れた。
あなただから、これからも隣にいたい。
…俺は頭を抱える。
顔が熱くなるのを感じて、急に恥ずかしくなる。
部長はそんな俺の気持ちを汲んで、どこかへ去っていった。
そうか。あの嬉しそうな顔は、俺がこんなことを書いたからか。
とりあえず落ち着こう。
荷物を纏めて、正面玄関を抜けて、帰路に着く。
歩いていても、電車の中でも、家に着いても、遠回しな告白文と化した自分の小説のことを考えていた。
そんなつもりじゃなかったのに。
俺の心はそう叫んでいた。
佐々木が嫌いな訳じゃない。
勿論好きだし、アイツのおかげで頑張れたのは事実だ。
でも、異性として好きかと言われれば、わからない。
人を好きになんて、なったことがないから。
「あーもう!」
浴槽に浸かって、ぶくぶくと泡を立てる。
俺は明日、どんな顔してアイツに会えば良いんだよ。
風呂から出たら返事を考えよう。そう思って自室に戻ると、徹夜で原稿を書いた疲れが、今になってどっと押し寄せてきた。
俺は眠気の波に逆らえず、そのまま眠ってしまった。
朝。
俺は低血圧なので、朝は口数が少ない。思考もままならない。
機械のように朝食を食べ、準備を済ませ、遅刻ギリギリの時刻に家を出る。
その時点で、どんな顔をすればいいかなんて疑問は忘れてしまっていた。
全ての授業が終わって、部室へ向かう途中の渡り廊下で、全て思い出した。
そうだ。俺はアイツにどんな顔して会おう。
渡り廊下から十数秒歩いたら、すぐ部室。俺はその間に考えた対策を実行した。
…何事もなかったかのように、普通の顔で。
それが、俺の至った結論だった。
むしろそうする以外に道がなかった。
部室には既に佐々木がいて、待っててくださいねって言ってただろ、なんて思う。
「こんにちは」
佐々木はいつも通り、俺に挨拶をした。
俺はあくまで平静を装って、よぉ、と返し、自分の椅子に座った。
落ち着かない。
何を話したらいいのか、俺には分からない。
「先輩は、私を初めて見たのいつですか?」
「…?多分、佐々木が文芸部の入部届を持ってきた時だと思うけど…」
あの時は文化祭に出した本の酷評でだいぶ落ち込んでいて、そんな俺に佐々木は『小説面白かったです!』って付箋だらけの俺の本を差し出したのだった。
俺はそれから全員に刺さらなくても面白いと言ってくれる誰かの為に小説を書こうと決意したんだ。
「…そうですよね。やっぱり先輩の中では、覚えているような大きな出来事じゃなかったんだ」
佐々木は懐かしむように目を瞑り、ぽつぽつと語り始めた。
「私、入学した時はバスケ部だったんです。それなりに試合にも出してもらって、皆応援してくれて。それがしんどくなって、部活を休むようになったんです」
…知らない話だ。文芸部に入る以前の佐々木。
そういえば文芸部の部室に初めて来た日、覚えていますか?って妙な事を聞かれた。
俺がどちら様?と返すと、悲しそうな顔をしたのも思い出した。
「それで、部活に出なくなった影響で友達も離れていって。だから私、一年生の時は学校を休みがちになってしまって」
知らない所で、知らない苦労をしていたんだな。
俺は二年生になってからの佐々木としか喋ったことがないと思っていたし、俺の佐々木との思い出と言えばこの部室で、沢山のくだらない話をした事くらいだ。
「先輩がその頃なんて呼ばれてたか知ってますか。部員一人の文芸部の、窓際族って呼ばれてたんです」
それは何となく聞こえてはいたが、酷評されるまで気にしたことはなかった。
間違いなく、傲慢だったのだろう。
「だから勝手に親近感が湧いちゃって、誰も受け取らない先輩の本を、私が初めて受け取ったんです」
…あれは、佐々木だったのか。
初めて俺の本を、面白いって読んでくれたのは。
「先輩は私が思わず『面白い!』って言った時に、恥ずかしそうに、でもまっすぐ私の目を見て言ったんです。『世界一面白い小説を書いてるんだ』って」
そんな事を言ったのか俺は。
顔から火が吹き出しそうなほど恥ずかしい。
「その時にはもう既に、先輩のことが好きだったのかもしれません。目標があって、誰に何を言われてもめげずに小説を書き続けた先輩に」
