第五章 輝色の聖夜

1.冬の日の邂逅

 照りつける夏の陽射しは遠くなり、いつの間にか吹き抜ける風にも秋の深まりを感じるようになった。

 紅君が私を忘れて三ヶ月。

 私は本当に一度も彼と会うことはしなかった。 


 叔母たちの弁当屋を毎日訪れる蒼ちゃんも、その習慣をやめたわけではないが、私が店番をしている時間に無理に合わせはしない。

 だから偶然に顔を会わせた時だけ、短い会話を交わす。


「ひさしぶり……元気?」

「うん……蒼ちゃんは?」

「ああ。元気だよ……」


 どちらも決して紅君の名前は出さなかった。

 けれど蒼ちゃんがあえて話題に出さないことが、紅君も元気な証なのだと私は解釈している。


 紅君は結局、学校を辞めなかった。

 だから一年生の教室をのぞきに行けば、その姿は見られる。

 元気にしているか、自分の目で確かめられる。

 しかし、それは自分には禁じられた行為であるかのように、私はかたくなに彼と会うことを拒んだ。 


 登下校の電車も、時間をずらした。

 時間調節のために時々立ち寄る美久ちゃんの部屋で、紅君の噂話が出ることはあったが、最近では誰も私をからかわなくなった。

『私には関係ない』と顔色一つ変えず、意固地に首を振り続ける私に、みんなすっかり閉口している。 


「だったら本当に、私が狙っちゃうからね?」

「いいよ」 


 私を焦らそうという意図が見え見えの美久ちゃんの言葉にも、淡々と頷いた。

 たとえ胸がはり裂けそうに痛くても、その本心は誰にもバレなかったと自負している。 


(いつか忘れられる……時間が経てばきっと……)

 呪文のように心の中でくり返す言葉が、どれほど無意味なものなのか、誰よりも自分がわかっていた。

 紅君と出会ってから五年。

 ただの一度として彼を忘れられなかった自分が、これからも変わらないことは、明白だった。





「ねえいいでしょ? どうせ予定なんてないんだろうから……」

「失礼だな。私にだって……」

 無邪気に問いかけてくる美久ちゃんに、口を尖らせながら反論しようとしたのに、その先の言葉が何も浮かばない。

「なによ、やっぱりないんじゃない……じゃあ決まりっ! ねっ? 千紗も参加!」


 煌びやかなイルミネーションに街が包まれる頃になると、夜の教室は毎夜、クリスマスにおこなわれるパーティーの話題で持ち切りだった。

 十二月二十四日から二十五日に日づけが変わる夜に、学校でパーティーをしてしまうのは夜間学校ならではだ。 


「去年も一緒に楽しんだじゃない……たった四人しかいない女子なんだからさあ、一人でも減っちゃうと男子ががっかりするって!」

「そうかなあ……別に私なんていなくても……」

「いいから! 私たちと騒ぎたくないの? 決定! もう決定だからね!」

 教室のうしろに大きく貼りだされた出欠を問う用紙に、美久ちゃんはさっさと私の名前も書き連ねてしまう。


(まあいいか……)

 油性ペンで名前を書いた周りに、赤ペンで花まで書かれてる自分の名前を見ながら少し笑った。


 最近ではこうして笑顔にもなれるようになった。

 優しい叔母たちが気遣ってくれるおかげ。

 楽しい仲間たちが賑やかにとり囲んでくれるおかげ。

 そしてまるで以前と変わらない笑顔で、蒼ちゃんが時々会いに来てくれるおかげ。


 いつの間にか紅君と再会する前の日常に、戻りつつある自分に、自分で驚く。

 胸の奥に燻る痛みは、きっと一生忘れられないだろうが、何もなかったように暮らすことはできる。

 努力して忘れようとし、淡々と平穏に過ごすことはできる。


(これでいい……きっとこれでいい……)

