三章 2-1

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 雪のベッドの隣に敷かれた布団の上に座った譲が見上げてくる。

「……で?」

 ベッドに腰掛けていた雪は、にっこりと笑って小首をかしげた。

「とりあえず寝ろ」

「……いや、まあ……寝るのはいいんだけど」

 中間テストが終わってからと雪は思っていたのだが、譲は、気になって落ち着かないからと、事情を話したその日に泊まりに来た。両親には渋られたらしいが、勉強を口実に強引に押し切ったという。実際に雪は勉強を教わったので、あながち嘘ではない。

「その、なんだっけ? 夢殿ゆめどの? に、行くってどういうことだよ」

「そう難しく考えんなって。ちょっと譲の見てる夢にお邪魔して、どたばたするだけ」

「だけって言うのかそれは。つか、どたばたされるってわかってるのに眠れる気がしないんだけど」

 譲の枕元に座っていた玉藍がひょいと彼の膝の上に移動した。

「そこは心配しないで、いざとなったらわたしが意識を飛ばしてあげるわ」

「……ますます不安なんだが」

 雪は苦笑し、玉藍を抱き上げる。

「穏便に、玉藍。―――大丈夫、譲は普通に眠るだけでいい。で、例の夢を見てくれれば」

 安心させようと言ったつもりだったのだが、譲が嫌そうに顔を顰めたので、雪はもう一言付け加える。

「同じ夢にはならないよ。俺が入るんだから」

「……本当だな?」

「ああ。だから思う存分寝てくれ」

「…………。わかった。寝る。おやすみ」

 意を決したように、しかし顰め面のまま頷いて、譲は布団を被って横になった。雪も玉藍を脇に下ろし、部屋の明かりを消す。

「おやすみ」

 一応雪も横になるが、眠るわけにはいかないので目を開けたまま暗い天井を見上げる。いつもの就寝時間よりかなり早いからか、眠気はない。雪とて夢殿へ行くのは初めてなので、若干緊張しているかもしれない。

 そもそも、雪は滅多に夢を見ないのだ。異能と関係があるのかは謎だが、たまに見る夢の大半は予知夢じみたものなので、正直あまり見たいものではない。

(夢殿か……どんな感じなんだろ)

 ぼんやりと取り留めのない考えを巡らせることしばし、雪もいい加減眠くなってきたところで、肩のあたりを猫の手がたしたしと叩いた。

「セツさま、譲が眠りましたよ」

「んあ?」

 うとうとしかけていた雪は慌てて上体を起こした。目をこすりつつ耳を澄ますと、譲の静かな寝息が聞こえる。

 欠伸を噛み殺し、雪は傍らにいる玉藍に小声で問う。

「俺はどうすればいいんだ?」

「譲に触れてお眠りください。あとはわたしが」

「どこでもいいのか?」

「はい。手でも足でも、どこかが接触していれば」

 雪はベッドから降りて譲の傍らに移動した。譲は夏布団をきちんと被って仰向けに寝ているので、顔しか露出していない。布団を捲っては起こしそうな気がして、雪は彼の枕元に座り、譲の額に片手を乗せる。

「これでいい?」

「ええ。では、セツさまもお眠りください」

「うん」

「セツさまをお送りしますと、わたしは共に参れません。くれぐれも……」

 言いさしてやめ、玉藍は難しい顔で雪と譲とを見比べた。

「……やはり、わたしが向かった方が」

「いやいやいや、俺が行くよ。譲と約束したのは俺なんだから」

 玉藍は譲に厳しい。ましてや由香子にはなんの義理もないし、力業で解決しようとするかもしれない。

 玉藍はしばし考え込む風情で沈黙していたが、やがてこくりと頷いた。

「かしこまりました。―――夢殿での死は精神の死です。どうぞ、お気を付けて」

「うん」

 玉藍の言葉を肝に銘じ、雪は目を閉じた。眠れないかも知れないと思ったが、杞憂に終わったようで、気がついたときには雪は見覚えのない雑踏の中に立っていた。

(ここが譲の……山城由香子の見てる夢……?)

 灰色の雲に覆われた空からは白い物が舞い、周囲の人々は皆厚着で、寒そうに背を丸めて歩いている。その中に一人、夏の装いでいる雪は異様なまでに浮いていた。にもかかわらず、雪に注意を払う者はおらず、視線を向けられすらしない。

(見えてないのか? 俺がこの夢の登場人物じゃないから……?)

