おそうじ小僧村

伊東へいざん

おそうじ小僧村

● 独狐又村

 『大人院だいじんいん』と書かれたマイクロバスが去って行った。大輔は子どもたちと共に、傍に立つ“おそうじ小僧”の前に佇み、静かに合掌した。

全国各地の商店街でシャッター通り化が進む中、比較的少子化にもならずに人通りが潤う集落があった。この集落には何故かおそうじ小僧の像が其処彼処に設置され、いつの頃からか“おそうじ小僧村”と呼ばれるようになって久しかった。その影響もあってか、村は清潔な佇まいが保たれ続けていた。


 秋田県北秋田市 独狐又村どっこまたむら。この地域一帯は10年前まで限界集落への一途を辿っていたが、このところ息を吹き返したかのように移住者が増え、かつての賑いが復活し始めていた。過疎地ならではの風光明媚さは程々にあるが、これといった観光名所があるわけでもなく、今は廃止されて使っていないバスの始発停留所の川向かいに訳有りの古い神社がひっそりと佇んでいるだけである。


 一般に神社は参道を挟んで、右側に口を開いた角なしの阿像の獅子、左側には口を閉じた角ありの吽像の狛犬が対峙しているが、独狐又村もかつては地名のとおり稲荷神社で阿吽の白狐像が魔除けとして対峙していた。

 信心深い村人は代が代わっても行き届いた掃除に精進していたため、数百年の歴史ある神社は一度も建て直しすることなく現在に至っていた。阿吽の守り神である狐の石像にも山道の石畳にも苔が生えることなく、その雄姿を保ち続けて、鳥居は冬場には藁で保護され、縄による豪雪対策も施されていたため、僅かな補修のみで現在に至っている。

 ここ数年前からは、拝殿のすぐ前に“阿吽のおそうじ小僧”が設置された。


 おそうじ小僧の石像は本来、寺で見掛ける。その逸話がある。釈迦の弟子に摩訶槃特マハーパンダカ周利槃特チューダパンダカという兄弟がいた。兄は聡明だったが、弟は三年掛けても一偈すら理解できないほど愚かだったので人々は愚路と呼んで嘲笑っていた。ある日、弟の周利槃特が祇園精舎の門前に佇んでいると釈迦が「おまえはそこで何をしているのか」と尋ねた。「お釈迦様、私はどうしてこんなに愚かな人間なのでしょうか。とても仏弟子になることは出来ません」と答えると、釈迦は「愚者でありながら、自分が愚者であることを知らないのが本当の愚者であろう。お前は、自分が愚者であることを知っている。だから、お前は、真の愚者ではない」と言って周利槃特に一本の箒を与え、「チリを払い、垢を除かん」と掃除を命じた。周利槃特は、釈迦に言われた一句を唱えながら日々掃除に励んだ。数年が経ち、その馬鹿げている行為を修行僧に問われた周利槃特は「私は、愚か者で、皆さんのような知恵も立ち居振る舞いもできません。お釈迦様の説法をたった一偈だけ覚え、そのわけを習い、実行しております」。それを聴いた釈迦は修行僧らに説いた。「千章を暗唱するも句義正しからざれば、一句を聴いて悪を消滅せるにしかず。経を誦すること多くも、理解せずば何の益あらん。よく理解して、かつ行うべし」と。


 これまで過疎だけではなく侵入者とも闘い続け惨敗した独狐又村の村長・浅利与一はそうした逸話を幼い孫に言い残してこの世を去った。30年後、その孫・浅利大輔が帰郷し、村長を継いで10年、拝殿前の阿吽のおそうじ小僧の御利益か、村に再びかつてのような平和と静寂を取り戻しつつあった。


 大輔が帰郷したばかりの頃の独狐又村は叔父の浅利次郎が継ぎ、村の復興に心血を注いでいたが、思惑とは逆に不気味に変貌していた。治安が悪くなり、女子どもは息を潜めて暮し、日中ですら外を出歩く者がいなくなっていた。最も深刻だったのは、山が他国人に買い漁られて殆どの水源が押さえられ、農業用水が自由に使えない事態になっていたことだ。独狐又村は地形に恵まれない隠れ里の名残りで一面棚田で生計を立てて来た。森吉山の水は先祖が大掛かりな治水工事で手に入れた村の命である。大輔は帰郷するなり、村長の浅利次郎に呼ばれた。

「良く帰ってきてくれたな、大輔」

「叔父さんも元気そうで…と言いたいけど、少し痩せましたか?」

「ああ、いろいろあってな…跡継ぎが山林を手放すんで土地の農業は廃れる一方だよ」

「どういうことなんです?」

「山が他国人の手に渡って、水源を支配されてるんだ」

「支配?」

「金を払わんと田圃に水を引けない」

「なんでそんなことに!」

「地元の不動産屋が公示地価より高く買うもんで、県外に離れた連中は税金喰いの山林なんかとっとと手放しちまうんだよ。仲介の不動産が外国人に横流しして私腹を肥やしてる」

「村では山林を買えなかったんですか?」

「村の運営も危うい状態で、そんな予算などないよ」

「不動産屋って?」

「おまえの同級生だった清隆だよ」

「清隆のお父さんは?」

「一年前、中風で亡くなったよ。一人息子の極潰しがあっという間に父親の田畑山林を食い潰した。そこを土地買い漁りの連中に付け込まれたんだ」

「目先の金に目が眩んだか…相変わらずバカなやつだ」

「父親の財産を食い潰させたのは恐らく土地買い漁りの連中だ」

「どういうことですか?」

「4~5年前から内陸線沿線に蔓延り出した他国人パブに入り浸りだったからな。やつらの目的は店の経営より土地を手放すカモを狙ってるんだよ」

「なるほど、そういうことか…この村が廃れたら自分も終わるだろうに」

「あの野郎、山を漁ってる連中と肩で風切ってやりたい放題だ」

「山を漁ってる連中って何者なんですか?」

「恐らく、カマスの残党だ」

「カマスの残党?」

「今では伝説となったが、昔、この沿線の鬼ノ子村を支配していた連中だ」

「そう言えば祖父から聞いた事がある。祖父の幼かった頃の話です。村を蝕むカマスの一団と鬼ノ子村のマタギ一族の戦い…」

「戦いは三代続いたそうだ。鬼ノ子村の長老の貞八さんの代で全滅したという言い伝えだったが、生き残ったカマスの残党が代替わりしながら息を潜めていたんだろう。それとも近頃頻繁に漂着しているカマスの国のものらしき漁船から姿を消した連中が再び集結したのか…」

「この村にも過去の鬼ノ子村のような悪夢がやって来たということなんでしょうか?」

 鬼ノ子村とは、内陸線中間にある駅である。かつて、カマス族との壮絶な戦いが繰り広げられ、辛くも村の奪還に成功した集落である。カマス族の侵入は極めて静かにやって来る。例えば、村おこし要員として市の嘱託で入り込み、数年掛けてその土地に根付くんんだ。或いは嫁不足に付け入り、嫁いで来てから身内と称する者たちを呼び寄せる…気付いた時には既にその存在への依存度が深く、身動き取れないほどに生活に食い込んでいる。鬼ノ子村はそこからの立ち上がりだったがために困難を極めた。ところが、村民全員が立ち上がり、代替わりの死闘の結果、完膚なきまでに敵を叩き潰し、村を奪還した。その奇跡は伝説として後世に伝えられてきた。

「手を尽くしてはいるが・・・もう、オレには為す術がない。殺気立った余所者がどんどん増えて、まるで自分たちの村じゃないみたいになってしまった」

「自分たちの村じゃない?」

「絶えた家がいつの間にか乗っ取られて見知らぬ住民が居座っている事例が増えた。このところ、やることが大胆になった。強盗だけじゃなく女子どもが強姦される被害も起きている」

「警察は?」

「警察は役に立たん。数年前から何度足を運んだか知れない。いつも対策を考慮中と言うだけで音沙汰なしだ。最近は出向いてものらりくらりと話を逸らす」

 村長の次郎はこれまでにも何度となく最寄りの警察署を訪れていた。そして最後となったその日…

「治安が悪くなって、小学生が頻繁に乱暴される事態になったんだ。それを苦にして病死したり、自殺を図った親まで出た。何とか早急に警察の人員を増やして安心できるようにしてもらいたい」

「秋田県は親族相剋が多いというじゃありませんか? 本当に外国人の犯行なんですか?」

「とにかく私どもの土地に足を運んでくださればはっきりしますから!」

「私も転勤してきたばかりなんでね。今資料を漁っているところなんですよ。その中に信じられないような馬鹿馬鹿しい記録がありましてね…確か、角館というところで起きた『むじな殺人事件』ってのが昭和三十七年に起こってますね。山でむじなの化け物と遭遇したら、その言いなりになっていれば命は助かるという迷信があるそうじゃないですか…その実態は、息子が性悪の父親に業を煮やして殺しに来たとも知らないで、言いなりになって首をしめられて、そのまま殺されたという事件ですよ。こういう笑い話のような事件がこの土地の歴史に五万と記録されているんですよ」

「笑い話? 人が殺されるのが笑い話?」

「笑い話のようなと言ってるんです。とてもまともじゃないでしょ」

「あんたには分からんかも知らんが、人は山で疲労と恐怖に見舞われると、いろんな現象を見るんだ」

「外国人の犯行と決め付けていますけどね、実はそう思い込んでるということもあるんじゃないの?」

「何人もの村民が異国語で怒鳴っている現場を目撃してるんだ! とにかく私どもの現地に来て調査してください!」

「そうですか…では改めて浅利村長の要請を受理しておきますね。事案が溜まっているので多少時間が掛かるとは思いますが、窺うことになりましたらご連絡差し上げます」

「毎回同じ返事じゃないか! こっちは一刻を争うんだ!」

「こちらも一刻を争う事案が山ほどあるんです。浅利村長の要請だけ特別扱いは出来ないもんでね。ご理解くださいよ」

「あんたは自分の子どもが無残に甚振られて殺されても、事案の順番待ちが出来るんですか!」

「お気持ちは分かりますが、決まりは決まりなんですよ。浅利村長、順番を待っていてください」

「…そうですか。なら、もう結構です」

 鳩山刑事は帰ろうとする浅利村長の背中に声を投げ掛けた。

「くれぐれも個人による筋違いの仕返しなどはなさらないように! 刑罰権は国家が独占しています。自救行為は罪に問われますよ!」

 浅利村長は背中で聞いていたが、鳩山の戯言を聞き終えるとそのまま警察を後にした。以来、浅利村長は二度と警察を訪れることはなかった。案の定、警察からの連絡も無の礫のままだった。

 警察はなぜここまで消極的なのか、歴史を紐解けば容易に判ることだった。かつて鬼ノ子村事件というのがあった。当時の地元紙によれば、阿仁鉱山で働いていたカマス人数名が、休日の早朝に鬼ノ子村集落へ行き、村の栗林に侵入。無断で栗を拾っていた所を、“ここは部落民所有の山林だから勝手に栗を採取することは出来ない”と村人に咎められた。しかし、カマス人らは納得せず乱闘となった末、拾った栗を捨てて逃げた。集落民は警戒を緩めなかったが、何事もなく数日間が過ぎ去った。何とか治まったと思った矢先、栗林に異変が起きた。その栗林で喰い散らかされたカマス人の死体が横たわっていた。そこから深刻な事態へと発展して行った。その日の午後になってカマス人らが約30人ほどの仲間を連れて報復にやって来たのだ。危険を感じた鬼ノ子村住民は警察と警防団に連絡。喰い散らかされたカマス人の死体が横たわる栗林で、大乱闘が始まった。銃声が響き、双方暴動が治まり、警察の指示で解散となった。死体処理後、カマス人らに傷害を与えた鬼ノ子村民ら数名だけが逮捕され処罰を受けた。そして栗林で食い殺されたカマス人も鬼ノ子村民の仕業であるかのような風潮になった。もともとの加害者であるカマス人らは実質処罰される者は一人もいなかった。更にその栗林には熊が出没するようになり、危険区域となった。そして、双方に遺恨が残ったまま時が経っていった。事件以後、周辺村落で起こる似たような事案に於いて、警察の動きは顕著に鈍くなり、終戦を迎えカマス人らが母国に帰るまで揉め事は絶えなかった。しかし、カマス人らがそうであるように、鬼ノ子村民の積年の恨みが奇跡の伝説を生み出した原動力となったことも事実である。

 カマス人がなぜ熊に食い殺されたか、後になって目撃者がいたことが分かった。乱闘で怪我をさせられた吉田重一の弟・重春は警戒を解かずに夜を徹して見張っていた。すると、カマス人がひとりで栗を盗みにやって来た。しかし、運悪く熊とばったり出会ってしまったのだ。地元民ならそのような“へま”はし得ない。熊撃退のための猟銃を用意し、複数で行動する。第一、夜に栗拾いなどしない。殺されたカマス人は何の準備もしておらず、人間だけを警戒して夜の闇に紛れて盗みに入り、本来夜行性の熊と出会ってしまったのだ。重春は逮捕者の弟だったために証言を無視され、保釈の交換条件で警察に黙るように圧力さえ掛けられていた。

 大輔は大きく呼吸して考え込んだ。暫くして、その無表情だった顔が緩んだ。

「叔父さん、警察が黙認するつもりなら寧ろ好都合だ」

「え?」

「鬼ノ子村に行ってくる」

 大輔を送りながら、次郎は村長としての自分の役目はこれで終わったことを自覚した。次郎が長年迷っていたことだ。しかし、次郎にはどうしても出来なかった。独狐又村は、ついに牙を剥くことになる。

「よく来たね、大ちゃん」

 貞八の妻のワクが出迎えてくれた。貞八夫婦は既に祖父の代から交流があり、今輪の際に見舞った与一の病床で、自分が万が一の時にはと大輔のことを頼まれていた。叔父の次郎とは何度も話し合ったが意見が合わなかった。平和的に解決しようという次郎の信念は強く、貞八らの助言は聞き入れられなかった。 次郎は今日本で、そしてこの独狐又村でも例外ではない現実を知らなかった。

 貞八は鬼ノ子村がカマス一族に完全勝利したあの夜のことを思い出していた。

 貞八は呟いた。

「人が群れればクズが出る。子孫を守るためには、内外(うぢそど)別げねで、鬼になって間引ぐしかねんだ」

 そう言って貞八は一同に合図を送った。カマス族のアジトである小沢鉱山跡の深部から、大熊が唸るような地響きが拡がり、闇の中で人知れず山が陥没していった。


 林野庁が公開したホームページでは外資の土地所有の一部が閲覧できる。しかし、森林以外の土地売買について報告の義務がないため、その詳細が分かるデータはない。日本の場合、土地や不動産が外資化するのは合法である。しかも登記の義務がないため、所有者を秘匿できるという諸外国ではあり得ないことが通っている。つまり、日本の土地・不動産は資産隠しは勿論のこと、マネーロンダリングの手段としても利用されているのは間違いない。更に、保有時の固定資産税や転売時の不動産取得税及び所得税を支払わない者が多いが、行政は把握できていない。推定では、外資化した日本の国土は全国規模で約10万ヘクタールと推定される。東京ディズニーランドの約2千倍である。特に北海道ニセコや長崎県対馬、沖縄県宮古島では急速に外資の侵食が進んでいる。全国の過疎地が、虫食いのように外資化の的になっているのは何も独狐又村に始まったことではない。究極のところ、いつの日か日本が日本でなくなる日が近付いて来ているという危機意識を鬼ノ子村民は身を持って体験したという事である。

「ま、上がれ」

 奥から貞八の声がした。大輔は黒光りする板の間の囲炉裏に案内された。妻のワクがゆっくりと煎茶を入れて大輔の膝元に差し出した。大輔はコクリと一礼した。雨戸が開け放たれた広い縁側の外は、日暮れ前の陽射しの強い木漏れ日が揺らめいていた。大輔が祖父に連れられてここに来たのはいつのことだったろう…懐かしさが胸に込み上げた。煙管できざみ莨を燻らしていた貞八がやっと話し始めた。

