三章 3-1
3
夢の中だと気付いた瞬間、小枝や小石が飛んできた。
「うわ、っと、痛てっ」
譲と合流したいのだが、立ち止まったままでは全部
(また玉砂利が飛んでくる前になんとかしないと……譲はどこだろ)
考えている間に飛んできた鉄パイプが建物の角に当たって地面に落ち、けたたましい音に雪は思わず首を竦める。すると、譲が滑り込んできた。
「よかった、無事だな」
「譲……と、由衣子さん?」
「え?」
気付いていなかったようで、譲は首を巡らせた。彼の周囲を、子供の拳ほどの大きさの光がふわふわと漂っている。人の形を取ることすら難しいくらい消耗しているのかも知れない。
光は二人を招くように揺れ、通りへ出て行った。しかし、相変わらずゴミなどが壁にぶつかっている。
「やっぱ俺を狙ってるよな。譲、フェンシング技でなんとかならない?」
「なるわけねえだろ。人相手ならともかく、四方八方から飛んでくるのなんて」
「駄目か……」
言いながら雪は光が向かっていった方向を覗き込んだ。そこへ丁度空き缶が飛んできて、慌てて首を引っ込める。追いかけるように飛んできた道路標識が壁に突き刺さり、破片を撒き散らした。
「あっぶね」
「そういや、ここで死んだらどうなるんだ?」
「玉藍は、夢殿での死は精神の死っつってた。まあ、よくて廃人じゃね?」
「おまえ、さらっと……」
「そうならないように俺がいるわけだし。攻撃対象も俺だけど」
「……わかった、とっとと決着をつけるしかないってことだな。山城姉妹はどこだ。最初は雪が見える場所にいるんだから……」
すうっと戻ってきた光が譲の言葉に同意するように瞬く。光は一度大きく旋回すると、再び通りの向こうへ飛んでいった。そちらを目で追えば、雪たちと同じ年頃の少女が二人、連れだって歩いている。
「あれか?」
雪が言うのと同時に、片方の少女が不意にこちらを向いた。忌々しげに睨む視線とぶつかり、雪は奥歯を噛みしめる。―――ここでは逃げ場がない。
壁に突き刺さったままの道路標識が震えだした。見えない巨大な手が力任せに引き抜いたかのように大きく上方へ飛び上がり、そのままの勢いで真っ直ぐに雪へと向かってくる。弾き飛ばそうと印を結ぶが、間に合わない。
「……っ」
「雪!」
飛び出した譲が掬うように鉄パイプを拾い上げ、標識を叩き落とした。衝撃を相殺しきれなかったか、譲も鉄パイプを取り落とす。痛そうに顔を顰めた彼は少女へ向かって叫んだ。
「もうやめろ! 君だって、ほんとは気付いてるんだろ!?」
少女は雪を睨んだまま立ち尽くす。譲は彼女と相対するように歩道へ出て更に続けた。
「これは夢だ。事故からもう四箇月以上経って、外じゃもう夏なんだ。親御さんが君が目覚めるのを待ってる。君の好きな花を飾って、病室でずっと待ってる!」
無言で二人を凝視していた少女は、堪えきれなくなった様子で声を上げた。
「うるさい!」
その瞬間、文字通り景色が色を失った。たった今まで動いていた人や車、降りしきる雪片までもが動きを止めている。
「これで何度目だ? 延々同じ夢を繰り返し……」
「うるさいうるさいうるさい―――!」
譲の言葉を聞きたくないとばかりに両耳を押さえて、しゃがみ込んだ少女の悲痛な声に共鳴するように、風景が端からひび割れ、乾燥しきった
彼女は頭を抱えるようにして強くかぶりを振る。
「どうしてそんなこと言うの!? わたしはここにいたいの! ここがいいのよ、放っておいて!」
雪は長い髪を振り乱して必死に言う少女に歩み寄り、目線を合わせるために片膝をつく。
「山城由香子、さん、だよね?」
「……あなた、誰? どうしてわたしを知ってるの」
目を潤ませた少女―――由香子は、今にも泣き出しそうな表情で雪を見た。
「俺は鷹谷雪。そこの、佐瀬譲の友達」
「そっちの人は……知ってる。同じバスに乗り合わせたわ。由衣子がちょっとかっこいいって言ってたから覚えてる」
思わず見上げれば、譲は意外そうに目を見開いていた。座り込んだ由香子は立てた両膝の上に両腕を重ね、顔を埋めてしまう。
「出て行って、もう来ないで。ほっといてよ。わたしは起きたくなんかないの」
涙声に同情しそうになりつつ、しかしこのままではいけないと、雪は続けた。
「けど、このまま眠り続けていたら、君は死んでしまう」
「それでもいいわ。あなたこそ、どうして起こそうとするの? わたしが眠るのは、わたしの勝手じゃない」
「……そうだね。俺も、俺の勝手で君を起こそうとしてる」
雪はなるべく柔らかく聞こえるよう意識して言う。
「君が起きてくれないと、譲が安心して眠れないんだ。譲は、君と同じ夢を見てる」
由香子は、弾かれたように顔を上げた。どうやら、本人は譲と夢を共有している自覚はなかったらしい。
