夜が明けたら

待雪天音

夜が明けたら





『君は、僕が“何”か解るんだね』


 初めて聞いた彼の声は、確か、そんな台詞だったように思う。


 闇も深まる小高い丘陵の上。月明かりに照らされた、神秘的な晩のことだった。


 見渡せば眼下に広がる緑の絨毯と、所々に点在する小さくも懐かしい風景をたたえた町々。北に広がるナヴァンの通りを遠目に臨む、そこはタラの立石リア・ファルの地だ。


 嘗ては神や妖精が住まう都だったというこの場所も、何百、何千と時を経た今は面影を想像で補うしかない。


 空想の世界に幾度と想いを馳せたのは遠い昔。初等教育も半ばには、現実とそれの区別はついていたし、中等教育に入った頃には、やたらに絵空事を口にしない分別はつくようになっていた。


 それでもその地に伝説や伝承として根付いたものを捨てきれないのは、私に流れる血のせいなのかもしれない。


 ぬるい風が、背中まで伸ばした私の金茶の髪をさらう。


 いつからそこに立っていたのか。彼をひと目見た瞬間、目を瞠った私に、彼は煙るような灰紫色アッシュ・モーヴの瞳を細めて、口元に弧を描いた。


 月明かりに照らされたその光景を、鮮明に覚えている。


 人の形をしたそれは、人間くさく微笑むのに、人のそれとはどこか異質な神秘を纏っていた。これは人が、それも、私のような年頃の女が触れてはいけない存在だ。


 そう直感的に気づいたのに、


『あなたは、何?』


 愚かしくも私は、それに触れてしまったのだ。


『僕は恋を食らう者。言い寄り魔、とも呼ばれるけれど、無粋だから、その呼び方はあまり好きではないな』


 どうぞ、ロディ――あるいはギャン・カナッハとお見知りおきを。


 くゆるブルネットの髪の隙間でうっそりと笑んだ男は、見目麗しい顔を、掬った私の手の甲に近づけて、口づけた。




 ◇




 向かいの椅子が立てた硬質な音で、私は記憶の海から引き上げられた。アイアンの脚がマーブル模様のタイルへ打ち付けられたせいだ。


 視線を上げれば、見慣れた男が真意の読めない微笑を浮かべて椅子に座るところだった。


「妖精博士のお嬢さんは、今日も熱心に妖精学のお勉強かい?」


 優雅に足を組んだロディが尋ねる。私の手元には文字が敷き詰められて真っ黒になったノートと、インクの切れそうなボールペン。それからカフェの丸テーブルを埋め尽くすようにK・ブリッグズの著書が多数つみあがっている。


 軽薄な彼の物言いに嘆息して、もうすぐページの切れそうなノートを閉じた。


「フォークロアに根付いた文化の研究よ」


「まだまだひよっこの学生が一丁前に研究とは言うねぇ」


「学んで探求することは、大なり小なり研究だわ」


 あの夜、彼と出会った月の綺麗なあの晩から、彼は、気まぐれにふらりと私の前に現れては、ただただ言葉を交わして去っていくようになった。


 神出鬼没の、人ならざる存在。彼がどこから来たのか、どうして私を選んだのかは知らない。けれど、“なぜ私につきまとうのか”――その一点においては少ない私の知識でも答えを導き出せた。


