第6話 土曜、午後一時
鳴り始めた出発のサイレンに急かされ、乗車口に駆け込む。
背中で、空気の抜けるような音と共に、新幹線の扉が閉まった。
土曜の午後一時、私は無理やり詰め込んだ荷物を片手に、新幹線に乗り込んでいた。
窓の外は快晴。素晴らしく青い空だ。
ふと、上着のポケットが振動していることに気付く。取り出すと、会社からの着信だ。他にも着信履歴が大量にあるようだったが、乗り遅れそうで走ってきたせいで、気付かなかった。
電源を落とそうかと思ったが、電話をかけてきている相手は同僚ではないことに気付いて、私は通話ボタンを押した。
『君。今、どこにいるんだ? 今日はイベントがあると伝えたはずで――』
表面上の落ち着きを装った声は、それでも上ずっている。
私もまた落ち着いた風を装って、応答した。
「新幹線です。お伝えしたとおり、私は昨日から有給休暇をいただいていますから」
『僕は認めてない』
そう言うだろうと思った。既に完璧に理論武装している私は、新幹線の扉ごしに初夏の空を見上げながら答える。
「社長の承認は無関係です。有給休暇は、原則として労働者からの求めに応じて付与しなければなりませんので」
『そんなものは……いや、休みのことはまだいい。これはどういうことだ』
ばん、と何かを叩く破裂音。
何を叩いたのかは想像がついた。
昨晩遅くに、自席の机上に置いておいた封筒だろう。
「退職届ですね。あ、これも社長の承認は必要ありません。破り捨てて貰っても構いませんよ。数日内に、内容証明郵便で同じ文面が届くと思いますので」
スマホの向こうの声が、しばらく沈黙する。
あれだけ、法規定を無視していた会社だ。最初から、義理と憧れ――『道徳』以外に、彼に従う理由なんて何もない。
退職日までの二週間には、今まで余らせていた有給休暇をあててある。
『モラル』の上では――法的には、私は自由だ。
『……君には失望したよ。法的に問題ない、とでも言うつもりか? そこまで、モラルの奴隷になっているとは――おい、何がおかしい!』
「いえ、全く残念だなぁと思いまして。私を保護してくれるものが、最後には法律だったとは皮肉なもので。あ、退職手続きはご心配なく。必要な書類は昨日のうちに私自身で全部提出してありますので。……ああ、でも一つだけお願いしたいことがありまして」
『今更何の頼みだ、恥知らずな!』
「まあ、そう言わずに聞くだけでも。労働基準監督署から近いうちに連絡がくると思います。ご対応は社長にしか出来ないと思いますので、よろしくお願いいたします」
『労基から? ど、どういうことだ!?』
「忌引きや有給休暇の却下について、先ほど相談しておきました。他にも、先週辞めた同期と私の処遇も、名ばかり管理職に値するだろう、という回答がありまして、近々監査に行くとのことです」
『監査だと――!?』
「退職した同期は今、法律事務所で事務をしているそうですよ。今後の勤め先含め、色々相談に乗って貰いました。彼は多忙を極める中、行政書士の資格を取得していたことが良かったとか。私も必要に迫られてですが、司法書士を取っておいて正解でした」
『…………』
「法律事務所なんて、私、完全なモラルの奴隷ですね。法規制についてゼロから学んだ経験が、こういう風に役立つとは。今になって振り返れば、何も知らない私に人事の仕事を押し付けたのは社長でしたね。御社で勉強させていただき大変助かりました。それでは」
沈黙した電話に向かって、私は晴れやかに最後の挨拶をした。
返事を待たずに通話を切断したが、その後にはもう電話はかかってこなかった。
代わりに確認した画面に、短いメッセージがポップする。
通話中に元同期の彼から連絡があったようだ。
『退職おめでとう! 実家まで気を付けて。落ち着いたら連絡ください』
座席に向かう途中、通りすがりの社内販売を呼び止めた。
缶ビールを一本買い求め、おまけで紙コップを貰ってから、席に座る。
まずは紙コップの半ばに注ぐ。こちらは、亡くなったおばあちゃんの分。
前回帰ったとき、酌み交わしたビールを美味しい美味しいと飲んでくれていたから。
通路の向かいの乗客が、冷たい視線を投げてくる。
真昼間からビールを飲む、ダメな女に見えただろうか。
ああ、でも、そんなこと――あの乗客に私の気持ちを説明する必要なんて、あるだろうか。
十年働いた社長にも、気持ちなんて伝わりはしなかったのに。
モラルの奴隷が掲げる祝杯は、道徳なんかより百万倍も甘美な味がした。
モラルの奴隷に祝杯を 狼子 由 @wolf_in_the_bookshelves
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