(02)
――――額が痛い。
そう思って、琥珀は目を覚ました。
ぼんやりとした視界に、木の天井が写る。
その何の変哲もない天井をぼうっと見つめながら、琥珀は閉じそうになる瞼と静かに格闘していた。
琥珀の寝起きが悪いというのは、家族皆知っている周知の事実である。一人暮らしを始めて二年が経った今も、家族が起こしてくれるのを待つ習慣が抜けない。
琥珀はもう少し、と再度目を閉じようとして――――そして、勢い良く起き上がった。
一気に開いた黒の瞳をあちらこちらに向ける。
木の天井、木の床、木の壁、開け放たれた木の扉。
琥珀のアパートは全面真っ白だ。という事はつまり、ここは琥珀のアパートではないという事で。
「……やっぱ夢じゃなかった……」
意識を失う前の記憶が蘇り、琥珀は絶望した。
と同時に、妙に痛い額をさする。
「てかここどこ……」
物語によく出て来る「目を覚ましたら見知らぬ場所で寝ていました」という状況に、心の中で「いや漫画かよ」と突っ込みを入れる。そしてここが小説の中だった事をまた思い出し、落胆した。
「もうやだ……」
「起きた?」
突然かけられたその声に、びくりと肩が跳ねる。
声のした方を振り向くと、そこには冷めた目で琥珀を見つめる一人の男がいた。
「え……っと……?」
「突然倒れるのとか本当やめてほしい。しかも全然起きないし。もう昼だし。なんで叩かれても起きないわけ」
その呆れたような言葉に、額が何故痛いのか、その理由を知る事となった。
男はすたすたと琥珀に近寄ると、上から彼女の顔を覗くように見つめる。その眉間には皺が寄っていた。
「もう歩ける?」
「え? あ、はい、あの、多分……」
「そう。じゃあ帰って」
「はい?」
男は投げ捨てるようにそう言うと、琥珀を一瞥して扉の方に足を向けた。
「ちょちょちょちょっと待って!!」
琥珀は、咄嗟に男の服の裾を掴んでいた。
鬱陶しそうに振り返る男の視線に怯みそうになるが、そこで引く琥珀ではない。
ここまで冷めた対応をされれば混乱した頭もすっきりしてしまうというものだ。琥珀の頭は、ごく自然と現実に目を向けていた。
先程は気が動転してああも泣き喚いてしまったが、今は琥珀自身も驚く程に冷静だ。寝ると泣き止む赤子かと自分に呆れるが、恐らく彼女がいま落ち着いていられるのには、彼女が異世界転移の物語を書く人間だという事が役立っているのかもしれない。ずっと『異世界転移』という事象について考えてきたのだ。主人公が転移した時の感情も、その時に取るべき行動も、元から頭の中にある。
日頃から「もし私が異世界に転移したらどうしよっかな」なんて呑気に考えていたのだ。まさかそれが現実になるなんて、夢にも思っていなかったが。
落ち着いた人間の頭は、次に何をするべきなのかをすぐに見出してくれる。
ふう、と息を吐いて、琥珀はその口を開いた。
「えっと……助けてくれてありがとうございます。それで……貴方は誰で、ここはどこですか?」
一番最初に浮かんだ質問から処理していこうとそう問う。だが、目の前の男はあからさまに面倒そうな顔で反応した。
「礼とかいらないし、早く帰ってくれればそれでいいんだけど」
「いや、そうします。そうするんですけど、少しだけ質問に答えてくれたりは……」
「しない」
「待って待って待って待って!!」
そそくさと出て行こうとする男に、琥珀はまた悲痛な声を上げる。
「帰る場所がないの!!」
琥珀は目に涙を溜めて、そう叫んだ。
男の目は、虫けらを見る目から、生ごみを見るような目に変化していた。
「………で?」
琥珀は、まくし立てるように一連の流れを男に説明した。この世界が自分の小説だという事は除いて、それ以外は全て。小説の事を言えば彼を不快にさせてしまう可能性が高い。既に不快にさせている気もするがそこは気にしない。
「貴方の住む世界は私が作りました」などと言えば、信じられない以前に何だこいつと思われる。
話を聞く間、半ば無理矢理ではあるが彼には座ってもらい、物凄く面倒臭そうな顔をされたがそれでもめげず、とにかく一方的に話を聞いてもらった。
「とりあえず、これ離してくれない?」
話終わった時、彼は自分の服の裾を指差して言った。琥珀はまだ彼の服を強く掴んでいることに気付き、急いで手を離す。
男は、頭を掻きながら溜息をついた。
