三章 1-2

   *     *     *



 エレベーターホールの隅に所在なげに立っていた雪は、譲の姿を認めると、ばつの悪そうな顔をした。見舞いのためにだろう、手にした花束を譲に向ける。

「……あげる」

「なんでだよ。今から病室に行くんだから持ってろよ」

 譲も見舞いに行く手前、途中で買った菓子を提げている。雪は申し訳なさそうに眉を下げた。

「なんか……ごめんな」

「いいって。―――あと、これ」

 譲が菓子とは別に持っていた紙袋を差し出すと、雪は不思議そうに首をかしげる。

「何これ?」

「おまえのノート。俺の荷物に紛れてて、持って帰っちまったんだ。どうせ明日学校で会うんだしいいかと思ったけど、今夜使うんだったら困るかと思って」

「あ、ほんとだ俺のだ。……それでか! 俺に電話して繋がらないから壱矢に電話してってことだな?」

「そう。気になるなら家にかけてみろってさ。で、留守電になってたから伝言を吹き込んでたら俺だって気付いた玉藍が出た、と」

 続きを受け取りながら譲が小さく笑うと、雪は頭を抱えた。持ったままの花束ががさがさと音を立てる。

「くっそ壱矢め……気を利かせやがて」

「壱矢はともかく、玉藍に口止めしなかったおまえが悪い」

「んなこと言っても、まさかこんな……留守電の機能切っときゃよかった」

「それじゃ留守電の意味ないだろ。つか、どうせ俺が一緒じゃなかったら会えないってば」

「そこをなんとか」

「なるか。通したら怒られるのは看護師の方だっつの」

 とはいえ、雪なら夜中に警備をかいくぐってこっそり侵入しかねないと思いつつ、譲はエレベーターに乗り込んだ。十一階のボタンを押す。

 エレベーターには二人の他に誰も乗っておらず、今のうちにと、譲は雪に問うた。

「病室の場所、誰に聞いたんだ?」

「誰にも。……いや、藤野に、萩女にいる藤野の友達に訊いて貰ったんだけど。萩女で、親族しか会えないから、お見舞いは控えるようにってお達しがあったってさ」

 まあそうだろうなと譲は胸中で頷いた。

「どうやって病室を調べるつもりだったんだよ」

「……行けばなんとかなるかなって」

「おまえな……」

 雪の言葉に苦笑し、譲は横目で彼を見る。

「そんなまどろっこしいことしなくても、山城由香子に会いたいって俺に言えばいいのに」

「ううん……?」

 雪は否定にも肯定にも聞こえる声を落として首をかしげた。雪のことだから妙な気を遣って、自分ではなく月子に尋ねたのだろうと、譲は少々複雑になる。

「それくらいで腹を立てたりへこんだりするほどやわじゃねえよ」

 笑い混じりに言えば、雪は譲へ顔を向けて頷いた。

「……そうだな。次からはちゃんと譲に頼むよ」

「ああ」

 人影のまばらな廊下を進むと、ナースステーションがある。譲たちが向かう病室へ行くにはその前を通過しなければならない。

 ナースステーションにあまり人気はなく、廊下に注意を向けている看護師もいないようだったのでそっと通り過ぎようとしたが、そう上手くはいかず、呼び止められた。

「どちらへお見舞いですか?」

 笑顔で尋ねてくる若い看護師に、譲は山城由香子の見舞いだと告げた。すると彼女は表情を曇らせ、申し訳なさそうに言う。

「失礼ですが、ご親戚でしょうか」

「いいえ」

「すみませんが山城さんは、ご親族以外は……」

「俺は佐瀬譲と言います。友人と一緒ですが、会えないか訊いて貰えませんか」

「……少々お待ちください」

 一応、とでも言いたげな看護師は奥へ入っていった。待つことしばし、ぼそぼそと電話しているような声が聞こえた後に看護師が戻ってくる。

「お会いになるそうです。病室の番号は……」

「知っています。ありがとうございます」

 看護師を遮り、譲は雪を促して奥へ足を進めた。無言で歩く譲に半歩遅れて、雪も無言でついてくる。

 最初の見舞いから、三月が経とうとしている。前回は両親に連れられて来ただけで、譲が自主的に訪れたわけではない。事故から間もなかったこともあり、正直なところ譲は見舞いになど来たくはなかったのだ。せっかく物理的な距離を置いたのだから、そのまま忘れてしまいたかった。甚だ礼を失した行為だと、今は思う。

「ここだ」

 その病室は個室だった。面会を限定していることに対しての配慮からか、札に名は書いていない。番号を確かめて譲は控えめに扉をノックした。扉はすぐに開き、疲れた様子の痩せた中年女性が顔を出した。譲の姿を見ると、彼女は表情を和らげる。

