2.初恋の成就

「ごめん……控え室の窓から桜の木を見てたら、急に思いだしたことがあって……どうしても確認したくて行ってきた……こんな大事な日に、ほんとごめん……」

 

 顔は笑顔のままながら、紅君が何度も謝るので、私は急いで首を横に振る。

 

「大丈夫だよ……でも、確認したかったことって何……?」

 

 紅君は手に持っていた薄い黄色の封筒から、一枚の書類を取り出した。

 

「これ、俺の戸籍抄本。結婚式のあと、婚姻届を出す時に言ってもよかったんだけど、どうしても先にちいに説明しておきたくて……」

「…………?」

 

 首を傾げた私に、紅君は書類を指し示しながら、窓越し、少し背伸びして、私の耳に口を寄せた。

 

「俺の名前……お実を言うと戸籍上は『小田紅也』のままなんだ……『希望の家』の園長先生の戸籍からは抜けたくないって……それが父さんから初めて連絡が来た時に、俺が電話口で一番にお願いしたことだったから……俺はそのあと『希望の家』にいた頃の記憶をなくしたけど、父さんは律儀に約束を守って、俺を『小田紅也』のままにしといてくれた……だから、俺と結婚したら、ちいも……」

 

 思わずドキリと、胸が鳴った。

 

「『小田千紗』になるけど……いい?」

 

 一瞬にしてこみ上げてきた涙が、目から零れないようにするのはひと苦労だった。

 

 小一時間もかかって、私に花嫁用のメイクをしてくれた美久ちゃんの苦労を無駄にしたくない。

 しかし告げられた真実は、私にとって涙が出るほど嬉しいことで――やはり泣かずにはいられない。

 

「辛かったらいつでもここにいらっしゃい」と私に両手を広げてくれた園長先生と同じ名前。

 紅君を本当の兄のように慕っていた子供たちと同じ名前。

 そして子供の頃、遠くからいつも見ていた憧れの『小田君』と同じ名前。

 

 考えれば考えるほど、このままいつものように大泣きしてしまいそうな私を気遣い、紅君が窓越しに腕を伸ばした。

 

「ゴメン……泣かないで、ちい……」

 

 いつもよりかなり低い位置から掬い上げるように抱きしめられ、紅君のほうが私を見上げる角度で静かに口づけられ、私は頷く。

 何度も頷いた。

 

「ありがとう紅君……嬉しい……」

「そうか……よかった……」

 

 紅君がもう一度、私の唇に自分の唇を重ねようとした瞬間、背後でバタンと扉の開く音がした。

 

「千紗! いいかげんにして! って……ああっ! 紅也君? ……ダメだよ! 式の前にこっそりいちゃついてる新郎新婦なんて……聞いたことないよ!?」

 

 美久ちゃんが大声で叫んだせいで、ドアの向こうには次々と人が集まってくる。

 

「どこにも姿が見えないと思ったら……何やってるんだよ、紅也……」

 ため息をついた蒼ちゃんと。

 

「紅兄ちゃん……?」

 驚いたように目を見開いている翔太君。

 

 必死に笑いを噛み殺している紅君のお父さんと、ちょっとホッとしたような顔の小野寺牧師。

 

 翔太君以外の『希望の家』の子供たちも、あちらこちらから顔を出す。

 

「ごめんなさい! すぐに行くから!」

 慌てて窓に背を向けた私を、紅君が窓越しにトンとあと押しした。

 

「じゃあ、チャペルで待ってる……俺の花嫁さん……」

 おそらく今日だけの呼び名に、ドキリと胸を弾ませてふり返ると、紅君はもうどこにもいなかった。

 

 だけど不安になることはない。

 またすぐに会えると確信を持ち、廊下に集まった以外の皆が首を長くして待ってくれている場所へと、私は歩き出す。

 

「ちい姉ちゃん、綺麗……!」

 

 女の子たちの感嘆の声を嬉しく聞きながら、笑顔で歩み続ける。

 

 屋外に設けられた簡素なチャペルにたどり着くと、叔父にエスコートされてこれから私が一歩を踏みだす長い赤絨毯の先には、紅君がもう姿勢を正して立っていた。

 

 その姿にドキドキする。

 声には出さず『ちい』と口の形だけで呼ばれ、なおさらドキドキする。

 

 私を待つ紅君の笑顔にも負けないほどの笑顔を、私も彼へ返した。

 

 よく晴れた空に響くのは、私たちへの祝鐘。

 まるでライスシャワーのように、風に吹かれて私たちの上へ舞い降りるのは、紅君と二人で何度も見上げた桜吹雪。

 

 全てが優しく。

 何もかもが私たちの門出を祝ってくれているかのような中。

 私は静かに紅君のもとへたどり着き、私の手は叔父から紅君へと手渡された。

 

「絶対、幸せにします」

 

 紅君の小さな呟きに「ああ」と返事した叔父の声が、これほど涙声になるとは思っていなかった。

 

 だから決意する。

 たとえこれから先どんなことがあったとしても、私は絶対幸せになろうと、必死に努力すると決心する。

 

(ありがとう、叔父さん……! 叔母さん……!)

 

 涙は見せず、ずっと笑顔であり続けることを心がけながら、私は紅君と繋いだ手に目を向けた。

 

(これからは一緒……ずっとずっと一緒!)

 

 ――ただそれだけで、私はおそらく、どんなことだってできる。



 

 

 全てを失った私は、一番大切でかけがえのない人を手に入れた瞬間、全てを取り戻した。

 

 ――それはまるで奇跡のような、だけど真実の初恋物語。

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風はいつも君色に染まる シェリンカ @syerinnka

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