第4章 (11)
(『術式展開 暗視』『術式展開 省力化』『術式展開 水中移動』)
水中に入ると、風花は同時に3つの術式を起動した。その術式は、夜の水中でも視界を先ほどまでとほとんど変わらない明るさを維持できるもの、10分ほど潜水し続けることを可能にするもの、移動するときの水の抵抗を大きく緩和するものであった。
(え~と。うぉっと!もうこんな近くに!)
その凪の視界に映ったのは巨大な泥の怪物…厳密にはその一部を構成している触手であった。
(これは立派なものじゃの。おそらくこの触手は外界の情報を得る器官なのであろうな。)
(僕も同意見です。早速切り刻んでいきましょうか。)
そう告げると、凪は忍ばせていた果物ナイフを手に持ち、ゆっくりと『妖魔』に近づいていった。
(まずは触手を切断して、情報的に有利に…(凪!来たぞ!)
間もなく触手に手が届く距離まで近づいた時、『妖魔』の側も凪の接近に気づいたのかゆっくりと触手を伸ばしてきた。
(おそらく、こちらが危害を加えようとは思っていないはずです。だからまずはっと!)
触手が触れようとした瞬間、凪は逆に触手を掴んで思いきり果物ナイフを振り下ろした。
(まずは一本!このままもっと近づきますよ!)
『妖魔』は突然の触手の消失を理解できずに、次の動きが遅れていた。
(2本まとめて…よいしょ!)
その隙を逃さずに、凪はさらに2本触手を切断した。
(いいぞ!凪。敵は混乱しておる。このまま本体に…いや。後ろじゃ!)
(そろそろ来ると思ってた…よ!はぁ!)
『妖魔』も凪の存在に気づいたのか、凪の後ろから凪に向かって数本の触手を伸ばしていた。しかし、風花に接近を察知されていたため、凪は逆にその触手をつかむと、ナイフで叩き切った。
(敵もおぬしの敵意に気づいたようじゃな。そろそろ触手が伸びてくる…来た!)
戦闘時に巻き上げていた砂によって、視界からは『妖魔』の本体が見えなくなっていたが、多くの触手がこちらに向かってきているのが見えた。
(これは…楽しくなってきましたね…)
凪は口角を上げると、次々に襲い掛かってきた触手を受け流し始めた。
====
それから5分ほど、襲い掛かってくる触手に捕まれないように避けつつ、余裕のある時にナイフで切断するということを繰り返していた。しかし、海底の砂が巻き上げられているせいで視界はどんどん悪化していた。
(どうする!?ただでさえ動くたびに砂が巻き上げられるのに切り取った触手が砂に戻って漂うせいで視界がどんどん悪くなるぞ!このままじゃジリ貧じゃぞ!)
(そうですね…何とかして本体へ近づかないと…って!しまった!)
直前に巻き上げられた砂によって生じた死角から襲いかかってきた触手を凪はギリギリのところで回避した。しかし、体勢を崩してしまった凪は別の触手を回避できることができず、足を掴まれてしまった。
触手は『妖魔』が凪を捕まえたことで安堵したのか、ゆっくりとした速度で凪を引っ張っていた。
(凪!早く切るのじゃ!おい!)
(……)
風花はその触手を急いで切るように凪に告げた。しかし、凪はその触手を切ろうとするそぶりを見せず、逆に触手に引っ張られるままになっているかのようにしていた。
(おい!凪!やらないなら妾が…(風花さん。この『妖魔』って触手を掴んでどうするんですかね?)
風花が触手を切ろうと無理やり肉体の主導権を移そうとすると、それを引き留めるように凪は風花に問いかけた。
(そんなの決まっておろう!水中に引きずり込んで痛めつけるか食うか辱めるかといったところじゃろ!そんなことより!(ということはですよ?このまま引っ張られれば本体の近くにたどり着けるんじゃないですか?)はぁ!?)
風花は凪の発言に唖然としたが、凪はその状態の風花を気にせずにさらに続けた。
(食べるにせよ他に何かするにせよ、術式を実行する場所の近くでやると思うんですよね。だから、このまま消耗するよりは余力のあるうちに捕まった方がいいと思うんですよ。)
(…。)
自分が思いもしなかった作戦を提案してきた凪に風花はフリーズしてしまった。しかし、すぐに我に返ると、少し考えたうえでこう言った。
(おぬし…確かにそうじゃが…わかった。その案でいこう。じゃが、妾は食われたくないぞ。)
(もちろんそんなことはしませんよ…っとそろそろその場所の近くですかね。)
引っ張られる力のベクトルが変化し、『妖魔』の姿が再び見えたことから凪は目的の場所が近いと判断した。
(じゃあ、行動再開しますよ。よい…しょっと!オラァ!)
凪は足に巻き付いていた触手を切断すると、すぐ横に迫っていた『妖魔』の肉体に力の限りにナイフを突き立てた。
(まだまだぁ!)
さらに、ナイフを少し下へと滑らせると、力の限りに『妖魔』の肉体の奥まで深く突き刺した。
(このまま取り外してあげるよ!)
最後に真横にナイフを振り切ると、凪はナイフによって生じた傷に手を突っ込み、思いきり引きはがした。
(次は隣だぁ!それ!)