「で? 異世界から突然飛ばされて来て、気付いたらここにいたと」
確認するように問う男の声に強く頷く。
「意味わからない」
その返答を予想はしていたが、やはり琥珀はがっくりと肩を落とした。当然である、琥珀も自分で言いながら意味が分からないのだ。
「分かります、その気持ち。でも本当なの。信じてください!」
「いや無理でしょ。というか、それが本当だとしても俺が話を聞く理由にはならなくない?」
「それは、そう、だけど……」
どうやら彼の優先事項は、琥珀の言った言葉の真偽よりも、今の面倒な状況を打破する事らしい。
今まで会った人の中で一番冷めた人だな、と思いながら、琥珀は言葉を続ける。
「でも、ほら。一度拾ったものは中々放り出し辛かったりとか」
「しないよ。神経図太いね」
「はい、すみません」
もっともな言葉に、座ったまま深々と頭を下げる。
それはそうだろう、見ず知らずの人間が泣き喚きながら走り寄って来た上に気絶までして、それをご厚意で介抱してくれたのにも関わらず、また「助けて!」と縋っているのだ。
本来ならここで引き下がるべきなのだろうが、状況が状況である。
今までになく淡白な対応をされているが、それでも彼は琥珀を助けてくれたし、面倒そうにしながらも何だかんだこうして話を聞いてくれている。無理矢理追い出そうとしないのを見るに、きっと根は優しいのだ。琥珀はそう思い込むことにした。
「少しだけ。本当に少しだけですから、質問に答えてくれませんか?」
「嫌だよ面倒臭い」
「でも、こうしてる方が面倒臭いでしょ?」
「会ったばかりで悪いけど、お前のその性格凄く気に食わない」
「うわ、お前呼び! すみません、でも譲りません」
琥珀自身、自分がこんなに頑固だったかと驚きを覚えながら話していた。普段なら、人からどう見られるかを過剰に気にする琥珀はすぐに折れていただろう。
だが今はここが別世界という事と、彼がもう恐らく会わないひとだという事が相まって、琥珀をここまで頑固な人間にさせていた。
真っ直ぐに彼の青の瞳を見つめる。彼は初めこそ虫を見るような目だったが、やがてその瞳には呆れの色が見え始め、そして大きく溜息をついた。
「……それで? 何が聞きたいの」
男のその言葉に、琥珀の表情がぱあっと明るくなる。琥珀は彼の気が変わらないようにと、すぐに質問を繰り出した。
「まず、一つ目。ここはどこですか?」
「俺の家」
「あ、それはなんとなく。ここはメンデですか?」
「そう」
「トゥラリア王国の?」
「うん」
「成程。じゃあ二つ目」
何が「成程」なのかは自分でもよく分からないが、彼からも聞けた事で先程の女性が嘘を言っていた訳ではないと確認できた。
すかさず二つ目の質問を投げかける。
「今は何年ですか? 季節は?」
「七百二十二年、九月十四日。秋」
「うわぁ……」
「何その反応」
予想はしていた事だが、日付までも琥珀が設定したものと同じだった。『湖春』が異世界に転移してくる日。適当に設定した日付だが、それでも物語のはじまりの日だ。やはり特別記憶に残っていた。
琥珀は次にする質問を少しだけ考えて、そしてまた質問を繰り出した。
「じゃあ、三つ目。……元の世界に戻る方法を知っていそうな人っていませんか?」
「いない、知らない」
「即答……」
一刀両断、という具合にはっきりと言われ、琥珀はまた肩を落とした。
元の世界に戻りたい。
これは、いま琥珀が何より望んでいる事だ。————そして、物語の『湖春』もまた、同じようにそう強く望んでいた。
琥珀は、物語を書いた人間だ。当然、この世界の……湖春の結末を知っている。
湖春は、見つけ出すのだ。元の世界に戻る方法を。ならば琥珀も同じ方法を取れば良い。————だが、そう出来ない理由があるのだ。故に琥珀は、また別の方法を一から探し出さねばならない。
琥珀は小さく溜息を吐くと、男を見つめて再度口を開けた。
「次、四つ目」
「いくつあんの?」
「これ合わせてあと二つだけです。それで私、今日から宿無しなんですが、どこか無銭で泊まれる場所があったりはしませんか? それか、早急にお金を用意する方法とか」
「……ない」
「いま間がありましたよ」
「うざいね」
「すみません、でも引きません」