「ギャン・カナッハ……女を魅了し、その命を恋の炎で焼き尽くす魔性」


「おや、随分と詩的な表現をするね」


「恋い焦がれた女は、その恋の苦しみに自ら命を絶つと言うけど、実際はどうなの?」


「そうだな、魔性という表現は嫌いじゃないけれど、どうせなら“妖精”と呼んでほしいものだ」


 問いかけに的はずれな答えを返して、彼は私の前に置かれていたグラスを引き寄せた。溶けかけた氷が私の代わりに、カラン、とか細い抗議の声を上げる。


「まぁ、なんてメルヘンチック」


 皮肉と揶揄を含んで呟けば、彼は鼻を鳴らして笑った。


「君の質問には、次に会ったときに答えるとしよう」


 ひと口、ふた口。ストローに口をつけ、すぐにことりとグラスを自分の手元に置いた男が、くつりと笑って嘯いた。


 最初から答えが与えられるとは思っていなかったけれど、まさか答える気があったとも思わなかった。このとき私は相当、面食らった顔をしていただろう。


「ロディ」


 驚きのあまりか。初めて舌で転がした彼の名前は、掠れてひどく尻すぼみになった。


「君の声で紡がれる僕の名前はどうにも魅惑的だね」


 そんな、どう好意的に取っても冗談としか思えないような言葉を吐きながら、


「またね、妖精博士のお嬢さん」


 保証のない約束を口にして、彼はカフェテラスの席を立った。


 私のそばを横切って、視界から消える、濃いコーヒーの色をしたブルネット。


 カリ、とボールペンの先がノートの空行をなぞって、すぐに振り返る。彼の姿はもうどこにも見当たらなかった。




 ◆




 妖精博士、と彼は呼ぶ。ロディが私に付けた呼び名だ。


 他の誰からもそう呼ばれたことはないのに、私はその言葉の意味を正確に知っていた。


 フェアリードクター。あるいは妖精のお医者さん。


 そんなふうに呼ばれる存在が、何百年かの昔、このアイルランドの地にはたくさん居たのだ。


 妖精という存在をよく知り、善き隣人と呼んで、人と妖精の間に起こる問題を解消する知恵を与えることを生業とした人々。


 十年前に死んだ曾祖母も、そんな妖精博士のひとりだった。


 多くの人には見えないものが視えていた、幼い頃の私に、曾祖母はこう言った。


『怯えてはだめよ。人が人であるように、あれらはあれらでしか居られないのだから』


 それは動物が他の動物を狩ることが当然であるように、魔性には魔性のルールがあるのだと諭すように。曾祖母は小さな私の頭を撫でたのだ。


『彼らに怯えてはだめ。それは彼らがつけ込む隙になってしまうから。でも、受け入れすぎてもだめよ。連れて行かれてしまうからね』


 当時の私には、曾祖母の言うことは難しすぎてよくわからなかった。子どもは繊細だけれど、一方でとても単純な生き物だから。


『彼らを認めながら、彼らを用心しなくちゃ。それが、もっとも正しい隣人との付き合い方なの』


 だから彼女のその言葉を、理解できないながらに胸に留めた。成長するにつれてそれを理解しはじめたのは、距離の取り方を学んだからだろう。


 わからないから恐ろしいのだ。やがてそんな結論に至った私は、人ではないものそれらを知るために、知識の世界にのめり込んだ。民俗学を専攻するようになったのは、その弊害と言っても過言ではないだろう。


