2.帰郷

 五年前、雨の中で泣きながら発った私の生まれ故郷は、当時とそれほど変わっていなかった。

 街を縦断するように流れる大きな川。

 どこからでも見える製鉄工場の煙突群。

 そこから吐き出される煙により、街全体が独特の匂いがするところまで、そのままだった。 


「懐かしい……」

 隣に並ぶ紅君にはこの街で暮らした記憶がない。

 それを気にすることも忘れ、思わず呟いた私に、彼はにっこりと笑いかける。 


「よかったね」

 はっとその笑顔を見つめ返した。


 私が「ごめんなさい」と謝ることを、紅君は望んでいない。

 それがわかるので、私は素直に頷く。 

「うん」


 これほど穏やかな気持ちでもう一度、この道を歩けるとは思っていなかった。

 全てを失くし、ボロボロに傷ついた心で、逃げるように街を出たあの日に、それまでの自分とは全て決別したつもりだった。

 しかし――。 


 もう一度、隣を歩く紅君の横顔を見上げる。

 まるで何かに導かれるかのように、彼は迷いもなく昔二人で歩いたこの土手の道を選んだ。

 冬の冷たい風から私を守るように、隣を歩く人は、夢でも幻でもない、本物の紅君だ。 


 もう二度と会えないと思っていた。

 だけどいろんな偶然が重なり、私たちはもう一度めぐり会い、そしてこの場所へ一緒に帰ってきた。

 だから――。 


 もう背を向けなくてもいいのだと、自分に言いきかせる。

 辛い出来事と共に心に封印してしまった大切な思い出を、おそらくもうとり戻していい。

 大切に抱きしめていい。 


(だって紅君はいてくれる……ちゃんと私の傍にいてくれるんだもの!)

 それが何よりも嬉しく心強い。


 あの頃と同じようにドキドキと胸を高鳴らせながら、私は紅君を見ていた。

 大好きで大好きで、いつでもこの風景の中で懸命に姿を探していたたった一人の人を、すぐ隣で見上げていた。




 紅君は多くを語らなかった。

 昔二人で行った場所を通るたび、「ここから通りに出たら小学校だよ」とか、「ここに紅君は自転車を隠していたんだよ」と説明をする私に、嬉しそうな笑顔を向けてくれる。

 だがしばらく立ち止まり、周りの風景に目を向けるばかりで、自ら口を開こうとはしない。


 その沈黙が、やはり彼の記憶はそう簡単にとり戻せるようなものではないのだと告げているかのようだった。 


(ごめんね……)

 また謝罪の言葉を口にしそうになり、その思いを私は必死にふり払う。 


「どうしたの?」

 顔をのぞきこんで尋ねられたので、俯けていた顔を上げた。


「なんでもない」 

 精一杯の笑顔で答えた瞬間、柔らかな鐘の音が、冬の冷たい空気を震わせて、高い空に響き渡った。


 ぴたりと一瞬足を止めた紅君が、驚きに目を見開く。

「凄い……! 本当にこの音だ!」 


 クリスマスの日、私が感じたあの喜びを紅君も感じてくれたことが嬉しい。

「うん。そっくりでしょ? だから紅君が、あの時、教会の鐘の音が気になったのは、当たり前なんだよ」


 うんと頷いた次の瞬間、彼は私の手を引いて、先に立って歩き始めた。

「あの鐘が聞こえる先に、俺が昔住んでいた場所があるんだよね?」 


 ドキリと心臓が跳ねる。

「うん。でも、もうあそこには……」 


 言い淀む私に、紅君は頷いた。

「わかってる。建物自体も残ってないって……兄さんも何度か連れて行ってくれたことがあるんだ。たぶんあの場所だ……でも……やっぱりちいと一緒だと違う気がする」

「えっ?」


 驚く私に顔だけふり返って笑いかけ、紅君はもう一度前へと顔を向け直す。 

「頭の中の記憶じゃなく、体が覚えてる感覚……って言うのかな? ……こうして並んで歩くのが当たり前だったり、だったらこっちへ進むのが当然だったり……」

「紅君……!」

「ごめんね……思い出したわけじゃない……でも確かに、二人でいるのが自然なんだ……この風景の中でちいと一緒にいるのが自然だ」

「…………!」 


 浮かびそうになる涙を必死にこらえ、少し急ぎ始めた紅君の歩調に合わせ、私も懸命に歩く。

 私の手を引いて歩き続ける紅君の広い背中が、五年前のあの日、私を自転車に乗せて急いだ小学生の紅君の、小さな背中と重なる。

 五年の空白を飛び越え、二人であの日に戻ってこれたような気がした。

 だけど――。


 だからこそ恐くなった。


『希望の家』があった教会が少しずつ近づいてくる。

 私が道案内などしなくても、紅君は迷うことなく進んでいる。

 それはとても嬉しいことだが、同時に怖くなる。

 息をするのも苦しくなる。 


 逃げようとする足を励まし、萎縮する心を奮い立たせようと懸命に努力したが、どうにも辛くてたまらなくなり、土手が終わって長い坂道を国道へと下る途中で、私は震える声で紅君に呼びかけた。