好き。
その言葉が、頭の中を二周三周して、やっと意味を理解する。
「私この間まで、酷評のことは知りませんでした。ただ単に恋愛というジャンルに飽きたのかなって、そんな風に思ってたんです」
酷評を受けてから、恋愛小説のアイデアは浮かばなくなって。
脳に靄がかかったみたいに、思い描く主人公は人を好きになれなくなっていく。
だから俺は、恋愛小説を諦めたんだ。
「この間初めて酷評を見た時は悔しかったです。私が一番好きな小説を、私が一番好きな先輩を、全部否定された気がして」
…そろそろ、俺も覚悟を決めないといけない。
あれは間違いなく佐々木の為に書いた小説で、その中で語られているのは俺が見ないふりをしてきた感情で、俺の心の奥底の、感情の吐露なんだから。
「…小説を読んだ時、私は少し勘違いをしてしまって。ヒロインが私で、主人公が先輩。そういう風に、見えてしまったんです」
そんな悲しそうな顔をするな。
俺は今まで、隠してただけなんだ。
俺の好きは、ずっと続くわけじゃない。
きっと佐々木の好きだってそうだろう。まぁ、そう言ったら否定するんだろうけど。
でも、定期的に顔を合わせて、色んな所へ出掛けて。たまにゆっくり家で過ごして、その日常の連鎖の中で。
俺が気に入っているもの。佐々木が気に入っているもの。
俺が気に入らないこと。佐々木が気に入らないこと。
そんな価値観を、押し付けあって。
擦り合わせて、最終的に二人とも笑えればいいんだ。
「なぁ、佐々木」
俺は意を決して、佐々木に話し掛ける。
佐々木はこちらを向いて、不安そうな顔をする。
「俺達は多分、言うほど付き合いも深くないよな」
休日に遊んだことも、部活後にどこかへ行ったこともない。そんな関係性だ。
「でもさ、お互いの臆病な恋心が、もう限界だって言ってるよな」
佐々木は顔を上げる。
「佐々木、ずっと気付かなくて、ごめん。俺が隣にいてほしい人は、既に隣にいたみたいなんだ」
「それって…」
佐々木は何かを言おうとしたが、俺はそれを制して、右手を差し出した。
「…馬鹿な話しながら、小説でも書きながら、ずっと俺の隣にいてくれますか?」
… 別に小説を書く人間だって、すべての言葉を奥ゆかしく表現するわけじゃない。
これはありきたりで、陳腐な言葉だ。
「…先輩は、馬鹿ですからね…私がいなきゃ、心配ですもん」
佐々木は俺の手を取って、憎まれ口を叩いた。
俺はその手を引いて、佐々木を抱き寄せた。
……恋愛観。
それは人それぞれ違うもので、誰かの歌詞で語られているものも、誰かの小説に書いてあったことも、多分正解じゃない。
迷って、悩んで、時に落ち込んで。
そうして少しずつ、自分の中で正解を固めていくものなのだ。
だから多分、全ての恋愛には意味があって。あんな奴と付き合わなきゃよかった、で終わった恋だって、学びなんだ。
俺は原稿に、そんな文字を書き足した。
正解がずっと用意されているわけではない人生の中で。
人生を淡く色付けてくれるような、そんな恋を。全員ができるよう、願ってやまない。
「樹くん」
…そういえば、これも新しい変化だ。
最近佐々木は、俺の事を下の名前で呼ぶ。君付けで。
「んー?」
振り向くと、佐々木は明らかに意地悪い顔をした。
「そろそろ私の事も名前で呼んで欲しいなー、なんて思うんですけど」
そのうちな、散々答えてきた返事をしようとすると、佐々木にそのうちはなしですよ、と先回りをされる。
「はぁ…分かったよ」
俺は咳払いをして、名前を呼ぼうとする。
サラッと呼んでしまえばいいのに、それがすごく難しい。
「ひ、陽菜…これでいいか?」
挙句の果て、どもってしまった。
それでも佐々木は嬉しそうに、俺に抱き着いた。
…恋愛観が傲慢、か。
人間は皆、多分そうなんだろうな。
俺はそんな事を思いながら、佐々木の腰に腕を回す。
冬場に差し掛かって、外の気温が下がっても。
この温かさだけは、多分変わらないんだろうな。
それは案外、目の前に。 横銭 正宗 @aoi8686
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます