二章 4-3
譲は二つ返事で古文を教えてくれた。雪は、数学や物理、歴史のような答えが一つしかないものは得意なのだが、国語や美術など、正解があやふやなものが苦手なのだ。それでも美術は美術史の分野で乗り切り、現代文は日本語なのでなんとかなる。漢文も法則さえわかれば点数は取れる。問題は、雪には最早宇宙語に思える古文の世界なのだ。
「君がため、をしからざりし、命さへ、ながくもがなと、思ひけるかな。―――これはわかるぞ」
「ほほう。じゃあ意味を言え」
「君のためなら命も惜しくないけど、やっぱり長生きしたいと思う」
「……意訳にもほどがあんだろ。あなたに会うためなら命も惜しくないと思っていたけれど、いざ会った今となっては、ずっと共にあるために長く生きたい、だ」
「あってんじゃん」
「どこがだ。勝手に省略するな」
「そんなこと言われても。三十一文字に意味込めすぎだろ昔の人。会いたいとか共にありたいとか、一言も出てこないのに。恋愛脳か」
「表面じゃなく行間を読め。全力で深読みしろ。はい次」
「ええと……かくとだに、えやはいぶきの、さしも草、さしもしらじな、燃ゆる思ひを。―――何この呪文。悪魔召喚?」
「時代背景的に悪魔じゃなくて魑魅魍魎だろ。ほら、きりきり訳せ」
「無理。呪文なんて訳せない」
「呪文じゃねえ、昔の日本語だ。言葉の意味は辞書を引け。なんのための古語辞典だよ」
「ええと、かくとだに、でしょ? 語感からして……」
「辞書引けっつってる傍から語感で予想すんな」
「さしも草って何? ぺんぺん草の仲間?」
「そんなわけあるか。だから、語感で言うなってのに」
「だって、まったく一欠片もわからないんだから、もう頼るのは感覚しかないだろ。俺は譲みたいに頭良くないんだよ」
「あのな……俺はそんなに頭良くねっての。向こうじゃ真ん中くらいだったし」
「譲が真ん中……東京はおかしい!」
「なんでだよ」
好きな教科と嫌いな教科の差が極端で、興味のないものはさっぱり頭に入らない雪に根気よく教え、続きは学校でと言い置いて五時過ぎに譲は帰っていった。
少し休憩しようと教科書などを片付けた雪は、脇にどけてあった萩女のコンサートパンフレットを手に取った。パート紹介のページを開いて、改めて写真を見る。何も引っかかるものはない。
(……もう少し霊視の勉強しとくんだった)
コンサート会場で流し見ただけとはいえ、身近な人間に影響を及ぼしている相手が顔写真にフルネーム付きで載っているのに、まったく気付かなかったのはどうなのだと眉を寄せる。父は、自分に一切関わりのない新聞記事だけでも、超常的なものが関係している事件や事故は、わかると言っていた。
今からでも何か感じるものはないかとパンフレットと睨めっこをしていると、スマートフォンにLINEが入る。
(……藤野?)
