三章 1-3

 エレベーターホールにさしかかり、歩調を緩めた譲の脇を雪が通り過ぎていく。

「雪? おい、どこまで行くんだよ」

「……え? 何?」

 慌てて譲が雪の腕を捉まえると、それでようやく気付いたらしく、足を止めた雪はきょとんと譲を見た。譲は半ば呆れつつエレベーターホールを指差す。

「何、じゃなく。エレベーター」

「あ……悪い」

「もしかして、考え事すると周りが見えなくなるタイプか?」

「……そうらしい。壱矢にも言われた」

 申し訳なさそうに頭を掻く雪と共にエレベーターに乗り込み、一階へ下りる。時計は既に七時を回っていた。

「譲、またハムスターの顔になってる」

 不意に言われて譲は目を見張った。雪の言いたいことはわかったが、性懲りもなくぐるぐると考えているのを言い当てられたのが多少悔しくもあり、譲はわざと的外れな返答をする。

「いいだろ、ハムスター可愛いだろ」

「いいや、ハムスターはあの大きさだから可愛いんであって、人間サイズのハムスターなんて最早魔物だね」

「誰が魔物顔だ」

 言い合いをしながら大学病院を出て、駅に向かって歩き出したところで雪が唐突に話を変えた。

「やっぱ怪我したんじゃないか」

 やや咎めるような響きを含んだ雪の声を聞いて、譲は彼を見た。

「……なんだ、聞いてたのか」

「聞こえるさ、そりゃ。縫うような怪我なんて、全然軽くないじゃん」

 思わず譲は右のこめかみに手を遣った。今は髪で隠れているが、ここにも傷跡がある。

「ほんと、ちょっと縫っただけ。もう治ってる」

「ならいいけど……」

 言葉とは裏腹に疑わしそうな目で譲を見て、雪は視線を正面に戻した。これ以上追求される前にと、譲は気になっていたことを尋ねる。

「病室入ったときにびっくりしてたの、なんでだ?」

「え? ああ……譲ん家と同じ匂いがしたから。百合の花の匂いだった」

 思いがけないことを言われ、譲は目を見張った。

「……同じ匂い? 俺ん家と?」

「譲の家には花は飾ってなかったし、芳香剤もないって言ってたろ。偶然かとも思ったけど……、同調した相手と同じ場所に傷ができたり、同じ風景を見たりするって話は聞いたことがある。空気まで同じになるものかな」

「いや、俺に訊かれても」

 譲の言葉は受け取らず、雪は続ける。

「外からの力は感じなかった。けど……」

「けど?」

 言いさしてやめた雪を促せば、彼は小さくかぶりを振った。

「いや。―――由香子さんは、眠らされているんじゃなく、自分の意志で眠っているんだと思う」

「……それで、夢を見続けてる?」

「多分。彼女が目覚めて夢が終われば、譲が夢を見ることもなくなるはずだ」

「なんか、前にも訊いた気がするけど。どうやって起こすんだ?」

 雪は以前のように誤魔化し笑いをすることはなく、前を向いたまま真剣な表情で言う。

「何か、方法を考えてみる。自分で夢を見ているなら……誰かから強要されてるんじゃなく、彼女がそれを望んでいるんだとしたら、なんとかなるかもしれない」

「なんとか……できるのか?」

 足を止め、雪は困ったような笑みを浮かべた。

「わかんない。期待しないで待っててくれ。―――それじゃ、明日」

「ああ」

 地下鉄の駅の前で譲は雪と別れた。一人になり、半ば無意識にため息が零れる。

(長い間意識が戻らない、か……)

 明日の朝目覚めないことを祈って眠りについたことは何度もある。幸いその願いが叶うことはなかったが、眠り続けるというのがどういうことか、まったくわかっていなかった。

 他人の母親でも、消耗しきった姿を見るのは辛かった。あれが自分の親だったらと想像しただけで胸が詰まる。少なくとも今、譲の両親は、譲を心配してはいても、由香子の母親のように憔悴してはいない。それだけでも、自分が軽傷で済んだことは良かったのかもしれないと、初めて、ようやく、思った。



     *     *     *



 家へ帰ると、三毛猫が奥から小走りに出てきた。

「おかえりなさいませ」

「ただいま」

「夕餉ができておりますよ。すぐ準備いたしますね」

「ありがと」

 洗面所で手を洗ってリビングへ向かうと、キッチンでは人の姿になった玉藍が料理を温め直してくれていた。自分の食事を運ぶくらいしようとキッチンに入り、忙しくはたらく玉藍の背中に問う。

