(03)

 雲一つない、真っ青な快晴の空。

 琥珀は元の世界となんら変わりないその空を見上げながら、複雑な感傷に浸っていた。

 


 クラネスの家を出てから、十分ほどの時間が経っただろうか。

 その間、琥珀は目に付いた何かの店で店員に声をかけ、彼が説明を面倒がった『ギルド』の場所を教えてもらっていた。クラネスも彼の家から十分程だと言っていたが、やはりここからそう遠くないようだ。

 ここの季節は秋。気候に関しては元の世界とそう変わらない。少し暑いくらいだろうか。肩の出た洋服は、この気温には丁度良かった。


 道行く人々は琥珀の格好や顔立ちを見て、異物を見るような訝しげな表情をしていた。それもそうだろう、この世界の人々はオフショルダーの服を着たりはしない。ドレスならまだ肩の出たものもあるだろうが、ここは下町である。暮らしているのは平民のみだ。ドレスを着る機会などないに等しいだろう。

 それに加えて、琥珀はここの人々と顔立ちが違う。いかにも東洋人然とした黒に近い焦げ茶色の髪に黒の瞳。それに比べてこの世界の人々は皆、彫りが深い西洋人の顔立ちをしている。


 これは物語の世界であるが故だろうが、西洋人の顔立ちでもその髪や瞳の色は本当に様々なようだ。琥珀と同じ黒い目の人も、黒髪や茶髪の人も存在する。ライトノベルのイラストだと、東洋人と西洋人の区別は大体髪や瞳、肌の色などで分ける事が多いだろうが、キャラクターの個性を出す為に、西洋人でも東洋人と同じようなデザインにする事もあるのだ。

 それに、元の世界には存在しない赤や紫の髪や瞳を持つ人もいるようだった。琥珀の世界でも髪を染めたりカラーコンタクトを付けたりすれば出来るだろうが、この世界には染髪もカラーコンタクトも存在しない。それは琥珀が既に小説内で明言している事だ。


 普段イラストだけで見ていたものがこうしてリアルな人間の形を帯びて現れると、何だか猛烈な違和感がある。事実、イラストでは東洋人と西洋人の差というのはそこまで出ないのだ。特徴を変えるというだけで、顔立ちをはっきり変えるというのは難しい。だからなのか、こうして琥珀とこの世界の人々の顔立ちが全く違うと認識できるのは中々に面白かった。これから物語を書く中でも役に立つ経験に思える。


 そこまで考えて、琥珀は足を止めた。

 ――――果たして自分は、物語の続きを執筆する事が出来るのだろうか。

 そんな不安が、ふとした瞬間に何度も頭に浮かぶ。

 帰る方法を見つけ出せるのか。まずそんなものが存在するのだろうか。

 不安は形となって、冷や汗が背中を伝う。

 琥珀はその思考を振り払うように、激しく首を振った。


 琥珀はこの世界に飛ばされたのだ。飛ばされた、という表現が正しいのかは分からないが、それでも来る事が出来たのなら帰る事も出来る筈である。

 琥珀は明るくも大人しくもない。だが、だからといって卑屈な訳でもないのだ。

 頭が良い訳でも、運動が得意な訳でも、誰より目を引く美貌を持っている訳でもない。誇れるものといえば、彼女の書く小説くらいだろう。


 それでも、自力で前を向く力くらいは持っている。何にせよ後ろ向きは良くない。後ろを向けば、良くて停止、悪くて後退である。進む為には前を向くしかないのだ。頭の片隅に四六時中不安が付き纏おうとも、それを出来るだけ忘れていなければならない。

 幸いにも、琥珀はこの世界の知識を持ち合わせている。一人で生きていけるとは思わないが、少しの人脈と雨風を凌げる場所さえあれば何とかなるだろう。


 人間の感情とは、本当に起伏が激しいものだ。

 数時間前はあんなにも泣き喚いていたというのに、今は一滴の涙も出る気がしない。

 またいつ感情が爆発してしまうか分からないが、できればそんな事は起きなければ良いと思う。落ち着いた状態でないと、出来る事も出来ないのだ。

 クラネスの家で丸一日寝たおかげかな、と彼の瞳と同じ色の空を見上げながら思う。

 あの冷め切った対応を思い出し、苦笑しながら琥珀は歩みを進めた。




 ーーーー素敵だな。

 琥珀は、街並みを見ながらそんな事を考えていた。

 木組みの建物が建ち並んだ街並みは、思わず溜息を漏らしてしまうほどに美しい。

 テレビのヨーロッパ街歩き番組を見ながら、一度はこういう街に行ってみたいと思ったものだ。そういう意味でも、琥珀の小説はやはり彼女の理想を詰め込んだと言えるだろう。

 昼間の下町は活気がある。大体の家が二階建ての木組みで、どこも腹の虫が鳴る良い香りを窓から漏らしていた。店の外で客寄せをする看板娘に、家の二階から道行く人と会話を楽しむ女性。