「それが原因で眠れなくなってる。だから、まったくこっちの都合で悪いんだけど、起きてくれないかな」
由香子は何かを堪えるような表情で、しばらく譲を見上げていたが、かぶりを振り再び俯いてしまった。
「……いやよ」
「どうして?」
「由衣子、が……いないもの」
細い肩が小刻みに震えている。顔を伏せているせいで、華奢な項が露わになっていた。
「何度繰り返しても駄目なの。避けられないの。変えられないの。毎回、どうしても、由衣子は……」
小さな水滴が由香子のスカートに幾つも染みを作る。
「わたしはお姉ちゃんなんだから、あの子を守ってあげなくちゃいけなかったのに……なんであの子が……生まれる前からずっと、ずうっと一緒だったのよ? 由衣子のいない世界なら、夢の中の方がまし。……どうして、わたしだけ…………生き残っちゃったの……?」
掠れ声での独白は血を吐くようで、雪は目を伏せた。彼女は、妹の死を受け入れられず、悲しみのあまり自分だけが助かったことを責めて、この場所、この時間から動けなくなってしまっている。実のない言葉は慰めどころか気休めにもならない。
譲が雪の傍らに膝をいた。そして、由香子に語りかける。
「妹さんのことは……残念だった。けど、君は生きてる。生きてるなら、生きないと」
顔を伏せたまま、握り締められた由香子の両手に力が籠もった。
「簡単に言わないで。あなたに何がわかるって言うの」
「わからない。君の気持ちは君にしか。……でも、俺もさ、このまま目覚めなければいいって思ったことがあるんだ。何度も。―――俺はずっと死にたかったのかも知れない、だからあんな幻覚を見たんだろうって……」
譲は言葉を途切れさせ、小さくかぶりを振った。改めて続ける。
「あの事故で、俺は助からなかったほうがよかったんじゃないかって、思った」
小さく息を飲んだ由香子が顔を上げて目を見張る。その双眸から新たな涙が溢れて頬を伝った。
「でも、そんなことなかった。死ななくてよかったって、思えるようになった。君も、いつかそう思える日が来るかもしれない」
「……来ないかもしれないわ」
「ああ。可能性はどっちもゼロじゃない。だから、可能性を潰さないでほしい。妹さんが死んでしまってそんなに辛いのは……悲しいのは、一緒にいたのが凄く楽しくて、幸せだったってことだろ? そのことまで否定するなよ。君の悲しみは、妹さんが幸せだったって証だ」
譲は一度言葉を切った。
「生きて欲しい。誰よりも、君のために。未来の君のために」
「……無理。自分のためになんて……由衣子を助けられなかった、わたしのためになんて」
「それなら、妹さんのために。俺たちを連れて来たのは君の妹さんだ」
そうえば由衣子はどこへ言ったのかと、雪は首を巡らせた。すると蛍のような光が由香子の眼前に灯る。弱々しく明滅するそれは、燃え尽きる寸前の炎にも似ていた。
「うそ……由衣子? 由衣子なの?」
差し伸べられた震える掌に光がとまる。由香子は大事そうに両手で握り締め、胸に抱いた。
「妹さんは君をとても心配してる。居合わせただけの俺を頼ってくるくらいに。……眠ってる君の傍にずっといたんだ」
「そんな……そんなこと、全然……気付かなかった」
「妹さんは君に生きて欲しいと思ってる。君が生きることが、きっと彼女の希望になる」
「きぼう……」
呟いた由香子はゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした双眸が雪を見て、次いで譲を見る。彼女の瞳には、先ほどまではなかった光が、ほんの少しだが宿っているように、雪には見えた。
「わたしが眠ったままだと、由衣子は……どこにも行けないのね……」
由香子は唇を引き結び、握り締めていた両手をそっと開いた。そこにはもう、由衣子の光はない。半ばそれを予想していたように息をつくと、彼女はくしゃりと顔を歪め、両手で顔を覆った。譲は無言で由香子の頭に軽く手を置き、それをきっかけにしたかのように、由香子が声を上げて泣き出す。
「ふ……うあっ……うわああ……」
喉を破るような泣き声に、雪はもらい泣きしそうになる。
文字通り、生まれる前から一緒で、仲の良い姉妹だったのだろう。互いに半身のような存在だったのかも知れない。それを永遠に喪うのは、身を裂かれるのと同等か、それ以上の辛さだろう。まだ近しい人を亡くした経験のない雪には、想像すらできない。
そのとき、温かい春風のようなものが頬を撫でた。雪が顔を上げると吐息のような囁きで、ありがとう、と聞こえた。
「由衣子……」
由香子が妹を呼ぶと同時に、世界が暗転した。
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