初対面で「うざい」と言われるのは、普段なら中々に腹が立っただろうが今は違う。彼は琥珀を助けてくれたし、実際自分でもうざいと思うのだ。それでも彼女はこの状況で足掻かなければならない。こんな異世界で立ち止まってはいられない。事実を受け入れたのなら、次は前進あるのみだ。
男は根負けしたようにまた大きく嘆息すると、琥珀から視線をずらして答えた。
「……ここから十分くらいの所に、ギルドがある。そこなら、少しくらい間借りさせてくれると思う」
「ギルド、ですか?」
「場所とか諸々は誰かに聞いて。説明面倒臭い」
「わかりました。ありがとうございます!」
琥珀は大袈裟に頭を下げると、寝台から立ち上がった。
この世界の事について、琥珀は大体の知識なら持ち合わせている。流石に街の構造までは分からないが、それでも先に進むには充分な知識を持っているし、彼のおかげで不足していた情報も補えた。このまま街に出る事に些か不安は残るが、ここで彼の世話になっている訳にもいかないし、まず彼がそれを許さないだろう。琥珀の良心も傷付く。
琥珀が立ったのを見て、彼もゆっくりとその場に立ち上がった。こうして立った状態で並んでみると、彼は随分背が高い。琥珀も百六十三センチとそこまで背が低い方ではないのだが、彼は頭一つと少し琥珀よりも高かった。
それに、先程まではしなければならない質問が意識の先頭に来ていてよく分からなかったのだが、よく見ると彼はかなり顔が整っていた。宝石のような青の瞳に、絹糸のような白茶色の髪。顔の右横にある髪の一部分だけが三つ編みにされている。その結び目で揺れている金と緑の小さな玉が凄く美しくて、琥珀はそれに目を奪われた。
所謂『イケメン』な男の姿に、元の世界であれば頰を染めるくらいはしただろうし、もっと言えば『イケメンに群がる女B』になっていたかもしれない。だがここは異世界である。幾ら何でもそんな余裕は持ち合わせていなかった。
琥珀はこの世界に知っている人間がいないわけではない。作者なのだから、登場人物の事は誰よりもよく知っている。
だが、目の前の男は小説には登場しない人のようだった。こんな美形を登場させていたら、幾ら記憶力が悪くても覚えているだろう。先程までは完璧にシナリオを辿っていたが、今こうしてここにいるのを見るに、その道筋から外れる事も出来るようだ。
琥珀はそれに安心しながら、また彼の秀麗な顔を眺めた。
あまりにじっと見つめすぎていたようで、彼の視線はみるみる内に鋭くなっていった。漫画であれば「ゴゴゴゴ……!」という効果音が付きそうなその光景に、琥珀はすぐに目を逸らす。
「すみません、お綺麗だったもので」
「そう、ありがとう、じゃあね」
「追い出そうとしてますね……出て行くんですけど。その前に一つ」
「まだ何かあるの?」
「いや、最後の質問を」
心底鬱陶しそうな顔で琥珀を見つめる男に苦笑すると、彼女は勢い良くお辞儀した。
「助けて下さってありがとうございました。私は峰崎琥珀です。貴方の名前を教えてくれませんか?」
これだとまるで逆ナンしてるみたいかな、なんて考えを一瞬で捨て、彼女は笑顔で、そして真剣な目で男に言った。
これから先、会うかもしれないし、会わないかもしれない。彼女と彼の糸は一生交わらないかもしれないし、交わるかもしれない。それでも、琥珀は自分を助けてくれた男の名前が知りたかった。
何故だかは分からないが、それが自然であり、必然であり、当然であるように思えたのだ。
男は、拒否し続けることに疲れを感じたのだろう、最早何度目か分からない溜息に混ぜるようにして、自身の名を静かに名乗った。
「…………クラネス」
低く小さな声。それでも琥珀の耳にははっきりと残った。
「クラネスさん」
そう反芻してみる。何故だか分からないが、その名を忘れる気がしなかった。
そうして、彼女と彼は出会った。
彼女がこの『物語の世界』のどんな存在であるのか、彼はまだ知る由もない。
だが彼もまた、彼女と同じように、何故かその名を忘れる気がしなかったのである。
————はじまりの
これは、その一日目の『シナリオ』である。
彼女の作った運命の上を歩く者達の物語は、こうして幕を開けた。
世界と世界を繋ぐもの。
その答えに辿り着くのは、まだ幾らか先のことである。
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