 気候は明らかに真冬だというのに、雪はまったく寒さを感じなかった。しかし感覚が失われているわけではなさそうで、話し声や車の音などは聞こえるし、空気の匂いもわかる。

 きょろきょろと周囲を見回していると、サラリーマンふうの男に肩をぶつけられて雪は蹈鞴たたらを踏んだ。

「……っつ」

 声を上げる雪を見るでもなく男は通り過ぎていく。道端の石を蹴飛ばしたときでももう少し反応するだろうという様子に雪は、どうやら自分は夢の住人には認識されていないらしいと確信する。

 またぶつかられてはたまらないので、雪は歩道の端に避けつつ譲の姿を探した。そう離れてはいないはずだと思いながら首を巡らせれば、目指す姿はすぐに見つかった。

「譲!」

 声が届かないかもしれないとも思ったが、俯きがちに歩いていた譲は顔を上げた。当時の服装なのだろう、譲はコートにマフラーを身につけて季節に沿った格好をしている。

「……誰だ?」

「誰って、あのな」

 この期に及んでふざける気かと雪は抗議しようとしたが、譲は全くの初対面の相手に向ける顔をしている。やはり、夢に引きずられてしまっているらしい。確かにこの時点では、雪は譲と出会ってすらいないが、これでは埒が明かないので雪は彼の眼前で思い切り柏手を打った。

「よく見ろ。俺のこと知ってるだろ」

 瞠目した譲は一度目を瞬くと、雪の姿を頭から爪先まで眺めて不可解そうな顔をした。

「寒くねえの?」

 第一声がそれかと苦笑しつつ、雪はほっと息をつく。そこで、譲の呼気は白いのに自分の呼気は白くないことに気付いた。同時に、後ろから誰かにぶつかられる。

「痛って」

 雪にぶつかっていった少女は、譲のことはごく自然に避けていった。譲はぎょっと目を剥き、雪の腕を引く。

「大丈夫か? なんだ今の女」

「大丈夫。この格好のとおり、俺は部外者なんだよ。ここにいるけど、いないことになってる。雪降ってるのに全然寒くないしな」

「でも、俺には見えるし、わかるぞ」

「多分、周りの人にも見えてると思うよ。でも、目に映ってるだけ」

「今、思いっきりぶつかってたじゃねえか。それでもわからないのか?」

「ぶつかってたけど、俺はいないから。いない存在にはぶつかれないだろ?」

「いや、でも実際ぶつかって……」

 譲はいまひとつ腑に落ちていないような様子で口を噤んだ。考え込むような風情で首をかしげる。

「……俺が雪をわかるのは、雪を知ってるからか」

「それもあると思う。あと、譲もこの夢をからじゃないか? 譲自身の夢じゃないとは言えさ」

「…………。大家が山城由香子で、俺は管理人みたいな?」

「そんな感じ。―――とりあえず、夢の主を捜そう。早く起こさないと」

 玉藍は時限のようなことは言っていなかったが、急いだ方がいいだろうと。ここに留まり続けるわけにもいかないし、目的を果たす前に戻されてしまうこともあり得る。

 譲はかぶりを振った。

「つっても、俺は彼女の服装とか知らないぞ?」

「まあ、顔はわかってるわけだから、なんとか……最悪、バス停まで行けば―――」

「危ない!」

 言葉の途中で譲に突き飛ばされ、雪は仰け反った。なんとか尻餅をつくことは免れたが、頭上すれすれをカラーコーンが飛んでいく。

「は……」

 雪は咄嗟に振り返るが、カラーコーンを投げつけたと思しき人物は見当たらない。譲も驚いた顔のまま周囲を見回している。

「な、なんだ今の」

「カラーコーンなんて、どこから……痛てっ」

 今度は小石が飛んできて額に当たり、雪は小さく声を上げた。見れば、道端に転がるゴミ、小石、大きいものでは駐輪禁止の立て札などがゆらりと浮き上がるところだった。寒さは感じないが、痛みは感じる雪は青ざめる。