「去年、独狐又村に住んでいた叔父の巳之松一家が行方不明になってな」

「・・・!」

「この間、猟の帰りに寄ろうと思って前を通ったら、見知らぬ家族が平然と暮らしていたよ。そういう類の話は人伝にも聞いていたから、知らぬふりをして通り過ぎたが、まさか叔父の家でも同じことが起こっているとは思わなかった。驚いたよ」

 貞八が通り過ぎる時、そこに俄かに住み始めた家人と目が合った。しかし、家人は無言で家の中に消えていった。貞八は、家の中から密かな警戒の視線を感じながら、何食わぬ態で通り過ぎた。

 この村では声を掛けない者がいない。例え見知らぬ相手でも、声を掛けることが村人の慣例になっていた。無言で消えただけで余所者と分かるのだ。しかも警戒の牙を覗かせている。不用意に関わるべき相手には成り得ない。

「どうやらおまえの村では、恐ろしいことが起こっているようだな」

「凡そのことは村長の叔父に聞いてます」

「通報で調査に出向いた駐在の何人かがそのまま消息を絶ったそうじゃないか」

「・・・!」

 村長だった次郎の申し出で、動かない最寄警察の代わりに村に配属されていた巡査が不審な家を訪れ、帰らなかった。巡査が消えたとあって最寄警察は足を運んで来たが、捜査するでもなく新しい巡査を配属するだけだった。その巡査も消えた。最寄警察は巡査の職場放棄による逃亡という判断を下して、またも新しい巡査を配属させた。次郎は巡査に申し出るのをやめた。結局、打つ手は八方塞となった。

「警察の動きが鈍いのは、何か訳がありそうだ。下手に手を出せないのは相手が余りにも厄介な所為なのだろう」

 次郎が推察したのはそこまでだった。貞八に真実を聞いていれば少しは対応が変わっていたのかもしれない。

 深夜に入り、独狐又村ではまたも悲惨な事件が起きていた。一軒の民家が襲われた。既に老人夫婦が息絶えた現場には、レイプされた放心状態の女が倒れていた。カマス連中が、隠れていた小学生の娘を引き摺り出すと女は急に正気を取り戻して叫んだ。

「その子には手を出さないで!」

 陰惨な時が流れ、黒い雲間から漏れる月の光が母子の死顔を煌々と照らし出した。トラックの荷台には既に二体の遺体が転がっていた。何やら訳の分からぬカマス語で言葉を交わし、娘を含む4人を積んだトラックは夜明け前の山道を去って行った。

「大輔、このままいったらおまえの村は乗っ取られちまうぞ。いや、もう乗っ取られているかもな。水源の山を買い漁られているそうじゃないか」

「実は今日窺ったのはそのことで…」

「分かってる。おまえが来るのを待っていたんだ」

 貞八は不敵に微笑むと、深夜にもかかわらずゾクゾクと囲炉裏に集まって来た。

「来たか!」

 貞八を首領とするマタギ一族の松橋英雄らだった。

「大輔!」

「凜太郎? 東京に居たんじゃなかったのか?」

「一足早く帰って来たよ、おまえのためにな」

「オレのために?」

 同級生の秋林凛太郎だった。大輔が機械工学科に進んだのに対し、凜太郎は土木工学科を出て建設会社で発破技士として勤務していたが、鬼ノ子村から召集令が掛かり休職して帰郷していた。

 大輔は悟った。この人たちは独狐又村のために本気で取り組み、壮大な破壊計画を遂行しようと準備してくれていた。自分も相当な覚悟で腹を括らねばならない。

「大輔…祖父ちゃんの無念を果たす覚悟は出来てるんだろうな」

 凜太郎がダメ押しで聞いて来た。

「俺たちは、もしおまえが決心しなくても行動するつもりだ。このまま放って置くと何れ鬼ノ子村にも飛び火するんだ。おまえは本当に覚悟が出来ているのか」

「勿論だ! 叔父とは違う。それに、これからの独狐又村は“おそうじ小僧”に管理させるつもりだ」

「おそうじ小僧?」

 貞八たちは夜明け間近に及んで計画を煮詰めた。この時間帯は、熊よりカマス一族が危険な状況になっている。大輔は大事を取って朝まで貞八の家で仮眠を取ることにした。

 床に入っても大輔はなかなか眠れなかった。独狐又村の平和を取り戻すことが本当に可能なのだろうか…貞八の計画は力強いものがある。しかし、実行に移すとなるとこれから先、相当のエネルギーを要する。少なくとも、犠牲者は一人も出したくはない・・・

 いつの間にか眠っていた。そして、幼い頃の祖父との夢を見た。その祖父はもういない。早朝、そのつらい思いを殺し、貞八の家を出た。

 貞八の家から帰って間もなく、大輔のものとに小包みが届いた。中にはロボットが入っていた。このロボットは大学院での大輔の功績だった。

 大輔がロボットに興味を持ったのは祖父が大事に持っていたゼンマイ式のブリキの玩具だった。1940年代の占領下に製造された日本製のブリキのロボットだ。与一は或る日、遊びに来るたびにそのブリキの玩具を熱心に見入っている幼い孫の大輔に話し掛けた。

「気に入ったのか?」

「ボクはもっと凄いのを作る」

「じゃ、おまえが凄いのを作ったら祖父ちゃんにもひとつくれるか?」

「うん!」

「そうか、それならこのロボットは先におまえにやるよ」

そう言って祖父の与一はブリキのロボットを大輔に渡した。

 そして今日、大輔のもとにロボットが届いたのだ。トラックの荷台からは厳重に梱包された五つの板枠が降ろされた。梱包を解くと“おそうじ小僧”を模した人形が現れた。いや、人形ではなく、精密なAIロボットだ。

「祖父ちゃん、遅くなってごめんよ」

 大輔は、祖父の浅利与一が村長として年々悪化する村の治安に付いて悩んでいたことを知っている。大学では自分の研究しているロボットを祖父のために役立てるにはどうすればいいか考えていた。その最中での祖父の死だった。

 一時は帰郷も考えたが、志半ばでのロボット研究の中止は祖父との約束のためにも出来なかった。そしてついにその日はやって来た。叔父の次郎が村長を継ぐ中で、大輔の研究はやっと完成を見、今日に至った。その間に故郷の治安は更に悪化し、もう手の施しようもなくなった状態だったが、大輔は諦めていなかった。

 祖父との幼い頃の思い出が脳裏で再現され、AIロボットをセットしていた大輔の手が止まっていた。このAIロボットは兵器である。使用の仕方によっては危険なロボットでもある。治安の悪化した独狐又村に於いて、今どのような役立て方が良いか“侵略者への対応”に関しての選択に、大輔は迷っていた。そして、「記録」「警告」「拘束」「抹殺」の中から、「拘束」をセットした。それだけ独狐又村の現状は切迫していた。本来であれば、まず「記録」を選択し、「警告」の段階も踏んだはずである。しかし、それは最早必要なかった。

 そして、「拘束」の受け皿として、大輔が在学中に構想していた“大人院だいじんいん制度”を取り入れる作業を急いだ。開拓の手がはいらない山林の斜面が急ピッチで整地され、砦のような施設が建設されて行った。大輔はこの施設の増設をため、そこから更に開拓を続けた。同時進行で子どもたちの特別教育が実施され、村民らの不安と好奇の中、独狐又村の生まれ変わりを予感させた。


 あっと言う間に一年が経った。「拘束」の受け皿である施設が完成し、“大人院制度”の実施も現実的となった。教育を受けた子どもたちの表情は、見違えるように逞しくなっていた。

大輔の元には100台の“おそうじ小僧”が用意されていた。

「祖父ちゃん…始めるよ。独狐又村を蘇らせるよ」


● 独狐又村の流れ者

 叔父に代わって村長になった大輔は、これまでの事件の経緯と被害状況の把握に努めた。独狐又村民の被害現場や犯罪未遂現場などを絞り込み、独狐又村役場職員の手によってその危険区域に次々におそうじ小僧が設置されていった。

 効果はおそうじ小僧が設置された夜に現れた。カマスの国の工作員の惨殺死体がおそうじ小僧の前で発見されたのだ。引き千切った女児のワンピースを握り締め、股間を喰い千切られて血塗れの下半身が剝き出しになった工作員が放置されているのを、幸か不幸かカマス一族の仲間が見付けた。彼らは慌てて他の仲間に連絡を取った。

「ドジ踏みやがって!」

 間もなくワゴン車がやって来て放置されていた男を乱暴に車に放った後、傍で気を失っている少女も連れ去ろうとした時、どこからともなく現れた男が立ちはだかった。

「てめえの仕業か」

 男は無言だったが、その敵意剝き出しの圧に押されてカマス一族はそのまま車を発進させて逃走した。

 不審な出来事は翌深夜にも起きた。肩で風を切って歩く男たちの身に、突如異変が起きたのだ。男たちは叫んで一目散に現場を遁走した。

 早朝、村民の松橋常次が犬を連れて散歩をしていると、道端に転がっている不審物に向かって犬が吠えた。見ると、指にタバコを挟んだ右手首が三体転がっていた。常次は驚かなかった。

「あいつ、返って来たな」

 そう呟いて、犬を制し、無関心な態で散歩に戻って行った。

「何だと!」

 片手に包帯を巻いたジャドの配下二人と清隆が首領に怒鳴られていた。三人が三人とも手首を斬り取られていた。

「揃いも揃って何やってんだ! 誰にやられた!」

 ジャドはいきなり地元に精通しているはずの清隆を問い詰めてきた。清隆は面識のある奴だとが思ったが、はっきりしなかった。

「それが…誰だか…」

 清隆は答えに窮して下を向いた。

「おまえ、知ってんだろ」

「見覚えがあるような気はするんですが…」

「思い出せ!」

 清隆は答に窮した。

「隠してもためにはならねえぞ」

「隠していません! 本当に思い出さないんです!」

「使えねえ野郎だな」

 三人の無様に苦虫を噛んだジャドは大きな溜息を吐いた。

「誰にやられたかも分からねのか、バカ野郎! 今すぐ探し出してここに連れて来い!」

 配下らは次は殺されると思った。最後のチャンスである。そそくさとその場を後にした。配下らと飛び出した清隆は、一瞬記憶が少し晴れた気がした。しかし、何もかもが全く一致しないのでまさかと思い、その記憶は打ち消した。

 ジャドは初めて見えない敵に危機感を覚えた。独狐又村の連中の中に、あからさまに反旗を翻した者がいる。今すぐ潰さねば、計画に大きなダメージを受けかねない。ジャドはおおかた鬼ノ子村の貞八の差し金だと思った。

 配下らが自分の手首を探して現場に戻ると、跡形もなく片付けられていた。

「クソッ、どういうことだ!」

 たまに行き交う村人は、何事もなかったように日常を過ごしている。そのことが一層彼らをイラ付かせた。汚い者でも見るように通り過ぎようとする村人が鼻に付いて強引に呼び止めた。

「ここで何かあったらしいな」

 清隆が通り過ぎようとする村人にそれとなく探りを入れた。その村人は彼らを見なかったことにでもしたいように急に足を速めた。清隆はカッとなって怒鳴った。

「聞いてんだよ!」

「何かって何が?」

「何かだよ!」

「何かじゃ分からんべよ。何かあったのか?」

「こっちが聞いてんだよ!」

「知らねえ者を怒ってもしょうがねえべ」

 村人は、不審な顔をしたまま去って行った。

「ちっくしょう、覚えてろよ!」

 背中で清隆の罵倒を受けたその村人は呟きながら歩いていた。

「おまえこそ覚えてろ、清隆。このオレが溺れていたおまえを救った松橋常次だとは覚えてないだろ。この村に随分と恩知らずなことをしてくれてるな。誰にやられたか知らんがいいざまだ。だがよ、これからもっと地獄を見せてやるからな」

 常次からは笑みすら零れていた。それもそのはず、常次は清隆の親不孝を知っていた。父親の久米夫が木澤不動産の社長をしていた頃、土地の運営を任せていたが、清隆の代になってその土地を二束三文で半ば強引に奪われた形になっていた。清隆に対し、恨みはあっても恐怖などなかった。隙あらば生きてるうちにどうにかしてやろうとすら思っている男だ。“ざまあみろ”と常次は恨みを新たかにしていた。


 珍しく何事もなく数日が経過した。老婆は忌々しげに溜息を吐いた。清掃車がゴミを回収して五分と経っていなかった。その後を掃除しようとゴミ集積所に来て見ると乱雑にゴミが残っていた。いや、残っていたのではなく、清掃車が回収した後に捨てられたゴミである。老婆は仕方なく今日も捨てられたゴミ袋を引き摺って家に入った。この駐車場は老婆の所有で、数日前に監視カメラの設置工事が入っていた。駐車場の道路向かいに住居を構えるこの老婆は腹に据えかねて、周囲から死角になった駐車場の一角に監視カメラを設置することにしたのだ。

 清掃車が回収したあとなのにまたいつものようにゴミが乱雑に捨てられる…そしてカメラに映ったのは、いつもと同じ男が家庭ゴミの袋を慣れた仕草で放り投げて通り過ぎて行く姿だった。

「映ってる…またあいつか…」


 翌朝、老婆は監視カメラを確認して目を見張った。いつものようにゴミ収集車が駐車場ゴミを集めて去った後、またあの男が無造作にゴミを捨てて通り過ぎた。するとおそうじ小僧が大きな包みを運んでゴミ集積所に捨てて去った。

「あのお地蔵さんが動いた…ゴミを捨てた?」

 老婆が慌てて駐車場に出て行くと、ゴミ袋の中には、毎日家庭ごみを捨てて通り過ぎるあの男が結束されていた。間もなく『大人院』と表示された回収車が現れ、それを回収して去って行った。老婆は溜飲を下げ、回収車に手を合わせて拝んだ。

「ナムアブラウンケンソワカ、ナムアブラウンケンソワカ、ナムアブラウンケンソワカ」

 老婆の伝播は瞬く間に村中に広まった。大輔が神様を連れて来てくれたと、おそうじ小僧は村人の崇拝の対象になって湧きたった。

 あちこちに設置されたおそうじ小僧が“うちの地域はまだ動かないぞ”などと、村中の人々が関心の目を寄せ集め、“おそうじ小僧”は注目の的となった。昼夜を通しておそうじ小僧に前に人だかりが絶えず、そのことがカマス一族の動きを鈍らせて、一時的に犯罪件数も減っていた。

 おそうじ小僧が酒の肴になって独り歩きしていたが、神隠しに遭う寸前に助けられた少女の“知らないオジサンが助けてくれた”という証言でヒーロー説も酒の肴になった。この村には神とヒーローが同時にやって来たのかも知れないと“侵略者”に対する村の風当たりも次第に強気になった。

「そのヒーローというのは、独狐又神社の白狐様じゃないのかね?」

「そうさな、ついに白狐様のお怒りに触れたんだよ」

「白狐様がただのオジサンに化けるんだよ!」

 或る日、助けられた少女が、おそうじ小僧の前にしゃがんで拝んでいた。おそうじ小僧の足下にはお菓子が並べられていた。少女が少ないお小遣いで買ったものだった。

 初夏の独狐又村は、犯罪さえなければ長閑で温かみを感じられる村なのである。青々と陽射しに伸びる稲の時期は自然に最も勢いを覚える季節でもある。頭を垂れるまでの自然は五穀豊穣の祭りの日に向かって村民にとっての励みの日々となる。

 少女の背後からカマス部落の男が息を殺して近付いて来た。自然の美しさを破壊する独狐又村の今の現実である。しかし、大輔が帰ってから様相が少し違って来た。おそうじ小僧の目が光った。同時に、どこからともなく現れた人物が素早い動きで通り過ぎた。カマス部落の男は眠るように地べたに伏した。その腹部に致命傷を負い、息絶えていた。おそうじ小僧は過ぎ去る謎の人物を「味方」と識別した。間もなく「大人院」と書かれたマイクロバスが来て、死体を回収して去って行った。少女は何も知らずに振り向いて帰るまでの僅かな時間の出来事だった。

 突然現れた人物は、独狐又村出身の柳下哲夫という男である。清隆が手首を斬られて思い出せなかった男である。柳下は、物陰から少女の後ろ姿を見送りながら思い出していた。

 柳下が帰宅すると、玄関に見知らぬ三足の靴が並んでいた。妻の泰代はリビングで呆然としていた。

「誰か来てるのか?」

 泰代は答えなかった。

「律が帰ってるのか! …どのツラ下げて…」

 2階に上がろうとする哲夫に泰代が叫んだ。

「あなた!」

 泰代は振向く哲夫にすがるような眼差しを送った。哲夫はそれを振り解き、階段をのぼって行った。泰代は泣き崩れた。

 ドアを開けると律の仲間の卓也、亮太、沙耶が薬物で遊んでい。

「誰、あのオッサン?」

「何をしている…」

「律んとこはノックもしないで入ってくるの?」

「おまえらは帰れ」

「ここはあたしの部屋よ。あたしがどう使おうと勝手でしょ!」

「ここはもうおまえの部屋じゃない」

「ほっほう! 育児放棄かよ…邪魔だからうせろ、オッサン」

「もう一度言う…おまえらは帰れ。それとも警察の厄介になるか」

「あたし…警察の厄介にはなりたくないわ。帰るわ」

「警察になんか垂れ込めねえさ。自分の娘も同罪だからな」

「そいつはもう私の娘なんかじゃない…おまえらは警察の厄介になりたくなければ帰れ」

 そう言って哲夫は階段を下りた。涙の枯れた泰代がリビングに座っていた。哲夫も静かに掛けた。

「もう…これまでだ、泰代…」

 奇声を上げて卓也らが階段を下りて来た。律も降りて来た。哲夫は、玄関で靴を履こうとする律の襟首を掴んで引き摺り戻した。

「何すんのよ!」

「オッサン、てめえの娘に何さらすんだ、こら!」

 と言い終らない内に哲夫は卓也の口の中に靴べらを刺した。

「腕に覚えがないなら黙って帰れ」

 哲夫の殺気に圧倒されて卓也らは逃げるように去って行った。

「…泰代、玄関を閉めろ」

 泰代がリビングから出てきて玄関を閉め、無表情で律に振り向いた。母に違和感を覚えた律が哲夫を見ると、哲夫も無表情だった。

「・・・!」

 無表情だった頬から勢い涙が溢れ、物陰の哲夫は苦悶しながら頽れた。その様子を少女は立ち止まってじっと見ていた。哲夫と目が合うと、少女は一所懸命の作り笑顔で感謝の気持ちを送った。哲夫も笑顔を返し、頷いた。少女は心配げに何度も振り返りながらバイバイの手を振り去って行った。


● ジャド一族

 股間を喰い千切られた血塗れの死体が、引き裂かれた女児のワンピースを握り締めて転がっていた。ジャドの本拠地である。ジャドは穢れたものでも見るように言い捨てた。

「傷口はナガサだな」

「多分」

 赤頭チャトゥと呼ばれるナンバー2が答えた。ジャドはあからさまに不快感を示し、顎で合図した。配下はその死体を雑巾でも扱うように無造作に引き摺って行った。

「貞八というリーダーは、かつて我らの先祖が夢半ばで全滅させられた相手だ。彼が独狐又村にも拘って来たとなると厄介なことになったな」

 ジャドが“にも”というには訳があった。侵略を仕掛けた村々に貞八の息が掛かっていたため、いくつか断念せざるを得ないケースがあった。独狐又村は鬼ノ子村との行き来があったため、まさか侵略に陥ることはないだろうという油断があった。そしてそのまさかが起きてしまっていた。侵略は貞八も懇意にしていた木澤久米夫から始まり、息子の代になって“あっ”と言う間に事態が変わった。

「こいつを一昼夜晒した後で溶かせ。見せしめにしろ」

 赤頭が腑に落ちないという様子で苦虫を噛んでいた。

「どうした?」

「ひとりだけを襲うというのはどうも解せない」

「どういうことだ?」

「村人の話では、その子どもは“ひとり”に助けられたと言っていたそうだ。マタギの戦法は団体で行動すると聞いている。一人猟はめったにしない」

「ということは、リーダーの指図ではなく、個人が勝手にやったということか?」

「そう考えたほうが自然だ」

 ジャドは考えた。

「よし、暫く貞八の周囲を張れ。そして配下の中に個人でやりそうなやつを見つけ出すんだ」

「それから…」

「何だ」

「最近この村に浮浪者がひとり…」

「そいつがどうかしたのか?」

「いや…ただの浮浪者ならいいんだが、万一のことも…」

「そいつも張れ」

 長年に渡ってジャドは巨額の密航ビジネスとなっていたが、日本は2004年ごろからその活動が激減している。赤頭はジャドの片腕となって組織の底上げに奔走している鼻の利く男だった。

 国籍不明の彼らの暗躍による日本への集団密航は1996年ごろから急激に増加していた。更にそれを遡る事20年ほど前、中国では周恩来の提唱で計画出産活動、つまり“一人っ子政策”が始動した。その結果、学校にも病院にも行けないブラックチルドレン(黒核子)と呼ばれる戸籍無き子が多数出現してしまった。把握できない者まで含めると数千万にも上るといわれている。

 彼らは何処へ消えたのか…定かにされてはいないが、無国籍の存在のまま密航者の道に進まざるを得ない者も相当数存在したはずである。制度自体は2015年に廃止されたが、2004年ごろから激減した密航者は数字の上だけのことであり、現実は厳しいものがあろう。

 密航の手口は年々巧妙化し、沖合いで“瀬取り”といわれる漁船に乗換えたり、貨物船を改造して隠し部屋を作ったり、密航者に偽の造船員手帳を持たせて堂々と上陸させたり、船の国籍を変えたりして暗躍は今も活発に続いているのが現状である。ジャドの残党は執拗にその勢力復活を画策している。過疎化の波にある日本の限界集落は恰好の活動の場となって狙われているのである。

 島国で海に囲まれた日本は排他的経済水域での資源が豊富である一方で、固有の事情がある。陸続きの国境と違い、監視所などの建設が困難で、悪意ある侵入に際しては極めて不利である。特に過疎化が進む中、日本海沿岸の防衛は無防備であるため、特に青森県から石川県の日本海側の侵入を難なく許しているのが現状である。

 秋田は男鹿から由利本荘に掛けて、無断漂着した不審船及び遺体が発見されている。その船の構造は粗末なものから戦闘用に改造されたものまで様々であるが、訓練された軍関係者が関与していることは否めない。そして、残った遺体から推定するに粗末な不審船の場合、子どもなどが含まれていることから比較的家族らしき関係が窺える。不審船の規模から、軍事行動なのか密航なのかが計り知れる場合もあるが、密航に関しては何れその正体を隠すために老夫婦などから戸籍を乗っ取って、その人物に成りすます“背乗り”などの手段を画策をしていることは明白である。


 横浜には、自衛隊の航空機によって発見され証拠隠滅のために自爆して沈没した工作船が展示されている施設がある。押収したものの中に事件を解くカギとなった日本製の携帯電話があった。知らべると、国内の暴力団と頻繁に交信している記録が出て来た。漁船と称していながら船は改造され、機関銃が搭載され、缶詰なども発見されたが、居住スペースはなかった。つまり、訓練された軍関係者が其処に存在したであろうことが顕著に推定される。

 当初、事件のあった現地で一般公開されていたが、国民の関心の高さに長期保存・展示の必要性が改めて問われ、個人や企業からの募金によって横浜の施設で広く無料で一般公開されるに至っている。


 独狐又村での侵略活動は順調に進んでいた。しかし、そこに再びあの貞八率いるマタギ一族が立ち塞がったとなると事は深刻である。かつて自分たちの祖先は、本拠としていた内陸線本社のある阿仁合の鉱山跡を完膚なきまでに破壊されて屈した経緯がある。今回は何としてもその雪辱を晴らす意味でも敵の思いどおりにさせてはならない。あの時とは事情が違う…公的機関の動きを封じているのだ。下手に手を出せる状況にはない。こちらが有利だ。邪魔者は抹殺するのみだ…ジャドはそう自分に言い聞かせていた。


● 潜入

 天井裏に忍んだ赤頭が隙間を覗いていた。囲炉裏に座り、刻み莨を燻らす貞八を監視していた。よく見ると居眠りをし、その胡坐に三毛猫が寛いでいた。いい気なものだ。警戒感を全く失っている。これが一族の長かと苦笑いが出る程の呆け加減である…ジジイめ、このまま殺してもいいんだが…首領ジャドの命は探しているやつを突き止めるまでは生かしておけとのことだ。逸る心を抑えて赤頭はそのまま屋根裏に待機した。

 少しすると妻のワクが来て煎茶を入れ出した。囲炉裏に掛けた鉄瓶から沸騰した湯を汲み、一間冷ましてから注ぎ用の鉄瓶の煎茶を躍らせた。その注ぐ音を聞き、三毛猫の尻尾がなだらかに動いた。その様子を見て天井裏の赤頭は歯軋りをした。あの日、母は船倉で荒い波に揉まれながら子どもだったオレの手を握って、じっと見つめたまま息を引き取った。てめえらは幸せな老後か…虫唾が走る。赤頭は恨みを燃やしながら小刻みに震えていた。

 囲炉裏の部屋から見える外の景色を眺めていたワクは、頃合いを見て貞八お気に入りの湯飲みに煎茶を注ぎ、胡坐の横に差し出した。貞八は目を開けると同時に煙管の燃えカスを弾き、徐に茶碗に手を出した。その手を一瞬止めたが、何事もなかったように美味しそうに啜り出した…次の瞬間、貞八の腰のナガサは天井に深く突き刺さっていた。茶を啜り終え、囲炉裏際に置いた茶碗に一滴、また一滴と血が垂れ落ちた。

 天井裏では、赤頭が俯せのまま目を開け、息絶えていた。


 駅の並びに使い古されたトロッコが積まれている。そこにひとりの浮浪者がだらしなく横になっていた。彼の名は柳下哲夫。東京では人知れず“シャドウヒーロー”と呼ばれていた独狐又村出身の男である。東京に出たはいいが、不況のあおりで職を失い、家庭が崩壊し、街にあぶれている中で、人体実験の対象にされてしまった男である。柳下は間もなく体に異常を覚えた。回復機能が異常に早くなり、人間離れした身体能力が備わって行った。柳下は欲求のまま、元来持っている正義感を奮い立たせた。

 田舎に居た頃、柳下の母は喘息に悩まされていた。今のようにエチケットに煩くなかった時代、傍で喫煙する人の煙に悩まされ、激しい発作に襲われた母親を見て育った。いつしか喫煙者に対する不満が殺意に変わっていった。上京し、職場も家族も得たが、不況のあおりを受けて家族との折り合いも悪くなり、ついに浮浪者となってさ迷ううちに人体実験の対象となって悶々としている中で、彼の鬱屈した正義感の最初のターゲットが喫煙者に向かった…というより、喫煙者の手に向かった。タバコを挟んだ手がいくつも東京の街に転がった。マスコミは異常者と騒ぎ立てたが、その見えない正義が民衆の支持を得た。影のヒーローとして“シャドウヒーロー”の名が囁かれるようになり、柳下の正義はついに組織に向かった。そして、今度は逆に組織から命を狙われる羽目になってしまった。

 家族が組織の手に落ち、自分のクローンが家族を蘇らせていた。幸せそうな家族を見て完全に行き場を失った柳下は故郷の独狐又村に戻るしかなかった。しかし、故郷は様相が一変していた。ここで出遭ってしまったのが、のさばり放題の正体知れぬ悪人たちである。そしてカマス一族とは知らずにその超人的能力を発揮したことで、今度は一族からマークされる羽目になってしまった。

「おまえは何者なんだ!」

 柳下は答えなかった…答えられなかった。業を煮やしたカマス一族は柳下に襲い掛かったが軽くいなされた。一族のひとりがナイフを構えると、柳下の目が変わった。彼の狂気的な身体能力が目覚めてしまった。ナイフで襲う相手に見えない素早い動きになり、配下は次々と喉を抉られて息絶えた。尋常ではない柳下の攻撃に、残った連中は這う這うの体で逃げ出すのが精一杯だった。

 おそうじ小僧が現れた。構えた柳下に近付いて来た。柳下を観察したかと思うと、すぐに死体に視線を移した。そしてそのまま去って行った。間もなく「大人院」と書かれた白いマイクロバスが駆け付け、カマス一族の死体を回収して去って行った。

 柳下は訳が分からず、マイクロバスを見送って立ち尽くした。おそうじ小僧は定位置でただの銅像に戻っている…柳下は気を取り直して、「大人院」のマイクロバスを追うために自転車に跨った。そのバスは柳下の読みとは逆に独狐又村山中に入って行った。

 柳下は驚いた。山中が急に拓け、広大な施設が現れた。大人院のマイクロバスはその一角にある厳つい建物の中に消えていった。冬場になれば全てが埋まりそうな、地べたにへばり付いた頑丈そうな平屋建ての建造物が佇んでいた。見方によっては地下要塞の一部が露出しているようにも見える。

 暫く様子を窺っている柳下の前を一台の装甲車仕様の四輪駆動車が通った。

「利助! …大輔も」

 小学時代の同級生の上杉利助と後輩だった浅利大輔が乗っているのを見逃さなかった。柳下は、利助が役場に就職したことは風の便りで知っていたが、大輔が帰郷していることは知らなかった。柳下は必死になって車の行方を追ってみたが見失ってしまった。しかし、利助が居るという事は役場に向かった可能性があると思い直し、柳下は自転車で独狐又村役場に向かった。案の定、さっきの車が停まっていた。

 柳下は然らぬ体で役場に入った。変わり果てた自分の姿に覚えのある者は誰も居なくてホッとした。奥に目をやると利助が大輔と話していた。大輔のいる席に『村長席』とあった。柳下は大輔が村長を継いだということをここで初めて知り、益々自分が人生の敗北者であることを思い知らされた。

 帰途、虚しさだけが残った。利助や大輔への不満であろうはずもなく、己への糸の切れ加減にである。最早独狐又村は自分にとって故郷ではなかった。これから生きている間は根無し草としての孤独と闘わなければならない。生まれ故郷でそれを味わうには辛過ぎる。自転車を漕ぐ足は何故か鬼ノ子村の駅に向かっていた。あそこは何度か父親に連れられて降りた駅で、鬼ノ子村には温かい想い出がある。柳下にとって、その温かさの思い出だけが唯一の救いだった。


● 柳下の獲物

 枯渇した心を打ち消すかのように、柳下は打ち損じたあの男に執着した。


 三日後、老人夫婦の家に忍び込もうとしている三人の男女がいた。男女二人は軍人のような服装で、何よりその動きは軍事訓練を受けた者の所作だった。その二人は男鹿半島に無尽船で打ち上げられた。柳下が付けていた男は、その工作員らしきふたりの男女を案内していた。今正に独狐又村の里から少し離れた位置にある一軒の老人夫婦宅が狙われていた。柳下は最初、打ち損じた男だけを殺せばいいと思っていたが、老人夫婦のことを思うと、また抑えようのない正義感が燃え出し、三人への殺意へと広がっていた。

 ことは一瞬で終わった。日の出前の老人宅の前に二人の死体が転がった。ふたりとも首を鋭利な刃物で抉られて命尽きていた。彼らの目論見は、無尽船で男鹿に打ち上げられて行方をくらまし、独狐又村の老人夫婦に背乗りしようとしたことに間違いない。しかし寸でのところで邪魔が入った。案内役の男は焦った。これまで深夜の背乗りは面白いように上手く行っていた。過疎の村に腕に覚えのある者など皆無だった。手配の人数も三人から一人に減っていた。そして、暗闇の中に敵が現れた。その敵には覚えがある。一度会って仲間が命を絶たれた最悪の相手だった。男は柳下が二人を抹殺している僅かの間を突いてその場から逃亡した。

