3.何度でも
五年前のあの日、手に入れたと思った途端に、指の間から零れ落ちてしまった幸せを、やっと掌に握りしめたようなクリスマスだった。
まるで夢のようで、現実だと思えず、暗い夜空から降る雪を見上げるばかりの私に、紅君が問いかける。
「寒くない?」
少し外へ出たらすぐに店へ戻るつもりで、寒さのことなどまるで気にしていなかった自分の格好に、改めて気づいた。
弁当屋の制服代わりのポロシャツに、薄い上着。
雪の中を出歩くにはあまりにも軽装だった。
紅君に気を遣わせないよう、すぐに「大丈夫だよ」と答えようとしたのに、それより先に彼は自分のコートを脱ぎ、私の肩へかけてしまう。
身軽になった紅君は、軽く頭を左右に振り、髪に積もった雪を落としてから、私の手を引いて歩きだした。
「紅君! いいよ……紅君が風邪ひいちゃうよ」
自分より薄着になってしまった彼にコートを返そうとする私を、そうはさせないというふうの笑顔で、紅君はふり返る。
「平気だよ。全然気にならない……今なら俺、きっとなんだってできるよ……なんだって!」
言葉と同時に、繋ぐ手にこめられた力が、その不思議な自信の源は私なのだと教えてくれる。
「紅君……!」
私も同じだ。
一番欲しくて、一番大切で、それなのに諦めてずっと背中を向けていたこの手を、もう離さずにいられるのなら、なんでもできる。
してみせる。
(でも……なんて答えたらいいんだろう? どう言ったら、私のこの想いが紅君に伝わる?)
言葉で言い表せる範囲など、とてもわずかで、私の溢れんばかりの想いを伝えるには、どれほど重ねても足りない。
だからずっと、こうして傍にいたい。
背中を押してくれた蒼ちゃんの言葉そのままに、ただ紅君だけを見ていたい。
だが素直な感情だけで行動するには、私はあまりにも大きな秘密を、彼に対して抱えていた。
「見せたいものがあるんだ」
私の手を引いて歩き続ける紅君は、どうやら私があまり得意ではない大通りへと向かっているようだった。
「大丈夫。近くだからすぐに帰ってこれるよ」
時間を気にしてくれる言葉には「うん」と頷きながらも、私は実は別のことが心配でたまらなかった。
急に降りだした雪のせいなのか、多くの車が行き交う大通りは、いつも以上に混雑している。
赤いテールランプに目を射られる。
時折ブレーキの音を響かせながら、目の前を通り過ぎる車の列を目にすると、やはり体が震えだす。
私に何よりもの勇気を与えてくれる紅君の手を、しっかりと握っているのに背筋が寒い。
次第に歩く速度が遅くなり、ついに一歩も進めなくなった私を、紅君は笑いながらふり返る。
「どうしたの?」
私を見つめる綺麗な瞳には、恐れの感情も悲しみの感情もない。
それが私の救いだった。
(よかった……紅君は事故を覚えていないから、私みたいに苦しむことはない……大通りを渡れなかったり、車が恐かったりすることもないんだ……)
五年が過ぎた今でも、常に事故の記憶をひきずっている私には、紅君がそういう思いをしないで済んでいることが嬉しかった。
「大丈夫?」
おそらく酷い顔色をしているだろう私に、紅君が優しく問いかける。
今この時――もし真実を伝えるのならば今だ。
しかしそれでは紅君まで、私と同じように苦しむことになる。
そして自分が守れなかったもの、失ってしまったものを知り、おそらく深く自分を責める。
責任感の強い人なので、優しい人なので、真実を知った時の胸の痛みがどれほど大きいかと思いを馳せれば、とてもうち明けられない。
それがどれほど狡いことでも、大好きな紅君を陰で裏切る行為であっても、私にはできない。
「うん……大丈夫……」
恐怖と緊張と罪悪感で苦しい胸を、紅君と繋いでいないほうの手で私が押さえた瞬間、頭上でカラーンと澄んだ鐘の音が鳴り響いた。
