三章 2-2

『うわああああ!』

 雪と譲は同時に悲鳴を上げて跳ね起きた。

「セツさま! 大丈夫ですか!」

 玉藍に応えることもできず、雪はしばし無言で呼吸を整える。とりあえず部屋の明かりをつけ、大きく息を吸い込んで吐き出した。

「セツさま、セツさま! お気をたしかに!」

「大丈夫だよ、玉藍。……あー、びっくりした。夢でよかった」

「当分、砂利道が怖くなりそうだな……」

 言いながら譲も額の汗を拭う。無数の玉砂利を思い出し、雪は首をかしげた。

「どっから来たんだあれ。砂利道なんかあったか?」

「多分、明治神宮」

「ああ……なんつー罰当たりな」

 二人を見失った由香子は、形振り構わず全域を攻撃する手段に出たのだろう。あの玉砂利をまともに浴びていたらと思うと、ぞっとしない。

「悪い、巻き込んで」

「譲のせいじゃないだろ、俺が首を突っ込んだんだから」

「やはりわたしが行くべきでした。セツさまはお休みください。―――譲、今すぐもう一度眠って」

「待て待て待て玉藍」

 雪は両手をかざし、無茶なことを言い出す玉藍を押し留めた。今にも物理的に譲の意識を飛ばそうとしそうな玉藍を捉まえて引き寄せつつ、譲に言う。

「どうする? もう一回行くか、今日はもう普通に寝るか……」

 雪の言葉の途中で、突然明かりが消えた。驚きで小さく声を上げた二人は、暗闇の中首を巡らせる。

「停電か? 電線が切れたとか?」

「いや、外は電気がついてる」

 カーテンの隙間からは街灯の光が見える。枕元に置いておいた電灯のリモコンには、雪も譲も玉藍も触れてはいなかった。雪は念のためにリモコンのボタンを押してみるが、やはり反応しない。闇に慣れた目に、譲が小さく身震いするのが見えた。

「なんか……、急に寒くないか」

「……ああ」

 頷きながら雪も二の腕をさする。エアコンをつけているわけでもないのに、これほど急激に部屋の気温が下がるのは尋常ではない。

 窓を開けてみようかと立ち上がろうとしたとき、雪の膝にいた玉藍が突然飛び出した。

「曲者!」

「おわ!」

 玉藍に飛びかかられた譲がひっくり返る。しかし玉藍の狙いは譲ではなく、彼の傍らにいた「何か」だった。微かに光るような白い人影が揺らいで、雪は咄嗟に声を上げた。

「玉藍ストップ!」

 今にも影に爪を振り下ろそうとしていた玉藍は、すんでの所で飛び退った。抗議するように振り返る。

「お言葉ですがセツさま! 悠一朗ゆういちろうさまの結界を抜けてくるなど、ただ者では」

「悪意は感じない。だから父さんの結界に阻まれなかったんだろう。それに、この感じ……」

 影はぼんやりと人のような輪郭があるだけで、背格好や目鼻立ちは見て取れない。気配は儚く、あのまま玉藍の爪を受けていたら消えてしまったかも知れない。

 譲が起き上がり、人影と距離を置くように雪の傍に寄った。

「こいつ……、なんだ?」

「わからない。でも……君、山城さんの病室にいた?」

「え?」

 不思議そうにする譲はひとまず置いて、雪は白い影に重ねて尋ねる。

「もしかして、譲に夢を見せているのは君か?」

「は!?」

 声を裏返した譲に驚いたわけではないだろうが、人影がふうわりと揺れた。譲が雪の肩を掴んで揺する。

「どういうことだよ、夢を見せてるって!」

「ちょっと待って。本人に訊いた方が早い」

 山城由香子の病室に行ったとき、ほんの一瞬だけ三人いるような気配がした。瞬きにも満たない時間だったので気のせいかと流してしまったが、気のせいなどではなかったのだ。 結界の内側に入ったときでなく、すぐ近くに来るまで玉藍にも雪にも気取られなかったのだから、存在はかなり薄まっている。

「本人に訊くって……今、電気消したのもこいつじゃないのか? 話できるのか」

「影響はしてると思う。こういう現象と、電化製品は相性が悪いんだ」

「……冷静だな、雪」

「慣れって怖いよな」

 軽口を叩いておいて、雪は人影に尋ねた。

「これは俺の想像だけど。君は、山城さんの妹さんじゃないのか?」

 人影は何も言わず、ただゆらゆらと揺れた。同時に消えていた電灯が明滅し、雪たちに何かを伝えたいが、声にすることすらできないほど消耗しているように見える。このまま何にも寄らずにいれば、遠からず消えてしまうだろう。