 家の近くに立っていたおそうじ小僧の目が光って動き出した。とっさに柳下は物陰に隠れた。間もなく大人院のマイクロバスが来て回収して去って行った。それを確認したおそうじ小僧は再び元の位置に佇んだ。

「またあの車か…」

 家の前で起こった事件など知らない老人夫婦は、今日も陽が出始める頃に家を出て来た。慣れた仕草でおそうじ小僧にお参りし、いつもの足取りで畦道に入り野良仕事に向かって行った。


 数日後、カマス一族の集落を張っていた柳下の目が輝いた。あの男である。あの男が車を出して105号を北上した。しかし柳下は急いで追うふうでもなく、ゆっくりと歩き始めた。カマス一族は犯行を自分の縄張りで行う習性がある。柳下はここ数日の間にその習性を察知した。そのため、男を村外れで待つことにした。

 日の暮れた始めた頃、あの男の車が戻って来た。柳下の予想どおり…いや、男は柳下の予想を裏切り、集落の近くで道を逸れ、山中に入って行った。柳下は急いで自転車を跨いだ。車は滝に抜ける路上に停まった。そして出先で浚ってきた少女を引き摺り出した。少女は気を失っていた。生きているのか…その少女を見て柳下はハッとなった。自分を追って来た刑事の娘だ。鳩山直人の娘…この村に辿り着いた頃のことを思い出した。


 東京から逃げて来たばかりの柳下は、生まれ故郷の独狐又村が何となく敷居が高く、行きそびれて内陸線始発駅の鷹巣の街をさ迷って適当な塒を探していた。そんなある日、偶然、轢かれそうになった車に鳩山直人が乗っていることに気付いた。

「なぜあの男がこんな田舎に…」

 鳩山は柳下の行方を追って独狐又村の管轄である鷹巣に出向させられていた。柳下は慌てて路地に入り身を隠した。そこに立っていたのが塾帰りの鳩山の娘である。

「おじさん、今、隠れたでしょ」

 目元が鳩山とそっくりだった。その目が柳下を冷たく睨んでいた。東京で柳下を追い続けた目とそっくりだった。柳下の目が泳いだ。少し先で鳩山の車が停まると、少女は路地から出て叫んだ。

「パパーッ、この人、変よ!」

 柳下はとっさにその場を駆け出した。気が付いた時、柳下は朽ち果てた民家の前に立っていた。草だらけになったその場所は、東京に出ている間に変わり果てた生家だった。

 今、あの時の少女が犠牲になろうとしている。しかし、柳下の男に対する闘争心は鈍っていた。そして、その正義感は悪魔に変わっていた。

「助ける理由がない…鳩山の娘だ」

 柳下はギョッとなった。すぐにカマス集落を監視するおそうじ小僧が現れた。おそうじ小僧はその男にほうきの針を放った。とっさに柳下は軒下に散らばっている石つぶてで邪魔をして針を落とした。おそうじ小僧の光った目は柳下に向けられた。柳下は呟いた。

「やつはオレの獲物だ」

 おそうじ小僧の威嚇が柳下に向けられた。柳下はかわした。おそうじ小僧は直ぐに男を攻撃した。しかし、柳下は全て阻止した。すると、その攻撃が柳下に向けられた。

「敵と見做す、敵と見做す」

 おそうじ小僧が集まって来て柳下を集中攻撃し始めた。

「今度はオレが敵か」

 柳下は仕方なくかわしながら退散するしかなかった。皮肉にも柳下のお蔭で男は逃げ切っていた。男は山中深く入り込んでいた。そして少女に向けた顔が再び猥褻に歪んだ。

「もう邪魔は入らねえぞ」

 柳下が男に追い付いた時には、既に少女の死体が男の前に転がっていた。

「遅かったな、オレの勝ちだ」

「覚悟は出来ているな」

「殺すなら殺せ」

 一瞬だった。柳下のナガサは男が言い終わらないうちに喉元を鋭く抉っていた。

 柳下は強烈な脱力感に見舞われたが、気配に押されて繁みに身を隠した。おそうじ小僧が現れるのが見えた。おそうじ小僧は二つの死体を確認し、去って行った。お決まりのように大人院のマイクロバスが来て、その死体を収容して行った。柳下は繁みの中で大きな溜息を吐いた。広葉樹林の木漏れ日を辿って空を見上げた柳下は、目的を全て失ったような空虚感に襲われてその場に寝転んだ。あの空の向こうに柳下の未来は見えない。このまま自然に同化出来たらどれだけ幸せなのか…その時、繁みに乗り捨てた自転車のことを思い出した。

「返さなければ…」

 盗んだ自転車を返してから人生を終わらせようと思い立ち、柳下は重い体を起こした。


● 柳下と貞八

「…哲夫」

聞き覚えのある声に、自転車から降り掛けた柳下の動きが止まった。

「いつ戻ったんだ?」

 振り向くと、貞八が立っていた。柳下はどことなく体裁悪げに自転車から降りて一礼するしかなかった。

「他人行儀なやつだ…」

 帰郷後の柳下を初めて見掛けたのは英雄だった。内陸線の鬼ノ子村駅に降り立った柳下を、沿線の田圃で作業をしていた英雄の目に入った。柳下の故郷はこの先の独狐又村の筈だが、何故ここで降りたのかと妙に思えた。柳下は目的地に向かうでもなく、そのまま駅の周りをうろうろし、使い古した枕木の積んであるところに腰を掛けた。英雄は声を掛けるのをやめ、様子を見ることにした。以後、彼の動きは貞八の監視下になった。英雄は柳下の行動を逐一貞八に報告していた。そして今、声を掛けたのには貞八なりのわけがあった。

「付いて来い」

 柳下は貞八の言葉に素直に従った。駅からの坂道を登って歩くと、正面に鬼ノ子山が見える。この駅を塒にしてから朝一番先に目に入るのは、朝陽に映える鬼ノ子山である。貞八に連れられて父と一緒に登ったことがある。標高300メートル程度の山だが登坂路は険しかった。頂上は狭いが鬼ノ子村集落を一望出来た。頂上にはバラック建てのような御堂があり、粗末な紐で結わいた熊対策の戸を開けると、大きな鉄の下駄と金棒が納められていた記憶がある。今もあるのだろうか…貞八の足が止まった。

「年を取ると上り坂は堪える」

 歩きながら貞八は柳下に警戒するよう目で合図をした。柳下もつけられていることは察知していたが、貞八の目配せでそれが味方ではないことを理解した。付けているカマス一味がいた。それを後目にふたりはまた歩き出した。その瞬間、松橋英雄と然辰巳がカマス一味を襲い、瞬息で首の骨を折って息の根を止めた。

「おまえにも虫が付き纏ってるようだな」

 英雄らはカマス一味を待機させてあった平川茂の運転する火葬船バスに乗せて見送った。振り向くと、英雄と然に目が合った。その目は優しく微笑んでいた。柳下は込み上げるものがあった。この人たちは、こんな自分を受け入れてくれている。自分の置かれている状況に混乱が走った。その間に英雄たちは消えていた。大輔の葛藤を見抜いているかのように貞八が話し始めた。

「おまえの中にある正義と悪魔は先祖譲りだ。悩むことはない。おまえひとりの力では、もうどうにもならんのだ。悪には正義だけでは立ち向かえん」

 貞八の“やつら”という言葉に柳下の迷いの扉が開いた。“やつら”がいる…この人たちは“やつら”が蔓延る独狐又村の非常事態を察知している。自衛のために修羅の道を選んで必死に生き伸びている人たちなのだ…柳下は安堵を覚えた。

「やつらは放っておくと蛆のように湧いてくる。今潰さなければ手の施しようがなくなるのに、お上は手も足も出せん。何故なら、お上はやつらを潰すに値する民衆受けする大義名分というやつが必要なんじゃ」

 『大人院』がカマス一族の隠滅を図っても、“やつら”が声を出せないのは不法入国者だからだ。そして政府には“やつら”を一掃するだけの大義名分がまだない。しかし、この睨み合いが長引けば、“やつら”には独狐又村に蔓延る時間を与えてしまう。政府が独狐又村が消滅するより自分たちの体裁を重んじているとすれば、頼る相手ではない。法を遵守して政府に望みを託せば、村人は結局このまま“やつら”の犠牲になるのを待つだけだ。


 かつて鬼ノ子村は、誰にも頼らずに村を奪い返したが、政府は未だにその責任追及を“やつら”ではなく鬼ノ子村にしようとしている。普通に考えれば、お上には“やつら”の息の掛かっている者が数多く蔓延っているという事だ。独狐又村の危機に対するお上の消極姿勢は今後も期待できない。政府に対する期待と油断は我が身を滅ぼすだけだ。


 鬼ノ子山に鳥の声がこだました。この地域の市鳥であるクマゲラがコロコロと鳴き始めた。越冬の準備でもしているのだろうか…柳下は懐かしい鳴き声に聞き入った。生まれた時から独狐又村の棚田でも響いていた鳴き声だ。故郷に戻って初めて故郷を感じたように思えた。

「おまえは東京に出て運が悪かっただけだ。龍三などは運が良かった。でも結局故郷へ帰って来た。おまえも帰って来い。オレの家で暮らせ」

 貞八の意外な言葉に、柳下は不意に涙が溢れた。東京では手痛い洗礼を受け、運にも見放されて散々だった。里心が付いて故郷に戻ったはいいが、故郷は既に気の休まる場所ではなくなっていた。でもここは、昔、父に連れられて来たままの面影が残っていた。

 畑を分けて坂を上り切ると、懐かしい佇まいが見えて来た。その家の前では貞八の妻のワクが立って待っていた。

「お帰り、哲ちゃん」

 さりげなくそう言ってワクは中に入って行った。かやぶき屋根から立ち上る白い蒸気の混じった煙に、柳下は時が止まり、懐かしさが広がった。初めて貞八の家に来た時に、父親と一緒に見た煙だ。

「父さん、火事だよ」

 幼い柳下はかやぶき屋根の家を知らなかった。田舎とは言え、独狐又村はこの辺りでも一段と寒さが厳しい地域だったため、逸早く囲炉裏から薪ストーブに変わっていった。柳下は、煙は煙突から出るものだと思っていた。それが屋根の上から立ち昇る煙を見て火事だと思ったのだ。父親は笑って答えた。

「わらぶきの屋根は囲炉裏の煙で虫を殺したり、雨漏りのしない屋根にしてるんだよ。うちも昔はああやって燻してたんだよ」

 かやぶきの屋根は放っておくと、中に虫が巣食って茅を傷めるだけでなく、その虫を狙った烏が来て雨漏りの原因となる“食い散らかし”をし、ついには柱や壁を腐らせて建物を朽ち果てさせる。囲炉裏の火は暖を取るためだけではなく、建物の維持のためにあるということを柳下はその時に初めて知ったのだ。

 柳下哲夫の父親は家を出て、貞八の下で狩りの弟子に入った。マタギ猟の一から貞八に育てられた。しかし、猟の折りに熊を仕留め損ない、貞八に庇ってもらったものの、その時の怪我が元で後日命を落としたのだ。

「おれのマタギ生活に悔いの残るたったひとつの出来事だった。まだおまえの父親を連れて行くべきじゃなかった」

「父は早く貞八さんになりたかったんです。家を出てから家族を顧みることがは一度もなかった…でも今なら理解できます」

「父親を恨んでいるだろうな」

「はい…ただ…」

「・・・」

「もっと生きていて欲しかった」

 柳下哲夫の父親は独狐又村の旧家に生まれ、先祖代々、村で中心的な役割を担っていた。しかし、哲夫の代で不幸が重なってしまった。

 かつて、独狐又村を護る城は厳しく狭い場所に建っていたが、南部氏や秋田氏の軍が攻めて来るのが一望できる絶好の場所にあった。古くから金山が栄え、村は潤っていたが、時代の波に流されるように鉱山が廃れると様変わりして行った。

 そんな中、柳下家の先祖は森林に目を付け、大掛かりな製材事業を起こして財を築いた。しかし、祖父の代になって、哲夫の兄が商売敵への傷害事件を起こし、刑務所に入ることになった。祖父はそれを苦に独狐鈷又神社で自ら最期を遂げた。それからは事業にも陰りが見え、間もなく祖母も他界し、突然、父親は妻と幼い哲夫を残して家を出た。当時、父親が貞八の下でマタギの修行をしていたことは知らなかった哲夫は、母の死後、父を恨んだまま上京し、今に至っている。

 妻のワクはいつものように煎茶を入れていた。貞八とともに囲炉裏に座るのは何年ぶりだろう。随分と老いているはずだが、貞八もワクも精気が漲っている。それに比べて自分はどうだろう…落ちるところまで落ちてしまった感じだ。

 ワクの入れる煎茶は青々として湯気が滾っている。この音を聞くと心が落ち着く。入れた煎茶を差し伸べるワクの表情は慈愛に満ちていた。熱い煎茶が喉を通りながら、溜まりに溜まった苦しみを全て洗い流してくれるような気がした。

「哲夫…2~3日は動くな」

 貞八の鋭い言葉が飛んで来た。貞八が一番言いたかった言葉ではないかと柳下は直感した。何かが起こる。自分に下手に動くなという事だ。

「おまえは充分に役立ってくれた。ここから先は…」

「分かりました」

 柳下は素直に従った。“おまえは充分に役立ってくれた”という言葉は泳がせてくれていたということだ。自分は役に立った…そう思うと救われた。フクは柳下を部屋に案内してくれた。片隅にはフカフカの布団が積まれていた。何ヶ月ぶりだろう。自分には、こうしてもらう価値があるのだろうか・・・

「勝手に産んで勝手に殺すのね」

 娘の最期の言葉だった。娘が薬漬けになったのは自分の所為だ。家庭を放棄して逃げているだけの人生に何の意味があるのだろう。柳下は後悔に押し潰されながら、久々の畳の上で気を失うように眠りに入っていった。

その裏で大輔たちの動きが活発になっていた。そんな中、鳩山刑事が村長となった大輔を訪ねて来た。


● ブーメラン

「お話というのは何でしょうか?」

「お忙しいところ、時間を作っていただいてありがとうございます」

 鳩山はいつになく低姿勢だった。

「やっと警察がこの村ために動く順番が来たのでしょうか? それならば、こちらこそ大変ありがたいことですが…」

 大輔のさぐりに鳩山は口籠っていた。

「そう言うお話でもなさそうですね」

 大輔は鳩山に言葉を促すでもなく、じっと見据えていた。鳩山は大きく一呼吸した。一瞬、こちらの今の動きを悟られたかなと思ったが、鳩山はたどたどしく意外なことを話し出した。

「娘が誘拐されたかもしれません」

 大輔はとっさにレイプされて大人院の遺体安置センターに収容された身元不明の少女のことが浮かんだ。あの少女が鳩山の娘かもしれないという事か…しかし大輔は初耳のように鳩山を突き放した。

「そうですか…お父さんが刑事ですから、犯人が捕まるのも早いんでしょうね」

 鳩山は沈痛な表情だった。

「物証も目撃者も…何もなくて…」

「・・・・・」

「捜査のしようがないんです」

 大輔は、カマス村にメスを入れずに、その活動に目を瞑っている以上、如何なる捜査も進むことはないだろうと言いたかったが・・・

「そうですか」

 鳩山は大輔の反応の薄さの想像は付いていたが、自分の娘のことである以上、恥を忍ぶ思いで切り出した。

「独狐又村の皆さんが自力で治安を回復したお話を伺いました」

「急を要していた上に、警察の方々のご協力が全く得られませんでしたので、少しでも自力で何とかしなければと必死でした。しかし、叔父がご助言を戴いたように、法で自己救済が禁止されている以上、治安の回復には全然至ってませんよ」

