姫乃の秘密③
三限の講義中である。
「……」
姫乃は感じ取っていた。
ゴゴゴゴゴッッ! なんて漫画によくあるような重圧を。
なにかを訴えたくてたまらない、そんなギロギロとした亜美の熱視線を。
講義中だからであろう、喋りかけてはこないが休憩時間になれば必ずなにかを言われると確信していた。
心当たりがないからこそ、本題を掴めないからこそ怖いのだ。
一応は知らんぷりを続けながらノートにシャープペンシルを走らせる姫乃。普段からまるっこくて小さめの字。女の子らしい字が今では波線で書いたような文字になってしまっている。そう、指先が震えているのだ。
姫乃はまばたきを数十回とさせる。気持ちを切り替えるように、勇気を振り絞るようにして、ちらっと隣席に座る亜美に視線を送った。――そこから返ってくるのはこれ。
「えへぇ」
「……っ!?」
亜美本人だとは思えない重低声。巨人が人間を見つけた時に見せる恐怖の微笑み。姫乃は風が生み出す勢いで顔を逸らした。
『逃げなきゃ……』
身体中から避難警報が鳴る。嫌な予感しかなかったのだ。
恐怖に耐えること数十分。やっとのことで大学のチャイムが鳴り講義が終了する。
姫乃はそそくさと筆記用具を直しすぐに教室を出ようとする――が、ずっと監視していた亜美から逃げられるはずがない。
「ひめのぉー。いきなり逃げようとするだなんてちょっと酷くなぁい?」
「……用事、あるだけ」
逃亡を予期していたかのように姫乃の手首を掴んだ亜美。
姫乃はこの大学でも上位を争う小柄な体型。なおかつ運動経験は小中高で行われていた体育だけ。それに加え現在進行形のインドア派。筋肉量は平均以上に少なく全体的にぷにぷにとした体を持っている。
その一方で体の動かすことが大好きな亜美は程よい筋肉がついている。身長差だってあり、身体的な能力だって違う。
「んっ……」
振り解こうと片腕を揺らす姫乃だがビクともしない。そう、亜美から腕を掴まれた時点で姫乃の敗北は決まってしまうのだ。
今の姫乃を例えるならば、体が反転して起き上がれなくなった亀。ゴキちゃんほいほいにかかってしまったゴキちゃん。その場から動くことも逃げ出すことはほぼ不可能な状態にあるということ。
「……」
姫乃は抵抗をやめた。無言のまま、とぼとぼとした足取りで座っていた席に腰を下ろしたのだ。
「な、なに。亜美」
そうして、刺激を与えないように自ら話題を振る。
「大したことじゃないけどひめのに一つ文句言いたくってーね?」
「……」
『文句』のワードを聞いた瞬間、萎縮してしまう姫乃は紫のまあるい瞳を潤ませる。こんなにも可哀想な状態を気にすることもしない亜美は止まらない。
「あのさぁーひめの」
「ん……」
「ひめのってば、あんた……あんた……」
姫乃を睨むように鋭い眼光を向けた亜美は、
「ホンット! ズルいよぉぉおおおおお!」
鬼ですら怯むだろう剣幕で声を上げた文句とはいうが、嫉妬の割合の大半を占めている。風子の言っていた嫉妬狂いが発動しているのだ。
「……え?」
その一方であんぐりとした姫乃。突然とこんなことを言われ状況を飲み込める人間はいないだろう。姫乃の反応は当たり前だ。
「チートじゃん。発見チート能力じゃん!! ワックスつけてメガネ取っただけであそこまで激変する!? 最初りょうまさんだって全然わからなかったんだけどウチ!」
「話が、見えない……」
この話を聞いて全てを理解できるのは同じ現場にいた風子だけだろう。
「あんな隠れイケメン見つける能力があるならウチにも教えてよ! 彼氏ほしいの知ってるでしょ!?」
「亜美、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ! 大学とプライベートで容姿変えてるって! 容姿変えてるのはめんどくさいとか言ってたけど女が寄り付かないように姫乃に気遣ってるってことじゃん! 一番いいタイプの彼氏じゃんっ! なんでひめのはそんな上玉捕まえてるわけッ!?」
「シ……シバの、こと?」
彼氏のワードを聞いて、なんとかそう汲み取った姫乃だが話の内容は全然理解できていない。
「シバのこと? じゃなくってそうだよ! もうバレてるんだからとぼけなくていいって!」
「姫乃、意味わからない……」
「意味わからないじゃないの! 彼女なんだからあんな風に溶け込んでるのは知ってるんでしょ!?」
