藤次郎-18
「いらっしゃい! 今日は何にする?」
「そうですねぇ……考え中、あとで寄りますね。」
幼い黒髪の女の子が店先で魚を品定め中だった。魚屋の女将は、なじみの客でもある子供を見つけ早速声を掛けるのだ。
「よろしくね! あずみちゃん!」
今晩のご飯はあずみが作る番なのだ。あずみは年の離れた兄と一緒に暮らしている。兄も自分の事は自分で一通りできて、あずみにだけ任せている様な事は無い。
『今晩はどうしようか。少し、奮発しようかな。』
ここ常陸の国府は近くに海と湖があるので魚が美味しい。問題は美味しいものがありすぎて選べない事だ。
兄はこの一帯を支配する領主の家臣の家来として何やらお勤めをしているようだ。仕事の細かい話は、兄は教えてくれないのだが、あずみには理解出来ている。
あずみの住処は国府の中心から1km程東に行った足軽長屋にあった。兄が2人扶持でお役目についてからの住処になっている。
ドン……ドン
近くの街から時を告げる太鼓の音が聞こえてくる。この時刻には兄のお役目もお終いになる。お勤め先の館からは歩いて10分とかかる事はない。兄は仕事が終わると、いつもまじめに妹が待つ長屋へと帰ってくる。
「早いね。あ、に、さ、ま。」
長屋の障子を開けて土間で、すぐに8畳ほどの板の間だ。足軽長屋としては普通くらいだろう。煮炊き、厠は外の共通スペースにある。焼けた魚をちゃぶ台に乗せてあずみは薄い桜色の唇を広げ微笑んだ。
「ただいま戻りました。」
「兄さま?
“戻った。”
くらいの方がいいですよ。」
『なれませんよ。』
「それも禁止。言ってみて。」
「も、戻った。」
「そう! やればできる子なのね。あにさまは!」
早いもので
心配していた追手も完全にまいている。追撃の手が近くに来ているように感じることは一年間で全く無かった。
佳宵は身体のことを除けば幸せを感じている。兄妹という事になってはいるが生活のそれは夫婦そのものだ。愛おしく思う相手に思われる幸せ。
初めて感じる感情だ。
藤次郎は国府についてから、街を勢力内に収める武家の足軽二人扶持として生活している。腕の立つものは何処の家中も必要としていたので仕官先に困る事は無いのだが、それでも、慎重に期した。名前は変えた。出自も変えた。剣の腕も手を抜いて、“そこそこ“と、している。言った者勝ちの世の中なのだから、何も問題は無い。
佳宵にも新しいあずみという名前で暮らさせている。
安住の地。転じてあずみだ。藤次郎が考えた。
藤次郎は江戸の出身で浪人、井塚吉衛門と名乗った。知り合い、親戚にいない組み合わせで適当に作った名前だ。
変わった事と言えば、佳宵の藤次郎との心の接続が強くなりすぎている。藤次郎も佳宵もお互いに強く求めすぎているのだ。時々、自分と藤次郎の境界が判らなくなってくることがある。心が溶けてしまって自分の考えなのか藤次郎が考えている事なのか判然としなくなっている。それがどういった害悪をもたらすのか全く分からないし、もっと幸せになれるのかもしれないが……
だから、最近は一緒にいる時は接続しない様にしている。藤次郎と別行動の時だけ接続を保つようにしている。それでも、どれほどの均衡が保てるのか分かったものでは無い。さらに、生活するとなると、いつも藤次郎の心を覗いては申し訳ない時がある。知らないふりをしてあげるのも一緒に生活をするうえで重要なのだろうと佳宵は殊更、住んでみてわかった。
「兄さま! 明日、盆踊り見に行きましょう。」
佳宵がご飯を食べながら微笑みかけている。
「もう、お盆ですか。早いものですね。」
ここにきてずいぶん経ったという意味だろう。二人の住む場所から数キロのところにあるお寺で毎年派手に盆踊りを開催していると佳宵は買い物ついでに聞いてきて早速、藤次郎を誘ったというところである。子供で大人な佳宵は不思議な存在だ。見た目は子供なので子供の様な反応を期待するのだが帰ってくる表情などは大人そのもので今もこうして、誘いながらも子供の顔を使って大人の表情を見せている。つい子供に対する返しをしてしまいそうになるのだが、寸前のところで違ったと思い直すことがある。今も、そんな遠いところまで歩いて行けるのかと言いそうになるのだが……
「佳、ああ、あずみはそんなに遠くまで歩けるのか?」
「その調子、いいですね……歩けるかって? 兄さまにおんぶして貰う前提ですけど。」
「あずみさま~。前提がおかしいでしょう? 歩けないなら連れて行けませんぞ」
「そんな大して重くないでしょう」
「いやいや、それでも何キロも歩くと結構な荷物ですよ」
「荷物じゃないから! あたしだから! 重くないでしょう?」
丸い子供じみた瞳を藤次郎に向けて赤い顔をして可愛く怒るあずみを見ながら、“どうせ無理だろうな”。とあきらめ顔の藤次郎だった。
佚語を生きる! -いつがたりをいきる- 樹本 茂 @shigeru_kimoto
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