If ストーリー・オブ・マギー

梅明いゆ

Re:プロローグ

 ————それは、小さな歪みだった。

 少しずつ、ゆっくりと歪みながら、その物語は世界になっていった。

 誰かの書いたシナリオの中だけで動く、意思のない人形。

 彼らはいつの日か、広げられた世界に佇む人形となっていた。

 全ての運命は既に決められている。

 定められた運命の中を、ただ進むだけの世界。

 もし、それを書き換える事ができるなら。


 そして彼らはまた、この残酷な物語を、白紙から始めるのだ。




* * * *




 その日は、完璧な一日だった。


 日が落ち、目に映る風景が全て紅く染め上げられている。今日という日の終わりかけ。彼女が、一日の中で最も好きな時間だ。

「成美さん。今ですか? 大学の帰りです。うん、そう。家に着いたらウェブの方は上げますよ」

 右手で携帯を耳に当てながら、彼女は光の中を歩んでいた。


 峰崎みねさき 琥珀こはく

 大学三年に進級したばかりの二十歳である。

 肩下まで緩やかに巻かれた焦げ茶色の髪は、夕陽に照らされて少し紅く見える。

 季節は春。桜の花も段々と見られなくなってきた、春と夏の間の五月である。

 肌に丁度良い季候の中、彼女は肩の出た服に身を包んでいた。この服を着るにはまだ少し寒くも感じるが、新しく買った洋服を早く友人に見せたかったのだ。

「今日、本当に朝から完璧だったんですよ!」

 琥珀は嬉しそうに、電話の相手にそう伝えた。


 今日は朝から完璧だった。

 六時に起床し、ふわふわのスクランブルエッグを作ってトーストと一緒に食べた。提出期限が明日に迫る課題を昨日中に終わらせ、先程その提出も済ませてきた。新品の可愛い服に、両耳に一つずつ付けられたお気に入りのピアス。化粧のりも良く、鏡に写る自分を見ながら口角を上げてしまったほどだ。

「しかも、驚くぐらい手が進んだんです! 今日だけで四万字は書きましたよ」

『そう、良かったわね。書籍の方は?』

「それも締切間に合います!」

『へえ。凄いじゃない』

 そう褒められて、思わずにんまりとしてしまう。

 

 峰崎琥珀は、『羽崎はねさきみね』という名で活動するライトノベル作家だ。

 高校二年生の時にウェブサイトに投稿した小説が、今彼女が電話をしている自身の担当編集者、近藤 成美こんどう なるみのお眼鏡にかない、書籍化された。以降予想以上に売れ始め、既刊五巻で累計発行部数が二百万部を突破した。故に、現在彼女は大学の学業と小説家の仕事を両立した日々を送っている。

「投稿予約を済ませておいたので、後はもう書籍の作業に集中できます」

『良かった。電話で確認したかったのはそれだけなの。それじゃあ、また打ち合わせの時に』

「はい、ありがとうございます。はい、失礼します」

 丁寧な口調でそう言って、相手が電話を切ったことを確認すると、携帯を鞄にしまった。そこで足を止める。


 家の近所の歩道橋から見える夕焼けは、毎日それはそれは美しい。

 一日が終わっていくのを感じるこの景色が好きで、そして一人暮らしの家に帰るのが少し勿体ない気もして、琥珀はいつもここで立ち止まってしまう。しまった携帯を取り出して、その風景を写真に収めた。

「……うん、帰ろう」

 誰に言うわけでもなくそう呟くと、琥珀は惜しむように夕焼けから目を離し、自宅への道を進んだ。




「ただいまー」

 扉を開けながらそう言っても、当然ながら返ってくる声はない。

 一人暮らしを始めてから二年が経ってもまだ抜けないその癖に、琥珀は苦笑いしながら靴を脱ぐ。

 比較的整理整頓がされたワンルームで最も目を引くのは、恐らく誰が見ても本棚だと言うだろう。壁に沿って置かれた本棚に、多様な本が詰め込まれている。彼女が書くライトノベルといった種のものもあれば、エッセイや自伝なんかも並んでいる。勿論、大学の教材もある。

 幼い頃から本と親しんできた彼女にとって、本の無い家など考えられない。そういうものなのだ。

 琥珀は部屋着に着替えないまま、座椅子に腰掛けた。鞄からノートパソコンを取り出し起動する。慣れた手つきで、彼女が最もよく使うウェブサイトを開いた。

 

