はじまりの半月(01)

 ————眩しい。

 それが起きたとき、琥珀はまずそう思った。

 眩い光に抵抗するように目を細める。

 浅い視界から入ってくる情報は、有るはずの無い眩しさのみ。

 光に慣れ始めた彼女の両目は段々とその視界を広げていった。

 そして、驚愕した。

「…………何、これ……」

 木組みの街並み。

 賑やかな街の喧騒。

 頭上に広がる快晴の青空と、世界を照らす日の光。

 それら全て、当然ながら琥珀のアパートではない。


「……はあ……?」

 意味が分からないこの状況に、琥珀の口から呆けた声が漏れた。

 目を擦ってみても、頬を軽く叩いてみても、眼前に広がる不可解な光景は何も変わらない。

「待て待て待て待て……」

 琥珀は額に手を当てながら状況を整理した。

 琥珀は、確かに自分の部屋で座椅子に腰掛けていた。パソコンを開いて、自身の書いた小説のプロローグを開いた。————そして、突然空間が歪み出したのだ。

 空間が歪む、という表現をこの二十年の人生で使ったのは初めてのことである。当然だ、そんな状況、少なくとも琥珀が暮らす地球では有り得るはずが無いのだから。


 琥珀は顔を上げると周りをきょろきょろと見回した。

 目に映るのは、テレビで見たような異国風の木組みの建物と、西洋然とした顔立ちの人々だ。街行く人々の服装やこの街並みを見る限り、漫画や小説だけで見ていた中世の西洋を彷彿とさせる。

 琥珀はまるで凍ったかのように動きを止めていた。動くことができなかった。

 ――――夢か? 幻覚か?

 そんな考えが脳内を支配する中、彼女はただ、部屋で座椅子に座っていたのと同じ体勢で、地面にぺたりと座り込んでいた。

 冷や汗がどんどん湧き出てくる。

 理解不能なこの状況に、顔が蒼さを増していく。

「…………」

 人間、あまりに現実味の無い状況に遭遇すると、脳の機能が停止するらしい。頭が真っ白になって動けず、蒼白な顔をこの西洋風の街に向けることしかできない。やはり現実で無いような気がして頬をつねっても、柔らかな頬から伝わる小さな痛みはこれが現実であると訴えてくるだけだった。


 すると突然、目の前に壁が現れた。

 いや、壁では無い。ふわりと揺れ動くそれは、ドレスのスカートだった。

「あの……大丈夫?」

 頭上から聞こえた女性の声に、ばっと顔を上げる。

 そこには、心配そうに琥珀を見つめる、傘を差した一人の女性が立っていた。

「顔色が悪いわ。立てる?」

 そう言って、女性は琥珀に手を差し伸べた。

 琥珀は心底驚いていた。女性に声をかけられた事にではない。だ。

 ヨーロッパ人にしか見えない顔立ちの女性から、琥珀の母国語が出てきた。それも、ネイティブかと思うほどの流暢な日本語だ。

「立てない?」

 もう一度聞かれて、琥珀ははっとしてその手を取った。ゆっくりと立ち上がると、女性とほぼ同じ目線になる。彫りの深い綺麗な顔立ちのその人は、花のような笑顔を琥珀に向けた。

「大丈夫?」

 その問いに、琥珀は女性と目を合わせながら頷く。


 人と話すというアクションが起きた事で、少し頭が冷静になった。依然として驚愕している事には変わりないが、それでも何を話せばいいのか考えつく程には落ち着きを取り戻していた。

「あの……ありがとうございます。日本語とてもお上手ですね」

「ニホ……? 何かしら、それ」

 まずお礼と賞賛から、そして質問に移ろうと思い発した何気ない言葉に、予想外の返事が返ってくる。琥珀はまたその黒い目を丸くした。

「日本語、です。今使ってるこの言語……」

「うーん……ごめんなさい、よく分からないわ」

「えぇ……?」

 困り顔で頰に手を当てる女性に、困惑が深まる。

 自分の話している言語を知らないなんて事が有り得るのだろうか。どんなシチュエーションを想像しても、そんな事は有り得ないという結論に至る。


 琥珀は眉間に皺を寄せながら、頭の中で再度状況を整理した。

 彼女は今、確実に日本のアパートの部屋に座っていた。それが突然、中世西洋風の街に移動していた。

「これってもしかして……」

 目の前の女性にも聞こえない位の小さな声でそう呟く。

 一瞬で見知らぬ土地に移動してしまったという事。そして、日本語を知らないと言う人が、当然のように日本語を話しているという事。

 ファンタジー小説家として、その条件を満たした時に頭に浮かぶ事象は存在する。あまりに非現実的で、小説や漫画といった作り物の中でしか見られない事象。


 そうでなければ良い、と思う。これは少々たちの悪い夢で、目を覚ませば彼女は今もアパートの部屋の座椅子に座っているのだと、そうであれば良いと思う。

 だが、そうでない可能性の方が遙かに高い。もしこれが夢なのだとしたら、一体どこからが夢で、どこまでが現実だったのか分からない。それに、今現在も彼女を照らし続ける眩しい光も、靴下を履いた足が地を踏む感覚も、全て現実としか思えないほどにリアルな感覚を伝えてくるのだ。

