第六章 渦色の運命

1.告白

 大きな川沿いに工場が並ぶ、空の高いあの街で、私は生まれ育ち――紅君と出会った。


 運動も勉強も得意で、いつもみんなの中心で笑っているような男の子だった『小田紅也』君は、街に一つしかない教会の片隅に建つ福祉施設から学校へ通っている子だった。 

 だがそんなことは微塵も感じさせない、いつも楽しそうに笑っている子だったので、小学五年生の冬、初めて話をした放課後に一緒に学校から帰るまで、私は彼の事情をまったく知らなかった。 


 当時、私は母の再婚相手の澤井から暴力を受けており、それを心配した紅君は、福祉施設『希望の家』の園長先生に私の話をしてくれた。

 教会の牧師でもあった園長先生は、本当に思いやり深い優しい人で、私にも何度も「辛かったらここに来なさい」と声をかけてくれた。 


 実際に澤井の暴力がエスカレートし、私が『希望の家』に身を寄せていた時に――事件は起きた。

 母と口論になった澤井が母を刺し、そのまま逃走して『希望の家』に火を点けたのだ。


 おそらくはそこに私がいると思っての犯行だったのだろう。

 だけど私はその時間、まだ学校から帰っていなかった。 


 帰宅途中で、母が病院へ搬送されたことと、『希望の家』の火事を知った私は、紅君と共に『希望の家』へ向かうほうを選んだ。

 そこで私たちが帰るのを待っている小さな子供たちを、なんとか救いたい一心だった。

 そのあと、もちろんすぐに母のところへは駆けつけるつもりだった。

 

 でも、そのどちらにも、私たちは行けなかった。


 学校帰りにいつも二人で乗っていた赤い自転車は、大きな国道にさしかかったところで、運転手が意識を失い制御不能になったダンプカーと、正面衝突した。 


 まるでミニチュアのおもちゃのように、歪んで空に飛ばされた自転車と、通りの真ん中に倒れた紅君。

 あともうほんの少しのところに迫っていた火事の黒煙と、炎にも負けないくらいに赤く燃えていた夕焼け空。

 ――その全てを、私は鮮明に覚えている。 


 背中からガードレールに打ちつけられ、視界に黒い染みが点々と広がっていく中、完全に紅君の姿が見えなくなるまで、私は一心に祈り続けた。

 お願いだから、誰か紅君を助けてと――。


 搬送された病院から、彼の本当のお父さんが住む街の病院へ転院した紅君とは、それきりもう会うことはなかった。

 意識が戻らないまま亡くなった母と、火事の犠牲になった園長先生とも。


 五年前のあの日。

 私は文字どおり、それまで自分を愛しみ、自分自身も大切に思っていた人たちを、全て失くしたのだった。




 私にとって、五年前のあの出来事は心がひき裂かれるように辛い記憶だった。

 だからつっかえつっかえ、時には涙で話せなくなりながら、全てを語り終わるまでには長い時間が必要だった。


 夜間学校の帰りに立ち寄った、蒼ちゃんの大学近くの公園。

 昨年、四年ぶりに紅君と再会したその場所で、私はついに彼に全てをうち明けた。


 紅君は私の話に一度も口を挟むことなく、深く俯いたまま、長い告白をただ黙って聞いてくれた。 


「だから、私と紅君はこの町で初めて出会ったんじゃない……『はじめまして』じゃないの」 

 恐くなかったわけではない。

 私が話すことで紅君の記憶が揺さぶられ、また以前のように倒れてしまったらと思うと、恐くてたまらなかった。


 だが強く両手を握りしめたまま、深く顔を伏せ、全てを受け入れようと戦っている紅君の姿を見ていたら、途中で言葉を濁すことも、もうやってはいけないと感じた。

 これまで全てを黙り、そ知らぬ顔で紅君の傍に居続けた私の罪を、これ以上ごまかしてはいけない。

 

「ごめん……ごめん紅君……」


(五年前のあの事件も……私のせいで紅君が失った様々なものも……悪いことだと知りながら、それでもやっぱり何度も紅君の手を取った――それだけは諦めきれなかった私の想いも……みんなみんな……)