 その櫛比した家々の中で一軒、特に大きな建物を見つけた。

 一階の真ん中に取り付けられた大きな扉は開け放たれ、沢山の人々が行き来している。

 恐らくここが『ギルド』だろう。

 扉の上に取り付けられた看板を見て、琥珀は肩を落とした。


 道を歩いていて気付いた事だが、琥珀はどうやらこの世界の文字が読めないようだ。話す言葉は日本語だが、書いてある文字に関しては見たこともない字体をしている。一見おかしい気もしたが、よくよく考えてみればそれは当たり前だった。

 琥珀は日本から来たという『湖春』とこの世界の人間を当然のように日本語で話させていたが、書いてある文字は全て『トゥラリア』の文字だと想定していたのだ。

 執筆段階で何故気付かなかったのかと、実際にこの矛盾を目の当たりにしてから強く反省した。おかげで、会話は出来ても文字は読めないという状態になってしまったのである。


 嘆いていても仕方のない事実にしかし嘆息し、琥珀はギルドの前に立った。看板に書かれた文字は読めないが、出入りする人々の格好を見るにここが琥珀の知る『ギルド』であると判断できた。


 琥珀が設定したこの小説の『ギルド』は、所謂『魔法士ギルド』というものである。

 彼女の物語をファンタジーたらしめる一番の理由。

 それは、『魔法』が存在する事だろう。

 全人類が生まれ持つ『魔力』を使用して放つ、いわば特殊能力である。これは、ファンタジー小説では定番の題材であり、同時に醍醐味でもある。

 だが誰もが魔力を持つという事は、誰もが魔法を使えるという事には直結しない。

 世界人口の約三割。その三割の人間だけが、魔力と同時にある力を持って生まれてくる。

 それが、特別な魔法能力『魔技』だ。

 この魔技を持った者だけが、自分の力で魔法を放つ事ができる。魔技を持たぬ者は基本的に魔法を使う事ができないのだが、近年では、とある魔法士の男が生み出した特殊な道具を使えば限定された魔法を使う事も可能になった。

 

 魔法士は、この『魔技』を保有した者だけがなる事の出来る職業だ。

 魔法士には基本的に二種類の区分がある。

 一つは、宮廷魔法士として王城に勤める魔法士。

 もう一つは、民間の仕事仲介所である『ギルド』で依頼を受ける魔法士である。

 ギルドで仕事を受ける魔法士は皆『魔法着』と呼ばれるローブを身につけており、いま琥珀の目の前にある建物に出入りしている人々の格好はほとんどがその魔法着姿だった。つまり、彼女はそこからここがギルドであると判断したのだ。


 少しの不安と高揚感を抱えながら、琥珀は人々に混ざるようにしてそこに足を踏み入れた。

 どっと賑やかな音が耳を貫く。

 一階のフロアには沢山の丸テーブルが並び、様々なデザインの魔法着を身に付けた人々が各々食事をしたり会話を楽しんだりとまるで酒場のようだった。

 だが奥には受付と思われるカウンターがあり、その横に設置された大きな看板には沢山の紙が貼り付けられている。その光景は彼女の想像していた『ギルド』の姿そのもので、妙に気分が浮き立った。



 クラネスは「間借りさせてくれると思う」と言ったが、それは誰に頼めば良いのだろうか。

 次の行動を迷いながら、そして本物のギルドに目を輝かせながらきょろきょろと周りを見回していると、沢山の視線が琥珀に向いている事に気付く。

 街中と同じように、やはりここでも琥珀の存在は浮いたものだった。

 皆が皆、彼女を訝しげな目で見つめるのだ。当たり前の事ではあるが、それでもやはり注目を浴び慣れていない琥珀は誰とも視線を合わせないよう俯いてしまった。

 とりあえず受付の女性に話し掛けようと、そう決めて足を踏み出す。

 