「申し訳ありません」

「あなたはその法の番人ですから、謝ることはないでしょう。叔父に助言して下さったじゃありませんか」

 今更謝られたところで事態が好転するわけでもない。既に村独自の計画が遂行されている。一切の関わりを拒む意味で、大輔は鳩山の謝罪を無視した。気まずい空気が流れた。

「刑事さんも公私に難題を抱えて大変ですねえ」

 鳩山は大輔の距離感に堪り兼ねて本題に入った。

「私がお願いする立場にはないかもしれませんが、娘を拉致した犯人を見付け出すのにご協力願えないでしょうか?」

 大輔は鳩山の要望に対する答えを疾うに用意していた。

「私どもがですか? どういう事でしょう?」

 鳩山の胸の内は手に取るように分かっていたが、敢えて距離を持った。叔父が散々鳩山に懇願したことだ。鳩山が叔父に対応したことは法に準じてはいるが、そのことによって叔父はどれだけやるせない思いをさせられたか、今この男に体験してもらうしかない。大輔は自分の冷徹さを全開にした。

「私たちは警察じゃありませんから、そんな裁量はありませんよ。それは刑事さんが十分お分かりのはずでしょう」

「しかし、独狐又村の皆さんは自力で治安を…」

「独狐又村の村民は自分の命を守るので精一杯なんです。刑事さんのお気持ちは十分理解できます。同時に刑事さんもお分かりのように、我々に言えることは刑事さんに仰って頂いた事と同じく、現時点では余裕が出来たらご連絡しますとしか申し上げられません。その余裕だっていつになることか…」

 大輔は叔父の次郎がかつて鳩山刑事に扱われたままの如き言葉を返した。鳩山は絶句していたが、堰を切ったように感情を露わにした。

「娘を一日も早く取り戻したいんです! 無理を承知でお願いしています! どうかお力を貸してください!」

 大輔は厳しい表情で鳩山を見据えた。

「力を貸して頂きたいのはこちらのほうです。何度もお願いに窺ったじゃありませんか? しかし、警察はお忙しい。こちらが緊急でも順番を待たなければならない。それではとても間に合わない。突き離された思いで警察を後にした叔父の気持ちなどお構いなしでしたよね。お蔭で我々は目が覚めたんです。自分のことは自分で何とかしなければならないという事をね」

 言葉に窮している鳩山に更にたたみ掛けた。

「鳩山刑事さん、ここはあなたが来るところではないでしょ。第一、我々の順番はまだでしょ? いつ警察の方に来て頂けるかと今も待っているんです。あなたの個人的な願いを聞ける余裕などないことはお分かりの筈です」

「お怒りは十分承知しているつもりです。私の身勝手なお願いであることも承知しています。しかし、娘を誘拐された父親の無念も分かってください!」

「怒ってなどいませんよ。怒ったところで何も解決しませんからね。それに、無念なのはあなたご自身ではないですか? こういったことはやはり警察の仕事だと思いますよ。あなたが呆れたように、むじなに化かされるような無能な私どもの関われる問題ではありません」

「私の言葉に偏見があったことは認めます。申し訳ありませんでした。あの時は私もどうかしていました。事情があってこちらに転勤になり…」

「刑事さん…私どもはあなたの私的なお話を伺う立場にありません。どうか、あなたも私ども同様、警察を頼ってください」

 鳩山刑事は過去にこの村の村長を見下したことをほとほと後悔して冷や汗が滲んだ。鳩山の動揺を見透かしている大輔は更に駄目押しをした。

「それとも、警察のあなたが、その警察を頼れないとでも思ってらっしゃるんですか? そんなはずはないですよね」

 沈黙の後、鳩山は絞り出すような声で呻いた。

「警察は…頼れません」

 意外な答えだった。この男は完全に父親になっている。藁をもつかむ思いでここに来ている。しかし、冷徹を全開にした大輔は情に流されるつもりは更々なかった。

「刑事さん、それをあなたの口から聞きたくなかったですね。警察を頼りにしている私どもも不安になるじゃありませんか。兎に角、私どもには荷が重過ぎます。お力にはなれません」

「私には覚悟が出来ています! 犯人を見付けてさえくれたら、あとは私がこの手で犯人に天誅を…」

「刑事さん…あなたは私の叔父に仰ったじゃありませんか」

「・・・」

「当時、何度となく警察に助けを求めに行った叔父は、担当刑事のあなたに窘めていただいたと言っていました。“くれぐれも個人による筋違いの仕返しなどはなさらないように! 刑罰権は国家が独占しています。自救行為は罪に問われますよ!”ってね」

 鳩山は大輔に射抜かれた。大輔は更に止めを刺した。

「どうか捜査の順番を待って、そして一日も早く娘さんが貴方の元に帰って行くことを祈っています」

 そう言いながら大輔は、鳩山の元に娘の眠る棺が届く光景が浮かべていた。恐らくこれまでの人生の中で一番不幸な一日になるだろう。今ここで突き離した自分を恨むに違いない。大輔は仕方のないことだと思った。今、彼に協力することが正しいとしても、独狐又村の住民が救われるわけではない。寧ろ、娘を殺したカマス一族に対し警察が介入することで、自分たちの計画が頓挫する可能性がある。そうなることは絶対に阻止しなければならない。

 鳩山刑事は大輔の言葉に打ちのめされ、その場を辞するしかなかった。大輔は慇懃無礼に出口まで送った。部屋に戻ると叔父の次郎が待っていた。

「大輔、ありがとよ。良く言ってくれた」

「今、拘られるのは困りますからね」

「鳩山のやつ、どの面下げて頼みに来れたんだ? しかも、随分老けたな」

「娘さんのことだからね」

 大輔は正直、後味の悪さは否めなかった。次郎もすぐに大輔の気持ちを察した。

「私が甘かったようだ。娘さんには悪いが、胸がスーッとしたよ。あの言葉を掃かれたらどんなにつらいか、やつにも分かったろう」

「叔父さん、ボクは随分と残酷な人間になったかもしれません」

「いいや、甘い考えは多くの人を不幸にする。上に立つ者は残酷になれなければ人を救えん時もある。大輔にはオレのような失敗はしてもらいたくない。情に流された優しさこそ残酷かもしれない。今は申し訳ないが堪えてくれ」

「そうですね。もう、賽は投げられたんですからね」

 大輔の深刻な表情は寂しい笑みに変わった。その時、村長の電話が鳴った。報告を聞いた大輔は受話器を置いた。

「叔父さん、どうやら常次さんが火付け役になりそうです」

「火付け役に?」

「今、利助さんが棚田の見回りに行ってるんですが、常次さんと兼雄さんが言い争ってるのを見たそうです」

「ふたりは幼馴染だろ?」

「どうやら常次さんは我慢の限界が来たようです」

「兼雄さんにかい?」

「いえ、水です」

「水?」

 村外れに住む松橋常次が、カマス村のリーダー・ジャドが支配する閉鎖された農業用水路の“とよ”を無断解放した。この地では水路の水を遮っている田圃の畔の開閉口を“とよ”と呼んでいる。山林を買い占めたジャドがその権利を主張して、常次のように使用料を支払わない者には開閉を禁じていた。

 この日は常次の父・昭三郎の命日だった。昭三郎は祖父・一蔵の代に村を挙げて森吉山から水を引く一大工事に加わっていた。先祖が逃げ延びたこの土地は斜面しかない地形だった。その斜面に棚田を切り拓き、長年地下水を担いで運んでいたが、先祖は森吉山から水を引く気の遠くなるような工事に取り掛かった。完成を見た村の喜びようは容易く想像できる。その水を侵略者によって遮られた怒りは測り知れない。

 “とよ”が開くと、乾ききった自分の土地に見る見る水が流れ始めた。その水の流れに先祖の喜ぶ顔が次々に映し出された。常次はしみじみと深呼吸した。

 隣に住む幼馴染の平川兼雄が駆け付けて来たが、その様子を見ておろおろしていた。兼雄は逃げ腰で話し掛けた。

「常次、早く塞いだほうが良いよ!」

 常次はさっぱりした態で応えた。

「見ろ、棚田にどんどん水が伝っていく。森吉の水はみんなのものだ。オレは臆病風を吹かして田圃を台無しにしてしまった。このままでは先祖に申し訳が立たねえ」

「そうは言ったって、このままじゃ済まねえぞ」

「根性無しが…おまえは帰れ!」

 常次は不甲斐ない兼雄にこれまでの自分を見ているようだった。その自分に冷たく言い放った。

「臆病者がこの村を駄目にしてるんだ」

「そんなこと言ったって、常次! このままじゃ本当にやばいよ!」

「誰かがやらなければならないことだった。先祖の土地を台無しにしたまま死ねない。オレは殺されたっていい。最後までやり切る!」

 兼雄は土煙を上げて猛スピードで近付いて来る車に気付いた。

「常次、あいつらが来たぞ!」

「うるせえな! おまえは早く逃げればいいだろ!」

 兼雄は後ろ髪引かれながらも走り去った。少しすると常次の前に車が急停車して二人の男が降りて来た。

「おまえは誰の許可を得て水を引いてるんだ!」

「誰の許可も要らねえ! 水は昔からみんなのものだ!」

「ここに流れている水は山林の所有者のジャド様のものだ! 勝手に使うな!」

「勝手なのはそっちだ! 水は天から授かったものだ! 山林を経由しているだけだ! おまえらこそ使用料を払ってるのか! しぢくんで(七面倒臭い)文句があるなら空に言え!」

「減らず口を叩くんじゃねえ、じじい! 水を使うならジャド様の許可をもらって金を払ってからだ! みんなそうしてる!」

「村人を脅して巻き上げてるだけじゃないか! オレは断る!」

「そうか…後悔することになるぞ!」

 カマスの連中は捨て台詞を吐いて去って行った。

「おめえらに何が出来る! この常次を甘く見るんじゃねえ!」

 その夜、常次の家が大火に包まれた。火は冬に備えて干している薪に燃え移り、隣の兼雄の家にも飛び火した。常次と兼雄は火の粉を巻き上げて激しく燃える炎の前に立ち尽くしていた。

「兼雄…済まねえ。おまえを巻き込んでしまったな」

「いいじゃないか、常次…お互い独り暮らしだし…家もぼろくなってたし…寧ろ、清々したよ。びくびくして暮らすのはオレももうううんざりだ。こんなちんけな命なんか要らねえよ。明日から“ほえど(乞食)”でもやるべ。寒いから火にあたるべ。家を燃やして暖まるなんて贅沢だべ」

 兼雄は力なく笑った。その目に映る炎が一際激しくなった。ふたりの家が立て続けに燃え崩れた。兼雄はその場にへたり込んだ。常次はじっと炎を睨み付け、そして歩き始めた。その手には鎌が握られていた。

「常次さん」

 呼ぶ声に常次と兼雄が振り向くと、村長の大輔が立っていた。

「もう限界だしな」

「大輔さん!」

「心配しなくても大丈夫です。お二人はこれからしばらく住み込みで公民館を管理しててもらえますか?」

「・・・?」

「集合住宅計画があるんです。完成したらそこに住んでもらいます」

「集合住宅?」

「“カマス村”に建設します。あそこは不法占拠された場所ですから、強制立ち退きさせて新たにご老人の1人暮らしと冬季対策のための集合住宅を建てます」

「簡単に行く話じゃないだろ」

「簡単に行かせますよ」

 翌日深夜、“カマス村”から一斉に火の手が上がった。遠巻きに駆け付けた村人の中に常次や兼雄もいて歓喜した。村長の大輔を見付けて駆け寄った。

「大輔さん!」

「この時期は乾燥してるから、火に気を付けないとね」

 カマス集落の火災を見て平然としている大輔を見て、常次と兼雄は昨日の言葉を思い出した。“簡単に行かせますよ”…大輔はこの事を言っていたんだと思った。

「あんた、大した男だ!」

「昨日も言いましたが、おふたりにはこれから公民館の管理を頼みますね。宜しいですよね」

「そりゃ有難い話です! …が、公民館に人手なんて必要なんですか?」

「必要なんですよ。何れ公民館を内陸線の独狐又駅舎に移動します。そこを“道の駅”のようなアンテナショップにして独狐又村の地場産業を日本中に発信する予定です」

「アンテナを立てるのかい?」

「農作物から観光資源に至る何でも屋を開いて全国に行商するんです。今、近隣の集落にも働きかけている所です。おふたりには運営を担当してもらいたいんです。勿論、農業と兼業でね。忙しくなりますよ!」

 大輔の目は輝いていた。この人は本気なんだと思わせるに充分なオーラだった。

「大輔さん、わしらあんたに付いて行くよ。何でも言ってくれ!」

 常次の言葉に兼雄も大きく頷いた。

「頼りにしていますよ!」

 大輔に未来を見せられ、炎に照らされた常次と兼雄の顔は悲愴から希望に変わった。

「消防署に連絡しないとな!」

「いや、まだ連絡しないでください」

 止める大輔をふたりは怪訝に思ったが、すぐにその意を理解した。裏山では既に独狐村役場の職員と営林署OBによる木の伐採が始まっていた。既に山に飛び火していたが、必要なところまで燃やす考えのようだ。大輔の裁量にふたりは舌を巻くと同時に、逃げ惑うカマス村の住民を冷たく眺める様子に空恐ろしささえ覚えた。

 しかし、二人にも分かっていた。昔が失われた独狐又村を取り戻すためには、このぐらい冷徹に、そして徹底的に事を進めるしかないことを。誰も頼れない以上、正論だけでことが治まるわけもなく、目を瞑るべきは目を瞑って先に進むしかないのだ。

 轟々と燃えるカマス村の姿は、独狐又村再生への怒りでもある。今、下手な同情は自分を追い詰めるだけだ。あいつらがこれまでどのような悪どいことを村に強いて来たか忘れてはならない。今は目には目を、いや、火には火をしか考えるべきではない。


● 不法入国者の逮捕

 “カマス村”は激しい炎に包まれていた。かやぶき屋根を覆ったトタンが弾き飛ばされ、炎の勢いを増し、うねりを一際奮い立たせた。長い歴史の梁に火が燃え広がり、先祖の怨念のような唸りを上げ始めた。夜空一面に金の粉が舞い続け、最後に大黒柱が炭となって頽れた。始まり掛けた紅葉が火災の熱風で縮れながら発火し、ぱちぱちと音を立てて燃え広がり、奥の杉林に迫って行った。

 間もなくその杉が一本、また一本と倒れ始めた。燃えたからではない。人為的に山林への火の拡がりを食い止める作業も進んでいた。杉の葉の焦げる臭いがカマス村一帯に広がった。悪くはない臭いだ。この汚された集落を浄化する香りである。


 消防車が急行して来たのは日の出も落ち着いた頃だった。一帯が燻る中、消防団員らは、一隅に避難していたカマス村の住民らに叫んだ。

「水源の権利者は何処ですか!」

 しかし答える者はひとりもいなかった。団長らしき男がもう一度叫んだ。

「使用料が派生するようであれば消火活動はできません。水源の権利者はいますか!」

 すると、消火作業を始めない消防隊員らに一斉に抗議の声を挙げた。

「もう消えてるだろ!」

「駆け付けるのが遅過ぎる!」

「この村は差別されている!」

「放火犯を捕まえろ!」

「オレたちを見殺しにするつもりか!」

「損害を賠償しろ!」

「皆さん! 水源の権利者が現れたら教えてください!」

 消防団らはカマス村の住民らに罵られながら、鎮火した部分の片付け作業を黙々と始めた。

 間もなく県警の車が到着し、降りて来た警察官に住民が殺到して怒りを爆発させた。警察官らは被災者らの騒ぎをひと通り聞き終えると、徐に話し出した。

「我々の役割は現場検証ですので、皆さんのご要望全てには応えられません。仰りたい事はこれから来る入国管理局の方にご相談下さい」

 警察官のその言葉にカマス村の住民は一斉に黙った。“入国管理局”に対して敏感に反応し、我に返ったのだ。そもそも“カマス村”は不法入国者の集団である。身元を確認されては困る者たちばかりである。