「……ん?」
「はぁ……。まさかりょうまさんがウチ達と同じ大学だったなんてさぁ。そりゃあどこで出会ったとか付き合ってるとこ内緒にするわけだよ!」
「お、同じ……同じ大学……? シバと……?」
「だーかーら! ホントにもうとぼけなくていいって! ウチとふーこ、さっきりょうまさんと廊下で会ったんだから!」
「あ、会った……」
姫乃にとってこれはとぼけているわけでもなんでもない。素の反応である。亜美の発言を信じられるはずがないのだから。
「りょうまさんはどこの大学に通ってるんだろうって噂してたらまさか本人から答えが返ってくるとは。なんだろこの興奮と共にある羨ましい気持ちは……」
「…………」
大きなため息を吐いている亜美を見ながら、姫乃は無表情のまま頭の中で会話を整理していた。
亜美と風子が廊下ですれ違った。龍馬と。それはつまり大学が同じだから。
姫乃の胸は騒つく。それでも簡単に信じられるはずがない。代行者と同じ大学に通っているなんてことは……。
「姫乃をからかわないで」
「こんなことに嘘ついても意味ないでしょ! 確かにふーこが考えつきそうなイタズラではあるけど!」
「亜美もそのいたずらに乗ってる」
「ホントだって! 会って喋りもしたから! っていつまでとぼけるつもり!? もう証拠あるし! いや、証拠出せないけど間違いなく話したし!!」
「……うそ」
脳裏ではもう答えが出ている。亜美の反応をここまで見れば真実を述べていると。
しかし、姫乃は受け止めたくなかったのだ。この現実を。
厄介な問題が降りかかってくるのは予想するまでもないのだから。
「そもそもひめのが驚いてる理由がさっぱりなんだけど! 付き合ってるなら普通に知ってることでしょ!?」
「っ!!」
「んん?」
デットヒートした亜美は面食らった表情をする姫乃に怪しみの視線を見せていた。
それはそうだ。一般的に彼女であれば彼氏の大学を知らないはずがない。知らないはずがないのにこのような態度を取ってしまえば違和感を与えるのは当然のこと。
「ねぇ、今のはどういうこと!? 付き合ってないわけじゃないんだしよくよく考えればおかしいんだけど」
追求が始まり危機感が積もっていく。龍馬と恋人代行の関係にあることは隠し通さなければならないこと。必死に頭を働かせる姫乃が口に出したのは……誤魔化すことに特化したもの。
「て、照れ隠し……」
「照れ隠し!? 照れ隠しであんなにとぼけてたの!? って顔赤ッ!!」
「み、見ないで……」
内容が内容。普段なら逃亡しているほどの耐性のない話なのだ。姫乃は顔に手を当ててミノムシのようになる。
「ははぁん。ひめのってばそーんなにりょうまさんのこと好きなんだ?」
「つ、付き合ってるから、当たり前……」
「ラブラブだねぇ。大好きなんだぁ?」
「……」
「え、なにその無言! 嫌いなの!? りょうまさんに言っちゃうよ!?」
「す、好き……に、決まってる……」
ウブな反応こそ信ぴょう性を高める。一瞬で信じてもらうことに成功したが、その代償として亜美のおもちゃにされてしまっている姫乃だった。
「ひめのってば素直じゃないんだから。今日のお昼だって実はこっそりりょうまさんと会ってたんでしょー?」
「してない」
「そうなの? りょうまさん一人で歩いてたからそうなんだと思ってたけど」
「一人……」
「あ、ちょっと安心した? 別の女の人と一緒に歩いてなくってさ?」
「なんでそうなる」
「だって今嬉しそうな顔してたじゃん。ちょっと目が大きくなってたし」
「なってない」
亜美がいうことに間違いはない。実際には嬉しかった姫乃である。
「まあまあ、自慢の彼氏が狙われるかもーって心配はわかるけど、りょうまさんって上手に容姿を隠してるから大学じゃ平気だって」
「そ、そんなに違う?」
「彼女になるとそこにも気づけなくなるんだねぇ。ふーこに言われて気づいたくらいだよ。言葉は悪くなるけど服装は地味で前髪は目にかかってたし、それでメガネもしてて……正直、近寄りがたい感じ」
「そう……」
姫乃は気になっていた。大学の龍馬がどのような格好をしているのかを。こうして自然な流れで聞き出すことができていた。
「姫乃が地味な格好をするように言ったわけじゃないんだよね?」