「………………!」
思わず全力で、空に視線をめぐらした。
四方を確認した。
何故ならそれはまるで――私が生まれ育ったあの街で、朝夕に聞いていた鐘の音とそっくりだった。
キョロキョロと周囲を見まわす私の様子を満足そうに見つめ、紅君が大通りの向こうを指す。
「あそこだよ……ほら!」
普段はまるで気づかない蔦の絡まった高い塀の奥に、白壁の小さな教会が見えた。
鐘楼の高さほどもある大きなクリスマスツリーが、青いライトに照らされ、壁の向こうに頭を出す。
「あんなところに教会が……?」
大通りをなるべく避けてはいるが、この道を通ったのは初めてではないのに、今までまるで気がつかなかったと呆然とする私を、紅君が笑う。
「うん。普段はもう使われてない教会らしいんだ。でも今日だけは特別……クリスマスだからね。朝、偶然あの鐘の音を聞いて、その瞬間、頭に君の顔が浮かんだ。自分でもどうしてかなんてわからない……ただあの鐘の音を君にも聞かせたくて、兄さんに無理やり呼び出してもらった……やっぱり、これって変かな?」
変じゃないと、当たり前だと、叫んでしまいたかった。
私でもはっとするほど似ているのだから、紅君がこの鐘の音を懐かしく感じるのは当然だ。
『希望の家』があったのは、教会の敷地内。
紅君は朝夕に、私よりも近くであの鐘の音を聞いていたはずなのだから、当たり前だ。
「紅君!」
思わず大声で呼びかけはしたが、決心がつかない。
ここで私が言っていいのか。
それとも黙っていたほうがいいのか。
感情ばかりが先走り、冷静に判断できない。
「何?」
私が次に口を開くのを長い間待ってくれていた紅君が、ついに尋ねた。
「なんでもない……」
結局真実を口にできない私は、彼と共にいて一つ幸せを感じるたび、一つ罪悪感を胸に抱えこむばかりだった。
最後の予約客が注文していたオードブルを受け取りに来たあと、ようやく店を閉め、叔父と叔母と共に私は家へ帰った。
宵の口に紅君と見た雪はもうやんでいたが、夜も更け、寒さはかえって増したように感じた。
「お疲れさん……今日は本当に忙しかったねえ……」
肩を叩いて労わってくれる叔母を、私は申し訳ない気持ちで見つめる。
「うん。ごめんなさい……忙しい時間に、長々と休憩して……」
紅君と教会まで行った時間は、彼が言っていたとおりそれほど長くはならなかった。
しかしそのあとがだめだった。
さんざん回り道してやっと辿り着いた紅君の隣から、私は離れたくなくて、みっともないほどぐずぐすした。
ようやく店へ戻った時、叔父も叔母も何も言わなかったが、二人ばかりに負担をかけてしまったことは確かだ。
「ごめんなさい……」
くり返す私の頭を、叔母がはたくようにパーンと軽快に叩いた。
「何を言ってるんだよ、この子は! 文句も言わずに朝からずっと家の手伝いしといて……こんな孝行娘はいないよ! ……助かったよ。ありがとう、千紗」
豪快に言って大声で笑うので、私はほっと肩の力が抜ける。
嬉しさに胸が詰まり、熱いものがこみ上げた。
「休憩だって……ほんとは帰って来なくてもいいくらいだったのに……律儀に帰って来るんだから……なんてったってクリスマスだよ? もっと好きな人と一緒にいたかっただろ?」
「叔母さん!」
からかうように顔をのぞきこまれ、私は大慌てした。
私を誘いに弁当屋まで来たのは蒼ちゃんだ。私と蒼ちゃんは叔母が思っているような関係ではない。
「蒼ちゃんと私は……」
慌てて訂正しかけた私の言葉を、叔母はあっさりと遮った。
「知ってるよ。千紗が好きなのは蒼ちゃんの弟だろ。ずっと前に蒼ちゃんから聞いた。だからそれぐらい、私だってちゃあんとわかってるよ……!」
驚いた。
まさか蒼ちゃんがそういうことを叔母に伝えていたとは思いもしなかった。