「ごめんなさい……紅君……ちょっと待って……」 


「えっ?……」

 驚いたように紅君は足を止めた。 


「どうした? ……ちい? ……」

 背を屈めて私と目線をあわせてくれた紅君は、冷たい風に頬を赤くし、ちょっと息を弾ませてはいるが、いつもの彼だ。

 記憶のない彼には、この道に対して特別な感情はない。 


 だが私はそうはいかない。


 二人で事故に遭ったあの国道に近づくのが恐く、自分でも気がつかないうちに、涙が頬を伝っている。

 冷たい指先で何度も私の涙をすくう紅君に、自分の気持ちをうまく説明する言葉が見つからなかった。 


(行かなくちゃって思う……事故のあとも何度も、あの場所にもう一度行ってみなくちゃって思った……だけどどうしてもできなかった。できなかったの!) 


 紅君と二人で、毎日自転車で走った『希望の家』までの道。

 あの大好きな道が、私の中で恐怖の象徴となった日から、私は一度もその場所を訪れていない。


 だから私の中であの場所の風景は、いつまでも五年前の初夏のままだ。

 道路の中央に倒れた紅君に向かい、トラックがもう一度つっこんでいく光景のままだった。

 だから――。 


(無理だ。動けない)

 ぽろぽろと涙を零しながら、ぎゅっと目を閉じて俯いた私の両手を、紅君がそっと掴んだ。

 そのまま上へと持ち上げて、冷たくなった自分の頬に押し当てる。 


「俺はここにいるよ」

 優しい声に導かれるように、私は涙で濡れた目をそっと開けた。


 私のすぐ目の前で、大好きな人が微笑んでいた。

 頬に当てた私の手の上に、紅君はそっと自分の手を重ねる。


「ちゃんとちいの隣にいるだろ? だから大丈夫……もう何も心配しなくても大丈夫なんだ」 

 記憶がないのに、私は自分の気持ちを少しもうまく伝えられないのに、どうして紅君には、今の私に必要な言葉がわかるのだろう。


 五年もの間、長く私を苦しめてきた呪縛が、紅君の言葉により、掌に押し当てられた確かな頬の感触により、雪が解けるかのように消えていく。

 私の中からなくなっていく。

 

