第1章 (2)
それから3日後、凪は母親に連れられて母の実家のある岐阜県のとある山間の村にやって来ていた。着くや否や、母親は現地の人と立ち話をはじめ、それが終わったかと思うと、『仕事があるから帰ります。凪君、2週間くらいしたら迎えに来るから頑張ってね。』と言ってさっさと帰ってしまった。
そしてそれから、凪は地元の名前も知らない、20歳以上も上の年齢の人々の下で働くことになった。学生時代に家庭教師のアルバイトは行ってはいたものの、本格的に働く、ましてや肉体労働をするのは初めてだった。
「おい、凪君!ちょっとこの柵交換するからそっち持って。」「はい。」
初日からいきなり重いものを持ち運ばされたり。
「今日はこの駐車場の草刈りをお願いするね。小月くん。」「はい。」
ちょっとしたスーパーの駐車場くらいの広さの土地の草を一人で刈ったり。
「凪君!業者の人が替えの部品持ってきてくれたからちょっと機械の場所まで案内してあげて?」「はい。」
土地勘のない場所で一回しか言ったことのない場所に道案内を頼まれたり。
「小月君だっけ?ちょっと今から観光協会の会議で街まで行くからちょっと車出してくれるかい?駅まででいいから。」「はい。」
慣れない山道で一度も運転したことのない大きな車の運転をしたり。
「こんなにいっぱい荷物運んでくれてありがとう凪く~ん。あ!ちょっと最近雨戸の調子が悪くて?多分レールに何か挟まってるんだと思うんだけど私身長が低いからよく見えなくて…。ちょっと代わりに見てくれない?」「はい。」
もはや登山や観光とは関係ない用事で使われたり…。
1日目の夜には、最初に聞いていた『単純作業がメイン』という母親の言葉を素直に受け入れてしまったことを後悔していた。とはいえ、『これは一時的な手伝い。母親の言う通り2週間くらいで終わるはず。』と思うことと、仕事を途中で投げ出すことをなけなしのプライドが許さなかったことで、これらの仕事に文句の一つも言わず、ただただ無心にこなしていった。
そして2週間後。
「凪君?お母さん今日の夕方くらいに迎えに来るって連絡来たから。今日で整備も大体終わりだしあとはこっちでやれるから今日の仕事終わったらお母さんと一緒に帰っていいよ。お疲れ様。お給料はお母さんに渡すからそっちでもらってね。」
と、ようやくこの生活の終わりが告げられると、凪は心の中で両手を上げるほど喜んだ。しかし、その日の仕事が『山道の最終確認』であり、山頂までの全ルートを上ったり下りたりしないといけないということを思い出すとそんな喜びは雲散霧消してしまった。
ちなみに今日の天気は全国的に快晴である。
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「あっづぅ~!」
山道を登る凪はあまり人前で出せない声でそう叫んだ。現在の気温は34℃。暑さ対策として巻いてきた冷感タオルはもはや温感タオルと化し、持たされた水筒の重みは時間が経つたびにじんわりと肩にのしかかる。そんな心の折れそうな猛暑の中でも『今日で最後』ということを凪は心の支えにして仕事をこなしていった。
「え~と。ここの看板も文字が読めるようになってて、さしている方向も間違っては…いないと。よし、このルートは問題なしっと。次は…ここ登るの?崖にしか見えないんだけど…?」
次に凪が進むことになっていたのは崖とまでか行かずとも結構な急坂を山頂まで登るルートであった。そして恐らく多少無理をして作った道なのだろう、道幅が狭く地面も凸凹としていた。幸いなことに木々が多く生えているため、直射日光に当たることがないのが唯一の救いであった。
「ここ登れば最後だし…しょうがない。早く登り切っちゃおう。」
覚悟を決めたのか、凪は速足で登り始める。が、直ぐに息を切らしてその歩みは遅くなっていってしまった。