 ごくり、と喉を鳴らして唾を飲む。

 どうであれ、彼女は今この地にいる。「信じられない」と目を背けていないで、少しでも足を進めるべきなのだ。


 琥珀は様々な感情を訴えかけてくる頭を必死に落ち着かせ、それを言葉にした。

「ここはどこですか?」

 決定的で、彼女の予想が正しいのか間違っているのか、その答えを出すための質問。

 だがそれに返ってきた答えは、琥珀の予想の斜め上を行くものだった。

「可笑しいことを聞くのね。トゥラリアのメンデよ」

 くすりと笑みを含んだその返答に、琥珀は衝撃を覚えた。

 頭を鈍器で叩かれたかのような衝撃。

 アジア人らしい黒の瞳が大きく見開かれる。

 無意識に、一歩後ずさってしまった。

 そして同時に、また別種の迷いが生まれた。


 ————トゥラリア。


 それは、琥珀の……『羽崎みね』の書く小説、『Magie』の舞台なのだ。

 『Magie』は、主人公の湖春が異世界に転移する事から始まる。

 中世西洋の、『トゥラリア』という国。その首都である『メンデ』という街に。

 何か言わなければならないのに、唇が震えた。

 琥珀は、自身が書いた物語を思い出す。


『————眩しい。

 それが起きたとき、湖春はまずそう思った。

 眩い光に抵抗するように目を細める。

 浅い視界から入ってくる情報は、有るはずの無い眩しさのみ。

 光に慣れ始めた彼女の両目は段々とその視界を広げていった。

 そして、驚愕した。

「…………何、これ……」

 煉瓦造りの街並み。

 賑やかな街の喧騒。

 頭上に広がる快晴の青空と、世界を照らす日の光。

 それら全て、当然ながら湖春のアパートではない。』


 ————そうだ。

 琥珀は確かに、転移直後の描写をこう記したのだ。

 そして、琥珀もまた、全く同じ体験をしていた。

 自分を照らす光が眩しかった。煉瓦造りの街並みと賑やかな喧騒が目の前に広がっていた。

 悪寒が身体中を駆け巡る。

 口の中が段々と乾き始めてきた。

「あなた、トゥラリアの人ではないのよね? どこから来たの?」

 困惑する琥珀に投げられたその問いに、またはっとする。

 何故だか、聞き覚えのある台詞だった。聞き覚えというより、その一文を知っているという感覚。

 記憶が鮮明に浮かび上がる。自分が物語をどう記していたのか、それが頭の奥底から湧き出るように思い出される。

 『湖春』は転移した直後、気が動転して動けなくなった。そしてその後すぐに、知らない女性に声をかけられるのだ。「大丈夫?」と。————今まさに、琥珀の目の前にいる女性と同じ様な風貌の人に。

「…………っ!!」

 琥珀は両手で口を押さえながら大きく息を飲んだ。

 つまり、つまりだ。

 この状況から判断できる答えは、一つしかない。

 

 どこから来たのというその問いに、琥珀は試すように返答した。

「……日本です。日本から来ました」

 琥珀が書いた、湖春の台詞と同じ返答。湖春の場合はもっと動転していたが、それでもきっと流れは変わらないだろう。事実を確認するために出来ることは、彼女の書いた物語に沿う事しかない。

「ニホン……ごめんなさいね、私ではその国が分からないみたい。どのあたりにあるの?」

 頭が痛かった。酷く眩暈がした。

 やはりその台詞は、琥珀が書いた台詞と寸分違わず同じだった。段々と現実味を帯びていく非現実的な事象に頭を抱えたくなる。

「迷子かしら……迷子の年齢ではなさそうなのだけど……」

 その独り言も、一文字も違わない。

 この後のシナリオまで、琥珀は全て記憶している。

 もし、もしもこの後、この女性があの行動を起こしたら……

「少しここで待っててくれる? すぐに戻って来るわ」

 そう言って、女性は裾の長いドレスを翻し、早足でどこかへ駆けて行った。

 琥珀は、震える体を片手で抱きしめるようにして抑え込んだ。もう、彼女の予想はほぼ当たっていると言って良いだろう。だが、それでも彼女は、決定打となる出来事を欲していた。