「……なあ、玉藍」

「なんでしょう?」

「ずっと眠っている人を起こすには、どうすればいい?」

 玉藍は手を止めて雪を振り返った。

「方法の一つとして、夢殿ゆめどのへ向かい、そこで起きるよう促すというものがあります」

「夢殿……」

 聞いたことはあるが遣ったことのない言葉を、雪は口の中で転がした。

「夢殿って、俺でも行けるのか?」

「セツさまをお送りするとなると、少々難しいかも知れません。わたしのような実体を持たないものならば、夢を渡るのも容易いのですが……セツさまが物理的に接触できる相手ですか?」

「……ちょっと、厳しいかな」

 さすがに由香子の病室に一晩泊まり込むことはできない。雪が良くても、断られることは目に見えている。しかし、それなりのセキュリティが備わっている大学病院に忍び込むのは、一介の高校生にはまず不可能だ。

 料理の載った皿や器をトレイに並べつつ、玉藍はこくんと首をかしげた。

「そうしますと、やはり難しいですね。渡ることができても、ほんの短い間だけになってしまうかもしれません」

「そうか……」

 夢の中に入ることができても、目的を達成できなければ意味がない。何か方法がないかと、雪は考え込む。

(それと、あの気配……)

 由香子の傍らに、ほんの少しだけ他人の気配を感じた。雪や譲の目にも映らない、かそけく儚いものだったが、確かに存在した。他人に害を与えるどころか、影響すらなさそうだったので放っておいたが、喉に刺さった小骨のようにひっかかってとれない。

「ご命令くだされば、わたしが夢殿へ向かって起こして参りますが」

 玉藍の言葉で雪は思索から引き戻された。乱暴は駄目だと、雪は首を左右に振る。

「穏便に。頼むから穏便に。相手は女の子だし、怪我人だし」

 由香子と面識がないのは玉藍も雪も同じだが、玉藍は言葉通り力尽くで起こしかねない。できれば雪が行ってなんとかしたいところだ。

「……相手と物理的に接触って、手を繋ぐとかそういうのか?」

「はい。身体の一部が触れているのが望ましいです」

 雪は玉藍の手からトレイを受け取り、食卓に運んで並べる。今日のメニューは焼き魚、ひじきの煮物、胡麻豆腐、韮の煮浸しと、いつも通りの和風だ。

「ちなみに、本人が見てる夢じゃなくて、他人の夢を共有してしまっている場合でも有効?」

「……譲を媒介に使うおつもりですか」

 僅かに目を眇めて言う玉藍へ、雪はにこりと笑みを向けた。

「玉藍はいつから考えを読めるようになったんだい?」

「考えが読めずともそれくらいわかります。―――でしたら、セツさまがお出ましにならずとも、譲が夢殿にて相手の目を覚まさせてやれば済むことです」

「それを譲に期待するのはちょっと酷じゃないか? 経験とか、耐性とかがあるならまだしも」

「不可能ではないと思います」

「そりゃ、可能不可能で言ったら可能だろうけどさ。部外者の俺と違って譲は当事者だし、夢の内容に流されずに自分の意志で動いて、相手にこれは夢なんだと納得させて、目覚めさせるってのは……やっぱり酷だろ」

 術士の家系に産まれ、幼い頃から常識外のことに慣れている雪とは違い、譲はついこの間まで見鬼で見えるものを幻覚だと思い込んでいた。そんな彼に他人の夢を引っかき回せと言うのは無茶が過ぎる。下手をすれば二人とも二度と目覚めなくなる可能性もある。夢の中では、これは夢なのだと気付くことからして難しいのだ。

 しかし玉藍は容赦がない。

「多少過酷な方がいい薬なのでは?」

「薬って。玉藍、ちょっと譲に厳しくないか?」

「そんなことないですよ。不届き者には少々お灸が必要だと思っているだけです」

 彼女はまだ譲のことを腹に据えかねているらしい。玉藍はトレイを回収し、雪を促した。

「さあ、冷めないうちに召し上がってください」

「いただきます」

 テストが終わったら本格的に合宿だなと考えつつ、雪は箸に手を伸ばした。

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