肉体の一部を切り取られたことに激怒したのか、先ほどまでよりも十分に速い速度で触手が凪に向かってきていた。しかし、凪はいつの間にか取り出した2本目のナイフでそれらをいなしながら再び『妖魔』の肉体にナイフを突き立てた。
(まだまだだよね!もっと行こうじゃないか!)
脳内でそのように叫びながら、さらに肉体をくり抜いていった。
一方、風花は凪の様子が日ごろから予想できないほどおかしいことに困惑していた。
(こ奴は気弱な割に変なところで好戦的な面があるとは思っておったが…どうしてこんなに興奮しておるのじゃ…?もしや、この『妖魔』から何か精神的な影響を受けるものでも出とるか?『術式展開 解析 範囲指定:10』)
『妖魔』から何か精神に異常を与えるものでも出ているのかと疑った風花はそれを突き止めようと周囲の物質の解析を始めた。
(えーと…?水、砂、塩と…あとはよく分からないものが微量に…。怪しそうなものはないのう。で、『霊力』はほとんどがあの『妖魔』のものじゃが…特に精神に影響を与える感じはしないの…)
しかし、そのような物質は存在せず、『妖魔』の『霊力』も精神に影響を与えるものではなかった。
(えー…。じゃあ、こ奴がとんでもなく好戦的ってことかぁ…。これからはあまり怒らせないようにしよう。)
最終的に、そう結論付けた風花は凪を過度に刺激しないことを心に誓った。
====
その頃。風花がそんなことを考えていることに気づかないほど、凪は『妖魔』の肉体を切り取るのに熱中していた。
(これでぶった切りだぁ!!)
そう心の中で叫ぶと、凪はナイフを力の限りに振り下ろし、その場所で『妖魔』の肉体は2つに分けられた。断面部から、肉体は砂へと戻り視界がどんどん悪化していった。
(よし!このままいけば…(凪!空気がそろそろなくなるのじゃ!一回水面に出るぞ!)
さらに『妖魔』の肉体を分割しに行こうとしたが、酸素が限界に近付いていることを告げる風花に止められた。
(まだいけますよ!半分こにできたんです!もう少しなんです!)
(妾の術式でごまかしているだけじゃ!それに、このどんどん悪くなる視界ではまともに探れないであろう!さっきからおぬしは興奮しすぎとるし一回落ち着くためにも!ほら、早く水からあがれ!妾はまだ水死体にはなりたくはない!)
(でも、まだ…!(まだではない!もう限界じゃ!いいから早くあがれ!)はい…)
まだ水中に入れると思っている凪はそう反論したものの、風花の必死の剣幕に根負けし、渋々ながらも海面に浮上することにした。
水面から顔を出すと、そこは岸壁から300メートルほどのところであった。空気を吸った瞬間、凪は全力疾走した後のような異常な息苦しさを感じた。
「ハァハァ。酸素がぁ、酸素が、足りない…」
(ほら妾の言った通りじゃったろ?とりあえず岸壁へ…向かう前に息を整えた方が良いな。)
風花からそう提案された凪が体を沈ませないように体を大の字に浮かべながら深呼吸をしていると、瑞穂からの通信が入った。
『凪君!風花ちゃん!大丈夫!?10分以上浮かんでこないから何かあったのかと心配だったのよ!』
「とりあえず、体を真っ二つにぃ、してきましたぁ。酸素不足とぉ、視界の悪化でぇ、一回浮上して来たぁ、ところです。」
まだ息が上がっている凪は、呼吸の合間のとぎれとぎれに返答した。
『そんなに何回も息継ぎしてるけど本当に大丈夫なの?』
「水面にはいますからぁ、もう少しすればぁ、大丈夫です。ちょっとずつはぁ、落ち着いてきました。それより、『妖魔』はぁ、どうなりました?」
『ついさっき『霊力』がおおよそ6割減少したのを確認したわ。いま、灯さんに探知をしてもらっているところよ。あと、眷属を一人、凪君の方に向かわせているわ。透明な円盤みたいな形をしているらしいからその子に乗って一回陸上に…灯さんから連絡きたからその子が来たらそのまま連れてってもらって?』
そう言うと、瑞穂は灯からの連絡を受けるために通信を切断した。
切断されたのを確認すると、凪は息を大きく吐き、目線を空へと向けた。
「はぁ…。とりあえず、だいぶましにはなってきましたけど…ん?何か近づいてきてません?」
その時、視界の端から透明な円盤状の物体が近づいてくるのが見えた。
(あれは…見た目からしてさっき連絡のあった灯さんの眷属さんなのじゃろう。『霊力』的にもおそらく間違いはないの。あの眷属さんに陸まで連れて行ってもらうとするか。)
風花の予想通り、その物体は灯の送ってくれた眷属の一人であった。その眷属は凪の前でお辞儀をするように体を傾けると、そのまま凪の真下へと潜っていった。
「え?どこに…ってうわ!」
(結構感触がぷにぷにじゃのう。さすがは海月といったところか。悠の部屋にあったあのクッションと同じくらい快適じゃな。)
そして、下から凪を持ち上げるとそのまま自らの体に乗せ、岸壁の方へと泳ぎだした。
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