8.罰

 冷たい空気を感じさせる殺風景な病室で、静かにベッドに横たわる紅君の姿を見ていると、息が止まりそうになる。 


「大丈夫だよ……紅也は大丈夫……」

 学校からの連絡で駆けつけた蒼ちゃんが、震える体を支えてくれ、何度も言い聞かせてくれ、それでも私は流れ落ちる涙を止められなかった。 


 何の前触れもなく突然に、紅君は私の目の前で倒れた。

 あの唐突さも、勢いの激しさも、思い出すだけで恐くてたまらなくなる。

 見えない何かに、あっという間に紅君を連れ去られてしまいそうで、今度こそもう二度と会うことができなくなりそうで、恐怖はいつまでも私の心から消えなかった。


「例の事故のあと、こういうことは何度かあったんだ。最近はあまりなくなってたけど……どうやら紅也は事故の時頭を強く打ったらしくて、子供の頃の記憶が飛んでるのもそれが原因だ……時々こんなふうに倒れることもあるけど……大丈夫……僕が保証するよ、紅也は大丈夫」 


 執拗に『大丈夫』をくり返す蒼ちゃんが、私の不安だけではなく、彼自身の不安も払拭しようとしていることはあきらかだった。


(うん……うん……)

 蒼ちゃんの心の負担を減らすためにも、きちんと返事をしたいのに声が出ない。

 私の喉は奥までカラカラに乾いている。

 震える両手を握りあわせ、胸の前できつく組むことしか、できることはなかった。 


 私を昔の呼び名で呼んだ紅君が、記憶をとり戻したのか、何かを思い出したのか、確かめたいことはいくつもあったが、今はどうでもいい。 


(……どうして倒れたのかさえ本当にはわからない紅君が……もう一度目を覚ましてくれるなら……それだけでいい!)。

 心の中で、私はずっと祈り続けていた。





「こんなにすぐ、また千紗ちゃんに会うとは思わなかった……なんだか僕って……やっぱり格好悪いね……」

 自嘲ぎみに呟く蒼ちゃんの声に、私はずっと俯けていた顔を上げた。 


「蒼ちゃん……?」

 紅君が眠る病室の前の廊下で、呆けたように長椅子に座りこみ、いったいどれほどの時間が過ぎたのだろう。

 紅君が倒れた瞬間の光景を、目が開いているのか閉じているのかもわからなくなるほど何度もくり返し思い出していた私の目に、やっと現実の風景が見え始める。


 目の前に、さし出されたペットボトルがあった。

 ゆるゆると視線を上げてみれば、座りこんだ私を見下ろして蒼ちゃんが立っている。


 ずっと隣にいたはずなのに、いったいいつの間に飲み物を買ってきてくれたのか。

 彼がいつ立ち上がったのかさえ、今は思い出せない。 


「はい。これ飲んで……じゃなきゃ千紗ちゃんまで倒れちゃうよ……」

 いつもよりぎこちない笑顔が胸に痛かった。


 ほんの数時間前に酷い別れ方をし、もう会わす顔さえないと思っていた人が目の前にいる。

 今度会ったら居たたまれない思いをするとばかり思っていたのに、いざ蒼ちゃんを目の前にすると、やはりほっとする気持ちが大きかった。

 不安に押し潰されそうな今、他の誰でもない彼が一緒にいてくれてよかったと、心から思う。 


「結局、紅也が望んだとおりになったな……凄く怒ったんだよ、あいつ……僕が『千紗ちゃんとしばらく会わないことにした』って言ったら、『兄さんがそんなことする必要ない!』って……それで、気がついたら家の中のどこにもいなくて……急いで千紗ちゃんに会いに行ったんでしょ? ……だったら紅也が倒れたのは、僕のせいだね……」 


「蒼ちゃん!」

 思わずさし出された飲みものではなく、それを持つ蒼ちゃんの腕を掴んでしまった。

 まるで平素とは別人のように、悲しく笑う蒼ちゃんの表情が胸に痛い。 


「蒼ちゃんのせいなわけない! 紅君が倒れたのが誰かのせいだって言うんなら……それはもちろん私のせいだよ!」 

 国道に飛び出そうとした私を、急いでひき止めたせい。

 思いがけず昔の記憶が頭を掠め、ひどく混乱したせい。

 過去を知っているくせに私が口を噤み、何食わぬ顔で彼の近くに居続けたせい。

 いや、そもそも私が紅君と出会い、自分の不幸に彼を巻きこんでしまったせいだ。 


「違うよ」

 心の中だけで挙げ連ねていたつもりだったのに、蒼ちゃんは言葉にして、私の思いを否定した。

 まるで、私が何を考えたのか全てわかっているかのように、すっと表情を固くひき締め、これまでより自分の言葉に重みと真実味を持たせる。


「千紗ちゃんと出会ったことを、紅也は後悔してない。君を守ろうとしたことは、あいつにとって、とても大切なことだった。だから悔やんでなんかいない……まちがいなんかじゃない!」