 

「ごめんなさい……!」

 くり返す懺悔の言葉に、ストップをかけたのは紅君ではなく、告白に立ちあってくれていた蒼ちゃんだった。


 紅君にもしものことがあった時や、私が途中で話せなくなった時のため、少し離れたところから私たちを見守っていた蒼ちゃんは、身動き一つしない紅君を心配げに見ながら、私の前に走りこんできた。 


「もういいよ! もういいって! 千紗ちゃんが悪いんじゃないんだから! そうだろ紅也?」

『いつものお前だったら、すぐにそう言い出すだろ?』と言いたそうに、珍しく苛立たしげに蒼ちゃんが紅君をふり返る。

 それでも紅君は俯いたまま、ぴくりとも動かなかった。 


「でも……! ごめんなさい……」

 紅君と並んでベンチに座っていることが辛く、転げ落ちるように彼の前の地面に座りこみ、足元にうずくまって頭を下げた私を、蒼ちゃんが抱きかかえて起き上がらせようとする。 

「千紗ちゃん!」


「いいの! ……いいの!」

 その優しい手をふり払い、地面に突っ伏した私の上に、誰かがふっと屈みこんだ気配がした。

 

(…………?)

 恐る恐る顔を上げて確かめようとした瞬間、息もできないくらいに強く抱きしめられた。 


「ちい!」

 私の頭をかき抱くように自分の胸に抱きしめ、地面から起こした人物が紅君だと気がつき、一気に涙が溢れた。 


(紅君……!)

 全てを話すことで紅君との間に溝ができても、これまでのように私に好意を示してくれなくなっても、それで構わないと決意していた。

 してはいたがやはり、そう思うと辛くて悲しく、また新たな傷を負いそうになっていた心が、ただ一人、紅君の言葉だけで行動だけで救われる。 


「ちい……ちい! ……どうして今まで……!」

 苦しい息を吐くように切れ切れに話す紅君が、そのあとに言ってくれようとしている言葉がわかり、いっそう涙が溢れる。 


(いいの! 私が黙っていることで紅君が傷つかないんなら……笑っていられるんならそれでいいと思ったの! ……だけど……だけど!)


 伝えたい言葉は、もう何一つ声にならない。

 嗚咽をこらえて泣き続ける私を、紅君は上向かせ、瞳をのぞきこむようにして見つめる。 


「ごめん。俺のほうこそごめん! ……ちい一人に辛い思いをさせてごめん!」

 溢れんばかりに涙をたたえた紅君の瞳は、子供の頃と少しも変わらず、綺麗な澄んだ色をしていた。

 強くて優しい、私の大好きな紅君そのもののように、私が全てを語り終えても、曇りひとつなかった。 


「守ってやりたいって……何からも絶対俺が守るんだって、強く思ってた気持ちは覚えてる! ……その相手がちいだってことは、記憶がなくてもわかるよ。俺の全部で確かにわかる! だけど……! だから……! ごめん! 一番辛い時に、一番ちいの心を守ってやらないといけなかった時に、傍にいてやれなくてごめん……!」 


(ああそうだ、そうだね……私の大好きな紅君は、こんなにも優しく……そして強い人だった)

 もう一度かき抱くように紅君の胸に抱きしめられながら、私は五年ぶりで本当にあの頃の紅君が帰ってきたように感じていた。




 事件のことを知ったら紅君が傷つくかもしれないとか、知らないほうが幸せなのではないかとか、そういう理由は全て、紅君に真実を伝えることを恐れた私が、あとになって作りだした言い訳だ。

 紅君はそういうことで絶望したり、後悔したり、これからの人生をだいなしにしてしまう人ではない。

 どういう時でも前を向き、真っ直ぐに進む人だ。


 それを誰よりも知っていたはずなのに、私は紅君と再会してからの一年、いやその遥かに前、おそらくあの事故の直後から、全てを話したら彼に嫌われるかもしれないという妄執に怯えていた。