「セツさま、僭越ながら」

「なんだい、玉藍」

「わたしが媒介になります。わたしの身体を貸せば、この影も口がきけましょう」

「……いいのか?」

 申し出に驚きつつ問い返すと、三毛猫は首肯して人影へと歩み寄った。途中で少女の姿に変化する。

「消えかけの幽鬼の分際で、セツさまを煩わせるなど許し難い。せめて消滅する前にセツさまのお役に立つがいい」

 冷厳な口調で言い、玉藍は人影に手を差し伸べた。すると玉藍に吸い込まれるように影は消え、ぱっと明かりが戻る。

 一呼吸置いて振り返った玉藍は、彼女とは思えないほど弱々しい表情をしていた。

「ごめんなさい……あなたの言う通り、私は由衣子ゆいこ。山城由香子の双子の妹です」

 今は玉藍ではなく、彼女に寄り憑いた由衣子が喋っているのだろう。座るように手で示しながら雪は、改めて尋ねる。

「譲に夢を見せていたのは君なのか? だとしたら、一体なんのために?」

 由衣子は俯き、ぽつりぽつりと話し始めた。

「……わたしは、ずっと由香子の傍にいました」

 例の事故で由衣子は命を落としたが、由香子は一命を取り留めた。東京の病院で、由香子は一度目を覚ましたのだという。しかし、由衣子が死んだことを聞いた後、再び意識を失い、現在に至るまで眠り続けている。

 由香子を心配した由衣子は姉の傍に留まった。そのうちに、どうやら由香子は由衣子が死んでしまったことを――― 一人生き残ってしまったことを悔やみ、事故の夢を繰り返し見ているようだとわかった。

 このままでは姉は衰弱して死んでしまう。だが、由衣子では由香子を起こすことができなかった。

 そんなときにお見舞いに来たのが、宮城に引っ越してきた譲一家である。所謂「幽霊」の状態であった由衣子には、由香子と譲の「波」が似ていることに気がついた。譲ならば、由香子の夢に入り込んで由香子を起こすことができるかも知れない。姉を助けたい一心で、由衣子は譲と由香子の夢を繋いだ。

「……つまり俺は、あんたに危うく取り殺されるとこだったってことか」

 話を聞き終え、ぼそりと呟いた譲へ由衣子は深く頭を下げる。

「ごめんなさい……そんなつもりはなかったんです。繋ぐのはできたんですけど、切り離しかたがわからなくて……」

「俺に何ができると思ったんだ。ただ偶然居合わせただけの俺に」

 独白のように呟いた譲は黙り込んだ。受けた仕打ちを思えば口を極めてののしっても当然なのに、相手をおもんぱかってこらえてしまう譲を雪は、優しいと思うし、損な性分だとも思う。

「……ごめんなさい」

 由衣子も悄然しょうぜんと俯いて口を噤んでしまい、仕方がないので雪は話を進める。

「波長が似てるからって、元々違うものを無理矢理繋いだら、離れづらくなるのは当たり前だ。しかも、心得もないのに。解消するには原因を取り除くしかない。つまり、由香子さんを起こすしか」

 由衣子がはっと顔を上げた。縋るような表情で雪を見る。

「いいんですか……?」

「良いも悪いも、やるしかない。でないと譲が死ぬ」

「本当にごめんなさい……ありがとう」

 再び頭を下げる由衣子に一つ頷いて、雪は譲を見た。すると譲は気まずげな顔をする。

「……眠れる気がしないんだけど」

「そこをなんとか」

「なったら苦労しな……」

 言葉の途中で譲が突然、くずおれた。倒れ込んでくるのを支えつつ驚いて見上げれば、玉藍が手刀を構えて立っている。由衣子はもういないらしい。

「玉藍!」

「少々眠って貰いました。譲が眠らないと話が進まないので」

「いや、そうなんだけどさ……もう少し穏便に……」

「セツさまもお眠りください。夢の中では由衣子が案内するそうです」

 玉藍に色々言いたいことがあったが、今は言い合いをしている時間が惜しい。雪は譲を寝かせて自分も隣に横になった。譲の肩に手を乗せる。

 しかし目を閉じても意識は冴えて、すぐに眠るのは無理であるように思われた。しかし、玉藍の手刀を覚悟して固まっているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

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