「……これ、まさか」

「……雪を狙ってるな」

「な」

 ヒュ、と空気を切り裂く音がして雪は咄嗟に半身を引いた。どこから外れたのか、大きな螺子ねじが右腕を掠めて行く。

「なんでだ!」

 動きだした物たちは、通行人の間を縫いつつ雪めがけて飛来する。雪は慌てて避けるが、数が多すぎてかわしきれない。

「ちょっ、痛て、どうなってんだこれ!」

「走れ! 止まってるといい的だ」

 譲は脱いだコートを雪の頭から被せた。そして雪の腕を掴み、走り出す。

「免疫反応みたいなことじゃないのか、これ」

 走りながら肩越しに言う譲に、雪は眉を寄せる。

「免疫?」

「聞いたことあるだろ、マクロファージとかナチュラルキラー細胞とか。体内に入った異物を排除するやつ」

「今の俺はウイルスみたいなもんってことか。確かに異物には違いないけど……あたっ」

 後頭部に空き缶が当たり、雪はつんのめりそうになった。コート越しといえども命中すれば痛い。

「ったく、ゴミはゴミ箱へ!」

「ゴミ箱ごと飛んできたらどうするよ。こっち」

 譲は建物と建物の隙間に雪を押し込んだ。人一人通るのがやっとという広さの場所でとりあえず飛来物からは逃れられて、雪は息を整えつつ頭から被ったコートを肩に落とす。

「ここ、どこ? 譲はどんなルートを通るんだ?」

「向こうの橋を渡れば明治神宮だ。そっちに行けば表参道。俺はそこの通りの向かい側のバス停でバスに乗るんだけど……バスに乗らなかったらどうなるんだろ」

「さあ……今まで夢の中でバスに乗らなかったことはないのか?」

「ないな。こうやって、ここが夢だってわかって動いてるのも初めてだ」

 雪が入ってきた時点で、通常の夢ではなくなっている。譲は現在の譲の意志で動いているし、同じ結末を辿ることはないはずだ。

「もしかして、俺を攻撃するのは、彼女の意志なんじゃないのか?」

「……どういうことだ?」

「さっき譲、免疫反応って言っただろ? それって、人間は意識しないよな」

「まあ、普通は知らない間にはたらいてるな」

「夢の中に異物が現れたから排除しようってのはわかる。でも、隠れてからは何も飛んで来ない。本当に免疫みたいな反応なら、俺がどこに隠れようと攻撃するんじゃないのか」

 建物の壁には手当たり次第闇雲に物を投げつけているかのように、がらくたがぶつかり続けている。

「……山城由香子は、俺たちの姿が見えない場所にいる……見失ったってことか?」

 雪は首肯する。

「本人に会ってみないとわからないけどな。―――早いとこ彼女を見つけよう。逃げ回ってたんじゃこっちの身がもたない」

「なら、バス停に行ってみるか。そのほうが確実だろ」

 言いながら譲が物陰から出ようとした瞬間、根本から折れた道路標識が飛んできた。息を飲んで固まる譲と無理矢理身体を入れ替え、雪は咄嗟に印を結ぶ。

「禁!」

 雪の眼前に薄い光の壁のようなものが現れ、道路標識を弾き飛ばした。弾かれた標識はくるくると回転し、アスファルトに突き刺さる。あんなのに当たったらただでは済まないと戦慄しながら振り返ると、譲はぽかんと口を開けて雪を見ていた。

「い……今の、雪が?」

 そういえば譲の前ではっきりそれとわかる術を使ったのは初めてだったと、雪は視線を泳がせた。言い訳を考え、思い浮かばずにそのままのことを告げる。

「えっと……基礎しかやってないから、これくらいしかできないけど」

 驚いただろうに、譲は雪を束の間見つめると、こくこくと小刻みに頷いた。

「助かった、ありがと」

「いや。―――いよいよ洒落にならなくなってきたな。バス停までどのくらいある?」

「向こう側に渡って、そっちに曲がった先」

 譲が示す、渡らなければならない道幅は広く、車の量も多い。横断歩道はバス停とは反対方向にあった。夢殿での死は精神の死、という玉藍の言葉が頭を過ぎる。

「……これ、車道に飛び出したら跳ねられるよな」

「俺はともかく、雪のことは意識されてないんだろ? ブレーキも何もなく突っ込んでくるんじゃないか」

「う」

 想像してしまって、雪は呻いた。車の流れは、その間を縫って横断できるようなものではない。とはいえ、信号待ちをしていたら間違いなく的になる。一方向からならまだしも、全方位から標識が飛んできたらさすがに防ぎきれない。

 考えていると、遠くからざあっと驟雨のような音が聞こえた。思わず空を見上げるが、ビルに切り取られた狭い隙間は青く、雨の気配はない。しかし、音は徐々に近付いて来る。

「これ、なんの音……」

 呟いている間にも音は耳を聾するまでになり、雪は咄嗟に頭上に両手を翳した。声は音に掻き消された。刹那、無数の玉砂利が降り注ぐ。

(なんだこれ!)

「―――、―――!」

 譲が何か叫んでいるが、叩き付ける砂利の音で雪の耳には届かない。重ねた掌の上でひびが入る感覚があり、それはあっという間に広がる。

(あ、駄目だ)

 蜘蛛の巣のようにひびが広がった光の壁は、ガラスそっくりの音を立てて砕け散った。

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