 まるで自分に言い聞かせるかのように、私は本音をいつもひた隠しにしていた。


 けれど必死に押し殺した想いは、少しのきっかけですぐ溢れだしてしまう。

 小さな努力の積み重ねを、わずか一瞬で壊す。

 紅君に対する私の想いは、いつもそういう激しいものだった。

 自分でも手に負えないほど、熱く激しいものだった。




 恋人たちが人気のデートスポットで愛を語り、子供を中心とした家庭ではサンタクロースが活躍する聖夜。

 日頃は、飾りけのない蛍光灯の下で私たちが勉強に励む教室も、華やかな電飾で、綺麗に飾りつけされた。

 中央に据えられたのは、天井まで届きそうなほど巨大なツリー。 


「これって昼の奴らが使ったのを、そのまま残していってくれたんだって」

 男の子の説明に、私は感慨深く頷いた。


 私たちの通う夜間学校は、昼間は普通の高校として、夜とは比べものにならない数の生徒が学んでいる。

 午前中で終わる終業式の日。

 午後から賑やかなパーティーがおこなわれた余韻が、教室のそこかしこにまだ残っている気がした。 


「俺たちも負けないぐらいに盛り上がろうぜ!」

 しっかりと二時間の授業がおこなわれたあと、注文したり持ち寄ったりした料理と飲み物を、くっつけた机の上に並べて、総勢十三名でのクリスマスパーティーは始まった。

 入学してから一年九ヶ月を共に過ごしたクラスメートたちは、年齢も昼間の職業もバラバラだ。

 だが総じて頑張り屋で明るい子たちが揃っているのは、女子に限ったことではない。 


「千紗ちゃん食べてる? もっと食べて! ほら飲んで!」

 未成年者もいるためお酒は禁止の中、強引に勧められるのはジュースのはずなのに、自分よりかなり年上のクラスメートに言われると、お酒のような気もしてくる。 


「おいしい! 長岡んちのオードブルセット、うまい!」

「えっ! 俺も! 俺も!」

 大皿に盛られた叔母たちの惣菜を褒められれば、私も悪い気はしなかった。

 いい匂いを電車の中に充満させながら、苦労して学校まで運んだ甲斐がある。 


「決めた! 俺は長岡と結婚してこの弁当屋を継ぐ!」

 声高らかに宣言した男の子が、他の子にもみくちゃにされる光景を見ながら、私も美久ちゃんたちと一緒に声を上げて笑った。

 なんの気負いもなく、こういうふうに普通に笑えたのは、ずいぶんひさしぶりだった。 


「ほーらね。参加してよかったでしょ?」

 普段よりさらに綺麗なメイクの美久ちゃんに、顔をのぞきこまれるのでなおさら笑顔になる。 


「うん。そうだね」

「元気出せよー千紗! きっといいこともあるって!」

 ポンポンと肩を叩いてくる若菜ちゃんや理香子ちゃんも、ずっと私を心配してくれていたのだと、今さらながらに知った。 


「うん。ありがとう」

 あまり女の子ばかりで固まっていると、男の子から抗議の声が上がる。 


「こら、そこ! 女の子が固まらない!! 他のテーブルが全部寂しいことになるだろ!」

「テーブルって……ただの机じゃん! つ・く・え!」

「うるさいっ! こういう時は雰囲気重視! だからここも教室じゃなくって、いい雰囲気の高級レストラン! 俺たちは今、パーティールームを貸し切り中!」

「なんだそれ! どこにそんな金があるんだよ」

「ないから、脳内補完してんだろ!」

「ぎゃははは! お前、ジュースで酔っぱらってるんじゃないの?」 


 止まることなく続く楽しい会話に、笑ったり口を挟んだり、本当に楽しい夜だった。

(学校ってこんなに楽しいものだったんだんだな……)