「でも!」

 まるで本人から伝えられたかのように、蒼ちゃんに紅君の思いをきっぱりと断言され、涙がこみ上げる。


「君が気にすることはない……責任を感じることはないんだ……」

「だけど……!」

 それでも自分を責めずにはいられないと、私が頭を振ろうとした時、扉の向こうで異変が起きた。


「に……いさん……?」

 掠れた小さな声が聞こえたので、私はとっさに長椅子から立ち上がる。


 私が一歩を踏み出す前に蒼ちゃんはもう身を翻し、扉を開けるのももどかしい勢いで病室の中へ駆けこんでいた。

「紅也!」 


 蒼ちゃんのうしろから、私も部屋へ踏みこむ。

 ベッドの上から紅君のあの綺麗な瞳が真っ直ぐにこちらを向いている光景が見え、泣きそうな気持ちになった。 


(ああ、またもう一度、紅君に会えた!)

 それだけで、もう他には何もいらないと思った。 


「どうしたの……? そんなに血相変えて……」

 薄く笑いながら蒼ちゃんに問いかけた紅君は、顔色は悪くても、ずいぶん明るい表情をしていた。

 緊張でずっと顔を強張らせていた蒼ちゃんが、ついつられて笑ってしまうほどだった。


「どうしたのって……まいったな……そんなにさらっと言うなよ……こっちは本当に心配したんだから……」

「うん、わかってる。ごめん……」 


 紅君へ歩み寄った蒼ちゃんは、彼の手を取って脈を看たり、ベッドの周りに置かれた様々な計器に次々と目を向けたりしている。


(そういえば、蒼ちゃんって医学生だった……)

 今さらのように、私はそういうことをぼんやりと思い出していた。 


「気分はどう? どっか痛む?」

 蒼ちゃんの問いかけに、紅君はゆっくりと首を横に振る。

 そうしながら私のほうへ視線を向け、ふいににっこり笑った。


 再会してからは一度も見ることのなかった、まるで子供の頃の彼のような曇りない笑顔に、心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。

(え……紅君?)


 しかし次の瞬間、紅君は私の顔を見ながら、信じられないような言葉を口にした。

「……誰? 兄さんの彼女? はじめまして、弟の紅也です。こんなみっともない格好で、すみません……」


 ガツンと何か硬いもので一発、後頭部を殴られたような気分だった。

(な……に……? どうして……?)


 混乱しきって頭が回らない。

 なのに心臓は私の体の中心で、早鐘のように鳴り響いているし、体中からどんどん血の気は引いていく。 


「紅也……? お前……!」

 だけど蒼ちゃんが驚きの声を上げた瞬間、その声をかき消すような勢いで私は叫んでいた。

 そうしようとか、そうしたいなどと頭で考える前に、勝手に喉から声が出ていた。

 

「蒼ちゃん!! 私、お医者様を呼んでくるから!」

 驚きに見開いた目を、紅君から私へ移した蒼ちゃんに、必死に首を振ってみせる。 


(今は紅君を混乱させるようなことは言わないで! 私のことはどうでもいいから……)

 決して口に出しては言えない思いを、なんとか蒼ちゃんに伝えようと懸命に首を振る。


 蒼ちゃんは小さく息を呑み、頷いた。

「うん、頼むよ千紗ちゃん……」 


「いったいいつの間に?」とか「兄さんも隅に置けないな……」と、掠れた笑い声で囁く紅君の言葉を背後に聞きながら、私は病室をあとにした。 


(これは悪い夢……? それとも私に与えられた罰?)

 はり裂けそうな胸でそういうことを考えながら、静かな病院の長い廊下を、どうしようもない喪失感を抱えて呆然と歩いた。





「特定の何かについて記憶が抜け落ちてしまうこと自体は、それほど珍しいケースではありません。それがある出来事に関してだったり、人物に関してだったり、症例は様々ですが……あまりにもそのことばかりを考え過ぎてということは、おおいに考えられます。特に彼の場合は、過去に頭を強く打っていますから……突然どんなことが起こっても、おかしくはない……」