 決して、時代錯誤な妖精博士になろうと思ったわけではないのだ。




 ◇




「どうしてあなたは、私を妖精博士と呼ぶの?」


 それは大学の渡り廊下から外の天気を窺っていたときのこと。例のごとく何の前触れもなしに現れたロディに、私がふと湧いた疑問を尋ねた言葉だった。


「君が知識を持っているからさ」


「どうして“私に知識がある”ことがわかったの?」


「僕が自分をギャン・カナッハと名乗ったとき、君は大して驚かなかったね」


 あぁ、それで。口を噤むことで納得してみせた私に、ロディもまた口を噤んで空を見上げた。彼は毎度毎度、どうやって私を見つけるのだろうか。


 不思議に思ってそれを口にすると、今日はまた随分と聞きたがるな、と彼が笑った。


「あなたは謎が多すぎるから」


 彼について知っていることと言えば、ロディという名前であることと、彼がギャン・カナッハと呼ばれる“妖精”であること、そのふたつきりだ。


 妖精の考えることなど、所詮は人である私にわかる筈もない。


 わからないならば調べるしかないのだ。現存する資料以上にそれに詳しい存在が目の前に居るのに、聞かない手はないだろう。


「君は知識に対して貪欲だね」


「貪欲な女が嫌いなら、標的を変えるといいわ」


「いいや。寧ろ好ましいよ。強い欲を持つ生き物ほど、鮮烈な輝きを見せるものだから。とても、愛おしい」


 そう言って、彼は灰紫色の瞳で私を見つめた。


 この目は駄目だ。紫の瞳は嘘つきの象徴だから。


「いつまでも私につきまとったところで、私はあなたに恋なんてしないわよ」


 本能的に警戒心が働いて、気づけば私は境界線を張っていた。彼と私の物理的な距離は変わらない。廊下の端っこ、拳ひとつ分空けただけの隣同士に並んでいる。


 ただ、心の距離をどこか遠くへ離したかった。この都心から、彼と出会ったあのタラの丘よりももっと遠くへ。


 その距離を詰めるように、彼はふわりと柔らかく微笑む。いつも掴めない笑みを浮かべる男の、ここぞというときの武器なのか。


 問答無用で心をこじ開けようとするその笑みには、きっと魔力があるに違いない。


「君は前に、ギャン・カナッハに恋をした女性が自ら命を絶つのは本当か、と聞いたね」


「……ええ」


「それはイエスとも言えるし、ノーとも言える」


 どうして今、この話題を掘り起こしたのか。益々強まる猜疑心に、ロディはそれをも見透かしたように笑みを深めた。


「ギャン・カナッハ、リャノーン・シー、アッハ・イシュカ……人を魅了して命を奪う妖精たちは、声に魔力を宿すんだ」


 どうやら、私がさっき一瞬だけ考えたことは、当たらずとも遠い考えでもなかったらしい。


「魔力のこもった声で、愛の言葉を囁いてそそのかす。僕たちを妖精だと認識しないものは、魔力にも気づかないから、そんな気持ちになってしまうのさ」


「じゃあ、あなたがそうだと知っている人には、その魔力は効かないということかしら」


「さあ、どうだろう」


 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。曖昧な答えを残して、彼は半歩分、私から距離を取った。物理的な距離だけを。


「どうしてギャン・カナッハは、恋した娘を死に誘うのかしら」


 ぽつりと呟いた言葉に、彼は様子を伺うように私を見つめた。いつでも真正面から向けられる彼の瞳は、何度見返しても慣れないものだ。


「リャノーン・シーも、アッハ・イシュカも、人の命を食べるものでしょう。だけどあなたたちはそうじゃない。……それとも、ギャン・カナッハも“そう”なの?」


 重なる問いの応酬に、そろそろ彼は答えるのが面倒になる頃合いだろうか、と口を噤んだ。


 何も言わずにくるりと背を向けるロディの姿を想像して、けれど、向かい合った彼が不意にこちらへ腕を伸ばしたことに、私は咄嗟に反応できなかった。


 白い彫像のような指先が、つ、と私の頬に触れる。滑って、手触りを楽しむように、羽が触れるような手つきで撫でられて、背筋が粟立った。


 そんな私に気づかないで、と、願いながら聞いた彼の答えは、


「それもまた、イエスとノーが半々だ」


 そこそこに知識をつけた今の私でさえ、よくわからないものだった。


「僕たちの食事は、しっかりと熱の通った娘の魂。それは違いない」


「じゃあ」


「だけど、魂を食らうために恋を仕掛けるわけじゃない」


 小さく微笑んだ、彼のその顔に、何故だか、微かな陰りを見た気がした。


「恋をするために、魂を食らうんだ」


 彼は、言葉に魔力を込めて魅了する存在だ。それを知っているのに。知ってしまったのに。


 その声に潜む寂しさの色に、私の心は引っかかれた。


 彼の冷たい指先が、私の唇を一瞬、なぞる。今すぐに逃げ出したい。そう思ったのは、恐怖心からだったのか、それとも。


(羞恥心だとは、思いたくないな)


 ロディの仕草に私が目を細めると、彼は何の名残惜しさも感じさせずに手を下ろした。


「またね、妖精博士のお嬢さん」


 何度も聞いた不確かな口約束をこぼして、今度こそ背中を向けた彼を、ぎゅっと目を瞑ることで視界から消した。


 ――『僕たちの食事は、しっかりと熱の通った娘の魂。それは違いない』彼は確かに、そう言った。


 だったら、


(死なない娘の魂を口にできないギャン・カナッハは、どうなるの)


