第八章 喜色の祝鐘
1.誓い
「ちょっと千紗! まだ支度終わんないの?」
ぶ厚いドアの向こうから聞こえてくるのは美久ちゃんの声。
本当はとうの昔に着終わっていた純白のドレスを指でなぞりながら、私はおずおずと返事をする。
「う、うん。もう少し……」
「早くしてね、みんな待ってるよ。花嫁さんがいなくちゃ、結婚式は始まんない!」
「うん……」
頷きながら背後をふり返ったら、開けっ放しの大きな窓が目に入った。
そこからひょっこり顔をのぞかせた紅君が
「俺ちょっと出かけるから、ちい、時間稼ぎしといて……」
などと言って、どこかへ行ってしまってから、もう二十分が経った。
私たちのために、今日この場所に集まってくれた僅かな人の中には、待たされたことに腹を立てるような人物はいない。
でも、忙しい皆の時間を、奪ってしまっているのは少し気が引ける。
「どこ行っちゃったんだろう、紅君……?」
少し困った思いで窓に近づき、霞みがかった春の空を見上げる私は、もう、ほんの少しでも紅君の姿が見えなければ不安でたまらなかった私ではない。
――紅君が私のことを思い出してくれてから、もうすぐ一年。
何があっても、どこへ行っても、きっと彼は自分のところへ帰ってきてくれると信じられるぐらいには、私も大人になった。
彼のことが好きな自分に気がついたあの春からは、七年――。
私は今日、紅君のお嫁さんになる。
頬を撫でていく優しい春風も、私たちを祝福しているように感じた。
夜間学校を卒業したら、叔母たちの家を出て一人暮らしをするつもりだった私に、紅君が「一緒に暮らそう」と言ってくれたのは、卒業を三ヵ月後に控えたクリスマスの頃だった。
(えっ……紅君と一緒に?)
考えただけで緊張したのに、彼が次に告げたのは、もっと驚くようなことだった。
「結婚しよう、ちい。俺たち、本物の家族になろうよ……」
「えっ?」
どんな思いがけない言葉を聞かされた時よりも、本当に驚いた。
驚きすぎてとっさに返事ができず、おかげで紅君は何通りも言葉を重ねることになる。
「いや……結婚してください……かな? ずっと一緒にいようよ……とか?」
「…………」
黙りこむ私の顔を見ながら、それでも決して笑顔は崩さず、紅君はいく通りもの言葉で、私に自分の気持ちを伝えてくれようとする。
「俺のお嫁さんになってください! ……それとも……俺はちいのお婿さんになりたいです! のほうがいい?」
どこまでも楽しそうな笑顔のまま、紅君が問いかけるから、私も自然と笑顔になる。
なぜだか溢れた涙は、なかなか止まりそうになくて、泣き笑いの顔になる。
「俺は絶対ちいを幸せにする。そして、ちいが傍にいてくれれば、絶対に自分も幸せになる自信がある。だから結婚しよう……いい?」
結局、私が何も言葉を返さなくても、ただ頷くだけで気持ちを表現できるようにしてくれた。
そんな紅君の優しさに、自然な心配りに、小さな頃から憧れて、憧れて――。
いつかあんな人になれたらと、願ってやまなかった人が――大好きな人が――私に向かって手をさし伸べてくれる。
他の誰でもなくこの私を、真っ直ぐに望んでくれる。
嬉しかった。
現実だとはわかっていても、まさか夢ではないのかと、何度も何度も確認したいほど、嬉しかった。
「紅君……」
ようやく開いた口で、かすれ声のまま名前を呼んだら、いっそう笑われた。
これまでで一番と言ってもいいぐらいの、本当にとびきりの笑顔を向けられる。
「紅君が、私の家族になってくれるの?」
「うん」
「…………ありがとう……」
そのあとはもう、涙でむせてしまって、何も言えない。
ようやく言えた言葉が、迷いもなく彼が頷いてくれたことが、自分にとってどれほど大切だったのかと、私自身にも初めてわかった。
十二の春に私が失くしたものは、どれほど望んでも、もう二度と手に入らない。
――たった一人の家族だった母。
だからこそ、どこかで気持ちを入れ替え、諦めをつけ、背中を向け続けてきた事実。
――私には今、家族と呼べる人はいない。
叔父と叔母は、成人するまでの後見人になってくれているし、一緒に生活してもいるが、厳密に言えば私の『家族』ではない。
私は苗字も『長岡』のままだ。
母が亡くなったあの時から、この世にひとりぼっちになってしまった私にとって、紅君が新しい家族になってくれるのは、とても重要で、この上なく嬉しいことだった。
「ねえ千紗……まだ?」
再びドアの向こうからかけられた声に、私は慌ててふり返る。
「うん。あと少し……」
「もう! ……本当に急いでね?」
「うん」
介添え役をやってくれている美久ちゃんを騙し続けるのも、もうこれ以上は無理な気がする。
(どうしよう……そろそろ本当のことを言ったほうがいいかな……?)
心の中の葛藤を持て余し、何気なくもう一度窓の外へ目を向けた時、遠くに小さな人影が見えた。
私と同じように純白の衣裳に身を包んだ、スラッと背の高いその人は、普通に町中を歩いていたら目立って仕方がないはずなのに、そんなこと微塵も気にしていない。
少し悪い右足のせいで走ることはできないが、以前よりはあまり足をひきずらなくなった軽快な歩みで、こちらへ向かって真っ直ぐに歩いてくる。
春の陽射しは優しく、彼の淡い色の髪に光の輪を作る。
(まるで天使みたいだよ、紅君……)
ふとそういうふうに思ってから、私は慌てて首を横に振った。
(ううん。天使なんかじゃない……私の大切な人。だからまだまだ、天には連れていかないでください……これからもずっと……私の傍に居させてください……)
私の心の中の祈りが聞こえたかのように、紅君がこちらへ目を向けた。
「ちい!」
大きな声で私の名前を呼び、伸び上がるようにして手を振るから、私も振り返す。
「紅君!」
大好きなあの笑顔が、少しずつ近づいてきた。
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