 彼らに歓迎されないであろう大型バスが到着し、独狐又村の臨時出張役場が開設され、独狐又村役場と入国管理局の職員ら十数名の監視の下、火災から逃れた被災者たちの身分確認が開始されると更に青褪めた。案の定、次々に逮捕者が出た。身の危険を察知して逃走するものも続出したが、杉を伐採し終えて遠巻きに張り込んでいた鬼ノ子村のマタギ一族によって、ひとり残らず取り押さえられ、列に戻された。

「お役所はこうなるのを待っていたんだ。大義名分があれば文句はねえだろ」

 丘の上から一部始終を眺めていた鬼ノ子村の長老の貞八が大輔に微笑んだ。

「貞八さんの読みどおりになりましたね」

「お役所は、出来る限り厄介事に首は突っ込みたくはないが、手柄は立てたい。それが犬どもの習性だ。こっちはそういうやつらでも馬鹿正直に税金を払ってるんだ。うまく使わない手はない」

「次はいよいよジャドの拠点ですね」

「法務局は動きそうか?」

「辰巳さんがうちの役場の利助さんを連れて明日にでも法務局職員と一緒に山林調査をさせることになっています」

「山林調査に回される法務局職員は気の毒だ。貧乏くじを引かされるのは、どうせ右も左も分からない新米だろう」

 貞八は笑った。

「下手をすれば山中でジャドに出くわして襲われるかもしれませんからね」

「あのふたりに任せておけば大丈夫だ」

「こちらの動きを先に察知されたらまずいことになりますよね」

「県外には逃がせんが、独狐又村にも戻せん。とは言え、ジャドをあの連中のように入管に引き渡して母国に返す気はない。アジトを特定して一気に殲滅する」

「逮捕された不法入国者はどうなるんですかね?」

「腹立たしいが、強制送還で生き延びやがる。母国へ帰ったら英雄扱いだろ。本当は一人残らずここで息の根を止めたいところだが、お上にも少しばかりの駄賃をやらないとな」

 不法入国者らを収監した入国管理局のバスが火災現場から発車した。それを見送りながらふたりは仕方のない苦虫を噛んだ。

「貞八さん…本当に帰すんですか?」

「…ああ…これからやる事への保険だ。今度舞い戻って来たら二度と帰れない連中だ」

「ジャドは今頃どうしているんでしょうね」

「証拠隠滅と新しい拠点に移る準備だろうな。気を付けなければならないのは、この後の最後っ屁だ。やつは必ず報復に来る」

 ジャドの組織は日本全国に蔓延っている。従って当然、そのネットワークを駆使する筈である。独狐又村をこのまま逃亡することはない。長い年月を掛けて作り上げて来たカマス村を全滅させられたのだ。貞八は、ジャドが最低でも独狐又村をその手で地図上から消し去らなければならないと思っているに違いないと踏んでいた。

「ジャドの抹殺を急がないといけませんね」

「やつは必ずここに来る。まあ、英雄と辰巳のお手並みを待っててくれ。ジャドは熊よりはバカだ。やつらは全員、熊の犠牲になる。我々はジャド一味に一切手出しはしない」

「・・・?」

「独狐又村への進入口は一本。ここは廃止になったバスの終点。錆だらけで放置されたあのバスが村を救ってくれるんだ」

 大輔は貞八の言っている意味が分からなかった。

「あのバスはまだ動く」

「直したんですか!」

「おんぼろだからこそ役に立つんだ。侵入口に立ち塞がる花道を作ってやらねばな」

 貞八はゆっくりと大輔に振り向いた。大輔は貞八の言っていることをやっと理解して静かに頷いた。

「英雄と辰巳は、人の味を知った熊を仕留めて帰るだけだ」

 彼はジャド一味を熊に襲わせる気だ。そのためにどうするのか…罠である。ジャド一味に罠を仕掛けるのだ。そのために英雄と辰巳を送り込んだのだ。彼らはマタギ猟をするだけだ。たまたまその熊たちは、人肉の旨さを覚えて鬼ノ子村牧場で管理されている熊たちだ。その熊に最期の役に立ってもらおうというわけだ。

 貞八は根っからのマタギである。敵がジャドであろうと誰であろうと、マタギとしての手段を駆使するだろう。先人から伝承され続けたマタギ猟は極めて精度の高い手法であり、彼の標的にされた熊は絶対に逃げることは出来ない…大輔は、執拗な侵略者ジャドに対する貞八の決意の厳しさを改めて思い知った。人道を冒す者に対しては、人道を冒すしかその侵略を防ぐ術はないのだ。

 焼け跡からいくつかの遺体が運び出された。その中には子どもの遺体もある。大輔の良心は痛んだ。彼らにも家族があり、夢がある。そして独狐又村を土台にしなければ彼らの未来はない。出来ることなら不法滞在者の彼らとの共存の道を選ぶべきかもしれない。我々のやっていることは殺人である。殺人という行為が正当化されるはずはない。確かに貞八は先人とともに村を奪い返し、平和を手に入れてくれた。そのことが第三者の犠牲の上に成り立っていることは問題ではないのか…では、第三者とは何か…第三者は村の犠牲になった者たちである。平和解決しようとしたが祖父も叔父も、その犠牲を拒み続けた第三者である。

 しかし、大輔の迷いを一掃する現実が現れた。年月の経過した複数の遺骨が焼け爛れた火災現場の床下から発見された。後日確認されたことであるが、全て背乗りの被害を受けて行方不明になった独狐又村住民の骨であった。


 村が生き延びるには、暴力的に侵入して来た戸籍に存在しない第三者を犠牲にする方法しかない。今は緊急事態である。今、村は緊急事態を早急に回避する選択しかない。自分が納得したいがために祖父も叔父も内外関係なく一名の犠牲者も出さないよう悩み続けたのだ。そして、その納得志向がどんどん村人の犠牲者を増やしていった。その現実が焼け跡の床下の遺骨として現れた。人道に迷う堂々巡りの葛藤を、大輔の脳裏から消し去った。


 多数の不法入国者を乗せた入管のバスは見えなくなった。彼らの殆どが工作員である。生き残った子どもたちも何れそうなるだろう。軍事訓練を受け、エリートとなって日本に現れる。

 バスは警察車両を一台先導させていた。しかし貞八は油断していなかった。入管バスの後方には二台の四輪駆動車が随行していた。車の二台には檻が設置され、それぞれ一頭づつ熊を乗せていた。この熊たちも鬼ノ子村牧場で管理されている熊たちだ。つまり、不法入国者が脱出を企てた場合、それは死を意味していた。


 すっかり焼失した火災現場では検証を待って既に新規工事のための準備が始まっていた。入管のバスと入れ違いにブルドーザや建設資材を詰め込んだトレーラーが入って来ていた。降雪を前に突貫工事でここに雪と老人対策の集合住宅が建つ。全国発信を目的とした“みちの駅”や医療機関を隣接させる予定でもある。

 資金の殆どは貞八の計らいで鬼ノ子村が出資することになった。鬼ノ子村は火葬船の収益で村が息を吹き返し潤って以来、隣接する集落への助力も惜しまなかった。独狐又村はここを基点に息を吹き返すのだ。焼け跡を見つめる大輔の目には独狐又村の将来像が見え始めてきた。

 真っ先に火災現場の入口に木碑を建てた。そこには“この地に勇気を与えた人々の碑”と刻まれていた。工事が始まると、人々は必ずこの木碑に合掌して出入りをするようになっていた。


● 山林調査

 あの、カマス村大炎上の翌日のこと、独狐又村役場職員の上杉利助と秋田地方法務局職員の高橋良治は、山林調査でジャドの拠点探査を主目的に山林に入った。

 ひんやりとした山中の林道は、陽の当たる場所から紅葉が始まっていた。久し振りに山に登った法務局職員の高橋は、景色の良さに上機嫌なひとときを過ごしていた。今の時期はきのこなどの山菜取り以外はめったに山に入る人はいない。その上、冬場を前に獣たちが競って食料を漁っているため、彼らと出くわす可能性が高い時期である。山をよく知っている地元の人間以外は避けたほうが良い時期である。

 伸び放題の雑木と藪、枯れて倒れた古木や所々崩れて露出している土肌が年月の沈黙を物語っていた。かつて林業が栄えていた頃は、開墾されたばかりの道にバラスと呼ばれる真新しい砕石が敷かれ、伐採された材木をトラックで運べるように奥へ奥へと林道が伸びて行った。その後、場所によってはレールが敷かれ、森林鉄道が大きな役割を果たすようになった。営林署員が活躍し、山がきめ細かく手入れされていた時代もあった。しかし、1999年(平成11年)に林野庁の組織再編に伴って営林署が廃止されてから、林道は草木が覆い、知る人ぞ知る現在のような獣道状態になってしまった。

 若い法務局職員の高橋にとっては、林道の成れの果てが自然のままと思えて新鮮に見えたのだろう。

「家族にも見せたい風景だな。空気も綺麗だし、もう少し行ったら美味しい水もあるんじゃないですか?」

「この時期の山は自然の恵みが豊富ですからね」

 利助は“だから、獣たちは冬を目に食料を漁るために出歩いていますよ”と続けたかったが言葉を飲んで愛想笑いをした。その時、辰巳は表情一つ変えずに足を止め、林道から逸れて藪に入った。高橋は怪訝な顔をした。

「然さん、どうかしましたか?」

「ここから入る」

「ここからって…」

「これは獣道だが、人が通った形跡がある」

 高橋には普通の藪にしか見えなかったが、目を凝らすとやっと辰巳の言っていることが分かり、繁みの空洞に気が付いた。

「でもこれ、道じゃありませんよね」

 辰巳は余りのバカな質問に一瞬ムッとしたが、堪えて平静を装った。法務局の職員を丁重に帰すのは、貞八から下された辰巳の使命だった。

「獣にとっては道だよ」

「ジャドの拠点が林道沿いにあると思いますか?」

 辰巳の気持ちを察してか、利助が冗談ぽく諭した。

「どうします? 高橋さんはここで待ってますか?」

「確かにジャドの拠点を探すには…すぐに見つかるような林道沿いには居るわけないですよね。で…この獣道は通ったことあります?」

「ないね。最近できたようだ。人が入った形跡も僅かにあるだけだ」

「すると、ジャドの拠点はこの先に!」

「それは行って見ないと分からん…どうします?」

「い、行きましょう」

「上着を着たほうが良いですよ」

「え?」

「蛇は体温に反応しますから」

「蛇がいるんですか?」

「山ですからね。蛇やヒルや蜂や…」

「上着を着ます」

 高橋のピクニック気分は現実に引き戻された。シャツの襟を撒いてルンルン気分だった高橋は一気に警戒モードになった。

「二番手と殿のどっちにします?」

「順番には意味とかあるんですか?」

「2番手は襲われ易いとか、殿は襲われても分からないとか…ま、その程度の事ですけどね」

 高橋は暫く考えていたが2番手になって辰巳の後に続くしかなかった。山の風景は急に深く薄暗くなり、奥に進むに連れて更に道なき道となって足が藪に絡まって難渋しながら進んで行った。

「高橋さん、あまり近いとお互い歩き難くはないかね。もう少し離れようや」

 高橋は“2番手は襲われ易い”という利助の言葉を真に受けて、必死に辰巳にしがみ付かんばかりで進んでいた。辰巳に言われ体裁悪そうに頷き、仕方なくその言葉に従うしかなかっ。

 こうした獣道は登山者が登坂路と間違えやすいが、獣が休息や餌場を目指して日常的に移動して出来た通路である。辰巳は素知らぬ態で罠を仕掛ける場所の選定をしていた。獣用ではなくジャド一族用の罠である。進むうち異様な臭いがしてきた。当然、獣道は排泄の経路でもあるので、その動物の餌によって独特の臭いがする。

「この臭い…何ですかね」

「獣の糞の臭いだ。踏んだんじゃねえか?」

 上杉の答にギョッとした高橋は急に無口になった。暫く歩いてから、恐る恐る聞いた。

「あの…熊とか出ないですかね?」

「あんたを喰いたきゃ出て来るかもね」

「え…何か武器とか持ってますか?」

「武器はないよ。強いて言えばナガサかな」

 同行していた上杉が笑いながら助け舟を出した。

「怖がることはありませんよ。おそらく連中も普段からウロウロしてるでしょうから熊は警戒して出ないでしょ」

 “腹が空き切ってなければな”と言いたかったが、その言葉は飲んだ。獣の糞の臭いがプンプンする中で、辰巳と利助は既に彼ら異国人の臭いも嗅ぎ付け、拠点の凡その検討が付いていた。しかし、高橋にその場所を知らせるわけにはいかない。拠点を遠巻きにして2時間ほど歩いたろうか…法務局職員の高橋がやっと音を上げ出した。

「アジトは見つかるんですかね。もう逃げたんじゃありませんかね」

 辰巳らはその言葉を待っていた。

「もっと早く見付けられると思ったんだがな」

「山の日暮れは早いですからもうすぐ獣が動き出しますね」

「熊は出ないんですよね」

「飯時ともなれば別だな。喰い物が無けりゃ人を喰うしかねえだろ」

「飯時ですか?」

「そろそろな。知ってるかい、動物園は飯時前に閉まるってことを?」

「いえ…何故です?」

「空腹で気が荒くなるんだよ。お客はやつらの狂暴な姿は見たくないだろ」

 辰巳の言葉に高橋は竦んだ。

「引き上げたほうがいいんじゃありませんか?」

「しかし、高橋さんに手柄を立てさせてやりたいと思って粘ってるんですがね」

「いや、手柄より安全を選びましょうよ。もうすぐ見つかりそうなら別ですが…」

「すぐには見つかりそうにはねえな」

「でしたら、そろそろ引き上げたほうが…」

「そうですか…高橋さんがそう仰るなら仕方ありませんが…」

「引き上げましょう!」

 調査は打ち切られた。獣道は高橋が先頭になって急いだ。やっと林道に出てホッとしたような高橋に、辰巳は駄目押しをした。

「人を喰ったことのある熊っていうのは、人間の通り易い林道で待ち受けていることがあるんだ」

「そうなんですか! じゃ、車まで急がないと!」

「そうですね」

 先を急ぐ高橋の後ろ姿を見ながら、辰巳と上杉は必死になって笑いを堪えながら後を追った。遠くに車が見えて来た。高橋は小走りになった。

「高橋さん、走ったら熊に狙われますよ!」

 利助が叫んだ。高橋は急に小走りをやめて、たどたどしい歩きになった。辰巳と利助は込み上げる笑いを堪えた。そして高橋は車に辿り着くと窓を閉めたまま運転席から叫んだ。

「私はここで失礼します!」

 辰巳と利助はわざと聞こえないふりをしながら聞き返す仕草で応えた。高橋は手真似で先に帰ることを告げていた。利助は高橋が可哀そうだと思い、手を振って応えた。高橋はエンジンを掛けるなり、砂利を弾かせて去って行った。その様を見送りながら、ふたりは堪えていた笑いが爆発した。

「山を知らないやつが来てくれて助かったな」

「我々も帰りますか」

「オレはこれから罠を仕掛けてくる」

「辰巳さん、そろそろ獣の餌時ですよ」

「だからだよ。何、オレは大丈夫だ」

「じゃ、私も行きます」

「いや、ひとりのほうがいい。先に帰ってくれ」

「帰りの車は?」

「もうすぐ英雄さんが迎えに来る」

「そうですか…では自分は英雄さんが来るまでここに居ます」

「そうかい、好きにしな」

 辰巳は軽トラに積んである罠の材料を持って山に入って行った。いつから鳴き始めたのか、どこかでまたクマゲラの鳴き声がする。上杉は大きく一呼吸した。

 窓を叩く音がする。見ると辰巳が覗いて笑っていた。英雄も一緒に居る。いつの間にか上杉は眠ってしまっていた。

「もう終わったんですか?」

「ああ、おまえさんがいないから早く終わったよ」

 三人は笑って別れた。


 運転する英雄が真顔になった。

「辰つぁんよ、龍三から連絡が入った」

「来たか」

「ああ、貞八さんの予想どおり、ジャドの支部連が動き出したようだ」

「しつこい連中だ」

「来たら帰さねえよ」

「だな」

 英雄と辰巳は不敵に笑った。


● ジャドのアジト

 日本政府は1997年に出入国管理法を改正して「集団密航罪」を新たに設けるなど取り締まりを強化している。しかし、密航者は増加の一途を辿ったままだ。それは密入国が確認されていないケースが確実に存在するということだ。そして密入国を成功させた者の受け入れ態勢も存在するという事だ。