 あの月夜のタラを訪れた日から半年。半年間、彼はきっと、なんの“食事”も口にしていない。


 私は知っている。妖精が、ひとつの心しか持てないことを。


 いくつもの感情を持てないから、妖精はいくつもの心を残せないのだ。


 愛した男の魂を食らうリャノーン・シーは、魂を食らい尽くすまで他の男に恋をしないし、海に引きずり込んで人を食らうアッハ・イシュカは、一度に二人の人を食らわない。


 ロディが私の元にたびたび訪れるなら、きっと彼は、他の娘に見向きもしないんだろう。


 私はあらゆる妖精の知識を持っているのに、彼らが食事をせずに生きていられる年月さえ知らないのだ。




 ◆




 妖精とは、限りなく人に近く、限りなく人から遠い存在なのよ。


 亡くなる前、曾祖母は私にそうこぼした。


『彼らは多くの矛盾でできてる。人もまた、そう。相容れないもの同士なのに、その存在は限りなく似ているの』


 だから私は、妖精という存在を愛さずにはいられないのね。


 私の想像以上の年月を生きた曾祖母は、しみじみと呟いて、それっきり、幸せな眠りから覚めることはなかった。




 ◇




 ここまで来ると、彼は軽くストーカーと呼べるかもしれない。


「どうしてあなたがここに居るの」


 隠すこともなく眉根を寄せた不機嫌顔を作って、私のベッドに悠々と座るロディを睨みつけた。


 どうして、否、どうやって。築三十年以上は経つ年季の入ったアパートは、近所付き合いをしなければ誰が住んでいるかもわからないような都会の片隅に建っている。


 そんな砂漠の中からピアスを探すに等しい行為を、この男は難なくやってのけたらしい。ご丁寧に、内鍵まで掛けた玄関ドアは、意味を成さなかったようだ。


「お忘れかい? 僕は妖精だよ」


「警察、呼んでいいかしら」


「構わないけれど、それなら僕は雲隠れさせてもらおうかな。いたずらで警察を呼んだと知れたら、君が公務執行妨害で逮捕されてしまうかもね」


 アイフォンを片手に風呂上がりの濡れた髪を拭く私へ、ロディはなんでもないことのように言ってのける。悔しいけれど、人の常識の通じない彼の言葉は珍しく正論だ。


 やり場のない怒りを、彼の足を蹴ることで散らしてから、ワンルームの隅に佇む冷蔵庫を開けた。不法侵入をしておきながらこれくらいで済んでいるのだ、多少の暴力には目を瞑っていただきたい。


 よく冷えた箱の中から、ギネスビールを二本取り出して蓋を開ける。一本をロディへ差し出すと、彼は驚いたように目を瞬かせた。


「僕に?」


「飲む分には飲めるんでしょ。それとも、他に渡す相手がここに居る?」


「居たら大変だ」


 クスクスと笑う男は、キンキンに冷えた缶を受け取ってそれを指先で軽く揺らした。彼との間に研究資料を挟んで、ベッドの端に座ると、クッ、と一気にビールを呷る。


 良い飲みっぷり。そう言うロディもまた、水を飲むかのように涼しい顔で喉を鳴らしてビールを流し込んでいた。


「……『創作詩に見る妖精と民俗学の繋がりについて』か」


 唐突に聞こえた声に彼の方を向けば、間に置いていた資料やレポートを手にしたロディが、その文面に視線を落としていた。


 私は慌ててロディからそれを奪おうとしたけれど、彼は私を軽くいなしてしげしげと文書を読み解いていく。


 彼に見られたくないと焦ったのは、選んだ研究文面がモイラ・オーグの詩編だったせいだ。


 E・カーベリーの描いた、ある娘がギャン・カナッハに恋をして死ぬまでの短い詩編。これを選んだのは単純に、一般的でない資料をと探してたまたま見つけただけなのだが、無意識下でロディとの関わりを意識しなかったかと言われればなんとも答えようがなかった。