開いてみると、一言だけ「数学教えて」とあった。
管弦楽部は何故か文武両道の生徒が多く、彼女と彩葉もその例に漏れない。教科ごとはともかく、総合成績は雪よりもいいはずだ。たしかに雪は数学が得意な方だが、もっと得意そうな譲に教わった方がいいだろう。
その旨を返信していると、とことこと玉藍が近付いて来た。譲と古文を勉強しているときは、お茶だけ出して姿を消していた。
玉藍は雪の傍らに前脚を揃えて座る。
「新しいお茶をお持ちしましょうか」
「うん? いいよ、喉乾いてない」
応えてから、ためしにと雪はパンフレットを玉藍に見せてみた。
「玉藍はなんか感じるか?」
尻尾を揺らしながら写真を見下ろしていた玉藍は、たし、と前脚で山城由香子の写真を指した。
「譲の見ている夢と同じ波を感じます。微かですが」
「そっかー。わかる人にはわかるんだなやっぱり」
この写真の少女が譲と同じ事故の被害者だと聞いたのはさっきだが、戯れにでも玉藍に見せていれば、もう少し早く手を打つことができたかも知れないと雪は息をついた。
(……これからだな、これから)
落ち込んでいる場合ではないと無理矢理頭を切り換え、パンフレットを閉じる。原因が特定できたのだから、後悔や反省よりも問題を解決するために時間を使った方がいいに決まっている。
山城由香子に会って確認したいことがあるのだが、自分とは繋がりが希薄すぎると雪は眉を寄せた。由香子は月子の友人の友人―――もしかすると、部活が同じだけの同級生だ。そのうえ相手は入院中で、町中で偶然を装って呼び止めることもできない。
壁も空間も意味を成さない玉藍ならばと、ちらと考え、雪はすぐにその考えを打ち消した。雪が頼めば玉藍は引き受けてくれるだろうが、今回は譲のことで頼りすぎてしまっているし、これ以上は頼り癖がついてしまいそうで雪自身が嫌だ。
(うん。自分でなんとかしよう)
結論付け、雪は一人で頷いた。何か察したらしい玉藍が物問いたげに雪を見上げたところで、再びスマートフォンが鳴った。今度は電話で、着信は「佐瀬譲」となっている。
「何、忘れ物?」
先程別れたばかりなのにと言えば、不機嫌そうな譲の声が返る。
『雪、藤野に俺に数学教われって言った?』
「言った」
『おーまーえーなー。おかげで明日、藤野と日村に数Ⅱと数B教えることになったっつの』
「いいじゃん。教えてあげれば」
『教えるのはいいんだけどよ。おまえも付き合えよ、数学得意だろ』
「そりゃ、多少はマシだけど……人に教えられるほどじゃないぞ」
正直に言えば、少しの間の後に譲の苦悩するような声が聞こえた。
『……俺一人であの二人の相手しろってのか』
「……わかった、一緒に行く」
一人で月子、彩葉の両名と相対している自分を想像し、雪は半笑いになった。気を取り直して顔を上げる。
「どうせなら壱矢も誘ってみるか。あいつきょうだい多いから、外に出たがってると思う」
『そうだな。訊いとく』
「ああ。―――明日、何時にどこ?」
『そういや、時間と場所は書いてなかったな。それも藤野に訊いてみる』
「んじゃ、藤野には俺から訊いとくよ」
『そうか? じゃあ頼む』
「うん」
電話を切り、雪はアドレス帳から月子の番号を呼び出した。山城由香子の件は十中八九断られるだろうが、訊いてみなければ始まらない。
何度かのコールの後に電話が繋がる。
『はいはい、どうしたの?』
「今話せるか?」
『大丈夫よ』
「なんか、譲が藤野と日村に数学教えるって言ってたけど」
『鷹谷が佐瀬に教われって言ったんじゃない。快く引き受けてくれたわよ』
やけに晴れやかな月子の声に、半ば無理矢理承諾させたのだなと、雪は譲に少々申し訳なくなる。しかし、結局自分も参加するのだからと話を進めることにした。
「成り行きで俺も行くことになったから。多分壱矢も」
『なんだ。なら最初からオッケーしとけばいいのに』
「だって、譲の方が……そっか、俺も教わればいいのか」
自己完結し、雪は頷く。明日、譲は四人に教えることになるかも知れない。
「そんなわけで、明日何時にどこに行きゃいいんだ?」
『ああ……まだ考えてないのよね。図書館は絶対混むし、お店に居座るのもどうかと思うし。どっかにいい場所ないかしら。たとえば、今年の春から家庭の事情でファミリータイプのマンションに一人暮らししてる男子高校生の家とか』
「個人を特定できる言い方はやめろ」
『あら、心当たりがあるの?』
月子は嘯く。彼女の思い通りに動くのは癪だが、このままでは話が進まなそうなので、雪は沈黙の後に折れた。