 秋田県では過去に男鹿脇本事件や日本海岸への度重なる木造船漂着が記録されている。しかし、生死を含めてその存在が確認された者以外の追跡が行われた経緯は明確にされていない。追跡したのか、しなかったのか…追跡したとすれば、その密航者はどこへ消えたのか、あるいはどこで消えたのか…そして彼らに好都合なのは、日本国内では高齢化した限界集落が増加していることであり、その結果、老人をターゲットにした“背乗り”が横行している現状がある。


 1981年夏の夜、男鹿の海岸で警戒中の県警がゴムボートの不審者3名を確保した。しかし、2名がそのゴムボートで逃走したため、逮捕したのは残された1名となった、。その後、この2名の消息は明確にされていない。逮捕された1名は母国で団体職員として勤務していた後、工作員となって間もなかった。3人は母国でスパイとしての専門教育を受けた後、日本に密入国しようとしたところを発見されたのだ。

 2018年秋、秋田沖へのミサイル実験の緊張が走る中、八峰町などの日本海岸に続々と木造船が漂着した。そしてそれは今も続いており、日常茶飯事であるがためにニュース性はない。マスコミが記事にしない時点でその事実は殆どが闇から闇に葬られている。

 それらの殆どが無人の状態で発見されたため上陸の形跡はないと見られたが、鬼ノ子村の重鎮たちはそうは見ていなかった。過去にそうであったように、ジャドのような受け入れ組織があれば、漂着現場に受け入れ要員が待機しており、速やかに過疎地に潜り込んで年寄り一家を殺害してその家の住民に入れ替わり、各地で“カマス村”のような居住区を形成するに違いないと睨んで警戒していた。


 今般、独狐又村での事態は各地で起こるべくして起こったことであり、この地帯の集落も狙われ続けていたことの証である。鬼ノ子村は今回に限って運良く難を免れただけで、このまま放置したら独鈷又村の二の舞になる可能性だってあったかもしれない。ただ、過去に村を奪い返した事実がカマス一族を遠ざけている可能性もある。しかし、隣村を狙ったという事は、カマス一族は鬼ノ子村へのリベンジを図っていたのかもしれない。貞八はそこを警戒していた。他人事ではなく、危機は直ぐそこに迫っているのである。


 過去に追い詰めて判明したことは、マタギ一族の裏でジャドが組織的に動いていたことだ。事態の深刻性を重視した貞八は、孫の龍三を情報収集役として東京から呼び寄せた。折りよく龍三は、小説家の子之神竜一家の東京からの移住に合わせて帰郷することになっていたため事は早く進み、幼馴染の松橋英雄と然辰巳の四人を軸にカマス集落を仕切っていたジャドのアジトを探る段取りを進めた。

 アジト探索に早くも凡その目途が付き、彼らの動きをジャド一味に感付かれるのを警戒し、小説家・子之神竜の長女・かごめと、英雄が引き取った虎鈴に引き継がせることになった。

 虎鈴は英雄の戸籍上の孫であり、かごめは東京からの移住小説家・子之神竜の娘である。二人ともキュートな容姿とは裏腹に、身体能力は狂気に満ちていた。悪人に対しては柳下と同類の危険な存在だったがゆえに、緩い常識社会で日常を送るには弊害があった。かごめには雷斗という弟がいたが、彼の正義の狂気ぶりも姉譲りだった。子之神一家はそうした事情もあって鬼ノ子村に移住してきたきらいもある。幸いかな独狐又村の非常時には持って来いの存在であり、竜と英雄の指示を至って興味を示しつつ当然のように引き継ぎ動き出した。

 二人は敢えて放課後に昆虫採集の地元民を装って刈入れ前の棚田の周辺の山林を探り始めた。何度か通ううち、山中でカマスの一族らに遭遇するようになったが、同じ時間に来る昆虫採集を装った子ども二人に対して、ジャド一味は次第に警戒を解くようになっていた。4~5日するとひとりの若者が近付いて来た。

「こんな山奥で何してるの?」

 捏ねれていない日本語だったが、ふたりは違和感を微塵も出さなかった。

「見れば分かるでしょ、狙った獲物が中々採れないわ」

 虎鈴は敢えて機嫌悪く応対した。仕方無げに昆虫採集の手を止め若者に向き直った。

「冷やかしならあっちに行ってよ」

「違いよ」

「じゃ何よ。ひとりで山歩き?」

「…家が近いから」

「あ、そう。じゃ、さようなら」

 虎鈴たちは敢えて深く詮索せず、若者には無関心を装って昆虫採集の作業に戻った。

「…虫篭」

「ええ、まだ空っぽ…なんか文句ある?」

「授業で使うんだけど中々気に入ったのが居ないの。気が散るからもう話し掛けないで」

「そう…じゃ、頑張って」

 若者は繁みに消えた。若者の気配が消える頃、ふたりは顔を見合わせた。

「喰い付いたわね」

「うん、釣れた」

「日本人じゃないよね」

「だね」

「今日は引き上げるか」

 英雄らが探って目安を付けたジャドのアジトがあろう一帯を、遠巻きに移動しながら昆虫採集の態を装ってついに中心部に辿り着いた。若者がふたりの前に現れるのが頻繁になったことで、本拠地がすぐ近くにあろうことを掴んだ。若者は珍しい昆虫の情報も提供するようになり、途中から昆虫採集を手伝うほどに親しくなっていた。

「どこに住んでるの?」

 かごめが切り出した一言に若者の表情が急に強張った。やはり、まだ警戒しているのであろうか…若者自身、自分と彼女らとの距離の現実に強引に引き戻された様子だった。そもそも彼女らに声を掛けてはいけなかった。既に彼女らとは何度も会っている。この山林に住んでいなければ何度も会うことが不自然になってしまうが、かと言って火災で焼失したカマス村に住んでいたなどとは口が裂けても言えるわけがなかった。そこで苦しい嘘を吐いてしまった。

「いつも狩りに付いて来てるんだ」

 若者はそう答えた。

「狩り? でもまだ猟は解禁になってないよ」

「そうなの?」

 苦し紛れの返答に、若者の表情は明らかに後悔のムードを漂わせた。

「確か毎年11月15日から翌年の2月15日までのはずよ」

「…そうなんだ」

「安心して、通報はしないから。おまわりは嫌いだし」

「ありがと…じゃ、早く父に言わないと」

 そういうと、四郎は慌てて山中に消えて行った。その行方をじっと追っていたかごめと虎鈴は顔を見合わせた。

「ちょっとまずかったかな」

「今日はここまでにしとこうか」

「だね」

 深追いはしなかった。数日後、また若者が現れた。若者にとっては重要な情報提供だった。

「罠があるから気を付けて」

「罠? 罠を仕掛けたの?」

「ボクじゃないよ。誰か…多分、どっかの猟師が…」

「怖い~、掛かったらどうしよう」

 かごめと虎鈴は辰巳の仕掛けた罠であるということは分かっていた。しかし、罠がどういう経緯で発見されたか気になった。その理由が若者の口から出てくれた。

「掛かったんだ…親戚が…」

「普通、動物が掛かるもんでしょ?」

「気が付かなかったらしい」

「その親戚の人も猟師でしょ?」

 若者は再び失言だったことに言葉が止まった。

「それでどうしたの、親戚の人? 助かったんでしょ?」

「別の獣に喰い千切られて…」

 若者は急に覇気を失った。

「…帰らないと」

「あたしたちも帰ったほうが良さそうね」

「…気を付けて」

 名残惜しげに帰ろうとする若者に虎鈴が思い切って問い掛けた。

「あなたの名前は? 名前知らないと喋り難い。あたし、虎鈴」

「あたしは、かごめ」

 若者は渋々答えた。

「シ…四郎」

「獅子郎?」

「ただの四郎」

「苗字は只野っていうのね?」

「いや…あ、そう」

 そう言って、若者は繁みに入って行った。

「獅四郎だって」

「四郎だよ」

「只野四郎って」

「だから…ただのは苗字じゃないよ」

「ああ、ただの単なる四郎ね」

 “四郎”…ジャドの息子・シフォンはとっさに名乗った結果、“只野四郎”ということになった。まさか、ジャド・シフォンとは名乗れない。

「あたしたちも帰ろうよ、虎鈴!」

 かごめはわざと大きな声で話した。そのわけは虎鈴も察した。ふたりは四郎とは逆の下山道を歩き出した。監視の気配が消えた頃…

「あいつ、ジャドの連中だよね」

「藪の中から伺ってたよ」

「あたしたち、やばかったかな」

 かごめがいたずらっぽく笑った。

「というわけで、今日はこれから尾行開始」

「了解」

 ジャドの配下の気配がないことを確認して、ふたりは尾行を中止して帰った監視役と若者の後を追った。途中、辰巳の罠がいくつか作動した形跡があった。罠の境界を越えて内部に進むと人の気配がしてきた。小屋を背にジャドの配下がいる。ついに敵のアジトを発見した。周囲一面、大麻が栽培されていた。

「チャイナホワイトか」

「チャイナホワイト?」

「覚醒剤よ。ここで精製する設備があるのか、どこかへ輸送するルートがあるのか…抜け目ないやつらね」

 向こうも何か気配を感じたらしい。かごめと虎鈴は深く静かな呼吸で重い静寂をやり過ごした。長い緊張の空気が過ぎ、ジャドの配下が小屋の中に入って行ったので、ふたりは慎重にその場を離れた。

「やばかった」

 見ると虎鈴が手首を撒かれた状態でヤマカガシの首を捕まえていた。

「アジトの前に潜んでる最中にあたしの腿を這って来やがってさ」

「蛇にナンパされたわけね」

「タイミング悪いよ」

 ヤマカガシでの死亡例は少ないが、噛まれて毒が体内に入った場合は数時間から1日後に歯ぐきや傷口からの出血が続く。激しい頭痛を伴うこともあり、急性腎不全や脳内出血を引き起こして死に至る場合もある毒蛇だ。しかし、山に親しんでいる虎鈴はヤマカガシが比較的おとなしい蛇であることも知っている。林道に出た虎鈴はヤマカガシを無造作に藪に解放した。かごめはそんな虎鈴を見て笑いながら虫篭から昆虫を放った。


 翌日、かごめと虎鈴は昨日若者と別れた地点を行ったり来たりしながら昆虫採集の態を装っていた。迷ったわけではなかった。繁みの中からジャドの配下に執拗に付けられていたからだ。ふたりは仕方なく必死に昆虫を探す態でさ迷ったふりをせざるを得なかったのだ。そこに近くの藪の中からかごめの弟の雷斗と秋林凛太郎が現れた。

「雷斗!」

「ボク、手伝うの飽きたよ。珍しい昆虫なんかもういないよ」

 地獄に仏である。秋林もわざとらしく応えた。

「そうだな。最近この辺、熊が出るしね」

「例の人喰い熊ね」

「新しいマーキングの臭いがするから、きっと近くにいるよ。ボク、早く帰りたいよ」

「今日は帰るか。急ぎたいけど、熊って走ったら追って来るからこのままの速度で歩くしかないよね」

「大丈夫だよ。熊が襲うのはひとりの場合が多いから」

 ジャドの配下が慌てた。暫くかごめたちを付けていたが、引返した気配を感じて雷斗がニヤけた。

「あのおやじ、大麻常用者だね」

「なんで?」

「独特の甘っぽい臭いがしたんだよ」

「あんたの弟、ケモノなみね」

 かごめは思い出した。やつらのアジトである小屋の周囲一面に大麻が栽培されていたことを。

「自分でラリってりゃ世話ないわね。ずっと隠れてたの、雷斗?」

「敵に接触するなんて危険なことしてるから危なっかしくてね」

「確かに危なかった」

「いい所で出て来てくれたわよ」

「こいつは無駄に理科が好きで異常に臭覚が発達しているただのオタクよ」

「雷斗くん、一番好きなのは何?」

「爆弾作ることだよ」

「なんか、あんたの弟らしいね」

「雷斗くんは天才だよ。ボクが20代で学んだことを全てマスターしてるんだ」

「凜太郎兄ちゃんだって、ボクの知りたい事たくさん知ってるんだよ」

「“兄ちゃん”だって…調子いいよ、雷斗」

 雷斗が珍しく照れ笑いをした。

「どうしようか」

「アジトは近いよね」

「お姉ちゃん、今日はやめといたほうがいいんじゃない? もうアジトは発見したんだろ。深追いしなくたってきっと大麻を栽培してるから、見失ってもアジトは大麻の臭いのする場所を目標にすれば分かると思うよ」

「その時は頼む」

「了解」

「じゃ、君たちは戻っていいよ。私と雷斗くんはもう一仕事して来る」

 秋林と雷斗は既に爆薬を仕掛ける場所を凡そ決めていた。

「帰れるわけないでしょ。やつら、結構鼻が利くよ。一緒に居れば万が一のピンチの時には役に立つよ」

 結局4人は一緒に爆薬を仕掛けに戻った。凜太郎は藪の中に隠しておいた30本ほどの竹筒を運び出し、辰巳の罠から更にアジトに近い包囲網を構築し、受信機付の爆薬の入った竹筒を地中深くに刺していった。


● ジャドの逆襲

「虎鈴とかごめがやつらのアジトを突き止めた。凜太郎さんと雷斗くんが居て百人力だな、特性の爆弾も仕掛け終えた」

 大輔は龍三の言葉を聞いて深く息をした。これから独狐又村を守るために人の道に外れた非常手段を取ることになる。

「大輔さん、迷いはないか?」

「龍三さん、ありがとうございます。全て計画どおりにやります」

「…分かった。祖父に伝えます」


 数日後の未明、降雪間近の冷たい雨が降りしきる寒い天候となった。計画ははこの日を待っていた。想定外の無用な山林火災の拡大を避けたかった。

 夜明け前、独鈷又村の山が唸りを挙げた。その地響きは村全域に届いた。何かが崩れるような音に村人たちは寝床を抜けて外に飛び出した。夜空が一瞬赤く染まり、稜線のシルエットのひとつが沈んで行った。寝起きの現実離れした光景に独狐又村民は皆目を疑った。しかし大輔は冷酷で挑戦的だった。そう、ジャドがこのまま終わるわけがない。きっとこの後、何か仕掛けてくる。貞八からもそのことは重ねて忠告されていた。独狐又村の夜はいつもの静けさを取り戻しゆっくりと明けて行った。

 大輔は一睡もせずに役場に詰めていた。利助を皮切りに早朝からひとりふたりと役場の職員が集まって来た。彼らは無言で自分の席に着いた。そしてその日の午後、読みどおり、国道105号をタンクローリーが連なって独狐又村に向かっているという情報が龍三から大輔の耳に入って来た。役場は急に活気を帯び瞬く間に臨戦態勢に入った。

 ジャドの組織は日本全国に蔓延っている。今や世界的な密入国組織のジャドは、元々日本でその脅威を拡大して行ったのだ。それだけ日本は当時からテロに対しての危機管理が脆弱であったともいえる。

 人口問題や飢えで苦しむ国の者たちは移民こそ天国へ繋がる道でもある。しかし、殆どの者は他国への移民による国籍取得は難しい。そうした中、危機意識の甘い日本は絶好の密入国のターゲットとなった。組織拡大のノウハウはそうした日本で育まれ、その違法な活動は莫大な利益を生み、海外にまで進出するに至った。