 それを指摘するように危うげな笑みを浮かべるくせに、彼は敢えてそれを口にしない。それがまた、私の羞恥心を押し上げるのだ。


 見ないで、と言うと意地になって見るくせに、返して、と言うと、彼はあっさりと書類の束を私へ差し出した。


「ねぇ、ギャン・カナッハはどうやって死んだ娘の魂を食べるの?」


「出た出た。恒例の質問攻めの時間かな」


「今更じゃない」


「どうしてそんなことが気になるんだい?」


「だって、娘が恋して死ぬ経緯はわかっても、ギャン・カナッハが魂を食らうことまでは書いてないでしょう」


「それはそうだろうね。死ぬまでの主観は綴れても、自分が死んだ後のことまで、人は知らない」


 じゃあ、どうやって? 尚も問いを重ねる私に、彼は考え込むように唸りを上げてビールを呷った。


「この世には、もっとも強く、正確な、呪いを解く強力な魔法がある」


「今、それって関係ある?」


「大いにある」


 したり顔でビールを飲み下す男は、きっと私が彼に翻弄されて、頭を悩ませる様を楽しんでいるんだろう。


 それに私はまんまと、物語の続きが気になる子どものような心地で彼の言葉の先を促した。


「キスの魔法だよ」


「キス?」


「そう」


「どうして、キス?」


 疑問の泉は尽きることがない。未知への探求は、今や私を形成する核のようなものになってしまったのだろう。


 尋ねると、ロディはギネスビールを飲み干して、ヘッドボードに空き缶を据え置いた。


「もっともわかりやすいのは、ウンディーネの説話かな」


「人間と結婚をして魂を得るという精霊の伝承ね」


「そう。彼女たちには魂がない。――もっと言うなら、僕たち妖精にも。魂がないから、視える人にしか視えないし、魂を持つ君たちを本当の意味では理解できない」


 ドキリ、と一瞬、心臓が跳ねた。いつかの、曾祖母の話を思い出したのだ。


 限りなく似ているのに、私たちは相容れない。それが何故だかひどく、私の心を引き絞った。


「けれどウンディーネは、それでも人に憧れる。魂を得たくて人と結婚するウンディーネは、誓いの口づけで愛する男から魂を分けられるんだ」


「キスが、その手段だって言うの」


「そういうこと。半分だけ魂を得たウンディーネは、だけど、半分は妖精のままだから、妖精のことわりには逆らえないし、魂を与えたものの心が離れれば、彼女たちは魂を持ったまま生きていられない。自分が消えるか、男を殺すか。だからジロドゥの戯曲、『オンディーヌ』は成り立つんだよ」


 飲み干した私のビール缶をも奪って、彼はそれをヘッドボードの空き缶の隣に並べた。


 隣同士に並ぶ空き缶。いつの間にか、大した距離もなく隣同士に並ぶ私たち。


 気づけば私の湿った髪を指先で弄んでいた男は、そこにいつかの手の甲のように口づけて、つまりは、と結論を吐き出した。


「魂を与えられるなら、魂を奪うこともできる。そうやって、僕たちは魂を食らうんだ」


 なるほど、この話題はそこに行き着くわけか。……と。冷静に納得する傍らで、思ったよりも近いこの距離に冷静になれない自分をも自覚する。


 心臓が騒いでいた。いいえ、嘘。そんなことはない。そんなことはあってはならない。


 あれから――彼と私が出会ってから、いったい何ヶ月が過ぎた?


 そろそろ、限界なのかもしれない。彼が彼のまま、私が私のままで、こうして何の目的もなく逢瀬を重ね続けることは。


 ぐるぐるとまとまりなく散らかっていく思考で、ふと、違和感を覚えた私は、何気なくそれを口にしてしまった。


 魂を食らうために恋を仕掛けるわけじゃない。恋をするために魂を食らうんだ。


 そう、口にした、陰りのある笑みを、何故このとき、思い出してしまったのか。


「あなたたちも、魂を欲しているの?」


「……」


「恋を知ることができないあなたたちは、恋を知りたくて愛を囁くの?」


 尋ねた声に、答えはなかった。けれどただただ寂しそうに、それでも笑った彼の顔が、瞼の裏に焼き付いた。


 気づかなければよかったのに。彼が魂を食らうことも、彼が“食事”をしていない月日にも、彼が――彼らが、愛を囁くその理由にも。


 隣同士に並ぶ空き缶。大した距離もなく隣同士に並ぶ私たち。


 重なる手のひらは確かに冷たい温度を感じるのに。


「また来るよ、妖精博士のお嬢さん」


 そう言って、彼は簡単に手を離した。




 ◆




 目覚めたとき、夜が明けたのか、それとも新たな夜を迎えたのかもわからなかった。


 時間の感覚が曖昧になるほど、私は彼への思考に浸りきっていたらしい。暗闇の中、枕元のアイフォンを手に取ると、メールの着信ライトがチカチカと明滅していた。


 メールフォルダには未読が三通。すべて友達からだった。


 どうやら、三日ほど大学に姿を現さなかった私を心配してくれたらしい。


(三日、か)