 唐突な、肩を叩かれる感覚。

「うひゃっ!」

 素っ頓狂な叫び声と共に、びくっと琥珀の肩が大きく跳ねた。

 恐る恐る後ろを振り向く。

 と、そこでは、黒の長髪を揺らす一人の女性が琥珀に向かって優しく微笑んでいた。

「こんにちは。どうかした?」

 そう聞く女性の声は、妖艶さと少しの可愛らしさを混ぜたような美しい声だった。

 真っ白な肌に、紅く染まった艶のある唇。黄金の瞳を守る長い睫毛が目の下に影を落としている。

 それまでの考えを放棄して、眼前に現れた女性の顔に見入ってしまう。「色っぽい」という言葉はこういう人に使うんだなと、そんな間抜けな考えだけが残った。

 何も答えない琥珀に、女性は軽く首を傾げる。

 その仕草にはっとして、琥珀は意識を戻した。


「えっと……すみません、ここで間借りさせて頂けると聞いたのですが」

「間借り?」

 言っている意味がよく分からないというように、女性はそう聞き返す。

 琥珀は自分が色々とすっ飛ばして本題から入ってしまった事に気付き、慌てながら付け加えた。

「すみません。私、峰崎琥珀といいます。ええと……クラネスさんから、ここに来れば少しの間なら間借りをさせて頂けると聞いたので、来ました」

 出来るだけ丁寧な口調でそう言う。

 それを聞くと、女性は少し驚いたように目を見開いた。

「えぇ、クラネスが? 珍しい事もあるのねぇ」

 彼女が彼の名を知っていた事に、琥珀は良かった、と安堵した。彼には申し訳ないが、それを信用の素として使えるかもしれないからだ。

 

「うーん、少し待ってもらえる?」

 女性は顎に人差し指を当ててそう言うと、手に持っていた紙束を近くの空いたテーブルに置いた。そのまま席に着くと、琥珀を手招きして呼ぶ。

 座るよう促されたので、彼女の向かいに腰掛けた。

 彼女は妖艶な笑みを浮かべると、その口を開く。

「貴女は魔法士?」

「あ、いえ。違います」

「そうなの? そう……そうねぇ、間借りかぁ。普通は所属の魔法士にしか貸し出さないんだけど。トゥラリアの子じゃないわよね? 旅行?」

「えっと……少し違うんですけど……」

「あら、訳あり?」

 その返しに、琥珀は言葉を詰まらせた。

 先程は気が急いでいたのもあってクラネスにほぼ全ての事情を話してしまったが、本当はそうすべきでないのかもしれない。

 普通は信じてもらえないし、信じられたとしても琥珀の存在がどう扱われるか分からないのだ。元の世界なら、もし異世界から来たことが証明できれば、ニュースで取り上げられ連日記者が殺到し行動に制限がかけられてしまうだろう。

 そこまでの事態にはならなくとも、この世界でも『異物』だと捉えられる事はまず間違いない。

 今の状況で「異世界から来たので帰る家がありません」と言ったとして、それを受け入れてもらえる可能性はゼロに近いのだ。クラネスの場合は――信じてもらえたかは分からないが――彼にとって「琥珀が異世界から来た」という主張はさして重要でなかったのだろう。関心を持たれる事も追及される事もなかった。その点は、彼の少々冷めた性格に救われたと言える。

 だが、それが『普通』ではない事は明らかだ。

 身を守る為にも、そして早く元の世界に帰る為にも、隠しておくのが賢明だろう。

 そう判断して、しかし琥珀は何を言えばいいか思いつかず、口を噤んだ。

 だが琥珀が口を開くより先に、笑い混じりの楽しげな声が彼女の耳に入る。


「いいわよ」

 短い一言。

 その返事に、琥珀は「えっ」と驚きの声を上げた。

 彼女はふふ、と笑いながら言葉を続ける。

「私も主人も、訳あり大好きなのよ。面白そうだから泊めてあげる」

 意表をつく言葉。

 思わずぽかんと口を開けて、美麗な女性の笑顔を眺める。

 だがその瞳と声に乗ったどこか子供っぽさのある高揚の色が、彼女の言葉に嘘がない事を物語っていた。


「私はパルメラよ。よろしくね」

 目を細め、艶めいた唇の両端を上げながら彼女は言った。真っ白な手が琥珀に差し出される。

 呆気にとられた琥珀は、その手を見て数秒固まった。

 パルメラは、自分を見ながら硬直する琥珀にくすりと笑みを漏らすと、机に隠れた琥珀の手を取って自分の手と重ねた。

 


 そうして琥珀は、どこかおどけた表情のパルメラに面食らうと共に、すんなり寝床を手に入れたのであった。

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If ストーリー・オブ・マギー 梅明いゆ @niconyon1112

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