 紅君を診てくれた医師が苦しげに説明をする間、私はずっとその人の水玉模様のネクタイから目を離さなかった。

 目頭が痛くなるほど、延々と見つめていた。

 視線を上げると、目にいっぱい溜まった涙が、零れ落ちてしまいそうだった。 


 目に見えている状態より、紅君の事故の後遺症は決して楽観視できないのだと、改めて専門の人の口から聞かされ、胸が塞ぐような思いがする。

 本当に二度と目を覚まさない可能性もあったのだと考えれば、今回倒れたことで紅君が失ったものなど、些細だと思えた。

 それが私に関する一切の記憶だとしても――。





 病院からの帰り道。

 以前は紅君と乗っていた電車に蒼ちゃんと乗りこみ、言葉を交わさないままに時が過ぎた。

 降りる駅へ着いても動かない私を気遣い、蒼ちゃんは重い口を開く。


「千紗ちゃん……」

 言葉を発さず、ただ視線だけを上向けた私に、蒼ちゃんは手をさし伸べた。 

「行くよ……帰ろう……」


 まちがえることなくこの手をあの時も取っていたら、紅君は私に関する最近の記憶だけでも留めておいてくれたのだろうか。

 そして私たち三人の微妙だけど優しい関係は、まだ続いていたのだろうか。


 未練がましくそういうことを考える自分が嫌いで、私は蒼ちゃんの手を取らなかった。

 頭を左右に振り、自分の力だけで座席から立ち上がった私に、蒼ちゃんは何も言わず、先に立って電車を降りる。


 あとに続く私をふり返らず、そのまま改札口へ向かって歩きながら、励ますような言葉をかけてくれた。 

「大丈夫だよ……もう少しして紅也の容態が安定したら、千紗ちゃんのことは僕から話す。今度はちゃんと、紅也の大切な女の子だよって、最初から説明するから……」


「だめっ!」

 思わず叫んで足を止めた。


 蒼ちゃんも驚いたように立ち止まり、そして初めて私をふり返る。

 ぶ厚い眼鏡の向こうの優しい瞳に向かい、私は懸命に訴えた。 


「いいの! もういいの! 紅君は私のことを忘れたままでいい!」

 私の言葉に、蒼ちゃんの顔が苦しげに歪む。

 それでも私は言葉と一緒に零れ落ちた涙を手の甲でぐいっと拭い、毅然と顔を上げ続けた。 


「昔を思い出そうとしなければ、紅君が倒れる可能性も低くなる……私と会わなければ、わけのわからない感情にとまどって、苦しむこともない……だからいいの、もう紅君とは会わない!」 

「千紗ちゃん……でも!」


 蒼ちゃんが私の言葉を訂正し、私の気持ちを取り成してくれようとすることはあらかじめわかっていた。

 だから彼がそれ以上言葉を発する前に、私は蒼ちゃんの横をすり抜けて駆けだす。


「千紗ちゃん!」

 呼び止めようとはしても、追いかけることは躊躇しているらしい様子にほっとしながら、そのままスピードを上げた。 


「千紗ちゃんっ!!」

 蒼ちゃんの激しい叫びにも、もう二度とふり返ってはいけないと思った。


 どだい無理な話だったのだ。

 自分のせいで不幸にしてしまった紅君の、せめて傍にいたいなど。

 思い出してもらえないまでも、姿だけは見ていたいなど。

 そういう願いを胸に抱えているくせに、蒼ちゃんの優しい腕も失いたくなかった私――。


(だからバチが当たった……身のほど知らずの私に下された――これは罰だ!)


 息が上がるほどに夢中で駆けながら、歯を食いしばって泣いた。

 叔母さんたちの弁当屋へ向かってひた走る私の視界を、切ない思い出が詰まった景色が通り過ぎる。


 紅君と再会した公園、一緒に見上げた桜の木、少し離れて歩いた駅までの道。


 時折彼が発する、昔を彷彿とさせる言葉に、何度もドキリとさせられた。

 以前とは変わってしまった寂しげな笑い顔を見るたび、どうしようもなく胸が痛かった。


(紅君……紅君……!)


 何故神様はいつも、紅君の記憶と共に、私の記憶も奪ってくれないのだろう。

 私一人がいつも、彼は失くしてしまった思い出を抱え、生きていかなければならない。

 苦しい思いを我慢し、それなのにこれからも、普通に生活していかなければならない。

 それでも――。


(紅君が無事ならそれでいい……他には何も望まない!)

 彼が意識を失っていた間、祈るようにくり返した気持ちは本当だ。

 だからこそ改めて、私は決意する。 


『もう紅君と会わない』


 蒼ちゃんに宣言した言葉を、確実に現実のものにしようと、夜空に瞬く星に誓った。

 固く誓った。


 苦しい息をこらえて懸命に駆ける私を、満天の空を埋め尽くすように輝く星々が、遥か遠くからそっと見つめる。

 しかし何の音もしない。

 紅君と一緒にいるといつも感じていた優しい風が、もうわからない――ひどく切ない夜だった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る