 ちょっと体調が悪いだけだから、心配しないで。そうメールを返して、アイフォンの電源を落とす。そのまま手に持っていたそれを放ると、仰向けになった視界を腕で覆った。


 風が揺れる。窓も開けていないのに。ロディが帰ってすぐに戸締まりを確認したから、そこだけは夢ではないと言い切れる。


 だから、腕を下ろしたとき、ベッドサイドに彼が腰掛けていたことにも、何ら疑問を感じなかった。


 安堵した。彼がまた、約束通りにここへ来たことに。それと同時に、恐怖した。彼が次にここを去ったなら、きっともう、彼は二度と、私の前に姿を現さない。


 そんな確信が、私の中に根付いていた。


「不思議ね」


「何が?」


「絶対に、恋になんて落ちないと思っていたの。でも、どんなに逃げても、無駄だったわ」


「何故?」


 私が話して、彼が問う。いつもとは逆の立場に、私は小さく笑い声を漏らした。


 不思議だ。これから私がしようとしていることは、世間一般から見れば、ひどく滑稽で馬鹿げた行いだというのに、心はひどく、満たされていた。


 いつも満たされなくて、それを補うように知識を求めていたというのに。


「恋はするものではなく落ちるもの。使い古された言葉に、これほど共感することはないわね」


 そう言って彼へ向けて伸ばした手を、彼はやんわりと掴んで留めた。ギシリ、彼が片膝をついて乗り上げたベッドが、不満げに軋みを上げる。


 空いたもう片方の手で、彼の胸ぐらを掴んで引き寄せた。ロディが間抜けな声を上げてバランスを崩す。それでも私の顔の横に手をついて、なんとか自分の身体を支えた。


「今は夜中? それとも、もう夜が明ける頃?」


 妙な体勢で、場違いな問いを吐く私に、暗闇の中で見たロディは怪訝な顔をしながらも、私の目を見下ろして答えた。


「数分もすれば、夜明けだ」


「そう。最高のタイミングね」


 見上げた先の灰紫色の瞳が、痛々しく煌めいた。だから私は、これから告げる、彼の言葉のすべてを信じないようにしなければならなかった。


「恋に落ちてしまったわ。他の誰でもないあなたに」


「それは魔力のせいだよ、お嬢さん」


 嘘ばかり。それをそうだと知っている私が、ロディの魔力に惑わされるわけがないと、彼も知っているだろうに。


「愛したくないと思ってた。それでも愛してしまったのよ」


「だけど、僕は君を愛してない」


 それも嘘。だって、それならば――。


「だったら、キスしてくれるわね? 私を愛していないなら、魂を食らうことになんの抵抗もないでしょう?」


 勝った。そう胸の内でほくそ笑むと、彼は初めて、顔を歪めた。飄々とした笑みでもなく、真意を隠した煙る笑みでもなく――私の嫌いな、あの寂しげな笑みでもない、初めて彼が感情をあらわにした表情だった。


 彼に、恋してしまったのだ。ならばきっとこうしている今も、命を削っている彼のこと。その命を私の命で補えるのなら、何も怖いことはない。


 私はきっと幸福なのだろう。魅入られて、苦しみに魂を削り取られるように死を選ぶわけではなく、愛したものの糧になるために死ねるのだから。


 彼の首に手を回す。引き寄せても、彼は抵抗しなかった。


「本当に、君はそれを選ぶの?」


「何の迷いもないわ」


「じゃあ、目を瞑って」


 あの、本心の見えない微笑みを浮かべて、彼は言った。深く煙った彼の瞳が煌めく。近づく彼の顔に、私は瞼を下ろした。


 煌めく紫の瞳は、嘯く騙り手の証だ。


 吐息が交わる。額が触れる。彼の鼻が私の鼻にすり寄るようにこすりつけられて、やがて落ちてきたのは、彼の長い睫。ブルネットの濃いそれが、私の睫に触れて、絡んで、瞼を撫でた。


 ……ほら、彼と私の心は交わらない。


「おやすみ、お嬢さん。本当は、愛していたよ」


 そう告げた彼の唇は、私の唇を掠めることなく、優しく優しく、愛おしさを滲ませたさよならを告げた。


 カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでくる。


「嘘つきね」


 油断していただろう彼に、私は心を揺さぶる言葉を放って、


「今も愛しているくせに」


 腕を絡ませていた彼の首を、自分の方へ引き寄せた。


 途端、ぐらつく彼の身体。身構えていなかった彼の唇に、私は歯をぶつけることも構わず、自分の唇を押しつけた。


 光が、暗い部屋を満たす。彼に私の魂を注ぎ込むように、微かに開いた唇から、そっと彼への愛を囁いた。


「イーヴィン」


「何……」


「私の名前。あなたの声で、今すぐ呼んで」


 イーヴィン、と、彼は呆然と呟いた。それは私の願いを叶えるためと言うよりも、自分自身にその名前を刻み込むような響きだった。


「美しい輝き、か……あぁ、君にもっとも相応しい名前だ」


 息がかかるほど、視界がぼやけるほど、近くでこぼされた彼の声は、耳に馴染んで私に溶ける。


 夜が明けたら――私は彼よりも冷たい骸になっているのだろうか。


 それでもいいか、と満たされた心の隅で考えた。彼がこうして、涙を流してくれるのなら。


 彼の頬を伝った雫が私の頬を濡らす。


 私の世界を、真っ白な光が美しく塗り替えた。




end

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