「紅君……」

「うん」

「紅君……!」


 自分から彼の顔をひき寄せて、夢中で頬を押し当てた私を、紅君が抱きしめた。

 その腕の強さが、私にまた、これが夢ではないという確信をくれる。 


「よかった……」

 全身で安堵して、ほっと息を吐いた私を笑い、紅君は顔を斜めに傾けてそっとキスした。 

「うん。よかった」


 くり返される言葉が嬉しくて、おかしく、ようやく笑顔になれる。

 私の涙を何度も拭い、紅君は再び歩き出した。 


「行こう」

 固く繋いだこの手を放さずにいられるのなら、もうあの国道も恐くはないと思えた。




 片側二車線の広い道路は、目の前にしたらやはり普通の道路だった。

 歩行者信号が青になるのを待ち、紅君と手を繋いだまま一気に渡りきったら、何がそれほど恐かったのかさえもうわからない。

 ふり返ってみても、道路の中央に横たわる小学生の紅君の姿は見えなかった。

 五年間もの間、長く私を苦しめてきた呪縛、それは他ならぬ紅君自身によって解かれた。


「……行くよ、ちい」

 立ち止まっていた私を呼ぶ声に、急いでもう一度歩きだす。


 高い塀が続く通りを右に曲がると、懐かしい教会の聖堂が私たち二人を出迎えてくれた。

 教会名と共に掲げられていた『希望の家』という木製の看板は、なくなっていた。

 他の壁とは少し色の異なる看板跡が、胸に痛い。

 私が俯いた瞬間に、繋いだ紅君の手に力がこもった。


「行くよ」

 手を引かれるまま、教会の敷地内へと入っていく。


 夏にこの街を訪れた時にも、紅君は教会に立ち寄っていたようで、園長先生のあとに牧師職を受け継いだという日本人の男性は、私たちを快く迎えてくれた。

「ようこそ……またお会いできて嬉しいです……」 


 紅君と握手を交わしながら、聖堂の奥の離れの住居部分へと誘ってくれようとする牧師に、紅君がやんわりと断りを入れる。

「ちょっと立ち寄っただけですから……」

「まあまあ……そんなことおっしゃらずに……!」


 二人の会話を耳だけで聞きながら、私は周囲に視線をめぐらしていた。

 以前『希望の家』があった場所は花壇になっていた。

 その代わりに以前畑があった辺りに新しく建てられた小規模な建物が、どうやら今の牧師が生活している住居らしい。


 三十代後半ぐらいの、独身一人暮らしだと語る牧師の家の前に、小学生ぐらいの男の子が立っており、私は首を傾げた。

(あの頃みたいに福祉施設があるわけじゃないのに……子供?)

 

 ちょうど紅君と牧師さんの会話も、そのことに言及し始めたところだった。

「いえね……あなたが来るのを楽しみにしていた者がいるんですよ……いや、私じゃなくって、この秋から養子にして、一緒に暮らし始めたばっかりの子なんですがね……」 


 こちらに気がついたその男の子が、はっとしたように歩み寄り始め、それまで見えなかった顔が見えてくるにつれ、私は思わず自分の口元を両手で覆った。 


 機転の利く賢そうな目。

 一言多いと、紅君によくたしなめられていた大きな口。

 楽しいことにもたいへんなことにも、いつもみんなを率先して真っ先に走り出していた元気な姿。

 五年の月日の間に、すっかり大きくはなっていたが、彼は確かに私と紅君のよく知る少年だった。 


「以前、ここの福祉施設にいた子なんですよ……だからあなたのこともよく知っていて、『会いたい! 会いたい!』って楽しみにしていたんです……おおい、翔太!」

 翔太君は牧師の呼びかけに従い、歩みを駆け足へと変えた。


「こう兄ちゃん!」

 満面の笑顔で駆け寄ってくる彼は、身長は高くなったけれども、容貌や雰囲気はまったく変わっていない。

 紅君のことが大好きで、誰よりも尊敬していた、『希望の家』で一緒に暮らしていた翔太君のままだ。

 だからこそ、私は焦った。


(紅君は翔太君を覚えていない!)

 あれほど紅君を慕っていたのに、それを知ったら翔太君がどれほど傷つくかと思い、私は思わず自分が先に歩み出る。 


「えっ? もしかして、ちい姉ちゃん……?」

 一瞬、翔太君が私を恨んではいないだろうかと心配もしたが、まったくの杞憂だった。

 いかにも男の子らしいやんちゃな表情をくしゃっと歪め、彼は目に涙を浮かべる。 


「なんだよ。よかった……ちゃんと元気でいるんじゃん! ……もうどこにもいないなんて、大人たちはみんな口を揃えて言うから、俺てっきり……!」

 腕でぐいっと涙を拭き去ると、にかっと私のよく知る笑顔になる。 


「二人で来たの? あれからずっと一緒にいるの? ひょっとして、つきあってるの?」

 私たちのほうがかなり年上だというのに、あいかわらずからかうように、矢継ぎ早に問いかける。

 その全てに、私は紅君より先に答えを返そうとし、かなり難しくて言葉に詰まった。

「ええっと……」 


 瞬間、うしろから誰かが私の肩をぐいっと抱き寄せた。 

「生意気言ってるんじゃないよ、翔太。今……四年生か……? どうだ? ちゃんと自分の仕事はサボらずに毎日やってるか?」


 翔太君の顔が、この上なく輝いた。

「あったりまえじゃん! 兄ちゃんと約束したんだから! それより兄ちゃんは……? ちい姉ちゃんにどうやって告白したの?」

「生意気!」 

 私たちに駆け寄ってきた翔太君の頭の上に、軽くふり下ろされた拳を、私は驚愕の思いで見つめた。


(紅君?)

 拳から腕へと視線を移動させ、私の肩を抱いている人――他ならぬ紅君の顔を、驚きの思いで見上げる。


(どうして? ……翔太君のこと……昔のこと……思い出したの?) 

 瞬間、紅君の綺麗な瞳を、様々な思いが過ぎったように見えた。

 私の顔を見つめながら、小さな声で彼が私を呼ぶ。


「ちい……」 

 その声が、つい先ほどまでより昔の彼の声音に近い気がする。


(まさか!)

 どうしようもなく私の胸は跳ねた。

 折しも再び鳴り始めた教会の鐘の音に負けないほどに大きく、ドキドキと心臓が私の中央で鳴り響いていた。

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