三章 1-1

 三章


 1


「……あれ?」

 家に帰ってから、譲は誰かのノートが紛れ込んでいることに気付いた。筆跡からして月子や彩葉ではなく、雪か壱矢のどちらかだろうが、どこにも名前は書いていない。

 時計を振り返ると、まだ六時前。

(明日返せばいいか? でも、今日の夜に使いたいかもしれないしな……)

 返すなら早いほうがいいだろうと、譲はスマートフォンを手に取った。雪の番号を呼び出して電話をかけるが、電源が切られているか電波の届かないところにいるとアナウンスが流れる。

 充電切れだろうかと一度電話を切り、壱矢の番号を呼び出す。今度はあまり待たずに繋がった。

『はいよー。なんだい?』

「誰かの数学のノート持って帰って来ちまったんだけど、壱矢のじゃないか?」

『ノート? ちょっと待ってね』

 何やらがさごそと探る気配があって、壱矢の声が返ってくる。

『おれのはあるな。他の三人じゃない?』

「女子っぽくはないんだ。雪は電話が電源切れてるらしくて、繋がらない」

『電池切れかな。せっちゃん案外ずぼらだからさ、よく放置して充電なくなってるんだよね。ケータイ不携帯のときもあるし』

「あー……あいつ、そういうの無頓着っぽいよな。ノートどうしよ」

『明日でいいと思うけど、気になるなら家電にかけてみれば?』

 壱矢は鷹谷家の固定電話の番号を教えてくれた。礼を言って電話を切り、譲は改めて雪の家にかけてみた。しかし、そちらも留守番電話に切り替わってしまう。メッセージを吹き込むのは苦手なのだが、迷っているうちに合図の電子音が鳴ってしまったので、仕方なく譲は口を開いた。

「えーと……譲だけど。数学のノート……」

『セツさまならいないわよ』

「うぉあ!」

 唐突に玉藍の声が聞こえ、譲は思わず声を上げた。スマートフォンを取り落としそうになる。

「び、びっくりさせんな! いるなら最初から出ろよ」

『この家には、今はセツさまお一人で住んでらっしゃることになっているのよ。わたしが電話に出るわけにいかないでしょ』

「今出てんじゃん」

『留守電で譲だとわかったからよ。あなたはわたしを知っているじゃない』

 不思議な三毛猫は、人の姿になるだけではなく電化製品も使えるらしい。家事を引き受けているのだからそれもそうかと譲が一人で納得していると、玉藍は重ねて言う。

『さっきも言ったけど、セツさまなら外出中よ。伝言があるなら預かるわ』

「どこ行ったんだ? もう夕方だってのに」

『大学病院へ』

「病院? なんでまた」

『お見舞いよ』

「お見舞って……誰の」

 問うてから、譲はふと思いついて息を飲んだ。玉藍は譲の様子には気付かなかったようで、変わらぬ調子で続ける。

『さあ、そこまでは聞いていないわ』

「……何時頃出たんだ?」

『正確な時刻はわからないけれど、譲たちが帰って、一時間も経ってないくらいじゃないかしら』

「わかった。ありがと」

 電話を切り、それを握り締めて譲は歯噛みした。大学病院にいるのでは電話が通じなくて当然だ。

(……まさか)

 雪が、山城由香子の見舞いに行ったのではと譲は考えた。たまたま雪の知り合いも大学病院に入院しているのだとしても、このタイミングで見舞いに行くだろうかと思う。思い過ごしかも知れないが、可能性としては由香子の見舞いが高い気がする。

 眉を寄せながら譲は再び時計を振り返る。―――解散したのは四時頃だった。雪の家から大学病院まで、一時間ほどだろう。

(見舞いだとして……そろそろ門前払いされる頃か?)

 譲が両親と共に見舞いに行ったとき、親族と関係者以外は面会を断っていると聞いたので、雪が行っても会えないはずだ。

 電源を入れてくれるよう祈りながら、譲は雪に電話をかけた。念が通じたわけではないだろうが、何度目かで繋がる。

『どした?』

「親族以外は追い返されるぞ」

『なん……』

 かまをかけてみたのだが、不意を突いたせいか雪は見事に反応した。一呼吸ほどの間を置いて、無理矢理絞り出したような声が返る。

『……な、んの、ことやら?』

「とぼけんな。今、大学病院にいるんだろ」

『なんでわかるんだよ』

「玉藍に聞いた」

 一瞬で様々なことを考えたのだろう、沈黙の後に半ば呻くように雪が言う。

『……譲にはうちの固定電話教えてない気がするんだけど』

「壱矢に聞いた」

『壱矢かあの野郎』

 今にも壱矢に抗議しに行きそうな声を出す雪を、譲は落ち着つけと宥める。

「俺の名前を出せば多分会えるぞ」

『いや……でも』

「そこで待ってろ。今から行く」

『へ?』

「大学病院ならうちから近い。すぐ着くから。会いたいんだろ?」

 自分のせいである気がするからと言うのは飲み込み、エレベーター前で待っていろと一方的に告げて、譲は電話を切った。たしか、面会時間は午後七時半までだったはずだ。

 部屋を出て玄関へ向かう途中、キッチンにいる母親に声をかける。

「ちょっと出かけてくる」

「今から? もうご飯よ」

「ノート返してくるだけ。すぐ帰るから」

 母がキッチンから出てくる前にと、譲は玄関へ急いだ。

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