「こんばんは。いらっしゃい、譲くん」

 顔を見て朧な記憶が蘇り、譲は会釈をした。由香子の母親で、確か、名前は山城佳枝よしえといったはずだ。

「……こんばんは。ご無沙汰しています。こっちは友人の雪です」

 譲が示すと、雪は頭を下げる。

「初めまして。突然すみません」

「まあ……お友達まで、ありがとうね。どうぞ入って」

 病室に入った瞬間、雪が微かに肩を揺らしたのがわかったが、どうしたのか問うことはできず、譲は改めて一礼する。

「事前に連絡もなく来てしまって……」

 謝ろうとする譲を、佳枝はやんわりと遮った。

「いいえ、気にしないで。来てくれてありがとう」

「これ、少しですけど母から」

 菓子を差し出した譲と同じく、雪も花束を差し出す。

「あらあら、気を遣わせてしまってごめんなさいね。お母様によろしくお伝えください。……どうぞ、由香子に会ってやって」

 窓際に置かれたベッドには少女が一人横たわっている。双眸を閉ざした顔は白く、血の気がない。四箇月眠ったままであるせいか、以前に見舞ったときよりも更に、痛々しいほどに痩せていた。触れただけで折れてしまいそうに細い腕からは、何本ものチューブが伸びて横にある機械や点滴と繋がっている。よく見ると、微かだが胸が上下していた。

 自分の見る夢の主が本当に彼女で、眠り続けたままずっと夢を見続けているのだとしたらと考え、譲は両手を握り締めた。事故の夢を見る度に、記憶よりも鮮明だと感じたが、それはある意味間違いではないのだ。望むと望まざるとに関わらず、譲の記憶は少しずつ薄く遠くなっていく。だが、目覚めない由香子の記憶は、褪せることはないのかもしれない。

 横目で隣にいる雪の様子を窺えば、彼はじっと由香子の顔を見ていた。声をかけられる雰囲気でもなく、譲は視線を彷徨わせる。

 サイドボードには花瓶が置かれ、花が活けられている。その中に一際強い芳香を放つ花があった。病室に百合の花があるのを不思議に思って見ていると、佳枝が口を開いた。

「二人が好きな花なの。匂いで目が覚めるかと思って。―――起きて、譲くんに会えれば良かったのに」

 二人、というのは姉妹のことだろう。譲は佳枝へ顔を向けた。

「……まだ、一度も?」

「ええ……こちらでも何度も検査はしているのだけれど、やっぱりどこにも異常はないというの。脳も正常だと……怪我は殆ど治っているし、先生はいつ目覚めてもおかしくないと仰っているのだけれど」

「そうですか……」

 下手な気休めは言えず、譲は相槌だけで押し黙った。すると、佳枝が気遣わしげに譲を見上げた。

「もう怪我はいいの?」

「はい、おかげさまで。……もともと、そう酷いものではありませんでしたから」

「そんなことないでしょう。随分縫ったと聞いたわ」

「少しだけ。もう治りました」

 傷跡は残ったが、幸い後遺症などもなく回復した。負傷者の中では軽い方だ。

「それならいいのだけれど……お大事にね」

「ありがとうございます」

 気を遣わせてしまったことに少々落ち込み、譲はお悔やみを言わなければと思い至った。前回見舞いで来たときは、佳枝と殆ど話をしなかった。

「あの……由衣子さんのことは……その……」

 切り出したはいいが、なんと続けていいかわからず言い淀む譲へ、佳枝は悲しげな笑みを向けた。

「覚えていてくれたの。……もしかしたら、由香子が目を覚まさないのは由衣子が寂しがっているからかも知れないわね。仲のいい双子だったから……由香子はお姉ちゃんだから由衣子を守らなきゃって、いつも言っていたわ」

 佳枝はそっと目元を拭い、無理矢理に笑みを浮かべてみせる。

「ごめんなさい、変な話をしてしまって」

「いえ……」

 会話が途切れ、接ぎ穂を探していると、神妙と言うよりは深刻な表情の雪が僅かに顔を上げた。そちらを向くと視線がぶつかり、雪が微かに頷く。どうやら、雪の目的は済んだらしい。ならばこれ以上長居しても迷惑だろうと思い、譲は切り上げることにした。

「すみません、遅い時間にお邪魔して」

「いいのよ。忘れないでいてくれて嬉しいわ」

 忘れないで、という言葉は譲に刺さった。記憶は摩耗する。それは悪いことではない。忘れることで救われることもあるだろう。けれど、ある側面ではとても悲しいことなのかもしれないと、不意に思った。

「会わせてくださって、ありがとうございました」

「いつでも来てちょうだい、由香子もきっと喜ぶわ。二人とも気を付けて帰ってね」

「はい。失礼します」

「失礼します」

 同じように頭を下げる雪と共に病室を出て、譲は重い息を吐いた。二人の娘のうち一人を亡くし、もう一人は目覚めないという状況で、見守ることしかできない母親の胸中は想像もできない。こちらが気遣わねばならなかったのに、気を遣わせてしまって申し訳なく思う。譲には、せめて由香子が早く目覚めるようにと祈ることしかできない。

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