『自分にしか書けない話』を書く意義はあるのだろうか。

 カクヨムという土壌が、特定のジャンルに読者が吸収され、更にレビューの星の数が加速度的にその吸引率を高めているというのはよくわかっている。

 まるで重力と質量の関係のように、特定ジャンルの雪だるま式である。

 それを踏まえた上で思う。


 ――今回は全文、愚痴だと思ってほしい。


 例えば『他の誰にも書けない話』『斬新な世界観』『誰も踏みしめていない地平』そういう領域を開拓するつもりで小説を書いていると「ここでは不要なのではないか」と疑問に感じる。

 実際、それによってモチベーションが減衰されるのを体感している。

 流行り物でなければカクヨムである価値がないのではないか。

 そう感じてしまうのだ。


 例えば『初めて見るクリストファー・ノーランの映画のような小説』は、ここでは生きていけないのではないか。

 例えば男の娘、百合、BL、TSはあっても、クロスドレッサーやドラァグパフォーマー、レズビアンにゲイ、トランスジェンダー、それらの当事者たちが現実的につきつけられている問題やナイーブな実情を真正面から書いている話がどれだけあるだろう。

 

 そうしたより洗練された斬新さを追求したり、

 ポリティカル・コレクトネスを意識した質と熱量で書かれた作品はどうすれば厳選できるのだろう。

 そういう材料さえないのだ。

(あいにく、レビューにはそうしたものとしての力はない。なにしろカクヨムはレビューや作品説明欄を対象としたワード検索すらできないのだ)


 私は今、カクヨムという媒体のそうした側面に触れて、心から、日々の創作意欲を削がれ続けている。

 カクヨムに小説を卸したことを、内心後悔している。

 ここでは小説は「無限の書庫の本棚」に並ぶのではない。

 「積み上がり続ける地層の合間」に埋もれ続け、それに抗うにはページ数を増やして分厚くなり続け「更新」のマークを獲得し続けるしかないのだ。

 それはどれだけ飽きが来ようと、同じ味を出し続けるしかないフライドチキンの店のようなものだ。

 私は今、そんな油モノの店ばかりが並ぶフードコートの隅に座っているような食傷に満ちた絶望感を感じている。

 そこに座り続けて、嗅覚が死ぬように、私の感性のアンテナは壊れかけている。

 斬新な話や洗練された描写のきっかけのようなものが思い浮かんでも「流行りものにはつながらない」から、頭が無意識に捨ててしまうからだ。


 書き手として、まるで勃起不全にでも陥ったかのような、砂を噛むような感触を、この一月味わい続けている。

 正直、どうしたらいいのかわからない。

 日本のデイヴィッド・アーモンドになるような志で書こうにも、JKローリングやステファニー・メイヤーの劣化コピーばかりが求められるような感じだ。

 それに抗い高潔さを保つことを、「流行とそこへ集約させる仕組み」への直視を強いられるカクヨムという媒体を意識した『既に備わってしまった視点』が許さないのだ。

 本当に、どうしたらいいかわからない。


 私はもう、誰も見たことがない話を書けないのだろうか。

 私は、私にしか書けなくて、私が誰よりも読みたい話を書きたくて、小説を書き始めたというのに……その感性が汚染されているような感じが、どうにも拭えない。

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読まれない作品を公開する意味はあるのだろうか。 たけすみ @takesmithkaku

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