「……うちに来るか?」
『いいの? ありがとう。彩葉にも言っておくわね、明日の午前十時に鷹谷の家に集合だって。大丈夫よ、お昼は持ってくから』
「最初から決まってんじゃねえか!」
淀みなく言う月子に思わず声を上げると、月子が声を立てて笑った。
『よかった。断られたらどうしようかと思ってたの』
「まあ、いいけどさ……」
玉藍は、家に客が来るときは表に出てこない。どこにいるのかは雪も知らないが、いちいち姿を隠して貰うのが申し訳ない。
『じゃあ、そういうことで。佐瀬と神倉にも伝えておいて』
「あ、待って」
切られそうになり、雪は慌てて引き留めた。だが、どう切り出せばいいのかわからない。
『ん?』
一つ呼吸を挟み、雪は改めて口を開いた。
「あのさ……訊きたいことがあるんだ」
『珍しいわね。何?』
「藤野さ、萩女に友達がいるんだよな」
『ええ。誰か紹介して欲しいの? 逆玉狙い?』
「ぎゃ……そんなわけないだろ」
『冗談よ。それで、頼みって?』
「…………」
『鷹谷?』
雪が黙っていることをどう思ったか、月子の声が気遣わしげな響きを帯びる。迷った末に腹を括り、雪は意を決して口を開いた。
「萩女の生徒に、譲と同じ事故に遭って、今も入院してる子、いるだろ」
『いるわね』
「お見舞いって、誰でも行けるのか?」
『そりゃ、行っちゃいけないなんてことはないでしょうけど……何、知り合いだったの?』
誤魔化そうかと思ったが、すぐばれる嘘をついても仕方がないと思い、雪は正直に告げる。
「いや……、知り合いってわけじゃないんだけど……」
『けど?』
月子は語尾を濁すのを許してくれない。一連のことを説明するとなると、譲のことや雪のことも話さなければならない。譲の事情を勝手に喋るわけにはいかないし、自身のことを話すとしても、異能云々のことを口にすれば、怒られるか呆れられるか正気を疑われるかだろうと雪は考える。しかし、適当に取り繕っても、月子が納得してくれるとは思えない。
さてどうするかと言葉を探していると、月子が続けた。
『知り合いじゃないけどお見舞いに行きたいのね? でも、理由は話せない、と』
「……うん」
興味本位で
『サヤ―――萩女の友達に訊いてみるけど、お見舞いに行きたい人は、入院してる子の知り合いでもなんでもなくて、理由も話せないって言うわよ。それで、詳しいことを教えてくれたらでいい?』
他人の口から聞いて改めて、自分の言い分の無茶苦茶さに申し訳なくなりつつ、雪は頷いた。
「ああ。なんだか、ごめ……」
『何してくれる?』
「……え?」
笑みを含んだ声音で言われ、雪は言いかけた言葉を飲み込んだ。見返りのことは都合良く考えずにいたので、予想外のことに固まる。
どうすればいいのだろう、学食で何かを奢るか、それとも駅前のドーナツ屋の方がいいだろうかとぐるぐる考えていると、不意に月子が笑い出した。
『なーんて。嘘よ、昨日のお礼しないとね』
「昨日?」
『佐瀬にプリント届けてくれたでしょ。ありがと』
「あれは別に」
交換条件になるほど大したことをしたわけではないと否定する前に、月子は話を進めてしまう。
『ちょうどいいわ。わたし、借りを作るのは好きじゃないの。これでおあいこ』
「でも、藤野の方が」
『わたしは友達に訊いてみるだけだもの』
「……悪いな」
『だから、借りを作るのが好きじゃないだけ。おあいこって言ったでしょ、気にしないで』
「ありがとう」
『どういたしまして。それじゃ、ちょっと待ってね』
電話を切って、雪は一つ息をついた。
(普段は強引なくせに、変なところで気を遣ってくれるんだよな)
やはり今度改めてお礼をしようと思いつつ、雪はスマートフォンをテーブルに置いた。三〇分ほどして、月子からLINEが入る。山城由香子には無関係の人間は面会できない、親族か関係者以外の見舞いは断っていると萩女でお達しがあったという内容だった。
(やっぱりか……)
月子にお礼の返信をして、さてどうしようかと雪は考える。一介の高校生の身では、病院に潜入することもままならない。身体から霊体だけ抜け出して活動する術もあるにはあるが、昔は使い手がいたらしい、という程度の幻の術の一つだ。雪は勿論使えない。
(俺がやったら間違いなく死ぬよな。二度と身体に戻れなくなる)
使えない術を使えたらと夢想していても無意味だ。できる範囲でどうにかするしかない。
とりあえず病院まで行ってみようと、雪は立ち上がった。
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