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そして、中腹辺りの少し平坦な所まで登って来たとき、凪の息は完全に上がってしまっていた。
「はぁ、はぁ、ちょっとここで休憩していくかな。はぁ…よいしょっと。」
凪はそこで、一旦息を落ち着けるために座って休憩することにした。。
「まったく、みんな人使いが荒いんだから。柵とか草刈りはまだわかるけど業者さんへの道案内とか駅までの運転とか挙句の果てに雨戸の修理とか、もはや観光関係ないじゃないか。まあ、ご飯は意外においしいし、たまに出会うタヌキとかはかわいいし、星空はきれいだし、そこは良かったけど。それに…」
と、この2週間のことを愚痴りながら休憩していると、自身の来た道から何か足音のようなものが聞こえた。しかし、凪からは木の陰で隠れているため足音の持ち主の姿は見えなかった。
「ん?誰か来たのかな?知ってる人とかタヌキとかならいいけど、流石に座り込んでるのを知らない人に見られたら恥ずかしいなぁ。」
そう言って凪が立ち上がろうとしたその時、木の陰からその足音の主が出てくる。
「あ?ああぁ?あ?」
その足音の主を見た凪は困惑した。それもそのはず。そこにいたのは登山に来た人でもなく、凪がたまに出会っていたタヌキなどの動物でもなく。
体長3メートルは優に超えるほどの巨大な『熊』であった。
「く、熊?あんなサイズの熊が本州にいるなんて…。それに…」
そう。彼の言う通り本州に主に生息しているツキノワグマは精々2m程度。北海道にいるヒグマでも3mを超える個体は非常に珍しい。ただ、彼を驚かせたのはそれだけではなかった。
「なんで2足歩行できるんだ?それに頭に生えている角とか、爪もすごく長いし…とりあえずここから逃げないと…。」
明らかにおかしいものがそこにいる。それを認識した凪は隠後ろの茂みに隠れようとゆっくり下がっていく。しかし。
「グゥオオオ!」
その『熊』も凪を見つけたのか、雄たけびを上げると凪に向かって一直線に走り始めた。
「やばい!逃げないと!」
走ってくる『熊』に本能的な恐怖を感じた凪は逆方向、つまりは山頂の方に向かって上り坂を全速力で走り始めた。
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(はぁ、明らかに近づかれてる!)
その急な坂道では『熊』も走りにくいのか凪の体力でもすぐには追いつかれない程度の速度差ではあったものの次第にその距離は縮まっていく。最初の距離からはもう半分以下にまで縮まっていた。
「グゥオオオオ!!モォオオオ!」
(あれ完全に獲物として捉えられてるよね!つかまったら絶対に殺されるよ!逃げないt…あっ。)
後ろで叫ぶ『熊』に気を取られた次の瞬間、凪は地表に出ていた木の根に躓いて転んでしまった。その時に足首をひねってしまったのだろう、凪は脚の痛みからうまくたつことができなかった。
(うっ!すぐには立てなさそう…誰か!誰か助けて!)
一方、『熊』は転んだ凪を見て、獲物を捕らえられることを確信したかのように走るスピードを落としていった。そんなとき、凪は自分のすぐ横に小さな祠を見つけた。
(あれ?こんなところに祠がある。神様の前で殺されたなら天国に行けるかもしれないね。中には…石?)
その祠の中には光沢のある真っ黒な石の玉が置かれていた。一見何の変哲もない美しい玉だが、凪はその玉に何かを感じ取ったような気がした。
(何だろうこれ?何か呼ばれているような…?)
凪は後ろから『熊』が迫っていることを忘れたかのようにその玉に向かって手を伸ばしていった。
『熊』はその動かない凪の真後ろにたどり着くと、雄たけびを上げながらその長く鋭い爪を凪に向かって振り下ろしたが、それよりも少し早く凪の手が玉に触れた。
そして、次の瞬間、凪の意識は光に飲まれていった。
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