 高校二年生の七月から投稿し始めたこの小説は、連載開始から約四年が経過していた。

 書籍化され、自分の書いた小説の文庫本を手に持ったあの日が忘れられない。言いようのない感慨が湧き上がり、出来たてほやほやの本が涙で濡れてしまったほどだった。

 そんな思い出を思い浮かべながら、自分の小説のページに移る。

Magieマギー

 これが、琥珀の小説のタイトルだ。ドイツ語で魔法という意味を持つ。

 主人公の谷崎 湖春たにさき こはるが、ある日突然異世界に転移する事から始まるファンタジー小説。ウェブ小説の主流がこの題材になっている中で彼女の小説が評判になったのは、緻密に組まれた設定や独自の世界観と、弱かった少女が仲間と出会い強くなっていく成長過程やその戦い方、そして恋愛要素なんかも含んでいるのが良かったのかもしれない。————と、彼女の編集者が言っていた。

 パソコンのディスプレイを見ながら、琥珀は息をついた。

 一番最初の話、プロローグを開く。彼女は、よくこうして最初から見返してみている。初心に返るという意味でもあるが、やはり一話目というのは特別なのだろう、見るたび涙が出そうになる。琥珀が涙脆いというのもあるだろうが、緊張と期待の混ざった感情で小説を公開した四年前の自分を思い返すと、そうなるのも仕方がないだろう。


 琥珀の兄妹は、どちらも色が濃い。

 兄は文武両道で背が高く、異性からの人気も高い。

 対する妹は明るく破天荒な性格で、誰にでも分け隔てなく接する。

 二人とも、所謂『少女漫画の主役』のような人だ。

 その真ん中に生まれた琥珀はというと、残念ながらそういった明確な『色』を持っていない。二人と同じ様に整った顔はしているが、これといって特徴はない。性格も明るいわけでも大人しいわけでもなく、例えれば『ヒーローの周りに群がる女』といったところだろう。この二十年の人生から、それが一番似合うと思わざるを得なかった。

 琥珀は、既に自分が物語の主人公にはなれないと悟っていた。「誰もが自分の人生の主人公だ」と言う人もいるが、琥珀はそうでないと思っている。自分を中心として生きてはいるが、主人公はいつも別にいた。


 だから彼女は、『湖春』を生んだ。

 自分と同じ外見の、自分とは違う主人公を。

 強く、優しく、暖かく、そして誰より主人公らしい彼女は、琥珀の『色』となっていった。兄妹たちとは違い突出したものがなかった彼女が、ただ一つ誇れるものに。それは、彼女の中では革命だったのだ。

 それからというもの、彼女は全ての空き時間を執筆に費やしている。自分の考えた世界で登場人物が動き、それが人に認められるというのは、何とも表し難い感動を与えてくれる。

 自分が主人公なわけではない。主人公は『琥珀』ではなく『湖春』なのだ。だがそれでも、琥珀は書き続けた。自分と、そしてもう一人の対照的な自分である『湖春』の幸せな結末を求めて。

 そうして彼女が、プロローグを閉じようと右上のばつ印をクリックしようとした――――その時だった。


 突如、ディスプレイが大きく歪んだ。

 いや、正しくは歪んで見えた。

 唐突なそれに眩暈が起きたかと思い、頭を軽く振って目を擦ってみる。だがそれでも、歪んだディスプレイはそのままだった。

「…………何……?」

 琥珀の口から、か細い声が出てくる。

 パソコンが壊れたのかと思ったのだが、どうやらそれも違うようだ。ディスプレイから視線を外しても、視界は依然としてぐにゃぐにゃと歪んでいる。

 過労にしては意識がはっきりしている。他に考えられるものがあるとすれば脳梗塞や脳腫瘍などだが、それにしても何かがおかしい。何がおかしいのかはよくわからないが、とにかく変だと感じた。

 目や脳が変になったというより、空間そのものが歪んでいるように見える。そんな訳がないと思いながらも、答えの出せないこの状況に困惑していた。


 どんどん歪みが激しくなる。かろうじて視界に映る家具が何か判別できていたのが、今はもう色々な色がぐちゃぐちゃに混ざり曲がりに曲がっていてよく分からない。

 それでも頭は正常な筈だ。こうして考えにふけることができるくらいには意識を保っている。

「本当に何……」

 琥珀は、そう呟いて自分の体を両手で抱いた。

 理解不能な状況に、段々と恐怖心が募ってくる。

 本能的に、逃げなきゃ、とそう思っていた。

 だが、逃げようと思っても、もうどこが出口でどこが天井なのかもよく分からない。ただ、何色でもない歪んだ空間がそこにあった。


『――――お願いだから、私を私に返して!』

 誰かの声が、一瞬だけ、すごく微かに聞こえた。

 小さくても、その言葉はしっかり聞き取れた。

 反射的に周りを見回す。

 そこには誰もいない。

 誰かいるのかもしれなくても、それが見えない。

 頭が真っ白になった。

 冷や汗が彼女の体を湿らせた。

 今度こそ本当に眩暈がしてくる。

「誰か…………っ!」

 琥珀は、無意識にそう叫んでいた。


 ――――そして、次の瞬間。

 彼女の体は、その場から忽然と消え去っていた。

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