 彼らが結集すれば、独狐又村のようなたかが片田舎の集落を侵略するなど容易いことである。しかし、今般、リーダーが居ながら組織の沽券に関わる事態が起こってしまった。この恥ずべき情報が組織内に拡散される前に何としても解決しなければならない。そのため、事は秘密裏に進めるしかなかった。当然、活動の規模は制限され、ジャドにとっても歯痒いところではあったが、報復のタンクローリーが10台、精鋭部隊を便乗させて105号を爆走していた。

 地形を見ると村に侵入出来るルートは一本しかない。天候は寒雨から雪に変わっていた。初秋の初雪である。寒さ厳しい独狐又村の入口は次第に雪に覆われて、根雪になるかと思えるほどに一面真っ白に様変わりしていった。これからここがかつてない修羅場と化すなどとは想像も出来ない美しく静かな雪景色である。冬囲いをした橋向こうの独狐又村神社はひっそりと佇み、重さにしなった銀杏の枝がたまに雪を落としていた。

 突然、神社の屋根から勢い薄い雪の面が滑り落ちた。橋の欄干が小刻みに揺れ出したかと思うと雪を散らし始めた。遠くに独狐又村に向かって爆走するタンクローリーの列が現れた。鬼ノ子村マタギ一族のブッパ要員20名が一斉に銃を構えて待機した。“ブッパ”とはマタギ猟に於ける鉄砲打ちのことである。そしてついに先頭のタンクローリーが至近距離に入った。

 橋の袂の停留所に朽ちていたバスのエンジンが唸り出した。廃線になるまでそのバスの運転手をしていた笠井郡司がゆっくりとバスを進めて、村への進路を塞いだ。それを機に樵職人の津谷重吉がチェンソーのエンジン音を鳴り響かせると、あっと言う間に村の入口に長年聳えていた大木がバスの隣にずっしりと倒れて更に村への道路を塞いだ。先頭のタングローリーが排気ブレーキ音を上げて停まった。

 暫く膠着状態が続いたが、ジャドの精鋭部隊が痺れを切らし、ひとりまたひとりと警戒しながら降りて来た。突然、独狐又村の空に銃声が響いた。降り立った配下は次々と頭を打ち抜かれ、白い地面を赤く染めて息絶えていった。一台目のタンクローリーが大爆発を起こすや、芋づる式に後続車へと火が移る大惨事が始まった。氷雨の中、タンクろーりーのガソリンに引火し、爆破が爆破を呼び、次々と狂ったような炎の渦を上げて空を汚して行った。

 今はたまに老人しか小休止することもなくなったバス停に二つの影があった。秋林凛太郎と子之神雷斗である。炎に染まったその顔は満足に満ちていた。

 タンクローリーの後続車から逃げ出すジャドの配下も次々と撃ち抜かれて倒れていった。死体は雪解けの寒雨に流れる血の路上をズルズルと引き摺られ、次々とトラックの荷台に投げ入れられた。丁度、カマス一味が女子どもにしたように、残虐な扱いを受けて雨まじりの初雪に打たれていた。

「これで全部だ。県警が来る前に火葬船で処理するぞ」

 英雄の指揮で一同は鬼ノ子村に向かった。

「終わったな」

 龍三は子之神竜と車の中でその一部始終を眺めていた。

「竜さん、あんたのシナリオどおりだね」

「こっちの展開だったか…売れないシナリオだね、これは」

「歴史には残ってるぞ、桶狭間」

「“千の力で万の敵を撃つ最善の策は、狭い谷間で戦うこと”ってやつね。古代支那の兵法書である呉子の盗作には抵抗があったんだけどな」

「ま、背に腹は代えられんからね、生き残るためには」

「これは歴史に残せない桶狭間だね」

 龍三は無表情で答えた。如何に命を守らねばならなくとも、報復は後味のいいものではない。愚かな強者に対抗せざるを得ない時は、いつも神経が空しさで磨り減る。しかし、やつらは蛆のように湧いてくる。他人が幸せに暮らすことにやつらはどこまで残虐になれるのか、そして残虐には更に残虐に立ち向かわなけらば防げない己の無能さに腹立たしかった。

「さて、消えるか。そろそろ面倒な方々が到着する」

 龍三らは県警と出会うであろう国道を避けて十二段峠を抜け、旧道と集落の狭い道を縫って鬼ノ子村に入った。羽立の橋を渡ると見えて来た鬼ノ子村の二機の火葬船から黒煙が上がり始めていた。

「やっぱり黒いな」

「火葬の煙突からは普通、白い煙がたなびくんじゃないのか?」

「あの火葬船で焼かれると、悪人だけが黒い煙を出して燃えるんだよ。大人院から送られて来る大人の火葬も全部黒い煙が出る。白いのは子どもの遺体だけだ」

 しばらく無言だった竜がポツンと呟いた。

「オレも黒いかもな」

 龍三は竜の真剣な表情に噴き出した。竜も苦笑いで応えた。


● AIと大人院

 入国管理法第62条第1項には「何人も、第24条各号(退去強制事由)の1に該当すると思料する外国人を知つたときは、その旨を通報することができる」とあり、同条第5項で「書面又は口頭をもつて、所轄の入国審査官又は入国警備官に対してしなければならない」と定めている。

 しかし、独狐又村は鬼ノ子村のマタギ一族の助けと、独狐又村出身者である柳下の計算外の働きに追い風を得ながら、入国管理法を眼中に入れることなくジャド一族との攻防を続けて10年の歳月が流れた。


 独狐又村のような少子高齢化の波間にある土地は、いつの間にか高齢者が消えて見知らぬ人物が入れ替わっている背乗りのケースが急増している。それは日本の限界集落が抱えている共通の問題であるにも拘らず、政府はその実態を黙認している。集落民もその一帯は危険区域と把握しているが誰も声を挙げようとはしない。何故ならば、その事を表立って口にして指摘しようものなら必ずと言っていいほど不慮の事故で命を落とすことになるからだ。

 独狐又村も占領された地域は“カマス村”と俗称され、長年他集落と同じように声を挙げずに“危険区域”には近付かなくなって久しかった。

 しかし、大輔の帰郷から事態は大きく進展した。他集落同様、独狐又村の夜は早い。更に日中でも人口減に因る異常事態に対する住民の目は届き難い。犯罪者側から見れば恰好の餌場である。そこに突然24時間体制のAIロボットが入ったのだ。しかも見つかれば“死”が待っている。まさか“おそうじ小僧”が殺意の監視をしているとは思わない。独狐又村は犯罪者にとって一転危険な場になったのである。AIロボット“おそうじ小僧”の登場でカマス一族のみならず不届きな連中の闊歩は確実に鈍っていった。


 独狐又村は山林調査の名のもとにジャド一族を追い詰め、秋林と雷斗の仕掛けた爆薬で激しく轟きながらジャドの本拠地は沈んだ。しかし、鬼ノ子村の長老・貞八の助言もあり、大輔は油断しなかった。恐らく、ジャド一族の組織的な報復があると読み、迎え撃つ準備をした。このまま放っておけば地下に潜り、活動も巧妙になるはずだ。ジャドの活動が地下に潜る前に叩き潰さなければならない。手を打つなら今しかなかった。そして、鬼ノ子村のマタギ一族の協力を得て、作戦は見事に成功した。


 大輔が村長になって10年。現在、独狐又村は少子から脱して子どもが増えた。村運営の方向転換で全国から若者が集まって来るようになった。子どもが増えると同時に、彼らの役割が村の重要な位置を占めるようになった。子どもの純粋理論が悪質な大人を裁いた。

 その後もカマスの工作員の侵入はあったし、村民の中にもあらぬ輩はいた。しかし、その度に“おそうじ小僧”が活躍して村の安全が維持されてきていた。独狐又村はAIが24時間自動的に犯罪を未然に防ぎ、その処理を行った。そうした大輔の思い切った村営に全国の若者が賛同し、人口が増加している。それは隣村の鬼ノ子村の火葬船事業に関わる終活産業の繁栄が多大の好影響を与えていることも否めない。


 今日も“おそうじ小僧”が見ていた。下校時になると、子どもたちが一人また一人と家に帰り、最後の一人が家路を急いでいた。その女の子の後を付ける男が現れ、人気の少なくなった細道に入った。男の足が女の子に急接近して行った。その時、AIロボットの箒から飛んだ針が男の背中に刺さり、足が縺れて倒れ込み、虚ろな目になって意識を失った。振り向いた女の子はニヤリと微笑んだ。この女の子は囮だった。不審な行動を通報された人物を誘い、おそうじ小僧に仕留めさせた。独狐又村では子どもの役割が多岐に渡っていた。

 その様子を、斜面に寝そべってぼんやり眺めている男がいた。柳下である。女の子と目が合って、顔馴染になったふたりは互いに微笑んだ。大輔は独狐又村出身の柳下を村の子どもたちの用心棒に雇っていた。

 確保された男が朦朧ながら意識を取り戻すと、椅子に座らせられていた。

「判決を言い渡します」

 裁判員席には5人の子どもたちが覆面姿で神妙且つ冷たい視線を男に向けていた。そして裁判官役の一人が判決を言い渡した。

「大人院送致!」

 大人院とは、独狐又村が独自に制定した法であるところの、大人法3条に所定の『犯罪大人、触法大人、虞犯大人で、小人裁判所の審判によって保護処分の決定を受けた者、及び 16歳以上で刑の執行を受ける者』を収容する施設である。


 犯行現場で検挙仕様のAIロボットに逮捕された大人たちが大人院内の一角に列を成していた。彼らは子どもへの強制わいせつ犯、声かけ、つきまとい、監禁、略取、誘拐などの性犯罪者たちである。

 「大人院送致」を言い渡された者は、強制的に性犯罪者GPS監視チップが埋め込まれ、悪質な強制猥褻犯に対しては「性器切除」が施される。更に幼児虐待犯に対しては過酷な強制労働が待っていた。

 収容された大人は男女問わず、教科再教育、職業補導、生活再訓育、医療などによる矯正教育は一切行わないと同時に、院からの釈放もない。要するに、独狐又村では更生は望まないスタンスを執った。臨死まで能力に準じた最低限の生活が与えられ、病人はそのまま臨床検体が義務付けられた。収容者の自殺も増えていた。また、度々おこる収容者の反乱は鎮まるまで放置した。死者の山が築かれた。それら全て、収容密度には好都合だった。反乱で荒れた施設は生き残った者たちに片付けさせた。その結果、大人院収容所内は無気力化した秩序が常態化していった。


 猥褻未遂犯が裁かれて、次の収容者が法廷に入った。過去に係争中だった幼児虐待の菅原寛・千絵夫婦と児童相談所の裁定員の裁定である。彼らには「一旦『父親とは一定期間、会わせないようにするべき』としたにも関わらず、短期間で『虐待の再発は認められない』として両親に引き渡した結果、子どもは更に親の虐待で命を落とした。子どもを虐待した父親と児童相談所裁定員に対しては永世強制労働を申し付ける。黙認した母親は服役囚専門の奉仕館に配置とする。」という裁定が下された。

 子どもを虐待した父親と児童相談所の裁定員は、黒いマイクロバスに乗せられ労働現場へ向かった。労働現場とは今は主に『独狐又村立砦』の建築のための肉体労働である。彼らには更生への道は永久に与えられない。命尽きるまで独狐又村で労働奉仕をしなければならない。それが“永世強制労働”という裁定である。

 一方、母親の千絵は大人院の一角にある奉仕館に配置された。

「667番、部屋に入ってください」

 ドアの前に立った千絵は躊躇した。

「667番、あなたの番号です。部屋の中に入りなさい」

 千絵は仕方なく中に入った。室内にはセミダブルベッドとシャワー室が備えられただけのシンプルなものだった。責任者のAI女装ロボットがユニホームを持って近づいて来た。

「667番、着替えて」

 千絵はすこぶる違和感のあるロボットに聞き返した。

「更衣室は?」

「ここで着替えて」

 千絵は仕方なく指示に従った。

「その体の崩れようでは随分怠惰な男の相手をしてたようね」

 ロボットが皮肉を…千絵は女装ロボットをまじまじと見て睨んだ。睨んでもロボットである。改めて部屋を眺めながら、これからここが自分の住まいになるのかと千絵は肩を落とした。

「大丈夫よ、すぐに体が引き締まるから、667番…一日最低十人への奉仕よ。精々グラインドで腹筋を鍛えなさい」

 グラインド? 千絵の甘い考えはその言葉で断ち切られた。

「今日最初の仕事よ」

 ロボットは去って行った。千絵が力なくベッドに腰を下ろすと、見知らぬ男が入って来た。アナウンスが流れた。

「10分のカウントダウンを開始します。始め!」

 男は条件反射の如く獣化して千絵に襲い掛かった。千絵は咄嗟に抵抗を始めたが、ロボットの言葉を思い出し、次第に力が抜けて行った…“今日最初の仕事よ、今日最初の仕事よ”…それが頭の中でずーっとリフレインしていた。長い10分が経過した。

 男は大きく深呼吸し、元の表情に戻って千絵から離れると部屋を出て行った。千絵は仰向けのまま無表情で天井を凝視していた。


 独狐又村が侵略されていた日々は遠い昔となりつつあった。子どもは外で遊ぶようになり、老人の散歩も増えた。しかし、大人は常に何かを恐れて生きていた。その何かとは、次第に村運営に発言権を持っていく子どもたちの存在である。その輪は急速に隣村にも拡大していた。

 治安が維持され、パトカーが走る代わりに「大人院」のマイクロバスがたまに走る程度で、各地域の“おそうじ小僧”は今日も村を護ってくれていた。“おそうじ小僧”は、鬼ノ子村の火葬船に続いて独狐又村の観光資源になりつつあった。


 村長の大輔は更に未来を見ていた。大人を管理した子どもが大人になる未来では、善良なる独狐又村村民と認められた人たちと共に、自然豊かな『独狐又村立砦』で寝起きすることになる。そこは服役囚の労役によって建設された施設で、煩悩渦巻く下界とは厳重に隔離された広大なエリアだ。大人院はその隔離エリアを取り巻くように建設されており、侵略者や正体知れぬ流れ者がうろつく俗界との緩衝建築の役割も果たしている。

 独狐又村立砦内では、原材料の生産や仕入から、食品加工、物流、店舗の販売、教育、研究など社会に於ける全ての工程が一貫して機能しており、砦内の人がケースに見合った平等な条件のもとでの暮らしが管理される未来が待っていた。


 独狐又村立砦の緩衝的役割を果たすことになる独狐又集落は、中枢部の独狐又村立砦で16歳まで過ごした所謂エリート村民と、村に貢献している多くの村民、そしてテスト的に暮らす移民者で形成され、おそうじ小僧や独狐又村立砦からの治安派遣子どもによって平和が保たれるしくみになっている。村は開発を拒みつつ、かと言って限界集落の風情もなく、移民してきた人々などの増加によって村民の声が飛び交うかつての独狐又村を取り戻す目標があった。


 今日も緩衝集落は長閑にみえる。田圃のあちこちで籾を摘んだ藁束が白い煙を高い空へとたなびかせていた。籾殻を燻炭にし、発酵させて堆肥にしたり、来春早々には雪消しを早めるために撒いたりする。益虫、益獣は崇め、害虫、害獣には容赦はない。それは侵略者に対しても同じことである。平和を装う長閑なこの風景の奥を読み、今が戦時にあることを黙認さえしなければ、独鈷又村民はこの先も生き延びることが出来るだろう。権利の平等は耳触りのいい文言だが、とどのつまり崩壊を意味する。人は区別という厳しい間引きに耐えるしか戦時を生き抜く術はないのだ。


 近隣の集落では、駄々を捏ねる幼児は、“聞がね童はおそうじ小僧に浚われで火葬船さ連れてがれるど”と言われると泣き止むようになって久しかった。


 〔 完 〕

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おそうじ小僧村 伊東へいざん @Heizan

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