 ただそれだけだった。


 言葉もなくお互いを抱きしめあったまま、地面に座りこむ私と紅君の上に、フワリと柔らかなストールがかけられる。

 私がベンチに置き去りにしていたそのストールを、寒くないようにとかけてくれたらしい蒼ちゃんは、わざわざ私たちと目線の高さをあわせるためにしゃがみこんで、眼鏡越しににっこりと笑う。 


「そろそろ立ち上がらないと風邪引いちゃうよ……なんなら千紗ちゃんだけでも僕が抱き起こそうか?」

「蒼ちゃん!」

 腕の中で小さく叫んだ私を、紅君がなおさら胸に抱きこんだ。 


「いくら兄さんでも渡さないよ……ちいだけは」

「ハハハッ。わざわざ言われなくたって知ってるよ。そんなことは……」

 蒼ちゃんはすぐに立ち上がり、私たちへ背を向けて歩きだす。 


「でも紅也が自分の後悔だけで頭がいっぱいになって、今の千紗ちゃんを気遣ってやれなくなったら、いつだって僕が横からさらっていくよ」

 笑いながら去って行く背中に、私は慌てて呼びかける。 

「蒼ちゃん!」


「ハハハッ。冗談、冗談……」

 うしろ手に手を振りながら遠くなっていく蒼ちゃんの、それは本当に冗談なのか、それとも本気なのか、私には判断がつかないが、紅君はすぐさまその場で立ち上がった。


「わかってる。ちいが傷つかなくてもいいように……これ以上泣かなくてもいいように……俺にとってだって、それがあの頃からの変わらない願いなんだ!」

 私の腕を引いて立たせながら、紅君が蒼ちゃんに向かって放った言葉に胸が鳴った。 


(あの頃からのって……? 紅君? ……まさか?)

 驚いたように彼の顔を見上げる私に気がつき、紅君は小さく笑う。 


「思い出したわけじゃないよ。ごめん、ちい……でも一緒にいた頃に自分がどんなにちいを好きだったのかは、わかる。理屈じゃなくわかる……一番真っ先に、それも一度じゃなく二度も……忘れてしまった記憶なのに……ごめんね」 


 私は慌てて、否定の意味で首を振った。

 それは紅君に謝られることではない。

 むしろ――。 


(嬉しい……! 他の誰でもない、大好きな紅君が、自分をそんなふうに言ってくれることが嬉しいよ!)

 ぽろりと私の頬を伝って落ちた涙を、紅君が指ですくった。 


「泣かないで。もう忘れないから……何があっても、もうちいのことは忘れない! 失った記憶だって、きっといつかとり戻すから……」

 無理はしなくてもいいと、言いかけた唇は、紅君の冷たい唇でそっと塞がれた。 


「俺。この冬の間に、もう一度あの街へ行こうと思う。きっと今だったら、夏に行った時よりいろんなことを感じるんじゃないかな……ひょっとしたら記憶だって戻るかもしれないよ?」 

 満面の笑みで私に語りかける紅君につられるように、私の頬も緩んだ。

自分でも思ってもみなかった言葉が、自然と口から出てくる。 

「紅君。私も……」


 一緒に行きたいというのは図々しすぎるだろうか。

 日帰りでは帰って来られないあの街に、二人で旅をしたいというのは――。 


 一瞬言い淀んだ私に、紅君はますます晴れやかな笑顔を向けた。

 ぶ厚い冬の雲も吹き飛ばしてしまいそうなほどの、眩しい笑顔だった。 


「一緒に来てくれる、ちい? ちいと一緒だったら、きっと、もっと可能性があると思う!」

 勇気を出して口にする前に、先に言われてしまい、ほっとすると同時に緊張する。 


(本当に? 思い出がいっぱいのあの街を一緒に廻ったら、紅君は記憶をとり戻すかな……?)

 少しの期待と。 


(でも……無理をしたらまた倒れてしまったりしない……?)

 少しの不安。 


 相反する二つの思いを胸に抱き、その数日後、私は五年ぶりに、生まれ育ったあの街を訪れた。

 紅君と二人で――。

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