「それにね……あんたはまるで気づいてなかっただろうけど、弟君のほうだって春からこっち、ずいぶん何度も店の前まで来てたよ……声もかけないで、ずっとあんたを、ただ見てた……あんな表情見てたら、蒼ちゃんじゃなくたって、自分のことは棚に上げてでも応援してあげたくなっちまうよねえ……」
ドキリと跳ねた心臓が、口から飛び出してしまうかと思った。
立ち止まった私と叔母を置き去りに、叔父は何も聞こえないふりでさっさと行ってしまう。
その背中を見送りながら、どうしようもなく頬が熱くなるのが、自分でもよくわかった。
「大事にしなよ。自分の気持ちも相手の気持ちも……想って想われる相手に出会えたなんて……それだけで幸せなことなんだよ」
バシンと今度は私の背中を叩き、叔母は叔父のあとを追って歩きだした。
「だからどんなに忙しくたって、私は幸せ。こんな話……あの人には秘密だからね!」
しいっと人差し指を口の前に当ててみせる仕草に、私は思わず笑った。
同じように笑って歩き続ける叔母を追いかけ、また一つ、自分の幸せを実感した夜だった。
冬休みの間も時間を見つけてはたびたび会いに来てくれた紅君は、三学期が始まる日の夕方、私を迎えにきた。
まるで記憶を失う前の日々のように――。
「一緒に学校へ行こうと思って……」
そう言って笑う顔を見ていると、以前もそうしていたことを黙っているのが、うしろめたくなる。
言ったほうがいいのか。
それとも言わないほうがいいのか。
迷うばかりの私は、彼の前できちんと笑えているのか、自信がない。
だが紅君は笑ってくれる。
いつでも屈託のない笑顔で、私に笑いかけてくれた。
だからなおさら苦しくなる。
黙っていることが辛くなる。
「じゃあもう言っちゃいなよ……!」
だらしなく弱音を吐く私をあと押しするように、美久ちゃんは言いきった。
四時間の授業が終わったあとの教室。
一緒に帰る紅君を待つ私に、つきあって残ってくれていた美久ちゃんは、呆れるでもなく投げやりでもなく、真剣にそう言ってくれた。
「だって……」
紅君が傷つくのではないか、苦しむのではないか、ひょっとするとまた記憶を取り戻しかけ、倒れてしまうのではないか――不安ばかりが募る私を諌めるように、美久ちゃんは言う。
「黙ってたってきっと思い出すと思う! 千紗と一緒にいたら、きっといつかは思い出すよ」
「そう……かな……」
半信半疑で眉を曇らせる私に、しっかりと頷く。
「そうに違いない。なんなら……証拠を見せようか?」
「証拠……?」
首を捻る私に、美久ちゃんはそっと耳打ちした。
これから教室を出て、途中で紅君に会っても気がつかないフリをして通り過ぎろ。
そのまま私が行ってしまおうとしたら、紅君は私のことをなんと呼ぶか、確かめろ。
再び記憶を失ってからまだ名前で呼んでいない私を、彼はいったい何と呼ぶのだろうか――。
「それって……!」
彼が私につけた子供の頃の呼び名を無意識に呼んだ途端、ふいに倒れてしまった四ヵ月前の姿が思い出され、声が震える。
「大丈夫。千紗を思い出したから倒れたわけじゃないって、お医者さんにも言われたんでしょ? 大丈夫。大丈夫だから……ね?」
「でも……」
「いいから! ほら! 早くしないと来ちゃうよ!」
急かされるままに立ち上がり、まだ心の準備もできないうちに、廊下の向こうからやってくる紅君の姿が見え始める。
ドキドキと心臓がせり上がる私の耳元で、美久ちゃんがそっと囁く。
「千紗……私は確信してるよ。放っておいたって彼は、だんだんあんたを思い出す。だったらあんたの口から、昔何があったのか、四ヶ月前にも何があったのか、ちゃんと言ったほうがいい……先に言ったほうがいいって!」
「でも……!」
惑う間にも背中を押され、私はついに歩きだした。
痛む胸を我慢し、紅君の横をすり抜ける。
(ゴメンね……紅君!)
