三章 3-2

     *     *     *



「……う」

 寝苦しさに呻きながら譲は目を開けた。肩から胸の上に誰かの腕が乗っていて、眉を寄せながら払い落とす。それに抗議するように頭の上からくぐもった声が聞こえ、譲は目を瞬いた。ようやく頭が回転し始め、のろのろと上体を起こすと思いの外近くに雪が横たわっていて、ぎょっと目を剥く。

「……おい、雪」

 何故隣で寝ているのかと含ませて言えば、雪は煩そうに顔を顰めた。

「んん……あと五分……」

「五分じゃねえ。起きろ」

 毛布越しに軽く蹴飛ばすと、まだもごもごと何かを言っていた雪は、不意にぱちりと目を開けた。次いで勢いよく起き上がり、譲は思わず仰け反る。あまり寝起きのよくない譲には、起き抜けに今の雪のような動きは無理だ。

 雪は確かめるように自分の手を見て、ほっと息をつく。

「……よかった。戻って来られた」

 独り言だったのだろうが、譲は目を見開く。

「まさか、戻れなかったかもしれなかったのか?」

「いやいや、可能性の話。一回目と違って、夢が壊れただろ? ちょっと心配だったんだけど、戻って来られたんだからいいことにしよう」

「いいことにしようって……」

 譲が目を眇めたとき、三毛猫がひょこりと顔を出した。

「お目覚めですか、セツさま」

 雪は玉藍を引き寄せて頭を撫でる。

「うん。ありがとう、玉藍」

「ご無事のお戻り、何よりです。お役に立てれば幸いです」

 玉藍が揺らす尻尾を見ながら、譲は呟いた。

「……これで、よかったんだよな?」

 雪は玉藍を撫でながら頷く。

「うん、多分。きっと」

「そこは言い切れよ」

「確証もないのに断言できないだろ。今から大学病院に行くわけにもいかないし。―――なんにせよ、譲が夢に残るとか言い出さなくて良かったよ」

「そんなこと言わねっての。夢より現実の方がずっとましだってわかった」

 雪が何か言いたげな顔をしたが、唇から言葉が出る前に玉藍が彼の膝から飛び降りた。

「セツさま、わたしは朝餉の支度をして参ります。できたらお呼びしますので、お待ちください」

「うん、頼むよ」

 ぴょこんと頭を下げて玉藍は部屋を出て行った。ゆっくりと扉が閉まり、三毛猫が必死に扉を押している様子を想像して少々微笑ましく思いながら、譲は改めて雪を呼んだ。

「雪」

 眠そうに欠伸をしていた雪は口を閉じて譲を見た。

「うん?」

「ありがとう。助かった」

「へ?」

 姿勢を正した譲が頭を下げると、雪はぽかんとした顔になり、少しの間を置いてみるみる真っ赤になった。

「だっ……な、いや、だから、俺の都合っつったじゃん。礼を言われる筋合いはない」

「いいよ。俺が言いたかっただけだ」

「い、言い逃げかよ。第一、山城由香子が目を覚ましたと決まったわけじゃないんだぞ」

 てっきり由香子が目覚めたのだと思い込んでいた譲は目を見開いた。たしかに確認したわけではないが、これで目を覚ましていなかったら、譲にはもう打つ手がない。

「おま……そういうこと言うなよ。台無しじゃねえか」

「うっさい。―――まだ時間あるよな。寝直し寝直し」

 話を断ち切るように言い、雪はベッドに上ると壁の方を向いて毛布を被ってしまった。

(礼を言われ慣れてないのかね)

 本気で照れているのがおかしくて忍び笑いを漏らしていると、無言で腕だけが動いてクッションが飛んでくる。それを受け止めて投げ返し、自分も眠ろうと横になる。

 雪に感謝しているのは本当だ。宮城に越してきて、もし雪と壱矢がいなかったらというのは、想像もしたくない。幻覚だと思い込んでいた見鬼のことも、繰り返す悪夢のことも誰にも相談できずに、本格的に身体を壊すか、酷くすれば精神を病んでいたかも知れない。

(由香子だけじゃなく、俺の命も助けたてくれたんだ)

 それを指摘しても雪は、自分の都合だ、譲のことなど知ったことではないと言い張るのだろう。丸くなっている背中を眺めてひっそりと苦笑し、譲は目を閉じた。まったく眠った気がしないので、朝食までに少しでも眠れればと思う。

(そういや、今何時なんだろ……)

 この後、結局二人とも熟睡してしまい、呆れた玉藍に叩き起こされることになる。

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