 この学校へ通うようになり、再認識したことを、今日もまた私は何度目か思った。




 十一時が過ぎても男の子はまだ盛り上がっていたが、私の帰りの電車がなくならないうちに、女の子四人は先に帰ることにした。

 夜の校庭を歩いていると、校舎の別の場所からも、賑やかな声が聞こえてくる。

 私たち二年生ばかりでなく、一、三、四年生もパーティーをしていた。 


「ねえ千紗……本当に一年生のところに行かなくていいの?」

 夕方から何度も、さんざんくり返された同じ質問に、私は溜め息を吐きながら首を振った。

「いい」 


「えーっ……だってぇ……」

 それでも食い下がろうとする美久ちゃんを、若菜ちゃんがそっと手で制す。

「美久……いい加減にしなって……千紗も困ってるよ」

「だって…………」


 ぷうっと頬を膨らます美久ちゃんは、もしかすると本当に、自分が紅君に会いたいのかもしれない。

 そう思うと胸のどこかがチクリと痛むことは確かだったが、私は精一杯なんでもない顔を作り、美久ちゃんをふり返った。 


「行きたかったら美久ちゃんどうぞ。私は行かないけど……」

「なによぉ! 千紗の意地悪!」

 怒った美久ちゃんは、みんなを置いて早足で進んだが、ほんの少し前進しただけで、すぐに歩みを止めた。

 少し困ったように首を竦め、私をふり返る。

「千紗……」 


 何があったのかを説明されるまでもなく、私の目は、次の瞬間にはもうその人の姿を捉えていた。

 数人の友人たちに囲まれながら、数十メートル先を歩いている明るい色の髪。

 いったいどれぐらいぶりだろうと思っただけで、泣きだしそうになる自分を必死に抑える。


(ああ、本当に元気そうだ……よかった……笑ってる……)

 それだけを確認し、もうこれ以上は自分には許されないと背を向けた瞬間に、背後で美久ちゃんの大声が聞こえた。 


「ねえちょっと紅也君! 片桐紅也君!」

 ぎょっとしてふり向き、しまったと思った。

 訝しげにこちらを見た紅君と、ちょうど目があってしまった。


「あれ? ひょっとして……」

 自分の名前を呼んだ美久ちゃんではなく、そのうしろの私を見つめる紅君の表情が見る見る変わっていく。


(ダメだ……ダメ……!) 

 息をするのも苦しくなるほど頭の中ではくり返しているのに、よくわかっているつもりなのに、目を離せない。

 紅君から視線が逸らせない。


 そこには懐かしい笑顔があった。

 私のことを『ちい』と彼だけの呼び名で呼んでいてくれた頃の、あの大好きな笑顔があった。




「兄さんから同じ学校だって聞いてたけど、全然見かけないから不思議に思ってたんだ……学年が違うとこんなに会わないものなんだね……」 

 本当は私が懸命に紅君を避けていただけで、普通にしていたらもっと早くに会っていただろうということは、とても正直に言えない。 


「うん……」

 短く返事をする私に、紅君はちらちらとうしろをふり返りながら問いかける。

「お友だち、本当によかったの? 俺、邪魔しちゃったんじゃない?」 

 

 あれほど『会いに行こう!』と息巻いていた美久ちゃんは、実際に紅君が私たちの前に現われたら、『あとは二人でごゆっくり!』などと言いながら、若菜ちゃんたちといなくなってしまった。

 やはり私を紅君に会わせたかっただけなのだと、彼女の本音を知る。


 紅君も、病院で目覚めた時以来三ヶ月ぶりに会った私に、『話をしたかったんだ』と友だちとはあっさりさよならしてしまった。

 電車に乗って帰る町も同じな以上、駅までの道もその先も、必然的に二人きりが確定で、私は焦る。 


(早く! 早く紅君から離れなきゃ!)