「ん、姫乃そんなこと言わない」
「それならなおさらりょうまさんを大切にしなきゃね。他の女子が寄りつかないようにあんな格好をしてるってホントいい彼氏じゃん!」
「あ、当たり前……」
大学とプライベートで龍馬の容姿が違うのは恋人代行のバイトをしているから。身バレからのトラブルを発生させないように工夫していると依頼者なりの答えを導き出す姫乃だが、ここは亜美に便乗である。
「あっ、それでね!? そんな自慢の彼氏を持つひめのに一つお願いがあるんだけどー!」
「なに?」
「ウチを男友達を紹介するようにりょうまさんに伝えてくれないかな!?」
「だめ」
「お願いー! ひめののお願いならりょうまさん絶対頷いてくれるだろうし!」
「やだ」
間を開けることなく拒否する。小首を左右に振って絶対に頷かない姫乃だ。
そんな押し問答を続けること追加で五回。この光景を偶然目撃していた亜美の男友達が面白そうに首を突っこんでくる。
「おいおい亜美ちゃん、また男を集めて遊びいくのかよー。あいかわらず大学生活楽しんでるなぁ」
「またじゃないわ! そんなの一回もできてないわ!」
姫乃はこの大学の有名だが、亜美は友達が多いことで有名な一年である。周りからのサークルからの勧誘も多いほど。
「はははっ、俺はいつでも空いてるから誘ってくれよな。ロリリンもくるんでしょ?」
「はぁん、あんたの狙いはひめのか!」
「どうだろうねー?」
「……」
「んちょ!? ロリリンからめっちゃ睨まれてるんだけどなんでなの亜美ちゃん!?」
「あんたみたいな出会い厨は嫌なんだって。ね、ひめの?」
「ん」
姫乃が彼氏持ちと勘違いしている亜美はフォローをしてダメージを与える。特に姫乃の一言肯定はかなり心にくるものだ。
「ち、ちょっと待ってくれよ。俺はそんなんじゃないって。出会い厨なのは亜美ちゃんだろ」
「ウチは誰でもいいわけじゃないですー。さっきしてた話はひめのの彼氏から友達を紹介してもらおうとしただけですー」
「なーんだ。みんなで遊びにいく約束じゃないのか……って、はっ!? ロリリンの彼氏ってなんだァ!?」
「っ!!」
「あ、ヤバ」
軽口を叩き続けていたからだろう。内緒にしておかなければならなかった情報を思わず声に出してしまった亜美だ……。
すぐに口を抑えるが、言葉は元に戻すことはできない。もう取り返すことができない。
「ちょ、ちょちょ……えぇ!? ロ、ロリリンに彼氏いんのッッ!? は、初めて聞いたんだけど!」
彼氏に興味がない。それがロリリンこと柏木姫乃の共通認識。それが一気に崩れたからこそのリアクション。
そして、ここは教室である。雑談をしていた学生は口を閉ざし、スマホをいじっていた学生は手を止め、教材をカバンに直していた学生は動きを止め、姫乃に大量の視線を注いでいく……。
全体で生まれる無言は八秒、急秒と時を刻み、次第に状況を確認するような声が広がっていく。
「お、おい。今……姫乃ちゃんに彼氏いるって……」
「わ、我らのロリリンに……彼氏……だと……?」
「嘘に決まってるだろ。嘘に……」
「いや、姫ちゃんの反応はどう考えてもマジだって……」
教室内の、特に男性陣にショックが広がっていく。その一方で女性陣は興味津々と言わんばかりに目を光らせている。
「ご、ごめん姫乃……。うっかり口滑らせちゃった……あはは」
「~~うぅっっ……」
姫乃が教室を見渡せば完全に注目の的になっている。『彼氏』のワードが室内を飛び交っている……。
「ひめの……ホントごめん。許してほしい……な?」
「ば、ばかぁ……っ」
「あっ、ひめのぉおおおおお!!」
姫乃にとってこんな経験は一度もない。耐えられる空間ではないのだ。
全ての原因を作った亜美に向かい、弱々しい悪口を吐いた姫乃はカバンを持って教室を飛び出していった。
「ちょっと! あんたのせいでひめの逃げちゃったじゃん! 責任取ってよ!」
「お、俺のせいじゃないだろ! これは完全に亜美ちゃんのせいだろ!」
この一件で大学中に広まってしまったのだ。
ロリリンこと、柏木姫乃には彼氏がいる……と。
恋人代行をはじめた俺、なぜか美少女の指名依頼が入ってくる 夏乃実/角川スニーカー文庫 @sneaker
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