「あれ?」
紅君は驚いたように立ち止まった。
「どうしたの?」
問いかける声に背中を向けたまま、私は真っ直ぐ歩き続ける。
(そんな自信なんてない……! 何もしなくても紅君がいつかは私を思い出すなんて……そんな都合のいいこと、考えられない……!)
首を横に振り、希望を否定して歩きながら、それでも本当は信じていた。
彼を信じていた。
「あれ……どうした? ねえ……どうしたんだよ?」
驚いても、追いかけはしないことに感謝しながら、声をかけられているのに無視する苦しさに耐えながら、私は祈るように願う。
『紅君は私を思い出さないほうがいい』なんて建て前、本当はとうに崩れていた。
思い出してほしい――自分でももう、自分の本音はわかっている。
「待てって! …………ちい!」
そう、わかっていた。
彼は必ず私をその呼び名で呼ぶと、頭のどこかで信じていた。
少しの疑いが入る余地も、本当は最初からなかった。
「紅君!」
たまらずふり返って駆けだした私を、紅君が両手を広げて受け止める。
「……びっくりした! 俺の声が聞こえないのかと思った……昔から何度も見てるあの悪夢みたいに……声が届かなくなったのかと思った」
驚き、私は紅君の顔を見上げた。
私を見下ろす紅君は、いつもの笑顔だが少し寂しげだ。
「顔もわかんない……名前もわかんない女の子が、何度も夢に出てくるんだ。なんだか悲しそうにその子が泣いていても、俺はなんて声をかけていいのかわからなくて……せめて『泣かないで』って伝えたいのに声が出なくて……悔しくて、もどかしくて、見るたびに焦らずにいられない夢……あの夢に出てくる女の子を、ちいに初めて会った時から、俺はずっと重ねて見てる……変だよね……ちいよりずっと小さい小学生くらいの女の子なのにね……」
紅君の声が震えている。
事故のあと、初めて再会したあの頃のように、苦しげに揺れている。
「紅君! ……紅君!」
私は夢中で彼を抱きしめた。
(これじゃだめだ……!)
苦しいのは自分だけでいいと思った。
全てを忘れても、紅君が苦しまなくて済むのならそれでいいと。
だが思い出せないことで紅君が苦しむのなら、私がいくら黙っていても意味がない。
「なに? ……ちい……どうした?」
優しい声で呼ばれ、私は決意した。
彼に全てを告げようと決心し、顔を上げた。
「聞いてほしいことがあるの……ずっと……紅君に言いたくて、言いたくなかったこと……」
紅君が、それまで曇っていた表情を払拭し、花が開くようにふわりと笑った。
「なに? ……なんだか俺みたいにおかしなこと言ってるよ?」
「うん。でも本当なの。どちらの気持ちも、私の本当の気持ちなの」
全てをうまく伝える言葉など浮かばず、ただ思いついたままに口を開く私を、紅君は笑う。
「いいよ、なんだって聞く。ちいの言葉ならいつだって……」
「うん」
抱きしめてくれる腕に負けないほど、私も大好きな人の体を抱きしめ返した。
願わくは、全てを語ったあとでも彼がまだ私を覚えていてくれますように――。
これまでどちらかといえば、私に過酷な試練を与えることの多かった運命に、全身全霊で祈った。
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