 私が傍にいたら彼に災いが起こるという強迫観念を、私はどうしても捨てきれなかった。 


「兄さんの彼女ってわけじゃなかったんだね……『僕の勝手な片思いなのに!』って、あとで散々怒られたよ……」

 少し笑い混じりの声で、蒼ちゃんの話をする紅君は、倒れる前より昔の紅君に近い気がした。


 思わずその横顔を見上げてしまう。

 明るくて強くて優しかった子供時代の彼。

 あの頃の紅君が帰ってくるのなら、私のことなど忘れてしまったままで構わないと、つい願った。 


「何?」

 ふいに視線を向けられるから、ドキリとして目を背ける。

「なんでもない……」

「そう……」


 クリスマスの街は一日限りの煌びやかな装飾に輝いており、いつもの通学路もまるで夢の世界への入り口のようだ。

 だからすっかり忘れていた恐怖を、紅君が軽くこめかみに指を当てて立ち止まった瞬間、私はふいに思い出し、背筋がゾッと寒くなった。


「どうしたの紅君! どこか痛む?」

 叫んだ私を、紅君は驚いたように見返す。

 でもその表情は、見る見るうちに見惚れるほどの笑顔へ変わった。 


「頭がちょっと痛んだ気がしたけど、大丈夫……たいしたことない……それよりもその呼び方」

 はっとして両手で口を覆っても遅い。

 焦った時に、私がうっかり彼を昔の呼び名で呼んでしまったのは、これでもう二度目だ。 


(なんて馬鹿なの……! 本当に、自分で自分が嫌になる!)

 悔しくて、腹立たしくて、唇を噛みしめて俯く私の耳に、紅君の声が聞こえてくる。 


「なんだかしっくりくる……おかしいね……会ったのなんて今日で二回目なのにね……」

 思いがけない言葉に顔を上げると、私を見下ろす紅君と目があった。

 とても不思議そうに、だがそれにも増して私に答えを求めるかのように、注がれる視線から逃げられない。 


(二回目なんかじゃない! 私は子供の頃から、紅君をよく知っている! あの頃だって今だって……私は紅君が大好きで……!)

 口に出して言えたらどれほどいいだろう言葉を全て呑みこみ、私は紅君へ頭を下げた。 


「ごめんなさい……やっぱり今日は美久ちゃんの家に泊まるから……一緒には帰れない……」

 それだけ言い、紅君の返事も待たずに駆けだすのが精一杯だった。

 溢れんばかりに浮かんだ涙がなんとか目から零れずに済む――私の限界だった。


 紅君は私を覚えていないのに、短いやり取りの中にもまちがいなく流れる穏やかな空気が、昔のままで、懐かしく、胸に痛かった。




「やっぱりおせっかいだったかな……ごめんね千紗……」

 真っ赤に泣き腫らした目で玄関の扉を叩いた私を、美久ちゃんは申し訳なさそうな顔で出迎えた。


 心の中に溜めこんだ悲しい思いを、一人で抱えていることが苦しく、私は美久ちゃんに、本当は紅君を子供の頃から知っていることと、紅君が私に関する記憶を二度も失くしてしまったことを打ち明けた。


「そうか……ごめん……」

 しゅんと肩を落とした美久ちゃんは、台所へ行ってミルクを温めると、それを持って私のすぐ隣に腰を下ろした。 


「記憶が戻りかけたらまた彼が倒れてしまいそうで……千紗が恐いって思う気持ちはわかるよ」

 膝を抱えて座りこんだままの私は、その膝の上に額を乗せ、美久ちゃんの話を聞く。


「自分と会わなければいいんだって……逃げようとする気持ちもわかる……でも……」

 突然変わった声音に、私はつられるように顔を上げた。

 美久ちゃんは手にしていたミルクの入ったカップを、すっと私へさし出した。 


「どんなに千紗が避けたって、結局今日みたいに会うでしょ? ……いくら逃げようとしたって、彼は千紗のことを少しずつ思い出すんでしょ? ……それって……」

 言葉を区切り、美久ちゃんは照れ臭そうに笑った。

 だがその瞳は、とても真剣だった。 


「なんだかもう『運命』みたいに私には思える……ちょっとうらやましいな」


(私と紅君の関係は、そんなにいいものじゃないよ!)

 いったんは口にしかけた言葉を、私は声に出せなかった。

 他の人にそういうふうに言ってもらい、嬉しい気持ちと恐い気持ちが渦巻く中に、紅君に「好きだ」と言われた時の、この上なく幸せな気持ちがあった。

 ずいぶんひさしぶりに、私はあの時の素直な感情を思い出した。 


『うん。俺も大好き! ちい!』

 そう言って、握りしめられた手の温かさ、柔らかさ。あの幸せを、五年ぶりに体の感覚として思い出した。 

(紅君……!)


「運命なんじゃないかな……」

 ロマンチストな美久ちゃんによしよしと頭を撫でながら何度もそうくり返され、ぽろぽろと頬を伝って落ちる涙が止まらなかった。


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