 もしかしたら、あの女性は琥珀が小説家だと知っていて、からかっているのかもしれない。琥珀はそんな有り得ない希望を捨て切れず、自分の予想が間違っている事だけを祈って、女性が戻ってくるのを待った。




 それから、体感時間で約五分が経過した時。

「……あ……」

 琥珀が待っていたが、向こうから足早に歩いて来た。

 先程の女性と、黒を基調とする制服を着た衛兵。

 それは琥珀の予想通りであり、そして予想が外れて欲しかった事でもあった。

 二人は琥珀の目の前で止まると、先に女性の方から口を開いた。

「この子なのですが……」

「そうですか……自分がどこから来たのか分からないと?」

「ええ。存在しない国の名前を言うんです。このまま放ってはおけないし、どうしたものかと……」

「分かりました。とりあえず話を聞きますので……」

 頭に浮かぶ文字の羅列。

 鉤括弧かぎかっこの中に入った黒い文字と、目の前で行われる会話が重なり合う。

 途端に、猛烈な恐怖が琥珀を襲った。

 首を振りながら、一歩、二歩と後ずさる。

「嘘……」

 もう認めるしかなかった。

 認めるしかないその事実があまりにも怖くて、琥珀は思わず駆け出していた。


「訳わかんない……訳わかんない!!」

 道行く人が皆、驚いたように琥珀を見やる。琥珀がいた場所からは、女性と衛兵が彼女を制止する声が聞こえた。それが耳には入る。しかし、それを気にする余裕など、もう琥珀の中から消え去っていた。

「違う……っ、こんなの、嘘、違うってば……!!」

 息が上がって切れ切れになる声。堪えきれなかった涙が頬を伝った。

 息が詰まる。今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

 眩暈がしてくる。頭も痛い。靴下を履いただけの足裏もずきずきと痛む。

 それでも、走ることをやめられなかった。

 どこへ向かっていた訳でもなかった。

 このまま走っていても、自分の世界に戻る出口には辿り着けないだろう。そんなことは分かっている。

 その事実はしかし、琥珀の心臓を握り潰すような絶望を与えるものなのだ。

 信じるしかない。分かっている。だが本能がそれを拒否しているのだ。

「帰りたい……っ、帰りたい、帰りたい帰りたい!!!」

 もう、頭では理解している。

 琥珀は、異世界に転移したのだ。

 それも、彼女の書いた物語の世界に。

 そしてその物語、『Magie』の主人公として。

「ふ、ざけんなぁ…………っ!!」

 こんな形で、主人公になりたかったわけじゃない。

 体の中を、狂ったような感情が駆け巡って血を上らせる。

 主人公である必要なんてない。こんな世界に憧れを持っていたわけではない。ただ書きたいから、面白いから、認められたかったから。だから書いただけなのだ。


 冷たいのか熱いのか分からない激情が、涙と嗚咽を溢れ出させた。

「お願いだから……っ、私を帰してよ……っ!!!」

「うるさい迷惑」

 唐突に、冷めた低い声が聞こえた。

 妙に鮮明に、これ以上なくはっきりと。

 止められなかった足が、ぴたりと動きを止めた。急ブレーキをかけたようなその動きに、体は前に傾いていく。

 そして、誰かの硬い片腕が、地面に倒れ込む直前で琥珀の体を抱え込んだ。

 その手に支えられるようにして、ゆっくりと体が元の角度まで上がっていく。

 琥珀は、涙と同調するように肩を震わせながら、その手の主を見上げた。

「耳障りだからピーピー泣かないでくれる?」

 少しの暖かさもないその声は、ぐちゃぐちゃになった琥珀の意識を強制的に戻させた。

 頭上に広がる青空と同じ色の、宝石のような瞳。

 限りなく白に近い柔らかな茶色の髪。

 何故だか、目が離せなかった。

 綺麗だと思ったからとか、そんな理由のあるものではなく。

 ただ、その男に出会ったことが、当然であるかのように思えたのだ。

「あ……の……」

 何か声をかけなければと、本能的にそう思った。

 でも、無理だった。

 頭も体も力尽きた琥珀の体は、男の手をすり抜け、力無く崩れ落ちたのだ。

 地面に体がぶつかり、意識を手放す直前。

 ぼそりと「めんどくさ……」と言う男の声が聞こえた気がした。

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